侯爵家の息子の日常④
改めて鏡を見る。
鏡には、憔悴しきった、だが無駄なもの全てを削ぎ落としたエッジの効いた顔つきの男の顔が映っていた。
鍛えたら、逆に体躯が細くなったが、体重は比例してはそれ程減らなかった。
どれだけ贅肉を身に付けていたんだか。
フッ、俺様…かっけいかも。
だが、ここ迄に至る道は険しかった。
思い出しても、身震いする。
いやいや…本当に、この世から旅立つかと思ったぜ。
しかしまさか、修行をお願いした矢先に、その波止場で、即座に海に蹴り落とされるとは思わなかったぜ。
真冬だったら、きっと寒さで心臓が止まっていた。
真冬ではなかったが春先の海は、まだ寒い。
驚きで慌てふためきて、必死で波を掻き分ける俺の上から沈着冷静な声が降ってきたんだ。
「まずは、私の時間を費やす価値があるか証明してみせてくれ。…対岸まで泳ぎきれたら、叔母甥の誼で、検証の…いや、協力してやろうではないか。…ああ、ちなみに泳ぐのに服は邪魔になるぞ。」
海面から仰ぎ見てもミリーの表情は分からなかったが、語尾の方だけ心配口調だった。
これだ…これだから、うちの女どもときたら感覚が普通じゃない。
母を始め、姉達も、みんなこんな感じなのだ。
即断即決、まるで鋼鉄を割るような性格。
変わり者ながら、兄妹に近い感覚の親しいミリーも、グラナダ一族の女達の特性を持ってしまうことを免れなかったらしい。
…果たして、これで嫁に行けるのだろうか…心配だ。
最初の試練を青息吐息で、信じられないが何とか乗り切った俺は、その後に99の試練を受けたのだが…正直、思い出したくねぇ。
…
説明しようとしただけで、吐きそうになる。
俺は絶対二度とやらねぇ…二度とだ!
俺は、片手で口元を押さえながら、固く自分に誓った。
だがしかし、その血の滲むような努力の甲斐あって、俺は、ようやく彼女の足元辺りまで…いやまだだ。
だが、同じ地表位には、立てたと思う。
足下の、士官学校校舎の階段の踊り場は板敷である。
俺は、俯いて足元を見た。
使い古された、だが綺麗に掃除が行き届いていた。
士官学校自体は、時代の変遷から何度も移転しており、このダイ島に移ったのは、およそ1000年前らしい。
床の板敷の色は長年の歴史を感じさせる色艶をしている。
その床を、周りに誰もいないことを確かめると、実感を込めて、何度もドンドンと踏み締めた。
踏み締めるほどに喜びを感じた。
俺の人生で、これ程に努力したことはなかった。
努力が報われるとは、こんなに嬉しいものなのか。
…熱いものが身体の奥底から込み上げてきて、歯を食い縛り、高い天井を見上げた。
…
…彼女のお陰だ。
勿論、ミリーの貢献も大きいが、あの叔母に対しては気持ち的には、色々と相殺だ。
バス待ちの間、陽だまりで、皆に囲まれた彼女を見た。
そこだけ、スポットライトが当たっているように輝いていた。
犬の大型獣人と彼女が一触即発の自体に発展した時、飛び出そうとしたが、直ぐに余計なお世話だと知った。
…流石だ。
だが、その後、彼女の表情に一抹の陰りを見たような気がしたのは、俺の気のせいであったろうか?
それは、夜空に輝く満月が陰り新月へと移って行く印象を俺に与えた。