侯爵家の息子の日常②
あの日、美味いと評判のラーメン屋が、ミタ沖の島々にあると聞いた叔母のミリオネラに無理矢理連れられた。
ああ…馬鹿らしい。
叔母のミリオネラ…ミリーは、庶民の食べ物を好んで食す。
美味しいものは幾らでもあろうに、わざわざ、島にまで渡っていくとは、酔狂に過ぎる。
…俺には理解出来ないな。
面倒だし…うちに居れば一流のシェフが一流の食事を作ってくれるというのに、わざわざ手間暇掛けて行くとは!
…やれやれだ。
以前、同様に下町の地下街に連れられて食べたナポリタンは、しょっぱいばかりで…タバスコ掛けて味変して誤魔化そうとしたら、しょっぱ辛くて最悪だった。
ミリーに聞いたら、初めての場所で挑戦したかったらしい。
この店初めてかい、巫山戯るな!
ラーメン屋に行ったのは、ミリーの趣味の、訳のわからないメタルでヘビーな楽団のコンサートに様式美だと言われ、かぶれた服に着替えさせられ、顔に落書きされて出席した帰りのことだった。
果たしてコンサートは最悪だった。
…まるでサバトのよう。
だが、俺以外は大いに盛り上がっていたらしい。
普段は冷静で澄ましている大人びた口調のミリーも、年相応に興奮してはしゃいでいた。
ミリーは、叔母だが、俺より歳下で成人してから5年とたっていない。
ふー、やれやれ、阿呆らしい。
何の意味があるのか?
何の得にもならない集まりだ。
周りが、盛り上がる中、俺の気分は最悪だった。
ああ、来なければ良かった….まあ、叔母預かりの俺には選択権はないが。
その後、連れて行かれたラーメン屋でも、俺の態度は最悪だった。
ミリーにしてみれば、普段塞ぎがちな俺に気晴らしをさせようと気を使ってくれたに違いないのに。
くだらない損得ばかり気をとられ、俺は大切な人の気持ちに頓着しなかった。
あまりにも無知で、あまりにも幼い。
無知蒙昧とは、まさにこの頃の俺だった。
歳下の叔母に心配され、泣かれ、責任を持ってもらい、気を使われている俺…なんたる恥ずかしい所業か。
…穴があったら隠れたいほどに恥ずかしい。
…子供だったんだ。
賢し気に、世間を馬鹿にして、何も行動しない俺。
今なら少し、それが分かる。
あれから多少は俺も成長したのだろうか?
だとしたら、成長するとは昔の自分が如何に馬鹿だったかを痛感することなのか?
…馬鹿は、自分が馬鹿だとは気づかないんだな。
その頃の自分を思い出すと、あまりの幼さに痛痒を感じて頭を抱えたくなる。
サバトの喧騒に精神を掻き乱され、心に余裕がなかったとは言い訳にすぎない。
ラーメン屋の店主にも悪いことをした。
周りにも嫌な思いをさせて、迷惑をかけた。
なにより、せっかく連れてきてくれたミリーに恥をかかせた。
そして、あの人にも…
恥ずかしながら、最悪の出逢い方だった。
ああ…俺の心象最悪じゃん。最低最悪だ。
あの人から滲んだ瞳で、睨まれたし。
次に会わせる顔がない。
あの頃の俺を忘れていてくれないだろうか…?
だが、逆に眼中になく、記憶の片隅にすら存在すらなかったら、それもまた寂しい。
仲間も、沢山連れていた。
俺と違って、きっと友達が沢山いるんだなぁ。
人気者に違いない。
あの可愛いさでは無理もない。
年頃は、ミリーと同じくらいか…。
だが、親戚のミリーや俺の姉貴達、グラナダ一族の女達とは、全く違う!
だって…儚くて、可憐で、小さくてフワフワで、メチャクチャ可愛いかった。
同じ店内にいたのに、何故か全く気がつかなかったのが不思議なくらいで。
声を掛けられ、視線があの子と合って、そこで目前の曇りガラスが割れ落ちたかのように初めて、あの子に気がついたんだ。
思い出しても身震いする。
思い出が蘇ってくる。
たしか、あの時俺はミリーにこう言ったんだ。
「こんなラーメンなんか、俺の口には合わない。ああ、早く帰ろうぜ。」
澄まし顔のミリーの顔が瞬間強張り、店内の空気が微妙に変わったのが鈍感な俺にも分かった。
言った瞬間、しまったとも思ったが言葉とは一旦言ってしまったら取り返しがつかない。
何か言わなければと思ったが、何を言っていいか分からなかった。
「…なんかじゃない。」
店の奥の方から、俺を嗜める凛とした声が聞こえた。
そんな大きな声ではない。
だが店内が静かなので、ことのほかその声は、ハッキリと響いた。
その声の主を見た。
…
あまりの美しさと可愛さに息を呑んだ。
「…ラーメン…なんかじゃない。このラーメンは美味しい。」
可愛らしくも凛とした、他者を慮る優しさから発せられたと分かる真心が籠った声が、俺の心臓に突き刺さった。
…心が痛い。
そして、その彼女から目が離せなくなった。
なんだ、この胸が高鳴る感情は?
「ああぁ!…なんだよ、盗み聞きかよ!」
だがつい動揺して、反射的に非難する言葉を返してしまった。
馬鹿みたいに、せせら笑っている俺が、他人のように感じた。
「こんな、ラーメンなんてものはよ、所詮はB級品なんだよ。俺の口には合わないんだよ!」
切って捨てるように言い放ってから、俺は絶望感に後悔した。
俺の心無い言葉に、涙を堪えている彼女に、嘘であると口にしたいが…言葉が出なかったのだ。
言動から、見た目に相応しい優しく勇気ある少女に違いない…惰弱で卑怯な心情の俺とは、まるで違う。
こんな人も、世の中にはいるのだな。
俺は、その存在に少なからずショックを受けた。
食べたラーメンは美味しかったのに、それなのに、腹いせに、あんなことを言ってしまった。
後悔に苛まれ、罪悪感からミリーの顔が見れない。
そのようなさなか…俺に声を掛けた彼女の仲間から放たれている一触即発の気配が漂って来てるのを感じて慄いた。
どこまでも俺という男は、自分の事しか考えてない…自分に嫌気がさした。
「…ま、待たれい!」
だがこの時、ビシッとした迫力ある声が、彼らに待ったを掛けた。
ミリーの声だ。
見ると、ミリーのその手にはラーメンを抱え、もう一方の手は箸を摘んで彼らに箸先を向けていた。
「今のは、こいつが悪い。…ズズズ、ズルズル。保護者であるワシが謝る。ほれ、この通りじゃ。」
ミリーは、丼を片手に持ちながら、彼女らに向かって器用に頭を下げてみせた。
「…うむ、美味い。箸が止まらぬ。…ゴクゴク、プハー、ラーメンは出来た瞬間から美味しさが失われていくのだ。…許されよ。」
なんて奴だ、食べながら謝ってくれている。
呆然としていると、汁まで全部飲み干したミリーは、「ご馳走様でした。」と厨房に向かってお辞儀をすると、黙って俺の首の襟口を掴んで、自分よりデカい俺を引き摺りながら店をでた。
それが、半年前のラーメン屋でのあらまし。
ミリーは、ラーメン屋を出てから、しばらくの間、黙っていた。
ミリーの後を追って歩きながら、俺は、先程会った彼女の顔を自然と思い浮かべていた。
頭の中は、自分がしでかした事でパニックだった。
俯いて、両手で自分の頬を摩る。
ど、ど、どうすればよかろうか?
胸の中で、初めて感じる逢えた喜び、きっと嫌われてしまった悲しみ、こんな情け無い俺を庇ってくれたミリーに対するやるせなさ、諸々の罪悪感が交錯して複雑な心境だった。
そんな時、ミリーが振り向いて尋ねて来たんだ。
「…彼女のことが知りたい?」
俺は、一瞬戸惑ったが、それから何度も頷いた。