紅玉のマルグリッド(後編)
マルグリッド師曰く、武術に力は、それほど必要ないらしい…。
それに対しては、大いに疑問符を付けたい。
彼女が言う最低限必要力が、僕の人智を超えていると思料されるので、師の言は信用し難い。
信用しないわけではなく、力量の程度、認識の差が師と僕には天地ほどの開きがあると思うのだ。
だから、当然その形容、説明の仕方も変わるはず。
今回に限らず他の人の言は、翻訳して聞いとかないと誤解を生む。
人である以上、主観が必ず入るからだ。
他人と自分は違う人間で、平等ではない。
それは前世から嫌と言うほど分かっている。
最初に配られた手札で勝負するしかない。
…違うのだ。
師と僕とは、全く違う。
人は、皆、生まれながらにして平等ではないのだ。
その事を皆本当は分かっているのに、わざと眼を背けて分かっていないフリをしている。
現実を見よ。
皆が、それぞれ違う。
産まれも立場も能力も、全然違う。
凸凹で、エベレストからマリアナ海溝ほども違う。
でも、神の視点からは変わらずドングリだ。
でも、僕達は神ではない。
リアルに大地に降りたち生きている。
人が皆平等であるものか。
平等だったら、こんなに生きるのに苦労していない。
この世界に産まれた時、配られた手札は返らない。
だが、そこから変えたり増やしたり減らしたりする事は、意志により可能だ。
だからこそ、そこに人の価値が見える。
つまりは自由です。
僕の意思は自由なんです。
僕の意思を縛り、誘導するは誰であろうと許さない。
そこで、僕は勝手にマルグリット教官を師匠呼ばわりすることにした。
彼女は、僕に見せてくれたからだ。
人が自由であることの可能性を。
・ー・ー・ー
マルグリット教官は、僕を外に連れ出すと、旧校舎と新校舎を隔てる壁の前まで来た。
何故だか、他の教官達もゾロゾロついて来ている。
この壁は高さ20メートル、幅が5メートル、長さが一辺が全長200メートルを越える超古代時代の永久コンクリートを礎石にして旧校舎を囲むようにして作られた。
旧校舎は解体できたが、この壁だけは頑丈すぎて壊せないまま、予算の関係上、放置状態となっていた。
古代の激動の時代が忍ばれる頑丈過ぎる遺物だ。
「今日の私は機嫌が良い。…見ておけ。しっかりと目に焼き付けろ。」
マルグリット教官は、壁の前に立つと、壁の硬さを確かめるように2、3回、手でポンポンと叩いた後に、奇妙な構えを取った。
左右の手を上下に交差させ、身体を捻っている。
何あれ?と思った瞬間、膨大な空気が急急と流るる音が、何処からか聞こえた…その中心は、彼の教官である。
周辺のエネルギーが教官に集まって来ている…そんな気がした。
「アールグレイ学生、我の勇姿を、…刮目して見よ!」
教官の姿が消えたと思ったら、件の壁にぶつかっている。
雷鳴のような音は後から来た。
…何も起こらない。
マルグリット教官は、何やらやり切った感満載で、こちらを振り向きて、歩き戻り始めた。
え?何も変わってないけど…。
そうしたら、ズズッと音が聞こえたら、件の大壁が、砂が崩れるように崩壊して落ちたのだ。
高さ20メートルの壁が、左右に200メートルの壁が砂と化して大地に落ちていく。
遮られていた太陽の明かりが、教官と辺りを照らす。
…体当たりしたら、壁が崩れました。
因果関係の結びつきが信じられない。
え?え!え?
マルグリット教官を見ると、ドヤ顔がドヤ?と言っている。
周囲に、壁の一部分である砂煙りが漂って、風に舞い、僕の頬に当たった。
…痛い。
夢ではない。…これは現実だ。
…僕の中に、眼前の事実が染み込んでいった。
なんてことだ。
生まれ変わって、何でもありの世界と認識していたが、これには驚いた。
目の前で見ても信じられない。
しかしこれは…果たして人間技ではない。
「この技はな、周りに多勢で囲まれた時に有効や、先ずはぶちかましたれ!先手必勝や!多勢に無勢でほくそ笑んでいる奴らの度胆を抜いてやれ!」
マルグリット師が僕に教えてくれたのは、その時が、最初で最期だ。
なんと言う気まぐれであろうか。
おそらくこの技は、極秘中の秘だったはず。
それを惜しげもなく取るに足らない僕のような一学生にみせるとは、武術家としても彼女は稀有な存在だ。
その決断力には畏れ入ります。
だが、当時の僕は、妙に人好きのする美人な変人教官に面白半分で揶揄われている印象を受けた。
そしてそれは、おそらく半分は合っている。
残りの半分は、…今でも分からない。
でも、何かを託された気がしたのだ。
そうでなければ、代償が大き過ぎる。
僕はこの日から認識を新たにした。
この世界は…広い。
僕の先には未知なる世界が広がっている。
そして、この日から僕は体当たりの技を練習する。
センスの無い僕には、一朝一夕で習得は出来ないだろう。
もしかしたら一生涯毎日修練しようが身にはつかないかもしれない。
それでも、僕は眼に焼き付けたマルグリット師の技を毎日修練した。
その成果が、多少でも出始めるのは7カ年を要した。