その頃のルフナ(中編)
未明の街中を走る。
走っているうちに身体が解れていくようだ。
途中、顔見知りになった近所の爺様と会釈で挨拶を交わす。
名前なぞは知らない。
それにしても、仕事じゃあるまいし、こんな朝早くから近所の掃除をしてるとは感心する。
俺には真似できんし、真似しようとも思わないがな。
どんな理由で爺さんが、こんな奇特なまねをし始めたのか分からんが、その結果街中の衛生環境が向上するならば、言うことはない。
自分がやりたい事をやる。
俺もそうだ。
自分が決めたことは貫き通す。
誰にも邪魔はさせねえ。
それが、男ってもんだろう?
夜空を見上げれば、朧月夜だ。
未明は、闇が一番深まるという。
月が雲に隠れて月明かりが地上にとどかなければ、辺りは真っ暗闇よ。
暗闇の中にいて地上を輝き照らす。
だから、俺は太陽よりも月が好きだ。
暗闇を照らす月明かり、真円を描く満月も、鋭いエッジが効いた三日月も、新しく産まれ変わる前兆のような新月も、それは、まるで変化にとんだ万華鏡の様で飽きることはない。
ああ…それって少尉殿みたいだなぁ。
今頃はグッスリと寝てるだろうな。
寝巻きは何を着てるのだろうか?
…
…
…
…何だか悶々として来たので、走るスピードをあげる。
少尉殿のあんな姿や…こんな姿…を想像してしまった。
いかん。いかんぞ。
可憐で清楚な少尉殿を、俺の薄汚い想像で汚してはいかん。
もし、そんな穢れた想像をしてしまったら、次に会った時に恥ずかしくて面を上げれなくなってしまう。
ヨコシマな煩悩を運動で昇華するのだ。
声にならない咆哮をあげる。
・ーー・ーー・
ゼイゼイッ、あー、調子に乗って走り過ぎた…。
煩悩退散を唱えながら全速力で延々と力尽きるまで、何度もチャレンジしてたら、冬なのに汗ダクダクで、もう一歩も歩きたくないが、少尉殿に対する煩悩は消えず。
な、情けね…。
ただ、少尉殿の寝ている姿を想像しただけなのに、妄想が後から後から湧き出して来る。
これは、アレだ…多分煩悩は消えてはいるのだ。
しかし、蟹の泡のように後から無限に煩悩が発生しているのだ。
だから消えない。
うーーん、まいったな….。
額や首周りの汗をタオルで拭いつつ、息を整える。
因みに俺はアールグレイ少尉殿以外なら、罪悪感無しに妄想の中ならイケる。
なんせ少尉殿の周りは、綺麗な上に、ナイスでボディな彩り豊かな魅力的な美女、美少女達が集って花園のような状態と化している。
健康な成人男子ならば致し方無いので、そこは察して欲しい。
・ーー・ー
あれから結局は安易な方法を使わず、限界を越えて交互に、走りと筋トレを繰り返して身体が麻痺することで煩悩は漸く消えた。
やった…俺はやり遂げた。
ガハッ、グハッ、アー、ハー。
座りたいけど、二度と立てなくなりそうで、座るのを我慢している中腰の状態のまま、長くて溜め息をついていた時に、ピンと来て、思わず眼を見開いた。
遅れて背筋がゾワッと来た。
ビルとビルとの狭い間の影から俺を見ている存在がある。
今の俺は全ての煩悩が消え去り、一時的に精神が昂揚して透き通った状態にある。
そんな時には感じたり見たりすることがあるのだ。
それは何かって言うとアレだよ、アレだ。
分かるだろ?
気づいたけれども、見てはいけない。
基本無視するのが一番なので、気づかない振りをしてやりすごすのだ。
だが、中には向こうから積極的に関わって来るものもいる。
(…すまぬ。そこの御仁、迷惑を掛けて大変恐縮なのだが、御主を男と見込んでお頼みしたいことがある。むろん効く効かないかは御主の自由だが、話しだけでも聞いてはくれまいか?)
俺より歳上の渋い低音の男の声が直接心に響いて来る。
俺は今日何度目かの溜め息をついた。
まともな常識人な普通の声だ。
それも歳下の俺に下手に出て、礼儀に適っている。
相手は既に実体が無いとはいえ、これは無碍には出来かねる。…参ったな。やれやれだぜ。
仕方なしに俺は男の方に振り向いた。
…目線は合わせない。
この手の系統の怪異には、視線で捕らわれる事がままあるからだ。油断は出来ない。
最も男の顔は、暗がりで真っ黒く影のようになっており良く見えなかった。
年齢は声の調子から40代、体格は細身ながらも、シッカリとした体格で、何かしらの武術を身につけた身体付きをしている。身長は俺と同じ位か少し下。
衛士の制服に身を包み、右腰には銃を吊し、左腰には刀を帯同していた。
武器は持ってはいるが闘う気配は全く見受けられない。
…警戒を少しだけ解く。
この都市の衛士に基本悪い奴はいない。
俺も職業柄何人か知ってはいるが外面はともかく、中身は真面目で馬鹿正直な奴が多い。
不真面目な俺とは反りが合わないが、この都市を支える柱の一つだ。…彼らとは性には合わんし、お近づきになりたくはないが尊重はしたい。
必要な時以外は、敬して遠ざける対応だ。
制服で出て来たということは、多分殉職したのだろう。
思い残すことでもあったのか…?
暗がりから、握り締めた右手がヌッと伸びて来た。
(受け取れ…。)
その言葉に思わず手の平を差し出す。
握り締めた拳が開かれて、何かが俺の手に落ちた。
いささか不用心だったが、マジマジと手の平に落ちた物を見詰める。
それは古い意匠のドラゴンのネックレスだった。
所々錆び付いていてはいるが銀色の鈍い光りを放っている。
昔写真で見たドラゴンバスターの勲章に似ている。
(私は、志半ばで倒れた。…汚名を着せられた事も何とも思わぬ。全て自分の未熟に起因するせいよ。私は天地神明に誓い恥ずべき行いはしなかった…だが我が子との約束を破ってしまった…それだけが心残りよ。これを我が子ルーシー・ロンフェルトに届けて欲しい。この願いを私の魂と波長が合った御主を男の中の男と見込んで託す。…無論身勝手な私の願い事だ。効くも効かぬも御主の自由だ…返さなくとも良い。二度と私と波長が合う者と会うことなどは叶わぬだろうから。棄てても恨むような事はしないと誓おう。)
ウヘーマジかぁ…。
こんな重いお願い事は勘弁したい。
しかも一文の得にもならない面倒事だ。
いっそのこと川にでも捨てて忘れちまうか……。
だが、ここで少尉殿の御尊顔が脳裏に浮かんでしまった。
もしここで俺が見ず知らずの男の願いを断っても、我が麗しの少尉殿は俺を責める事はしないだろう。
少尉殿は、何よりも自由を尊ぶお人柄だからだ。
ただ悲しみと落胆の表情をなさるかもしれない。
それが何よりも俺にはツライ。
「ああぁ!…ちぃ、しゃーねーな。後は俺に任せて成仏しちまえ!…だが努力するだけだ!約束はできねーからな!」
(…感謝する。魂の兄弟たる御主に神の御加護を!)
そう言い残すと、男は闇の中に消えた。
波長が似てるだって?
いやいや、俺とアンタは全然似てないぜ。
誰に陥れられたが知らないが、汚名を着せられて殺されたのに相手を恨まず、ただ子供の約束を心残りで成仏出来ない奴と一緒にするなよ。
今だけだ、今だけ、俺たちが似ているのは煩悩が消えてる今だけだっつーの。
ビルの狭間に気配はもう無い。
見ず知らずの男に願いを託し、成仏してしまったようだ。
こんなにアッサリと俺みたいないい加減な男を信じていいのか?
あんた、本当にそれでいーのか?
もし俺なら心配で成仏できないぞ。
あー、どうすりゃいーの、これ!
畜生ー、俺なんか信用するなよ。
俺は頭を掻きむしった。
本当にこういうのは困る。…困るんだよ。
だだあの男の、人を見る目だけは確かだ。
フンッ、…確かに俺は男の中の男だからな。
都市の為に一生を費やしながら誰からも感謝すらされず、汚名を着せられても恨まず、俺に後事を託した馬鹿な男の冥福を祈る。
…俺には理解できん。
ただ自分が決めた事を貫き通したんだろうさ。
だって、それが男ってもんだろう?
…取り敢えず帰るか。
すっかり身体が冷えちまったぜ。
ただ身体の中のエンジンが駆動するように燃え上がっているのを感じた。