アリ・ロッポ氏、夢にうなされる。
走る、走れ、ワシよ、走るんだ。
自分自身の息遣いがうるさい。
ぜーハー、ゼーハー。
涙と鼻水が止まらない。
生きるんだ。ワシは生きて家族の元へ帰るんだだ。
足がもつれて泥沼を走っているかのように動かない。
遥か先にあるはずの安全地帯まで行けば助かるのだ。
遠い。
今は、それがとても遠く感じる。
振り返ってはならない。
ハクバ山中で、護衛と逸れてしまった時に、偶然、大熊と遭遇してしまった…。
振り返らなくとも、肉食獣の息遣いの気配を感じる。
それは触ったら二度帰れない死の気配だ。
だが、護衛のあの少女の元へ戻れば救かるのだ。
合流できれば、会えれば絶対に救かると確信を持って言える。
心肺機能が悲鳴を上げている。
胃の腑が縮み上がる。
ゼーハー、ゼーハー。
み、見えたー、アールグレイ少尉の身姿が輝くように光りを放っているようにみえた。
…微笑んでいる。
…ワシを待っている。
それはまるで夜の嵐に遭難した船にとっての灯台の灯りのように見えた…。
ー・ー
「ああー!」
ワシは小さな悲鳴を上げながら、布団から飛び起きた。
「はー、はー。」
ゆ、夢かぁ。
隣りでは、妻が何事もなく眠っている。
ゆ、夢なんだ、大丈夫、夢に間違いない。
辺りを見渡せば、室内は暗く、カーテンの隙間から外からの月明かりが漏れているのみ。
妻と子供達の息遣いが聞こえている。
ああ…、夢で間違いない。
ワシは安堵した。
ワシの名はアリ・ロッポ。
冒険者ギルドに登録している一流の測量技師で、階級は技術中尉を拝命してるギルド内では評価の高い男だ。
そして、今悪夢に寝床から飛び起きた男である。
…それにしても、今夢で見た経験は夢ではないのだ。
ワシが実際に体験した経験なのだ。
よく、ワシ生きて帰ってこれたな…。
ワシら測量を生業とする者には、山中での測量は自殺行為と言われている。
まず生きて帰っては来れないからだ。
なのに依頼が来た時受けたのは、絶対無敵の信頼感のある護衛がいたからだ。
ワシはつい三ケ月前のことを思い起こした。
ー・ー
護衛のアールグレイ少尉と共に、ハクバ山探索の延長で隣りのカゲ山まで足を伸ばして、その帰り道。
感極まったのか、嬉しそうに少尉が走り出した。
小さな子が新たな世界を見て感動したかのように楽しそうにしてるのが分かる。
アールグレイ少尉は、不思議な少女だ。
ワシよりも二回りも歳下なのに、その慈愛に満ちた対応と高潔英邁な人格、厳格な覚悟からの迅速果断な行動には、自然と頭が下がるほどで、悠久の歴史を感じさせるような古老の趣きを感じさせる時もあれば、時折り見せる年相応の初々しい新鮮な心の有り様を見せる少女の時もある。
まるで思慮深い静かな森の古老と明朗快活で可愛い少女の二つの人格が一人の身体に宿っているようで、異彩な魅力を放っている。
今も本当に楽しそうに走っている。
最初はワシも付いていくことができたが、段々と離され、ついには見失ってしまった。
一本道だから迷うことはないし、わざとではないのだろう。
しかし、ワシは山中で護衛と離れてしまったのだ。
うーん、困った。
少尉のことだから、ワシがいないことに気づいたら、直ぐに戻ってくれるに違いない…やれやれ。
…
真っ直ぐ歩いて行く。
先ほどまでは少尉がいたのに…今は山中にワシ一人だけ…。
周りには誰もいない。
これが寂寥感だろうか…寂しい。
遠くの鳥の声がやけにハッキリと聞こえた。
直後に直近に息遣いと、唸り声が聞こえた。
反射的に首を回すと、ワシは傍の大樹の影にいる大熊と目が合ってしまった。
直感でワシはダッシュで走りだした!
生き残るには、走ってあの少女の元へ辿り着くしかないと感じたからだ。
今でもそれは正解だと思っている。
その時のワシ、偉い!
…ありがとう。
考えたくは無いが、おそらく他の選択肢を選んだら、今ここにワシはいないだろう。
熊の走る速さは、時速60kmだという。
初っ端から全速力を出した。
引き離すならば最初しかない。
最初の頑張りに生死が掛かっていると理解出来たから。
山の稜線に沿った、少尉が新しく作った道を前傾姿勢でかっ飛ばしていく。
いやだ、死にたくない…。
帰るんだ!ワシは帰るんだー!
自分の荒い息遣いに熊の息遣いが混じって聞こえる気がする。
気のせいか…。
分からない…。
恐怖で吐きそうだ。
何故?ワシがこんなめに…?
疑問符だらけで全霊を込めて全速力を継続する。
今止まったらワシの人生が終わるのだ。
それが切実に分かり過ぎている。
運命に理由は無いのか。
世界とは理不尽で、人生とはいつも突然に終わるのか?
突如、視界が真っ暗になった…。
どうやら活動限界に至ったらしい。
目前50m先にアールグレイ少尉が佇んでいるのが見える。
ワシは切なくなった。
ああ…少尉の儚げな佇まいが、ワシが少年の頃、制服に身を包んでいる幼馴染の少女と重なった。
今思えば、あれが初恋だった。
身分違いに歯噛みし、諦め、遠目に見てるしか出来なかった。
何故今それを思い出すのか?
鼻の奥がキュッとなる。
ああ、こんなことなら、玉砕してでも告白しておくんだった。
深い悔恨が残る。
いいや、告白したら優しい彼女を困らせるだけだったろう。
いいや、違うな…単に、ワシに勇気が無かっただけだ。
ワシには…もう何が正解なのか分からない。
わけが分からなぬままの人生だった。
だから、暗闇の中を、せめて最後は少女の元へ全力で走り切った。
彼女も駆け寄って来た。…嬉しい。
(…よくやりましたね。)
ワシは柔らかいものに包まれて、少女の声を聞いたような気がした。
…微かなオレンジの良い香りがした。
ー・ー
あの後、結局、ワシは救かった。
てっきり死んだかと思ったが、麗しの護衛殿は、キッチリ仕事してくれたらしい。
…些か思うところもあるが。
だがあれ以来、ワシの娘ぐらいの歳のアノ少女に面と向かうと、どうも気恥ずかしい。
…アールグレイ少尉が輝いてみえたりする。
きっと最後に見たマボロシのような夢のせいだ。
いかん、いかん。何がいかんかわからぬが、これはいかん気がする。
隣りに寝ている嫁を見る。
…良く寝ている。
首を捻って自分の気持ちを探ってみる。
考えてめれば仕事上とはいえ、アールグレイ少尉はワシの命の恩人だ。
そう…それだな。
仕事の報酬と、為された事への感謝とは別の話し。
仕事だけで人は命を掛けることはしない。
仕事に報酬を払うのは当たり前だが、報酬だけ貰って見殺した方がリスクは低いはずで、命を掛ける理由にはならん。
仕事を成す事を期待するには、報酬は当然として、別の何かが必要なのだ。
そして、それを為すのが人の歩む正しい道なのだ。
…ワシはまだ命を救けてくれた恩を返していないではないか。
それだな!
命を救けられて何もしないワシの行動が、人の道に外れていることの警告が、この夢だ。
きっとワシの良心からの警告なのだろう。
家族の寝息が聞こえる。
彼女が守ってくれたのはワシだけではなく、家族を含めた平穏な生活までも、命を掛けて守ってくれたのだ。
この恩は、いつか返さなければならない。
ワシは心に決めた。
少しだけ自分の気持ちに得心がいき、ワシは再び布団に横になり、寝ることにした。
…気持ちが楽になった。
瞼を閉じて彼女の身姿を思い浮かべる。
多分きっと又会える。
…そんな気がする。
ワシは幸せな気分になり、眠りにつく事が出来た。




