オレンジ色のペコー(後編)
ニコ君は、その銅像を見上げながら語り始めた。
「この子供は僕です。」
ニコ君の言葉に、母親に抱き締められている小さな子供の銅像を私は見つめた。
怯えた小さな子…その子を庇うように必死で抱き締めている母親、それらはリアルな等身大で作られている。
まるで今は居ない怪物が目前にいるかのような切迫さが伝わって来るようです。
「僕の母はダージリン氏族の出身です。ダージリン受難の際、僕と母は実家に里帰りしていました。今では蜘蛛の仕業であると分かっていますが、ダージリンを狙い撃ちにした同時多発テロに誰も何の備えも、予想もすらしてなかったダージリンは何も抵抗もできず屈っしてしまった。帰る実家は炎上し着のみ着のままで逃げ出した僕たちは、スラム民と成り果てたところへ、悪性生物群の来襲があったのです。誰も助けてはくれなかった。そう、ただ一人を除いては……。」
ニコ君は、そこまで語ると親子を庇うようにして立つ少女の像に視線を移した。
「あの方が後に[暴風]と呼ばれるお方です。当時はまだそう呼ばれておらず、ギルドに所属する一介の冒険者に過ぎなかった。強さを表す階級もブルーの星二つ、若手にしては強いほうですが数多いるブルーの一人です。あの時、対した悪性生物は10メートルを越える百足状の生物でした。…あの方は見ず知らずの僕達を命懸けで助けてくれたのです。それって、そうそう出来ることじゃないですよね。あの方は、悪性生物に襲われた僕達親子の命だけでなく、[蜘蛛]の誘導によって迫害されて困窮に喘いでいたダージリンをも窮地から救ってくれたのです。… … 不思議と、この地であの方に助けられてからダージリンへの迫害は無くなっていったそうです。ですから僕らダージリンの一門は、あの方に多大な恩がある。僕らはあの方をダージリンの口伝で伝えられていたダージリンの危難の時に現れ仕えるべき救世主である[黄昏の姫巫女]様と呼んでいます。…まあ、僕は当時のことはハッキリとは覚えてなくて、全部母様から聞いた話しですけどね。」
少女の像は、夕陽に照らされて顔が良く見えません。
でも、小さいながらも立ちはだかって、悪性生物を通しはしまいとする悲哀とも言えるような覚悟と躍動感は伝わってくる。
多分、この像を作った人は、この場面を見ていたのだろう。
ふと思った。
この少女は、死ぬかもしれないのに何故にこの様なことが出来たのだろうか?
私に出来るのかな?
想像してみた。
…
ああ…10メートル大の悪性生物なんて化け物に正面から歯向かうなんて尋常じゃないや。…無理。無理だよ。
私が考え込んでいたこの時、川の方から悲鳴が聞こえてきましました。
私が川沿いの方を振り向くと同時にニコ君は、走り出しました。
私も後を追います。
川沿いの道に行ってまず目に付いたのは、今日街中で遭ったあのニルギリ家の騎士でした。
その足元には、5、6歳位の小さい子供らが互いを庇い合うようにしてうずくまっています。
騎士がボールを蹴るようにして、子供らを私達の目前で蹴りました。
痛さに悲鳴を上げる子供。
な、なんてことを…!
ニコ君が、騎士に詰め寄り抗議の声を上げます。
「待たれよ!私はギルドより巡回依頼を受けたニコ・ザクセン・フリージアと申します。幼な子を分けもなく蹴り上げるとは騎士とは思えぬ恥ずかしき所業、いったいどう言うことですか?ことによってはギルドに通報し、騎士殿の家中に抗議します。」
ニコ君の怒りを込めた言葉に簡易鎧を着けた騎士は、馬鹿にしたように鼻で笑った。
私は一目でこの騎士が嫌いになった。
大柄ながらスッキリとした長躯に、片目にモノクルを付けていた。
年齢は20代前半位だろう。
口元には冷笑を浮かべている。
「ふん、子供が一端の口を利くな。ギルドの苦情などニルギリ様は蚊が刺すほども思わんわ。だが我に無礼な口をきいた愚かな勇気に免じて教えてやる。我の使命はな、此奴らのような汚い亜人のスラム民共を排除することだ。復興途中のシナガに此奴らのような難民を流入させるわけには行かぬ。一匹でも紛れ込ませば、コイツらはあっというまに増えてスラムを形成するからな。政治的な裁量にギルドが口を挟むんじゃない。」
亜人?そう言えば怯える子供らの頭を見ると亜人を特徴づける犬の様な耳が付いている。
この騎士は人間至上主義者か?!
ナンセンスな話しだ。今や都市民の10%近くは亜人との混血が進み、一見純粋な人間に見える人でも何らかの亜人の因子を持っている。珍しくは無い。
案の定、ニコ君も反論した。
「亜人も私達と変わらぬ人である。待遇を違える根拠にはならないし、なによりあなたの主張は卑怯です。政治的な裁量権を盾にして幼く弱い子供らを蹴るとは騎士として恥ずかしくないのですか?!」
ニコ君の気合いを込めた抗議に、瞬間、騎士の顔は歪んで怒りで赤くなり、…それから血の気が引いたように白く無表情になった。
危ない!
不安が胸中を渦巻く。
騎士の人は、概ね公正で立派な人が多い。
でも何事にも例外がある。
目前の騎士は間違いなく例外です。
ニコ君も雰囲気が変わったことに気づき無言で騎士の顔を呆然と見上げる。
突如、ニコ君が吹っ飛んだ。
小さい身体が鞠のように吹っ飛び神社の壁に激突する。
壁にバウンドしたニコ君が悲鳴を上げて地面に倒れこむ。
「ぐはぁ…。」
苦悶の呻き声を上げて、手脚をジタバタさしているから意識はあるようだ。
平手だ…見えなかったけど、あの騎士が平手でニコ君を無造作に殴り飛ばしたのだ。
「クソガキが…ギルドか…面倒だな。いっそ何も無かった事にしてやっちまうか…全く手間を掛けさせやがって。まずはコイツからやるか。」
騎士が剣呑な内容をブツブツ言いながら子供らに近づこうとしている。
いけない!
私は、思わず騎士と子供らの間に割って入った。
だって、だって、なんだか子供らがこのままで、取り返しの付かない恐ろしい目に遭う気がして何も考えず咄嗟に入ってしまいました。
あわわわ…わ、わたし、ど、どうすれはよいの?!
もう、泣きそうです。
現実はお話しのようには上手くいかない。
伝わっているお話しは、上手くいった稀有の例です。
消え去った無数の命など伝わる事など無いから。
そんな事など分かっていた筈なのに。
ここは恥も外聞もプライドなどもかなぐり捨てて脱兎の如く逃げ出して、通報するのが正解です。
それが正しい行い…分かっている。
なのに何故私は…?
で、でももし私が、ここで逃げ出したらこの幼き子供らはどうなっちゃうの?
想像するだに、子供らの暗黒の未来が私の眼を塞ぐ。
ああ…苦しい、恐怖と後悔で足がガクガクブルブルと震えて立ち竦む。
損得とか功利を考えれば、私の行動は全く理に適っていない。
間違っている。
今までの私からは、考えられない誤った振る舞い。
騎士が私をギロリと見下ろした。
その視線だけでキュッと恐怖で胃の腑がすくんだ。
自然と涙が出てくる。
怖い、怖すぎるよ。
で、で、でも、私は選んでしまった。
なんて取るに足らない影響の無い小さな決断。
選んだ今でさえ後悔している…なんて情け無い恥ずかしい覚悟なんだろう。
でも、これが今の私なんだ。
騎士の睨みを、私は涙目でキッと睨み返した。
それからは時間がスローモーションのように流れていくのを感じた。
…
騎士が腰に吊ってある剣の柄を右手で握っている。
…
ニコ君が倒れ伏したまま、口から血を流してこっちを見ているのが分かる。
口元が、逃げろと言っていた。
…
騎士が剣をユックリと抜いた刃に夕陽が当たり、その明かりがギラギラと光った。
私の後ろには、怯えて泣いている幼な子が二人。
…
…逃げたい。
ああ、私の柄じゃなかった。
私には冒険者など向かなかったんだ。
最後に私は激しく後悔した。
それでも、こんな情け無い私でも子供らの盾にはなれる。
…
騎士が刃を上に持ち上げる。
その表情には何も浮かんでいない。
…
この時、私の身体は勝手に動いていた。
アールグレイお姉さんから教えてもらった[火手]の構えを自然と取る。
…
騎士は剣を高く上段まで構えた。
ここから振り下ろしが来るのだ…。
…
剣を持った騎士の迫力と気当たりは恐ろしい。
この鉛を飲み込んだような死の匂いは、実際に相対してみないと伝わらないと思う。
恐怖で、辺りが静寂で何も聞こえず騎士の周囲が薄暗く見えた。
騎士が振りかぶっているあの鋼鉄の刃は死と理不尽の匂いを撒き散らしている。
…絶望感しかない。
…
騎士の顔は気色満面の笑みで歪んでいる。
ああ…なんて嫌な顔なんだろう。
…
私は、もう、あまりにも怖くて眼を瞑った。
お姉さんの優しさに満ちたお顔と言葉がよみがえるように脳裏に浮かんだ。
(危なかったら逃げていいよ…恐怖を目前にして、勇気なんか普通出てこない。…出るわけがないよ。出なくて当たり前。…だからこそ訓練。普段のツライ修練が役に立つ時がきっと来る。ペコちゃんを護る護符みたいなものだからね。)
ああ…
闘う術を身に付けるのが武術なのに、お姉さんたら逃げることを勧めるなんて…
なのにお姉さんの御言葉とは真逆の行動を私は選択してしまった。
だって…お姉さんなら、きっとこうする気がするのだ。
私は、多分この後死ぬのだろう。
それは私の馬鹿な選択の当然の結果で、誰のせいではない。
これは私が決めたことなのだ。
わ、私はお姉さんにはなれない。
でも、お姉さんに恥ずかしくない生き方を選んだのだ。
私の身体が普段の修練通りに勝手に動いて行く。
[火手]の基本的な技の掌底です。
お姉さんの御言葉に発奮して、調子に乗って何万回も練習した技の通りに身体が動き、…私は掌底を突き出しました。
これで良い。
私は、これで良いのだ。
瞬間、暖かくて柔らかい、懐かしいような優しい空気に包まれた気がした。
…そしてオレンジの香りをフッと嗅いだ気がしました。
…
気が遠くなる。
私は、…怖かったけど、やるべき事を成しました。
これは誇っても良いよね?
…
ああ、死ぬ時って、こんな感じなのかしら?
痛くもないし、逆に多幸感さえある。
ど、どうなったの?
それとも、これから刃が降って来るのかな?
私の僅かな抵抗は、子供らの逃げる時間稼ぎぐらいにはなったのだっらたら良いなぁ…。
その時を私は待った。
…
けどいくら待っても刃に切り裂かれる感覚はやって来なかった。
…
…あれ?
…私は恐る恐る瞼を開く。
目前、前方20メートルほど先に騎士が仰向けになって大の字に倒れていた。
え?
意外な場面に思考と認識が追いつかない。
騎士はピクリとも動かない。
恐る恐る近づいてみて、覗き込んでも動かない。
白眼を向いて倒れっぱなしだ。
息はしているから生きているのが分かる。
…?
…どう言うことでしょうか??
まさか、私の修練の成果ですか?
確かに私は掌底を突き出しました。
しかし何の感触もなかったのですが?
どうも、納得し難いですが、でも他に考えられません。
す、凄いよ、私!
私のテンション急上昇です。
勝利の証に、騎士の額に偶々持っていたマジックで、肉と書いておく。
記念です。
この! この! 驚かしおってからに!
ははは、ははは。
…フッ、口ほどにもない。
端正な顔立ちだけに、額の肉の字が良い味を出している。
これは、かなりの間抜け面です。…笑えます。
…ぷぷ。
でもここで、ハッと気がついた。
プライド高そうな騎士をのしてしまったら、あとあと揉めそうな気がする。
薄情なようだけど、こ、ここは倒れた騎士は放って置いて、眼を覚ます前に、さっさと逃げるが吉です。
私は呆然としているニコ君と子供らを連れて、この場から逃げ出しました。