アンネの日記(後編)
私は、戦いに死力を尽くした。
私は、今日、戦って負けて自害する。
それは既に、決定事項で、早いか遅いかの違いでしかない。
全ては、この馬鹿女のせい!
ならば、ムカつくこの女に曾お祖父様の形見の斧を、ブチ込んでやりたい。
防御を考えない動きは、今まで生きてきた中で、一番キレとノビがある。最高に調子が良い。
対して、少尉の眼は虚だ。
動きも緩慢でキレが無い。
調子が悪いのか?
最高に調子が良い私が死力を尽くして戦っているにも関わらず、調子の悪い、この女に遥かに及ばない事実が、絶望感を黒く染める。
彼女は、戦いの間、時々、音なき声が聞こえるような、ハッとした顔をすることがある。
この女でさえ、死力を尽くして戦う私を見ていない…。
落胆する私がいる。
この女は、私にとって死神に等しい。
私は、死神にいったい何を期待しているのか?
…
私の膝がガクリと落ち掛ける。
体力がつき掛けている…?
私の戦いが終わる時が、私の死ぬ時だ。
なのに戦いにすらなっていない…いわば、これは死のダンスだ。…私は、踊り終わったら死ぬ。
自分の呼吸音が嵐のように耳をふさいでいることに気がついた。
私の体力の限界が近い…もう直ぐ終わり?!
ああ、…誰か私を見て欲しい…寂しいよぅ。
今の今になって、自分の本心が分かった。
寂しがりやの自分。
小さな子供のような自分が搾り出すように叫ぶ…寂しいの、誰か救けて、私を助けて、お願い。
誰も、救けてはくれない。
自分を救ける者などは何処にも居ない。
分かっている。分かりたくない。でも、救けて…。
この時、私の願いに呼応する様に、少尉の目が光りを取り戻し、私を見た。
私を見てくれた。
少尉の、まるで、身体に羽が着いてるような、華麗なる動き…光り輝くような圧倒的な存在感、…眩しい。
ああ…なんて綺麗なの。
この時、私は悟った。
この人は、私よりも遥かな高みにいる人だと。
対等だと思っていた私は、何て滑稽だったのだろう。
私は、体力が尽き、少尉の存在感に圧倒され、その場で尻餅を付いた。
少尉殿を見上げる。
薄らと汗をかいているようだ。
ああ、なんて崇高で綺麗なんだろう。
悔いは無い。…私の全身全霊を出し尽くした。もう何も出ない。
最後に、私を見てくれた。
最後に、こんな綺麗なものが見れた。
私は、生まれて来た甲斐があった。
…満足だ。
ただ、こんな状態でも自死するのは怖い。
少尉殿に介錯をお願いしたい。
…
ただただ茫然と座りこんでいると、突如、少尉殿が私に対し、姿勢を正して頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。アントワネット曹長の師に対しての、数々の非礼な言動、どうか、お赦し願いたい。御免なさい。」
周りを、取り囲み、決闘の様子を伺っていた面々が、仰天した顔つきをしているのが目にとれた。
私も驚いた。
いったい何を言っているのか、少尉殿は。
勝者が敗者に謝るなど聞いた事がない。
この実力至上主義な世の中で、謝ることは自分の非を認めて、完全降伏すること…相手に何をされても文句も言えない。
勝ち負け以前に、階級が実力を表すギルドで、レッドがブルーに謝ることは、到底有り得ない。
私は、息も絶え絶えの状態で坐り込んで考えこんだ。
まったく、ようやく死を受け入れたと言うのに…この少尉殿は最後まで予想がつかない。
身体に力がまるで入らない。
おそらく立つ事すら困難であろう。
「それは、アールグレイ殿の降伏宣言と受け取って良いのか?」
自分が座り込んで立てない状態なのに、私は何を言っているのだろう。でも聞かなければ、少尉殿の真意が分からない。
すると、少尉殿は、かぶりを振って否定した。
「違います。僕は、自分の言動が悪いと思ったから非礼を詫びただけ。勝負は別の話し。」
さもあらん。私は微かに笑うと俯いた。
「ならば、私の負け…」
私が降参を言い掛けたとき、少尉殿が私の言葉を遮った。
「負けではない!」
少尉殿は、いったい何を言ってるの?
私の負けに決まっているではないか。
私は少尉殿を凝視した。
静まりかえった周囲に、銀鈴のような少尉殿の声が響き渡る。
「アントワネット曹長の負けではない!だが僕の負けでもない。今日は少々疲れた。勝負は次の機会に持ち越しとしたい。」
馬鹿な!私を侮辱するのですか!
消えかけた蝋燭に火を灯すように怒りが湧き上がる。
「欺瞞です。この勝負は私の負けだ。情けなど無用!師だけならず私までも侮辱するか!アールグレイ!」
納得できない!
「異論は認めない。勝負は継続。アントワネット、君は僕には勝てないの?君の、師の斧術は、僕に通用しないのかい?
時間をあげる。まずは、同じ土俵に上がって来なさい。勝負はそれからです。君の一生を賭けて僕に挑んで来なさい、負け逃げは許さないよ。返答せよ!アントワネット曹長。」
いつもの少尉殿の優しげな言い方では無い。
私に異論を許さない、厳しい問い掛けです。
でも、私には分かった。
少尉殿は私に生きよと言っている。
信じられない…なんて人だ。
なんて我儘な…でも、全部、私の為だったんだ。
自らの危険を省みずに、私に厳しく言ったのも…。
私の中で、何かが弾けて消えた。
今までの私は、少尉殿によって殺されたのだ。
そして、少尉殿によって新しい私が、生まれた。
「分かった。アールグレイ少尉殿。」
私は呟き、ゆっくりと頷いた。
この後、私はアールグレイ少尉殿から助言を受けた。
どうやら、私の戦闘スタイルは、私の性格に合っていないようだ。
「ねえ、アントワネット曹長、武術の極意に、不殺という概念がある。この実力至上主義の世の中では、貫くのに難しい概念だよ。でも僕、アントワネット曹長を見ていたら、フッと君に合っているんじゃないかなって思ったんだ。ねえ、君は戦ったら相手を必ず殺さなくちゃと思ってないかい?」
少尉殿は、いったい何を言っているのだろう?
戦ったら、相手を殺すのは当たり前のことなのに。
もし、温情を掛けたら後の世に禍根を残す。
…甘い。少尉殿は甘すぎる。
だが私は、少尉殿が不殺の極意を実践している事に思い至った。…現に私は今、少尉殿に生かされている。
「そっか…殺さなくてもいいんだ。」
心が、一瞬で軽くなる。
「僕の知っている火手の達人に、不殺の極意を会得してる人がいる。本当に凄いよ。今の僕では勝てる気がしない。もしアントワネット曹長が会得したら、きっと強くなると思う。至難の道だと思うけど、どうかな?武器でも杖術とかが不殺の極意を実践するのに適してると聞くよ。僕も数手しか覚えてないけど、よければ指南します。」
アールグレイ少尉殿のお声は、耳に心地良い。
心に深々と染み入るような優しげなお声。
私の事を思って言ってくれているのが分かる。
まるで、極上のフルーツを耳で食べてるかのよう。
心がフワフワと軽くなる。
…救われた。…私は救われた。
私が救けてって、叫んだら、アールグレイ少尉殿が救けに来てくれたの。
何で以前は、少尉殿の勇気と慈愛に満ちた御心に気付かなかったんでしょう。
今の私だったら、分かります。
もう心の鎧は要らない。
少尉殿以外には、又着けることもあるかもしれないけど。
でも、少尉殿に対しては、もう必要はない。
内気で大人しい恥ずかしがりやの自分でいい。
私は、少尉殿の提案に、お願いしますと、素直に頭を下げた。
ショコラ様が、何故にアールグレイ少尉殿が好きなのか、今なら分かります。
だって、私も…。