フォレ・ノワール(前編)
夜の森は、キャンプ地の明かりが際立つほど、周りの闇も際立つ。
夜の森は、黒き森、人智の及ぶ処では、ごさいません。
いかにお強い少尉殿といえども遭難する危険すらあります。
もうすぐ夜の帷が落ちます。
私、超心配です。
お玉で、鍋の中身をかき混ぜながら、溜め息をつく。
私の名は、ショコラ・マリアージュ・エペ。
アールグレイ少尉殿の、親友で弟子で部下であります。
ついでに、エペ侯爵家の息女で、ギルドのブルー。
そして、レッド昇格試験兼ハクバ山探索任務の真っ最中。
只今、アールグレイ少尉殿の為に料理している最中なのです。
今日の夕食は、豚汁です。
何となく、アールグレイ少尉殿のことを想っていたら、豚汁かなと感じましたので、率先して提案して料理した次第です。
但し、今日作った豚汁は、正確に言うと猪汁です。
少尉殿が、今日、軽運動の際、通行の妨げになった猪の頭を横から刺すように蹴り上げたところ、脳震盪を起こして斜面を落ちた際に、岩にぶつかりお亡くなりなったのでございます。
何て運の無い。
いや…少尉殿に食べられて、少尉殿の血となり肉となるならば、この猪の何と言う幸運なのか。
羨ましさまで覚える。…少尉殿に食べられる。
自分の考えに興奮して、かき混ぜる速度があがる。
ムフー。
猪に嫉妬すら覚える。
ああ、私、…少尉殿に食べられてしまうのですね。
あ、いえ、少し間違えました。
私が作った料理、少尉殿のお口に入るのですね。
…想像するだけで、鼻血が出そうです。
慌てて、右手を鼻の位置に持っていって覆う。
私の鼻血が、鍋の中に入ったら洒落になりません。
内心で想う事と現実に作用する事は別に考えなければ。
…でも、不可抗力で一滴ぐらい入って、少尉殿の、あの可愛らしいお口に入るとしたら?
…
ふおっ…更に胸がキュンキュンとして、動悸息切れ、目眩が起こり、幸せ感で泣きそうになって来ます。
ヤバい、私、ヤバいです。
分かりますか、私のこの推しを想う気持ちが、あなたに?
ああ、少尉殿、早く帰って来ないかしら。
猪肉のステーキは、お帰りになられてから焼きましょう。
フォレストノワールは、黒き森、あなたと一緒に迷いましょう。♪
フォレストノワールは、黒き森、あなたと一緒ならば、怖くない♪
フォレストノワールは、黒き森、あなたと一緒ならば、生きられる♪
フォレストノワールは、黒き森、誰にもあなたを渡さない♪
フォレストノワールは、黒き森、あなたは私、私はあなた♪
…
子供の頃、お母様から聞かされた[森林讃歌]の一節をハミングしながら、鍋の中をかき混ぜていく。
楽しい!なにこれ?誰かの帰りを待って、料理を作るだけなのに、…とっても楽しい。
今日一日、訓練、訓練で身体が疲れてるにもかかわらず、自然と動く。
これが、幸せというものなのかしら。
こんな思いは、初めてです。
お母様やお父様と、一緒にいると安心するような幸福感とは、又、別の、天まで昇るような痺れるような幸せ。
ドキドキする。
はわわわわ…。
この依頼受けて、本当に良かった。
薦めてくれたダージリンのお姉さまには、感謝感激です。
帰ったら、この感動を感謝にして、お伝えしたい。
幸せ感満載でいると、エトワール少尉が近づいて来てるのに気付いた。
んん…何かしら?
「順調か?ショコラ曹長。」
「Yes Sir。エトワール少尉。」
敬礼して、返答す。
でも、回答してもエトワール少尉は、立ち去ろうとはしなかった。
料理の進行状況の確認以外に、私に話しがあるのだろうか?
…正直言って、エトワール少尉とは、仲はよろしく無い。
本能的に、この女とは仲良く出来ないと、私は感じている。
これは、女の感です。
加えて、エトワール少尉の様な、人様を何とも思わないような言動が、如実に、この女の性格の悪さを表していて、一言で言うと、嫌いです。
生理的に合いません。
エペ家の方針としては、誰とでも仲良く、協調性を大事にしています。
それでも個人的に相性の悪い相手は、現に存在します。
エペ家家訓註釈録には、こう記載あります。
[これは善し悪しの問題ではなく、単に相性が悪いだけで誰が悪いものでもない。そういうものだと思うしか致し方なし。]
そして、私がそう感じると言うことは、エトワール少尉も私に対し同様に感じていると思うのです。
好悪の感情は、とかく相手に伝わりやすし。
エトワール少尉は、アールグレイ少尉殿に半端なく執着しているので、尚更、私は目の上のたん瘤でしょう。
かろうじて、私達の間の繋がりは、所謂、推し仲間とも言えないこともありません。
もちろん、私達が推してるのは、アールグレイ少尉殿ですよ!
つまり、私達が本能的に反目しながらも、表面上協調路線を敷いていられるのは、アールグレイ少尉殿が、それを望んでいるからなのです。
私がエトワール少尉から傷つけられたり、またその逆も、少尉殿は許さないでしょう。
そして、その様なことになったら、アールグレイ少尉殿は、海よりも深く哀しむことでしょう。
その際の少尉殿の心情を想うだけで、私、耐えられません。
うう…苦しいです。
もし、私が謀略により、エトワール少尉を弑したとしても、アールグレイ少尉殿は、きっと勘付く。
だからこそ、私もエトワール少尉に処分されることはないと安心していられる。
だって、あの頭の良い女が、アールグレイ少尉殿の察知力に気付かないはずがないから。
少尉殿の異常とも言うべき、未来予知のような勘の鋭さは、過去にも使えるから、上手く処理しても、きっと気付かれる。
普段、少尉殿は、隙があり過ぎるのに、その落差が激しい。
少尉殿の察知能力の根拠は、9割方、五感を修練により100%以上伸ばした成果の総合知覚によるものだと、私は推測してます。
更にそれらの情報を基にした総合類推力。
まるで、意識が常に複数個あって、多角度の見方から意見交換しながら、失敗しないようにアールグレイ社の経営方針を決定してるかのよう…時折り、私は、アールグレイ少尉殿の中に複数人いるかのように感じます。
むろん、これは私の気のせいでしょう。
…
「ショコラ曹長、貴様はアールと、出会うのは昨日が初であったな。…私が、アールと会ったのは、私達が8歳の時だった…。」
黙っていたエトワール少尉が、とうとう語り始めました。
少尉の会話は、幻惑するような道筋を辿り、終着点が予想つかない。放って置けば、終始主導権を取られっぱなしになってしまう。流れを一旦止めなければ…。
「ちょっと待ってください。その語り、もしかして長くなりますか?」
私は、エトワール少尉が語りだした処でストップを掛けた。
出会いからの長さを、軽く自慢されたようで、ムカついたのもありますが、何となく、先の理由もあるし、一旦止めた方が良い気がしたのです。
明確な理由は、ありません。
「む、無論だ。アールや私達にとって大事な話しである。理解してもらう為に前置きが長くなるが辛抱して欲しい。」
「…分かりました。邪魔してすいませんでした。」
今までと違うエトワール少尉の殊勝な態度に、こちらも襟を正す。
誠意には誠意を持って返す。
今回はエペ家の家訓に従う方が良さそうと判断しました。
なによりもアールグレイ少尉殿の大事な話しなら尚更です。
「コホン、では話すぞ。そもそも私とアールは… 」