ガトー・ショコラ
ああ、…行ってしまわれた。
しかも、あんなに嬉しそうに。
私…身が引き裂かれるように寂しいです。
もし、私にロッポ中尉並みの測量技術があれば、少尉殿の隣りにいるのは私のはずだったのに…。
ああ、口惜しい。
少尉殿。私が、あれほど立候補したというのに、私の為だからと連れて行ってはくれませんでした。
新鮮な山の空気よりも、今は、少尉殿の香りが懐かしい。
ハッ、たしか、少尉殿が使用済みの服を無造作にバスの網棚の鞄の中に入れていました…。
浄化の魔法を掛けてましたけど、普段少尉殿が直接身につけている衣服です…もしかしたら残り香が…。
ああ、早くアールグレイ少尉殿の成分を補給しなければ…。
うう…もう私、少尉殿が居ないと生きていけません。
身体が自然にフラフラとバスの方へと歩き始める。
「ショコラ様、エトワール少尉から集合が掛かってます。」
私を呼び掛ける声に、ビクッと立ち止まる。
だ、だれ?
悪いことをしてるわけではないけど、バレるわけにもいかない。
振り返ると、そこには怪訝な顔をしたダルジャン嬢がいた。
「す、直ぐ行きます。ありがとう。ダルジャン曹長。」
私は、致し方なくバスへ行くのを断念して、集合場所へ向かいました。
今の私は、水を求め砂漠を彷徨う旅人と同じ。
すぐそこにオアシスがあるというのに…。
その旅人の名は、ショコラ・マリアージュ・エペ。
エペ一門の盟主たるエペ侯爵家の息女であり、ギルドのブルーでもある、そしてアールグレイ少尉殿の忠義の使徒です。
コホン、けして変態ではありませんから、誤解なきように願います。
ダルジャン嬢に行為を止められた私は、機嫌が良いとは言えない。
んん…でも、考えてみれば、勝手に少尉殿の荷物を漁って良いはずがない。きっとバレたら少尉殿に嫌われてしまう。それだけは駄目!…だから我慢よ、ショコラ。我慢。
ダルジャン曹長、私を止めてくれてありがとう。
もっとも、お優しい少尉殿なら慈愛の心で、私を許してくれるかも。…少尉殿は女性子供に優しくて、隙があるから。
いや、隙がありすぎます。
もう、あれは天性のものだから、直らないでしょう。
だから、私が気をつけてあげなくては。
でも、そこがまた魅力的なのよね…。
少尉殿のことを考えるだけで、心がホワッてして幸せな気持ちになる。
ああ、今頃、少尉殿は何してるのかしら?
私が居なくて寂しい思いをしているのでは?
ハッ…考えてみたら山中で男女二人きりではないですか。
もし、間違いがあったとしたら…。
ああ、なんていうことでしょう。
もし、そんなことになったら後悔しきれないです。
「ショコラ曹長。」
これは、やはり今からでも行くべきでは…?
「ショコラ曹長。」
今からでも、エトワール少尉に意見具申して…。
「ショコラ曹長!」
あっ、もう、さっきからうるさい!
なんだって言うの!?
私の大切な少尉殿の貞操の危機を、懸念してるというのに。
あっ…
気がつくと、目前にエトワール少尉が腕を組んで私を見つめていた。
そして、ダルジャン嬢、アントワネット嬢の、私をみる心配そうな顔。
皆んなが私を見ていた。
「はい。失礼しました。エトワール少尉。」
うう…恥ずかしい、顔から火が出るようです。
「将校が指示してる時は、集中して聞くように。」
エトワール少尉は、そう指示し、溜め息を一つつくと、私達に対し説明を始めた。
今日は、私達の個別訓練に費やすらしい。
個々の課題と方針を明確にして、一歩を踏み出す。
明日は、拠点を山頂に移して、午前は実査と測量、午後は訓練。
概ね一週間で、ハクバ山探索は終了予定。
既にアールグレイ少尉殿達は、午前中にハクバ山の測量を着手し、午後は次回探索の為の実査で隣山まで足を伸ばすらしい。
ああ、少尉殿ばかり働かせて、心苦しい。
早く個別課題を克服して、少尉殿の元へ馳せ参じたい。
エトワール少尉から、それぞれ課題を指示される。
少尉に指示出しをされている仲間を傍目に見ながら、私は考える。
この女は、アールグレイ少尉殿のお役に立つのだろうか?
ギルド人事部のジーニアス。音に聞こえた才媛。
しかも実家は、最近、財閥系から下位の貴族に叙せられたと聞いた。エペ家の耳から情報が入って来ている。
侮れない…少尉殿から簡単には引き剥がせないだろう。
それでも、もし、少尉殿の妨げになるようならば、エペ家一門の総力を結集してでも…。
「ショコラ曹長。」
少尉から呼びかけられる。
!…んん…もしかして察せられた?
いや、顔には出ていない。大丈夫。
でも、タイミング的に、急に呼びかけられたので、ギクッとビックリしてしまいました。
「はい!」
な、ななな、何でしょう?
心中とは裏腹に、呼びかけには咄嗟に反応できました。
これぞ、長年の貴族として生活してきた賜物。
「今日は、貴様は調子が悪いようだな。…分かっているぞ。」
少尉の指摘に、再度ギクリとする。
バレてる?何が?
今の私は、目が泳いでいるかもしれない。
ポーカーフェイスにも限度があります。
エトワール少尉は、私の直近に来た。
既に私以外のブルーは、それぞれ個別の訓練を指示されて、散ってしまっている。
「ショコラ曹長。」
「何でしょう、少尉。」
「実はな、昨日、アールの隣りで寝ていたんだ…。」
?…知っている。
私も、アールグレイ少尉殿の隣りの位置を勝ち取って寝ました。
ちょうど、少尉殿を挟んで反対側に、エトワール少尉は寝ていました。それが何か?話しの展開が見えない。
「あれは、アールが寝付いて夜半過ぎの事だ。アールは、いつも最初は仰向けに寝付くのだが、こう右の方に横向きに態勢を変えることが多い。」
む、私も昨日知った。
少尉殿のうなじとか見てるうちに少尉殿の香りがして来て、うなじに顔を埋めるのを我慢するのに、両手をグーパーして死力を尽くしているうちに寝てしまった。幸福なのか拷問なのか、よく分からない一夜であった。
「昨日も、私の方に顔を向けて来てな。クゥクゥと小さな子供のような寝息が、直近で聞こえて来てな。…可愛かったな。」
語るエトワール少尉の顔が、眼を閉じ幸せそうな笑顔になる。シット!自慢ですか?!
私も、その時の少尉殿の寝顔を見たかった。
「こう、両手を胸の前に持って来てな、丸くなってな。アールは、たまに気を抜いてる時、幼児化するんだ。きっと昨日は私達が周りにいたのを感じて自然と気を抜いてしまったんだな。」
いったい、私は何を聞かせられているのか?
聞きたくないけど、聞きたい焦燥感に駆られる。
「アールは、女子供に甘い。兎のように警戒心が強いのに、一度でも身内だと認識すると、とことん甘くなる。隙が出来る。分かるな?」
そう、それは私も気がついていた。
警戒心が強いのに、一度でも心許すと、途端に甘々になる。
私達が裏切るなどと露ほども思ってないに違いない。
信用されるのは嬉しいけど、危うくも感じる。
だとすると、これは、少尉殿をお護りするための相談?
「かく言う私も、ようやく身内だと認識されたみたいでな…長かった…小さいアールを一目見てから、足掛け10年越しだぞ。分かるか?私の気持ちが。本当に長かった。最初にアールに目を付けたのは私だ。分かるな?」
「いえ、よく分かりません。私は昨日、少尉殿に初めて会いましたけど、最初から友好的でしたよ。それに少尉殿に対する私の愛は深過ぎて、時など越えてしまってますから、関係ありません。そんなことでマウント取ろうとしても無駄です。最後に勝つのは、私です。」
エトワール少尉の鼻息荒いお言葉に、内心が駄々漏れで返答してしまいました。
「ふふん、まあよい。…それでな、アールと初めて一緒に寝た昨日の続きだが、夜半にな、貴様が寝た後だが、アールが私の胸元に顔を突っ込んで来てな、「お母さん…。」て、呟いて来たんだ。分かるか?その時の私の気持ちが?」
わ、分かります。それは分かります。
ああ、何てことでしょう。
んん…何で私では無かったんでしょう。
自慢ですか?自慢なんですか?
「あれが幸福感というものなのだな…もう、この幸せのまま死んでも良いと思ってしまった。抱きしめるのを我慢してるうちに、貴様の方にコロンと向きを変えてしまったがな。」
そう、朝一度起きた時、目の前に少尉殿のお顔があり、夢だと勘違いして、眼をギュッと瞑っているうちに、また寝てしまいました。このショコラ痛恨の極みです。キス出来るくらい近い位置だったというのに。ああ…少尉殿ったら可愛い過ぎて食べてしまいたいくらいです。しかし、あの無防備感は…
「そう、あの無防備感は危うい。外に関しては、鉄壁と言えるほど警戒心が高いのに、内に関しては、まるでダメダメだ。しかし、また私を警戒しろとは言えんし。そこでだ…。」
まるで、私の心を読むように会話してくるエトワール少尉。
「そこでだ…騎士団を発足させる。これの役割はアールを護る為だけにある。アールに身内だと思われた者を構成メンバーとする。相互監視、相互依存の精神で内外からアールを守る。」
な、なるほど。…騎士団、…なるほど。
ジーニアスの考えが脳に染みて来る。
最初は、何だと思えた少尉の騎士団構想だが、考えれば考えるほど、秀逸なアイデアに思えて来ました。
騎士団長として、少尉殿を担ぎ出し、一緒に仕事すればお護りすることが出来る。しかも少尉殿のお側にいられて、私も嬉しい。更に少尉殿の信奉者の中でも危うい者も監視でき利用でき管理出来てしまう。
一石何鳥ですか?流石ジーニアスです。
潜在的な敵ながら天晴れなアイデアです。
思わず、騎士団長云々辺りから、具体的に褒め讃える。
優れたるを褒め讃え、登用するは貴族の務めです。
「いや、曹長。それはいかん。…アールは猫の様な気質が高い。団長たる重責を匂わせたら、絶対に逃げるぞ。今の少尉の階級さえ嫌がっている節がある。騎士団自体も公然の秘密とした方が良い。象徴としてアールグレイの名を冠し、アールの非公認団体として、アールの知らないうちに発足させて、実績を地道に積み重ねて、ゆくゆくは本人の公認を得る。」
確かに…エトワール少尉のおっしゃることはいい得て妙。
的を得ているかもしれない。
慈愛と責任感は強いのに、反面飽きっぽくて気まぐれ…戦いの合間にも、そのような態度が見てとれた。
確かに猫っぽい。
「しかし、一度でも認めれば、躊躇なく踏み込んで責任を取ろうとして来る。ここは地道に活動するが吉。追ってはいけない。待つんだ。」
流石に少尉殿を十年近く諦めずに追い続けた者の経験からくる言葉、重みと説得力が違う。
私は、思わず頷いた。んん…でも…
「でも、少尉。責任者は必要ですよ。もし責任者不在ならば[蜘蛛]のような秘密結社になってしまいます。それは、おそらくアールグレイ少尉殿の一番嫌う処では?それに少尉殿以外にトップを決めるとしたら、誰もが少尉殿の一番を競い、争いが起こるやかも。だとしたら騎士団構想自体がが瓦解してしまいます。」
「そう、その通り。だから、考えた。緩やかな責任者制度。私は、これを円卓制度と仮に呼ぶ。象徴たるアールグレイに対し、我々は等しく平等。仲間である。しかし議決機関、執行機関は必要。騎士団の上座下座の無い円卓に並びし12人を騎士団の代表機関とし、その12人を仮に円卓の騎士と呼称する。おめでとう、円卓の騎士ショコラ・マリアージュ・エペ。君が最初の一人だ。いかがかな?アールの為に出来る限り受けて欲しいが。」
私は、…ポカンとしてしまった。
な、なるほど、ここに収束しましたか。
最初から最後まで、ジーニアスに主導権を取られっぱなしです。まるで幻惑の会話術。
しかも、形式的ながら選択権は私にあります。
少尉の思惑通りなのは、気に入らないけれど、最初に私に話しを持って来た点だけは評価できる。
でなければ、独自に別組織を作っていました。
選択無き選択。
既に私の答えは決まっています。
「受けましょう、少尉。私が入ることによって、この組織はエペ家一門の承認と支援を受けることになるでしょう。エトワール少尉、あたなの騎士団構想を生み出した頭脳と、私を選んだ慧眼に感服致しました。」
私は、ニッコリ笑って、少尉の提案を受け入れた。
やはり、この女は侮れない。
もし、排除するときは、綿密に速やかに為されなければならない。私は、それを再認識し心に留め置いた。