ショコラでお茶を(後編)
あれからジョギングは、終わることなく続きました。
終わりが分からない走り込み。
終わりが分からない程、精神を疲弊することはない。
そう思いませんか?
私は、今、正にそれを体験しました。
もはや体力は尽きました。
精神は磨耗しました。
誰も何も喋りません。静かなる行列。
いや、一人だけブツブツとお喋りされている方がいました。
耳を澄ませて聞いてみる。
「ああ、騙された…騙された、あの、尻に、胸に、うなじに騙されてしまった。ああ、僕のバカバカ、僕の馬鹿、また色香に、騙された。ああ、揺れている、揺れているよ、柔らかそう、触りたい、畜生、触りたいのに触れないなんて、生殺しかよ、優しくしやがって…もしかしたら気があるのかも…しれない。ああ、働きたくないでござる働きたくないでござる、受けなければよかった、キツすぎる、キツイよ、やめたいやめたい超やめたい。やだやだ、あーやめればよかった、南の島に行きたい。2人きりでも、いや3人でも、4人でもOKだよ、ハーレム万歳、うへへへ…。」
フォーチュン先輩の独り言でした。
凄いです。
もはや、疲労困憊の極致を通り越して、身体だけが自動的に動いている状態に、精神が麻痺して、意識が飛びそうな私なのに、フォーチュン曹長は、まだ独り言を言う余裕があるとは、この人凄いですよ。
小柄で高性能な肉体に、見事な金髪で、顔も割と良いとか、控えめな性格なのに、いざという時は頼りになるとか、隠れファンがいるという噂も頷けます。
こと体力に関して、ダルジャン曹長と双璧を成していますし。
その残念な内容の愚痴さえ無ければ、きっと私達の中では、総合トップクラスのハズ。
才能も技能も頭脳も良いのに、あと、アールグレイ少尉が一番重要視してる覚悟さえあれば。
…とっても惜しい人です。
私の感情も麻痺してるようなので、逆に素直に凄いと思えました。
それにしても、人間とは、何処までも行けるのか。
体力は、私が限界と思っていた領域を既に越えています。
ライバルと言える仲間と、アールグレイ少尉がいなければ、きっと、ここまでは来れなかった。
だけれども、そろそろ本当の限界が来るのではないでしょうか。
私は、今回で意識には限界は無いと分かりました。
頭脳も騙すことは可能でしょう。
問題は体力です。
私の心配をよそに、フォーチュン曹長が、アールグレイ少尉の真後ろに、近づこうと速度を早めていることに気がつきました。
本当に凄いよ、煩悩も馬鹿には出来ないのですね。
もう、尊敬の念を込めてフォーチュン先輩と呼ばせて下さい。
アッ、ルフナ曹長がフォーチュン先輩の前に割り込みました。よっぽど、アールグレイ少尉に近づけさせるのが嫌だったのでしょう。
この極限の状態で、アクションを新たに起こすなんて、少尉の事を大切に思っているのでしょうね。
もう、お任せします。
私も、さっきからフォーチュン先輩のシャツの裾を引っ張って止めようとしているのですが、全然効果が無いのです。
もう、やっちゃって下さい。
その後、ルフナ曹長は、阻止する事に成功しました。
フォーチュン先輩は、「ああ、僕は麗しい匂いを嗅ぐことすら出来ないとは、ああ、無情なり…。」と嘆いて順位を落として、後方に下がっていきました。
ルフナ曹長、ナイスです。
変態墜つべし。
いえいえ、決して嫌ってるわけでは有りませんよ。
あの私の理解不能のガッツは凄いと思いますし。
悪い人でもありませんし。
ただ、アールグレイ少尉に触らないでいただきたいのです。
んん、何でしょうね…この気持ちは。
大切に思っているのに無闇に触られたくないのです。
猫が嫌な事されるとシャー!と怒るような不機嫌な気持ちになるのです。
分かります?
私達のジョギングは、続きました。
限界を遥かに通り越して、身体から栄養が溶けだして、エネルギーに変換していく幻想感覚を覚えました。
炭酸のシュワッて泡が、身体の中を登っていくのです。
ああ、このままエネルギーが消費すれば、世界から私は無くなっていくのだろうか…。
周りの樹々や、囀る鳥、風が梢を震わし、日光が降り注ぐ様子が、何故か分かりました。
そうか、私は泡で、世界に溶けていっているのですか…。
ハァ、ハァ。
ハッと、ふと我に帰り、自分の呼吸音の大きさに驚き、身体がガタピシとしている感じに気づく。
いつの間にか、山を下っておりました。
二周目の終わりです。
三周目は、冷静にまずいと感じました。
辛いとか苦しいの問題では無く、私の身体大丈夫なのかしらと思える危機感です。
リタイアが、一瞬頭に思い浮かびました。
だけど、私は既に覚悟は決めていたでしょう?
やりますわ!
三周でも、四周でも、私、あなたに付いていきます。
痙攣して倒れようとも。
アールグレイ少尉は、まるで、近所をジョギングするような様子で、軽快に折り返し、当然のように三周目に行こうとしている。
分かっていました。
分かっていましたとも。
でも、僅かばかり、終わるかもしれないと期待しちゃいました。
皆が少尉の後に続く。当然私も。
突然、エトワール少尉が、先導していたアールグレイ少尉の裾を、ガシッと掴んで言いました。
「ガハー、グハー、…終わり、止め、次、ハー、ハー。」
エトワールの少尉のお身体がくの字に曲がっています。
やっぱりレッドでも、これは苦しいですよね。
エトワール少尉…ありがとう。
私の中で、エトワール少尉の株が天井知らずで爆上がりです。まさに、あなたは、このチームの守護神。
スーパーストッパーエトワールとして拝みたいくらいです。
アールグレイ少尉は、キョトンとしたお顔をされて止まりました。
そして、私達の方を振り返りました。
その視線の先は、ルフナ曹長。
まさか…。
非常に嫌な感じがして、私もルフナ曹長を注目しました。
ルフナ曹長は、右手の親指を高々と掲げていました。
ああ…。
やらはりました…この男。
私の位置からは、曹長の顔の表情までは見えませんが、想像はつきます。
もう、、私の感情は、、この男に対し、、殺意と呆れと畏怖と諦観と尊敬などなどが入り混じり、何と言ってよいのか分かりません。
しかし、この男は…これからも、この態度を押し通すのでしょうね。
高々と掲げた右手が震えているのを見ながら、もう、勝手にして下さいと思いました。
皆んな、少し考え込んでいるアールグレイ少尉に注目しています。
永遠とも思えるような一瞬。
結局、少尉は、何か納得顔をして、ジョギングの軽運動の終了宣言をされました。
私は、数歩、歩いて、糸が切れたように崩れ落ちました。
周りの皆も同様です。
アールグレイ少尉以外のレッドのお二人も座り込んでいました。
でも、私、やった…私達やり遂げた。
レッド一次試験、全員合格です。
もう、私、一歩も歩けませんから。
安心した途端、身体中からジワリと汗が吹き出しました。
やったよ、私。
私は、クリアした喜びに身を震わせました。
この時、私はアールグレイ少尉が、軽い運動と言っていたのを失念していました。
そう、本当の試練はこれからだったのです。