ショコラでお茶を(前編)
あわわわ…。
アールグレイ少尉に、突然手を握られてしまいました。
そして、あなたなら出来ると激励されてしまいました。
私の名は、ショコラ・マリアージュ・エペ
今、私はハクバ山探索任務の途中、訓練名目のレッド昇格試験の整列中なのです。
私を上目遣いに見て微笑むアールグレイ少尉の御姿が、壊滅的に可愛い。
光り輝いています。
これは私の心を打ち抜く破壊光線なのか。
私の心臓を止めようというのか。
…尊い。
そんな言葉が私の意識に浮かび上がる。
これは、やはり運命なんですね。
死物狂いで、頑張って良かった。
これは、きっと私に対する神からのご褒美。
思わず小さい少尉を抱き締めたくなるのを我慢する。
さっきまで畏怖する恐い存在だったのが嘘のよう。
ちょっと私チョロインじゃないかしらと思わない訳じゃないけど、少尉の可愛い御姿と柔らかな手の温もりを今は堪能する。
本当に頑張って良かったよ…。
いったい何度脱落するかと思ったことか。
走ったり、模擬試合の間、心が挫けそうになる度、今まで這い登って来た意地と、ここが正念場である認識と、運命だという信仰とで耐えた。
なによりライバルの中で、一番初めに脱落したのでは格好悪い。それはなんとしても嫌だ。一生物のトラウマになってしまう。
多分、周りの皆んなも、そうだったんだろう。
軽めのウォーミングアップと称した走り込みは、私が汗を拭く余裕の無い程のスピードで、アールグレイ少尉が先頭で駆け抜けて行った。
半歩遅れてエトワール少尉が続く。
以後、二列縦隊で私達が続いて、殿がロッポ中尉だ。
スピードが尋常では無いことが分かる。
平場なら、ともかく山の中だ。あり得ない。
これはウォーミングアップでは決して無い。
これが試験の一環であると分かった。
このスピードに付いてこれず、脱落したら不合格なのだろう。最後尾にいるロッポ中尉が、多分、その脱落の是非の判定官だ。
アールグレイ少尉が、魔力で森の中に道を造る。
文字通り、森の中に道がメキョメキョと音を立てて造られていく。
流石に路面は土だけど、整地された幅約2メートルの立派な道だ。
あり得ない、信じられない、夢を見ているようだ。
確かに、魔法は出来ない事を出来るに変える事ができる力だ。しかし、物には限度がある。
伝説の始原の魔法使いでもない限り、このような使い方はしないと思う。
いや、私の認識が狭かったのかもしれない。
だって、その証拠の現象が、今、私の目の前に起こっている。
けど、エトワール少尉も眼を剥き出して驚いているように見える。
そ、そうですよね。普通驚きますよね。
エトワール少尉と認識の相違に付いてお話ししたくなるけど、初っ端からキツくて会話する暇も無い。
道は左手の方に折れ、渓流を渡った辺りから急勾配になった。
先頭のアールグレイ少尉は、スピードを落とさずに真っ直ぐ山を登って行く。
さっきまで聞こえていた鳥の鳴き声は、既に自分の息遣いの音で聞こえない。
待って、待って下さい、少尉。
置いていかないで。
縋るように先頭を見ると、少尉が、体重300kgありそうな猪を回し蹴りで、蹴り飛ばしていた。
高傾配の斜面を、悲しそうな悲鳴を上げて転がり落ちて行く大猪。
ナイスだ。猪さん。あなたの犠牲は無駄にしない。
お陰で、一瞬だけスピードが落ちて一息つく。
周りからゼーハーゼーハーと呼吸音がうるさい程聞こえた。
苦しいのは私だけでは無い。
これ程の急斜面にも、関わらずスピードが落ちない。
どうなっているのか。
流石、全員がブルーの中でも選ばれた若手の精鋭です。
誰も脱落者がいない。
でも絶望感が半端無い。
何故?誰もが、このスピードに付いて来れるのかが、実に不思議です。
だって山ですよ。
もう30分以上走ってますよね。
もう、私は駄目です。
でも脱落したら、このメンバーで最低位は私確定ですよ。
それは嫌。偶然なのか今回選ばれたメンバーには、私以外にもエペ家の者が2人も入っています。さすがエペ家に連なる者達です。私も誇らしい。でも、もし、ここで本家の私が脱落したら、きっと一族の笑い者必定でありましょう。
本家の面子が掛かっております。
それこそ、恥ずかしくて二度と実家に寄る事など出来ません。
あの2人が脱落しない限り、私は死んでも脱落できないのです。
恨めしい。こんな私が情け無い。
…
脚だけで走っては行けない事を学んだ。
走るとは全身運動なのかと経験で悟りました。
だから、もう良いでしょう。
…
こ、このままでは、私の中で、何かが限界を越えてしまう。
ヤバい、ヤバいよ。
既に視野が狭窄している。気絶の一歩手前です、これ。
この時、エトワール少尉の声を聞いた。
「ゼーハー、ゼーハー、少し…スピード緩めて。」
最初、聞き間違いだと思ったけど、確かに言いました。
周りのブルー達も、聞き耳を立てて聞いていると、分かった。
エトワール少尉、ありがとう。
感謝の念が湧き起こる。
あなたの事、根性曲がりの変人だと思って御免なさい。
残念美人だと呼んで、御免なさい。
ありがとう、ありがとう。
神だよ、神がいた。
そう、今この場にアールグレイ少尉を止める事ができるのは、あなたしかいなかったのです。
試験を受けているブルー達が言えるはずもなく、ロッポ中尉は位置的に難しい。
そう、あなたしか…。
私の中でエトワール少尉の株が、爆上がりです。
多分、皆んなも。
エトワール少尉の言葉に、アールグレイ少尉がチラッと心配そうに私達の方に振り向く。
その時、ちょうど、隣を走っていたルフナ曹長が、今まで死んだように俯いてよろめいていたにも関わらず、少尉が見た途端、急に平然とした顔になり、和かに少尉の方に軽く手を振ったのだ。
この男は、なんて余計な事してくれるのかと思った。
極限に苦しい状態なのに、少尉に心配させまいとする、この気配りは賞賛に値する。だがしかしだ。
少尉は、ホッと安心した顔をすると、また前を向いた。
途端に、死にそうな顔つきに戻るルフナ曹長。
私は、この男が嫌いになった。
馬鹿なんですか、あなた馬鹿なんですか?
自分で自分の首を絞めてどうするというのです。
それでも、優しいアールグレイ少尉は、私達の為にスピードを若干落としてくれた。
さすが、アールグレイ少尉です。
…
精も根も尽き果てると思った頃、前方が突然開けた。
頂上だった。
美しい、なんて美しい景色でしょう。
身体中の水分が汗となり、出し尽くしていた。
私の顔も、涙と鼻水と涎でダダ漏れもれで、人には到底見せられない。
だけれども、そんなことはもういいのです。
私達は達成したんだ。
感動に打ち震える。
そよ風が、身体に心地よい。
けれども、ゴールに着いたのに止まらないのは何故?
一番高い位置まで来ると、私達は走りながら下り始めた。
あれれ?
アールグレイ少尉の指示が聞こえた。
「さあ、登山は下りの方がキツイからね、出発出発。」
「下りは、足元気をつけてね。景色は次の周回でも見れるから。」
え?え?…私、少尉の言ってる事が、よく分からないのですが、どう言うことなのでしょう。
私達は訳が分からぬまま、少尉の後を付いて行く。
少尉がチラッと私達の方を向いた。
ま、まさか…。
私は、ハッとして隣を見る。
ルフナ曹長が、ニカッと笑って、親指を立てていた。
その様子は、まるで、「俺、全然平気だぜ、超余裕。」って印象を与えてしまうような。
…信じられない。なんて人でしょう。
この男の体力は無尽蔵なの?
だが、違う事は直ぐ分かった。
少尉が、パッと嬉しそうに安心したお顔で、前に向き直ると、途端に、ゼーハーゼーハーと苦しそうによろめいていた。
お父様、お母様、私には理解出来ない男が、今、隣にいます。
下りは、ずっと脚に負荷が掛かる事が分かった。
私達は、また一つ学習した。
私達は、下りきって、元の出発地点に戻ってきた。
やった。私達はやり遂げました。
終わりだ。
あまりの疲労に、嬉しさより安堵感が強い。
けれども、私には、一つ懸念事項があった。
少尉が頂上付近で、私達に言った、景色は次の周回でも見れると言った言葉だ。
列は、出発地点で折り返すと、当然の様に山を、また目指して走り続けた。
やっぱりーーー!
無言だ。皆んな、無言だ。
これからなんだ、試験はこれからなんだ。
まさか、誰かが脱落するまで終わらないのでは…?
まさか、このまま永遠に続くのでは….?
まさかまさかと、まさかの問いが私の頭の中を駆け巡る。
こうして、私達は、まさかの坂を登り続けた。
途中、300kg級の熊が二匹襲って来ましたが、アールグレイ少尉が、ピンポン玉を飛ばすように殴り飛ばしていました。
あまりにも、スムーズに排除したので、スピードは全く落ちません。
チッ…なんて使えない熊。
いったい、あなた達、何の為に出て来たの?
谷底に、アンギャーと悲鳴を上げて落ちて行く熊達を、横目に見る。
自分でも、なんだか思考が殺伐となっているのを感じます。
…
列は、いつの間にか一列縦隊へと伸びていました。
誰が、やり始めたのか分かりませんが、先頭の者が横に避けて歩いて休み、列の最後尾に着くのです。
こうすると、少しだけ休めるような気がするのです。
希望です。
次に休みがあると思うと、それが、希望になるのです。
人間には、苦境の中にいる時こそ希望が必要なのです。
私達は、また一つ学習しました。
こうして私達は、走り続けました。
脱落者は、まだ居ません。