第十五話
パン屋での小さな出来事です。
「ただいまぁ~…。」
「あら、ちーちゃんおかえんなさい…。」
「あ、そだ…ママ、これ。」
そう言うなり永田ちかは、ソファーに寝っころがって警察物のドラマの再放送を見ていた母に、「富田ベーカリー」の好きなパン交換券5枚を寄こすとそのまま台所へ。
「ちーちゃ~ん、これ、どしたの?」
横になったままの母は、大声でちかに尋ねた。
資源ゴミのゴミ箱から、前日に家族で食べた頂き物の高いプリンが入っていた小さ目の瓶を探していたちかは、見つけたそれを綺麗に洗いながらやはり大声で「もらったのぉ~!」と答えた。
アウトドア部の富田祐介から謝罪と共に強引に受けとらされた、名前も知らない小さな花の束を洗ったばかりの小瓶に活けると、そのまま蛇口の傍に飾った。
「そう?」
母の声に、「そう!」と幾らかイラだった形で返すと、ちかはスタスタと自分の部屋に行ってしまった。
「あらぁ…そ~…」
あら、あたし、こんなに券もらうほどちーちゃんにお弁当作ってなかったかしらねぇ…そんなこと…ないわよねぇ…最近、ちょっと忙しかったから…母さんのとこ行かなきゃならなかったでしょ…病院連れてったり買い物連れてったり、しょうがないのよぉ…一緒に暮らそうって言っても、嫌だって言うから…姉さんとこは遠いし、子供達はまだ小さいし、仕事があるからってあてにならないし…一平の方のPTAもバザーあるからって忙しかったから…ちーちゃんにお弁当作れないの多かったけど…でも、こんなに券もらうほどパン買ってって言ってたかしらねぇ…この券…スタンプ20個押してもらってやっと1枚もらえるんじゃなかったかしら?…5枚だから…あ、その前にこれって学校でパン買ってもらったのかしら?学校でもスタンプ押してもらえるのかしらねぇ…あ、じゃあ…ちーちゃん、今度お弁当作ってあげられない日、これでパン…そうよねぇ…その方が…
コンコン。
「は~い。」
「ちーちゃん…この券だけど…これ、今度学校でパン買う時使えば?」
「え~…。」
ふわふわもこもこのパステルイエローの部屋着に着替えたちかは、あからさまに嫌な顔をした。
「駄目なの?」
「ん~…駄目じゃないだろうけど…ママ、使って…。」
「そう?でも、これ、ちーちゃん、学校のパン買ってスタンプ貯めてもらったんでしょ?」
「そんな訳ないじゃ~ん!」
母の素朴な疑問でちかの気持ちはぐ~んと上がった。
「え?そうなの?じゃ、これ…どしたの?」
「ああ、それ…知り合いにもらったの…。」
そう言いながらちかは富田祐介の顔を思い出し、また少しだけ苦い気持ちになった。
「そう…あ、これね…好きなパンって書いてあるけど…食パン1斤でも1こってことになるのかしら?わかる?」
「え~…ははははは…食パン1斤って…まぁ、1個は1個だけど…ははははは…えっ、じゃあ、ママ、5枚とも食パンにするつもりなの?」
「え、あ、そうそう…それかね…袋に6個入ってるミニクロワッサンなんかもあるでしょ?後、バターロール…あれも1枚で1袋と交換してもらえるのかしらねぇ…。」
「さぁ…わかんない…ママ、行って聞いてみて…ふふふ…ははは。」
「そうね、じゃあ、明日にでもちょっくら行ってみるわ!ありがとうね、ちーちゃん。」
部屋を出て行こうとした母にちかは慌てて、今日の燻製会で作ったスモークサーモンを始めとした「燻製」を母に渡した。
「あらぁ、今日はお土産がいっぱいねぇ、嬉しいわぁ。」
母は上機嫌で戻って行った。
ちかは脳内で不意に再生された富田祐介の怒鳴り声に、全身が硬くなった。
次の日のお昼前、ちかの母サワコは自転車に跨ると颯爽と出かけた。
到着した「富田ベーカリー」に入るなり、先に「好きなパン交換券」のことをレジの若い女性店員に尋ねた。
カランコロン。
店のドアに吊るしてあるチロリアン柄のカウベルの音と共に、若い母親と2歳ぐらいの可愛い女の子が入って来た。
「いらっしゃいませぇ~!」
店の店員全員の爽やかな声が響いた。
若い母親は優しい笑顔で小さな娘の指示通り、木のお盆の上にトングでパンを乗せていった。
ちかの母がまだ説明を聞いているレジではない、もう一つのレジで若い母親は会計してもらった。
どうやら見習いらしい肩幅が広い石山が、会計終わりに自分が作ったけれどまだ売り物にはならない小さなクリームパンを「おまけ」として袋に入れてくれたのをじ~っと見ていた小さな女の子は、とことこと石山の傍に来ると彼がつけているエプロンをぎゅっと握った。
「あら?どしたの?ゆう?もう買ったから帰るよぉ…ほら、お兄ちゃん困っちゃってるから、手手放そうね…ねっ。」
若い母親が若干強引に、エプロンを掴んでいる手を放そうとすると、小さなゆうは急にわーっと泣き出してしまった。
その声に、ちかの母を始めとする店内の全員の視線が、一斉に集った。
「あらあら…ごめんね…あら…どしたの?ゆう?お手手痛かった?ごめんね、でもね、ゆう、お手手放してくれないとお兄ちゃん困っちゃうでしょ?ママも困っちゃうなぁ…お願い、ゆうちゃん、お手手放そうね!ねっ!」
若い母親は慌ててしまった。
「大丈夫?ゆうちゃん…あのね、お手手放してもらえるかい?ごめんね。」
エプロンを握られていた見習いの石山がひゅっとしゃがんで話しかけ、頭を優しく撫でると小さなゆうは泣き止んだ。
そうかと思うとすぐさま両手を広げて、見習いの石山に抱っこをせがんできた。
「抱っこかい?いいよぉ…おまけ、違うのがよかったかな?もう一つ欲しかったのかな?」
石山が優しく話しかけると、抱っこされたままの小さなゆうは両手で石山の顔をがっちり掴むとおもむろにチュッチュとキスをした。
「あっ!ゆ、ゆう!駄目じゃない!ご、ごめんなさい!これっ!」
ゆうの母はゆうの行動に驚いて、若干のパニックに陥っていた。
「あらぁ…ゆうちゃんは、お兄ちゃんのことが好きなのねぇ…ふふふふ。」
一部始終見ていたちかの母の発言に、そこにいる一同はこっくんと頷くとニヤニヤしていた。
小さなゆうにキスされた見習いの石山は、引き続き優しい笑顔で静かにゆうを下に降ろすと、「あのさ、ゆうちゃん…またおいでよ…ねっ!僕、待ってるからさ…ママのところ行っておいで。」とゆうの目を見てゆっくり話してくれた。
すると、ゆうは小さいながらも納得したらしく、パタパタと母親の元に駆け寄っていった。
「バイバイ!」
「バイバイ!ゆうちゃん…ホントにまた来てね!」
最後に再び頭を優しく撫でられたゆうは、石山の顔を見て「きゃー!」と叫ぶとニコニコ笑った。
母と手を繋ぐゆうのお尻は、まだ紙おむつのカサカサという音が微かにしているのだった。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。
お話はまだ続きますので、どうぞ宜しくお願い致します。




