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水車

文机

作者: 笹山 直

 折りたたまれた硬い木の椅子を倒して、腰を落ち着けた。今朝は霧雨が降っていて、いつも以上に髪が散々に縮れているので、僕は少し恥ずかしくなって前髪を額に押し付けた。教室には僕の他にはまだ数人程しか来ていない。朝の一寸ひんやりとした天気に、空気まで身を縮めたように静まり返っている。僕も空気の真似をして肩を縮めて息を止めてみる。そうしてしばらく静寂を楽しんでいると、右斜め前方に座る男子学生の、高そうなヘッドフォンから微かに音楽が漏れ聴こえてきて、興ざめしてしまった。

 トートバックからペーパーバックの小説を引き抜いて、栞をたどる。俄かに、頭の中へと文章の清流が注がれる。手書きを離れ、活字になってもなお衰えないその涼やかで清々しい美しさに僕は落ち着きを取り戻す。小説の中では、主人公が恋に破れ、想い人に宛てた遺書を書いている。『希望という希望はくずれ、計画という計画は敗れた』。僕がこの小説で一番気に入った文章だ。これほどに寂寥感を胸に抱かせる言葉はなかなか出会えない。



 ところで、文章をただ美しいといっても、共感してくれる人はあんまりいないんだ。もちろんそれは、僕の周りだけのことかもしれないけど、わざわざ「この作家のこの言葉の美しさったらないね!」なんてことを言う人は、やっぱりあんまりいないんじゃないかと思うんだ。

 だから僕は、あえて違う物で例えてみる。そうすればもっと自然に、例えば「あそこの喫茶店のご飯おいしかったよ」とでも言うような気軽さで僕たちは言葉の美しさを語れるようになれるかなと思うんだ。だからこう言ってみよう。「この作家の文章はね、白米のような平仮名と、ステーキのような漢字と、それから付け合せの野菜のソテーのようなカタカナの絶妙なハーモニーで――」

 意味がわからないね。



 そんな下らないことを考えていると、いつの間にか教室にも学生が多くなり始めた。さっきのヘッドフォンの学生は、友達が来ないかと出入りする学生たちをきょろきょろ見回している。僕も真似をしてきょろきょろしてみるが、僕はこの講義を一人で受けているので、誰を待っているわけでもない。

 学生の出入りが穏やかになった頃に、先生がやってくる。経済学は苦手だけど、経済について考えるのは好き。下手の横好きというやつで、でも僕はそれでも構わないのだ。僕が楽しければそれでいい。

 隣に座った女子学生がしきりに鼻や目をこすっているのが、視界の端にちらついて、僕は横目で彼女を見る。茶髪。巻き髪。眉は太め。厚化粧ではないが口紅だけやたら赤い。淡い緑色のカーディガン。長く白いスカート。ふくらはぎは案外筋肉質で太い。つまり、普通。すなわち普通。文学ほどの美しさは到底垣間見えない。

 僕は頬杖をついて、口から細く息を吐いた。

 新しい話を書きたい。アイデアはいくつかあるが、どれが使えるかは分からない。ただなにか、こう、ガツンと来るものを書きたい。そう例えばさっきの小説のように、誰かの生き方を変えるものを書きたい。

 あるいは、人を殺す小説を書きたい。死のうとする人を生かす小説はまだ書けないだろう。生きようと生きている人を殺す小説もきっとまだ書けない。だから、生きようとせず生きている人を殺す程度の小説はせめて書きたいんだ。


 いつか死んでいる人を生き返す小説が書ければいいのに。


 集中して先生の話を聞いているか、考え込んでいたりすれば、講義の時間はいつの間にか終わりに近づいているものだ。そう思って腕時計を見ると、やはりその通りで、僕は早くもペンをペンケースに仕舞い込んだ。

 講義が終わったら研究室に行こう。そして書こう。まだアイデアはまとまっていないし、プロットも書いちゃいない。それでも今は書きたい気分だ。



 先生の話がまとめに入りだしたことを感じた学生たちは、早々とバッグにノートを詰めだした。うつむきがちな学生たちの頭を、一人背筋を伸ばした僕はじっとりと眺めまわした。ただ僕一人が、魂を持って動いているような心持がする。僕以外の人はみんな魂を持たない、ただ感覚を受用する死体、哲学的ゾンビだと僕は今でも疑ってかかっているんだ。

 きっと僕の書く小説は、ただ僕だけのためのものだ。

 僕はなんとなくそんな気がして、そしてなんとなく寂しくなった。

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