翳る太陽と優しい月
俯いて、その瞳に悲しい色を湛えた女の子の横顔。
吸い込まれそうな黒い瞳のかげりに胸が締め付けられる。
「優希」
と、ぼくは呼びかけた。
目の前にいる女の子は、ぼくらと同じ学校の制服を着ていたからだ。
しかし、彼女からは、何の反応も返ってはこなかった。
あたりはシンと静まり返っていて、いくら放心していたとしても、聞こえないとは思えない。
どうして優希が、これほどまでに暗い表情を浮かべているのか……。
「優希」
と、もう一度呼びかける。
「――神楽」
弱々しく、消え入りそうな声で彼女が呟いた。
普段の彼女からは、想像もできないような声だ。
優希が視線を上げる。
つられるように視線を上げて、ぼくはその場に凍りついた。
優希の見つめる、その先……。
ぼくが……、そこにいた。
純白の布団に包まれ、横たわっているぼくの体。
息をするのも忘れて、もう一人の自分の姿を、食い入るように見つめた。
リュシスだろうか?
同調者が鏡写しというのなら……。と、考えてから、ぼくは左右に頭を振る。
ファナは行方不明と言っていたけど、こんなところにいる筈が無い。
その体の元へと近づこうとした時、部屋のドアが開けられた。
月宮小羽。優希といつも一緒にいる女の子だった。
肩まで伸びた艶のある黒髪、透き通るような乳白色の肌。
物静かで、優希とは対象的な女の子だけど、しっかり芯の通っている子で、優希をたしなめているような場面を見たこともある。
優希が太陽というなら、小羽は月のような存在だった。
優希の影にいて、普段はあまり目立つことはないけど、ぼくの友達の中にも小羽のことが好きだという男がいる。
「優希」
小羽の呼びかけに、優希が振り返る。
「――小羽」
力のない優希の言葉を聞いて、小羽もまた顔を曇らせた。
「そろそろ面会時間が終わるよ。家の人も心配してる」
優しい声だった。ぼくはこの場所に小羽がいてくれることに感謝した。
小羽ならきっと、優希に笑顔を取り戻してくれるだろうから。
「もう少し……」
「――わかった。外で待ってるから」
小羽はそう告げると、部屋を後にした。彼女がいなくなり、再び部屋に沈黙が戻る。
周囲を見渡すと、パイプ作りのベッド、折りたたみの椅子、小さなキャビネットが目に入る。
飾り気のない部屋だった。
『面会時間』
――小羽の言葉が頭に蘇る。
ここは病院なんだ。そして運ばれたのは、ぼく自身。
だとすれば、あの屋上での出来事の後ということだろうか?
最後の記憶は優希そっくりな女の子、ファナと一緒にいたこと。
そしてファナは、ぼくのために仮面の男に捕らわれたのだ。
そのことを思い出すと、再び悔しさがこみ上げてくる。
あれは、夢だったのだろうか?
「わたしのせいで、こんな……」
優希の言葉に、ぼくの思考は遮られた。
「違う、きみのせいじゃない」
ぼくは首を振った。でも、その声は彼女には届かない。
優希は、ゆっくりと立ち上がると、鞄を手に取った。
「神楽、ごめんね」
最後に一言残して、入り口の方へ歩いてくる。目の前にいる筈のぼくに気づいた様子はない。
さっき、小羽と話しているときもそうだったし、小羽もまた、ぼくの存在に気づかなかったのだ。
優希の体が近付き、肩がぶつかりそうになった。
でも、ぼくは避けなかった。ぶつからない。そんな予感がしたからだった。
彼女の肩とぼくの肩が重なり合った瞬間、背筋がぞくりとする。
しかし、優希の方は何事も無かったかのように、ぼくの肩をすり抜けて部屋を後にした。
自分の体に視線を落とす。
幽体離脱、精神体。そんな言葉が脳裏に浮かんだ。
そんな……、嘘だ……。
自分の体に戻れないかもしれない、という恐怖が襲う。
横たわる自分の体に近づき、震える手で自分の手を取ろうとした手が空を切る。
頭の上に手をかざしてみても、おでこを近づけてみても、何も感じるものはなかった。
その場に呆然と立ち尽くす。
どうすればいいのか、分からなかった。
どのくらいの間そうしていたのか、ふと顔を上げて窓の外を見る。
病院の出入口から優希と小羽が出ていく姿が目に映った。
このままここにいても、どうにもなりそうもない。
ぼくは、二人の後を追うことにした。
優希と小羽は、門を出たところにあるバス停の近くで立ち止まったまま、話をしていた。
「大丈夫だよ」
と、小羽が胸の前で握り拳を作ってみせる。
「――うん」
「馬鹿は死ななきゃ直らないって言うし」
いや、なぜそうなる?
思わず突っ込みを入れたくなったが、ぼくの代わりに優希が、きっと顔を上げ、
「死んだら、困るの!」
と、反論した。
してやったり、とばかりに小羽が笑顔を作る。
「やっと、顔、見せてくれたね。大丈夫よ、彼は」
優希の目を見つめ、子供を諭す母のように優しい声で囁く。
小羽の想いに気づいて、優希が泣き笑いを浮かべた。その切ない笑顔に胸が締めつけられる。
「――ありがとう」
そう言うと、優希はバス停に止まっていた白い乗用車に向かって歩き出した。
その足取りは、病室を出たときよりも、幾分確かなように感じられた。
助手席から降りてきた女性が、彼女を迎える。
恐らくは、彼女の母親なのだろう。落ち着いた容姿をしていたけど、並ぶとよく似ている気がした。
「なんとかしてあげなきゃ」
小羽が、二人を見つめたまま呟く。
優希と話をしていた女性が、小羽へと視線を向けた。
「小羽ちゃん、優希のことありがとう。家まで送るわ」
小羽は少し考える様子を見せたが、
「はい」
と、笑顔でそれに応じた。
「ありがとう、小羽」
彼女に聞こえていないと分かっていても、そう言わずにはいられなかった。
車が出るのを見送った後、あてもなく病室へと戻る。
今日はなんて長い一日なのだろう。
押し寄せてくる疲労に負け、そのままゆっくりと目を閉じた。