生きる理由
石造りの大広間、それを支えるようにして、左右に四本ずつ円柱型の柱が立っていた。
壁に空けられた窓から月の光が差し込み、柱の影を作っている。
静寂した空間。
奥には天井まである大きな扉があり、それを護るようにして、虚ろな瞳の男が佇んでいた。
彼の周りには、まるで子供がおもちゃを散らかした後のように、千切れた手足や体が無造作に散らばっていた。
失われた命の数は、軽く十を超えている。その凄惨な光景に、雅樹は息を飲んだ。
生きた人間を人形のようにもてあそぶ悪魔……。
雅樹は身震いする。
足が竦んで、そこから先へと踏み出すことができなかった。
返り血で服を朱に染め、血の海に立つその男は、確かに神楽と同じ姿をしている。
「神楽」
と、優希が泣きそうな声で呟いた。
「リュシスかもしれない」
神楽がこんなことをする筈が無い。雅樹はそう信じたかった。
男から目を逸らさないまま、優希が首を振る。
「――ううん、あれはきっと神楽」
優希が胸から下げた、石を握り締める。
「止めなきゃ……、わたしが止める」
「無茶だ」
「それが神官としての勤め。あの幼い巫女の命を、未来を奪ってしまった罪の報い」
その言葉に、雅樹は胸騒ぎを覚えた。
「待ってくれ」
今、止めなければ、彼女がどこかに消えてしまいそうな気がして、雅樹は声を絞り出す。
「どうして? こんな関係ない世界のためにそこまでする?」
優希が首を左右に振り、
「無関係なんかじゃ、ないよ」
それは神楽も言っていた。
「それに、わたしがここにいるのは、彼を救うためだもの」
「優希……」
雅樹は拳を握り締めた。
雅樹には、神楽を見る優希の目が他と違うことなど、分かっていた。
だからこそ、神楽に自分の気持ちを隠し続けてきたのだから。
「中学の時、わたしの弟が亡くなったことを、あなたは知ってる?」
雅樹は頷く。
「ああ」
その時の彼女の姿を思い出し、雅樹の胸が痛む。
「あの子に……、最後まで笑っていてあげたかった。あの子の幸せを一番に考えるなら、そうするべきだった。でも、あの時のわたしはとても弱かった。わたしの弱さが、あの子を傷つけた。あの子は、最後までわたしと遊びたがっていたのに、わたしは、あの子を見ていられなかったの……」
優希の声が涙に潤む。
「辛くて、悲しくて、毎日が空虚だった。死にたいとさえ思った。たくさん、死について書いてあった本を読んだ。誰にでも、どんな者にでも、死に行く者にでも、等しく優しさを与えられる天使になりたいと思うようになった。そんな願いを、みんな笑った。――人は天使になんてなれないって、そんなこと、わたしも分かってた」
優希が、血の海に佇む彼を見つめる。
「そんなとき、屋上で彼に出会ったの。暗い目で地面を見下ろして、何か呟く彼を見た。自分だって死にたがっていたのに、目の前で人が死ぬことを想像したら、急に怖くなった。わたしは、必死になって止めようとした。本で読んだこととか、思いつくままの言葉をぶつけた。そうしたら……、逆に聞かれたの。君は何のために生きているのかって」
雅樹は、神楽から同じような話を聞いたことがあった。
あの、修学旅行の夜のことだった。
「わたしは、天使の事を話した。笑われてもいいって思った。笑えば……、彼の気が少しでも晴れるんじゃないかと思った。でも、神楽はわたしの話を笑わないで聞いていた。彼の瞳を見たとき、わたしは、わたしを必要としてくれてる気がしたの。だから、わたしは彼のために生きようと思った」
優希が、優しく微笑む。
「あの日から、彼がわたしの生きる理由になった」
「あの時、優希に明るさを取り戻したのは、神楽だったってことか? ずっと小羽の力だと思ってた」
「もちろん、小羽の力もあったよ」
優希が、チロリと舌を出す。
「彼を救うことができたら、わたしも新しく踏み出すことができる。今の自分を信じることができる」
「優希……」
「――ヴァン」
優希の言葉に応じて、制服姿のままの彼女には不釣り合いな剣が生まれた。
雅樹は、この状況にあって、何もできない自分を呪った。
あの時、病院の階段で優希の体を抱きしめていたことで、一緒に召喚されてしまったに過ぎないのだ。
一歩一歩、彼の方へと歩みを進める優希。
男がゆらりと顔を上げる。虚ろな瞳が優希を捉えた。
「神楽っ!!」
優希の叫びと同時に、男が優希との間合いを詰める。
男の放つ横薙ぎを、優希が受け止めた。
二人の剣がぶつかり合う音が響く。
距離があるからこそ、雅樹の目でもぎりぎり捉えられた。
とはいえ、それは映像として認識できるという意味で、相手の動きを見てから反応できるようなものではなかった。
これが神官の力なのか、と雅樹は絶句した。
優希は、休むことなく続けられる男の斬撃を全て弾き返していく。
そして男の攻撃の合間を縫うようにして、優希は神楽の名前を呼び続けた。
優希は攻撃を受け流すだけで、自分から攻撃を仕掛けようとはしない。
徐々に追い詰められ、柱の一つを背にした時、ただ一度、優希が剣をふるう。
風のような優希の一閃を、男は後ろに飛び退いてかわす。
石造りの寒々とした空間に、神楽の名前を呼ぶ優希のせつない声と、剣が重なる乾いた音、地面を蹴る足音だけが響いている。
優しく、美しく、語りかけるように優希が舞い踊る。
その姿を雅樹は片時も目を放さずに見守る。胸を掻きむしられるような思いだった。
永遠に続くのかと思われるような攻防が、雅樹の胸を締め上げる。
男の剣劇は容赦なく続いている。
無感情で狂ったように。
このままでは、優希の心が壊れてしまうのではないかと、雅樹は不安になった。
それほどまでに、優希の表情は悲しげで、とても戦う姿には見えなない。
二人の距離が広がる。
「神楽ぁぁ!」
優希が、ひときわ大きく、声を上げた。
一気に間合いが詰まる。
優希が剣を男に投げ捨て、彼の剣を交わす。
懐に潜り込んだ優希は、そのまま男の体を抱き締めた。
「もうやめて!」
そのまま、どちらも動こうとはしない。
優希の手が、彼の頬をそっと撫でる。
「目を覚まして、神楽……」
語りかける優希の胸を、彼の剣が貫いていた。