迷い
優希を待つ間、ぼくはリュシスと共に治癒院まで戻ってきていた。
巫女を犠牲にするシステムを終わりにするには、神官の力が必要になる。
神官としての力を得るためには、巫女の犠牲が必要になる。
優希には、あんな辛い思いをして欲しくない。
ぼくは、どうすればいいのだろう? どうするべきなのだろう?
考えても、考えても、頭の中はぐるぐると回るだけで、答えを見つけられない。
扉がノックされる。
人に会いたい気分ではなかったけど、
「どうぞ」
と、答えた。
部屋に入って来たのは、闇のスペルの習得者について調べていた、若い兵士だった。
「リュシス殿は?」
「少し前に、出て行ったみたいです」
「そうですか」
「何かあったんですか?」
「今回の事件とは関係ないかもしれないのですが、報告しておこうかと思うことがありまして」
兵士の後に続いて、一人の男が入ってきた。四十代から五十代くらいの中年の男性だった。
やや小太りで髭を生やした男は、ぼくの顔を見るなり大きく目を見張る。
「こっ、この男だ!」
と、いきなり指をさされて面食らう。
「この男が、わしにスペルを教えるように要求してきた」
スペルって、……まさか?
彼が調べていたのは、闇のスペル習得者。
それはつまり、リュシスがスペルを違法習得しているということだろうか?
「ばかな」
と、兵士もうろたえる。
「本当に、彼が貴方に闇のスペルを教えるように言ったんですか?」
「ああ、そうだ。間違いない」
――もし、闇の力を使い、ファナを捕らえたのがリュシスだったとしたら……。
事件が起きたときから、リュシスとルルドが通じ合っていたとしたら……。
ルルドの『裏切り者』という言葉が、あの場でのやりとりに対して発せられたものでないとしたら……。
ぼくは脳裏に浮かんだ想像を否定しようとした。
そんなこと考えてはいけない。しかし、そう考えずにはいられなかった。
全身が粟立つ。
「ぐっ」
と、くぐもった声がして、中年の男がその場に倒れこんだ。
今までの彼とは違う、氷のような瞳のリュシスが、そこに立っていた。
「リュシス殿!」
「シェイド!」
力ある言葉とともに、黒い鞭が兵士を襲う。
闇のスペル。ファナを捕えた、あのスペルだった。
まるで生きているかのように襲いかかる闇を、兵士が切り裂く。
しかし、闇は消滅することなく幾つにも枝分かれして、兵士の体を絡め取る。
「リュシス殿! あなたは? あなたが!」
リュシスは動きを封じられた兵士に近づくと、頭を鷲づかみにした。
「シュラフ!」
言葉と共に兵士が、がくりと首を落とす。
兵士を縛っていた黒い闇が消えると、彼はその場に崩れ落ちた。
背筋が震えて、頭が痺れる。
「ヴァッサ」
身に迫る危険を感じて、ぼくは胸の石に力を伝えて、具現化させた。
リュシスもまた、剣を構成する。
「リュシス、本当にきみだったのか? 土の神官を殺したのも、ファナをさらったのも」
その問いには答えず、リュシスは男に視線を落とした。
「まったく、余計な事をしてくれたな。一生遊んで暮らせるだけの金は与えてやったのに……。今更、正義感にでも目覚めたか」
と、吐き捨てるように言った。
冷たい瞳が、ぼくを正面から見据える。
「神官の統治する国などいらない。神など必要ない。カグラ、ぼくはただ、この世界の歪みを正したいだけだ」
「――ぼくは、きみの思い通りにはならない」
ただ、許せなかった。今までずっと、騙されていたことが……。
あの時、彼がぼくを殺さなかったのは、ぼくと命を共有していたから……。
それなら、リュシスは優希を殺した後で、ぼくを殺す気でいるのかも知れない。
最後の一人になって命の繋がりから開放されれば、世界は自分の思いのままに変えられる。
彼と優希とを合わせてはいけない。ぼくは、剣をリュシスに向けた。
「本当にそれでいいのか? きっと、きみは後悔することになるぞ」
優希に辛い思いはさせたくない。
今、ここで彼を倒せば、優希が力を得る必要はなくなる筈だった。
でも、それは自分自身の死を意味する。そして、巫女は救われない。
突きだした剣の先が震える。
いつ死んだって構わない。そう思ってた筈なのに……。
ティアは、命が消えると分かっていても、あんなに強かったのに……。
思いを振り切るように、ぼくは斜めに剣を振り下ろした。
乾いた音と共に、剣は横へ弾かれる。
弾かれたのとは逆の方向に影が見えて、体を仰け反らせた。
空気を切り裂くような蹴りが、目の前を通り過ぎる。
一歩後ろに足を引いて、体勢を持ち直したときには、リュシスの姿を見失っていた。
足下から伸びた闇が全身に絡みつき、背後から肩の上に剣の切っ先が置かれる。
――力の違いに愕然とした。
「『迷うな、目的をしっかりと見据えろ』と言ったことを覚えているか? カグラ。そんな、迷いだらけの心で、僕を止められると思うか? 僕は迷わない。たとえ全てを失うことになったとしても……」
迷いは判断力を鈍らせる。神官同士の戦いで、それは致命的となる。
そういうことか……。
「イルズィオン!」
リュシスの言葉と共に、視界が歪むのを感じた。
「カグラ、きみには門番となって貰うよ」
目の前を闇が覆い尽くし、頭が痺れる。
「殺せ! ヘブンズゲートに近づく者全てを……。たとえそれが、誰であろうとも……」
薄れていく意識の中、リュシスの震える声を耳にした。