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存在の理由  作者: りす
第四章 優しい嘘
12/25

水の巫女

 中央都市に着いたのは、お昼を過ぎてのことだった。

 手近にあった飲食店で、リュシスが勧めるメニューを注文する。

 運ばれてきたのは、パンとビーフシチューのようなものだった。

「疲れたかい?」

 リュシスの問いかけに、ぼくは頷いた。


 ウォルタからの転送ゲートは、中央都市への直通というわけではなかった。

 万が一にでも各国が落とされた場合に、中央都市への直接侵入を許してしまうからではないかとリュシスは語った。

 転送された先には小さな町があり、そこから馬に乗って二時間掛けてようやくここまで辿り着いた。

 もっとも、その原因はぼくが初めて馬に乗ったことにある。

 慣れた人間であれば、きっと三十分足らずで移動できたのだろう。


「ほんとに、ぼくがここに着てよかったのかな?」

「どういう意味だい?」

「ファナのこともそうだけど、今も、きみに迷惑を掛けてる。馬のこともそうだけど、戦いなんて、もっと慣れていない。足手まといにしかならないんじゃないかと思って」

 ここでは、ぼくは無力だ。何もできない子供だ。いや、ぼくの世界でだってそうだ。

 ぼくらは親や先生に守られ、自分から大きな行動を起こすことさえなかった。

 俯き、目を合わせることができない。

「神官の力、それは、単に魔力の解放を意味するわけではない。身体能力と闘争本能こそが、その本質だと言われている。きみに必要になるのは心の強さだ。大丈夫、もっと自分に自信を持って」

 リュシスが、ぼくの腕を横からバンと叩く。

「――ありがとう」

「天蒼の塔まで送って行く、それからぼくは、神官長の元へ向かうよ」

 その言葉に、はっと顔を上げた。

「神官長って、神官って八人以外にいるってこと?」

 土の神官は殺され、火の神官は行方不明、風の神官であるファナは捕らえられた。

 そして、水の神官であるリュシスは目の前にいる。

 異界から来た人間が神官長の訳がないとすると、他に該当する人がいない。

「神官としての能力を持つのは僕らしかいない。けど、ここには元神官たちが集まっている。実際のところ、政治的な判断を下しているのは彼らで、ぼくらは実働部隊ということになる」

 権力者が後を継いでも、その背後に残る。

 歴史的にも、よくある構図だった。

「年老いて、殺し合いに向かわされるのは嫌らしくてね。次の候補者が年相応になってきたら、さっさと力を押し付けて逃げていく。そんな腑抜けた連中の集まりさ。

 ――おっと、これは内緒だからね」

 リュシスが唇に人差し指を当てて笑った。

「さあ、冷めないうちに食べて出発しよう」


 食事が終わるとぼくらは、町の東に位置する天蒼の塔まで来た。

 長く続く石段があり、その上にはウォルタにあったのと同じくらいの塔が建てられていた。

「カグラ、力を手に入れたいなら迷うな。目的をしっかり見据えて、自分を見失うな。僕に言えることは、それだけだ。

 ――夜にまた会おう」

 リュシスは踵を返すと、後ろ向きのまま手を振った。

「ありがとう」

 その背中に向かって声をかけると、視線を塔に戻す。

 一段ずつ石段を踏み締めながら登っていく。

 中ほどまで来たところで、視線を感じて、石段の先を見上げた。

 ここからでは顔は見えないが、小柄で線が細い人影が見えた。

 長く伸びた髪が風に揺られている様子からすると、きっと女の子に違いないと思った。

 登りきって、息を整えると、少女の姿を見る。

 真っ直ぐで、まだあどけない瞳で、ぼくを見つめる少女。

 純白のローブに身を包み、膝くらいまである長い髪を、風にゆだねた彼女の姿は、とても神秘的だった。

 髪の長さこそ違うが、その顔、身の丈などは小羽とまったく変わらない。

 小羽の同調者。

 司が小羽の事を、女神のようだと言っていたことを思い出した。

 目の前にいる小羽と同じ姿の少女は、まさにそんな言葉がぴったりと当てはまるかのようだった。

「あなたが異界から来た、水の神官ですね」

 小羽と同じ音色をした声が耳に届く。

 ぼくは頷いた。

「天野神楽です」

「私はティア・ベルガモット、水の封印を守護するもの」

「ぼくは力を得る為に、ここに来ました」

 ティアの瞳が、ふいにかげる。

「分かっています。でも、もう少しだけ待って頂けますか?」

「どうして?」

「ごめんなさい。……もう少しだけ時間をください」

 準備が、できていないということだろうか?

 一刻でも早く力が欲しかった。来ることは、分かっている筈なのに……。

 そう思ったけど、申し訳なそうに振舞うティアの姿を見ると、それ以上の事は言えなかった。


 芝生の上に寝転がり、空を眺めていた。

 一時間くらいそうしていただろうか?

 足音が近づいてくるのに気づいて体を起こすと、ティアが立っていた。

「あの、もしよかったら……」

 おずおずと問いかけてくる。

「うん?」

「一緒に……、紅茶でもいかがですか?」

 準備ができたのは、お茶の準備か……。と、ぼくは小さく溜息をつく。

 ティアが暗い顔をして、

「落ち着きますよ」

 と、声を潤ませた。

 準備ができていないのを、ティアのせいにしてもしかたがない……。

 それに、彼女の悲しむ姿は見たくないと思った。

「いただくよ」

 と、立ち上がり、お尻についていた草を払う。

 ティアの後に続いて歩く。彼女の歩調に合わせて長い髪が揺れている。

「髪、長いね」

「うん、もう十年くらいは延ばしてるかな」

 ティアが髪を手ですいた。

「願掛けとか?」

「ガンカケって?」

「そうだね、例えば、その髪が床まで届いたら、願いが叶うとか?」

 前を行くティアが足を止めて振り返る。

「ホント? ホントに叶うの?」

 息がかかるくらいの距離までティアが詰め寄る。その勢いに気おされて思わず仰け反った。

「すごい、素敵……。そうすることにする」

 例えばの話なんだけど……。

 と、喉まで出掛けた言葉を飲み込んだ。

 出会ってから初めて、彼女が笑った姿を見た気がしたからだ。その笑顔は無垢で純粋で、年齢以上に幼く見える。


 塔の中に入って案内された部屋には、六人掛けのテーブルがあった。

 テーブルの縁や、椅子の背もたれには木彫りの装飾が浮き上がっていて、高級感が漂っている。

 こんなテーブルが家にあっても、きっと周りから浮いてしまうだろう。

 ティアが調理台からケトルを持ち上げると、その下に魔法陣が描かれているのが見えた。

 IH調理器ならぬ、魔法調理器ということだろうか?

 銀色のティーポットと白いティーカップにお湯を注ぐ。

「リクエストはある?」

 紅茶のことなんて、元々全然知らないし、この世界独自の名称が付いている可能性もあるなら、ティアに任せるのが一番だろう。

「ティアのお勧めので」

「それじゃあ、お勧めのハーブティーをブレンドしてあげる」

 ティアは壁の家具の小さな引き出しから、幾つかの茶葉を取り出した。

 ティーポットのお湯を捨て、それぞれの茶葉をスプーンで少しずつティーポットに入れていく。

 なんとも手馴れた様子だった。

「たくさん、種類があるんだね」

「百種類以上の茶葉が揃っているんですよ!」

 よくぞ聞いてくれたとばかりに、彼女が目を輝かせた。

「ここで、本ばかり読んでたある日、紅茶の事を知ったんです。頼んでみたら、国中から茶葉を集めてくれました。でも、三年も過ぎた頃には味わい尽くしてしまって、ブレンドしてみることを思いついたんです。そしたら、とーっても美味しいのができたり、一口で飲めなくなるくらい変なのができたり、楽しくなって毎日、日記に付けました」

「ティアはずっとここに?」

「私は、戦争孤児だったんです。そういう人の中にこそ、神と心通わせられる才能が芽生えるのだと言われて……。だから、私はこの場所以外のことは、本で読んだことしか知らないんです。異界は勿論、この町の外のことさえ何も」

 ティアが、ティーポットにお湯を注ぎ、カップのお湯を捨てて机に並べる。

 彼女はずっと、一人きりでこの場所に居た。

 それはどれほどの悲しみだっただろう?

 その悲しみをぼくは想像することもできなかった。

 今更、ぼくが慰めの言葉を掛けたところで、彼女のこれまでが変わることはない。

 なんと答えていいのか言葉が思いつかずに、ぼくはその様子をじっと見つめていた。

 しばらくの間、無言の時間が続いた。

 ポットでしばらく蒸らされた紅茶がカップに注がれる。

 ミントとオレンジのような爽やかで甘い香りが、部屋を満たしていく。

「どうぞ」

 と、彼女が微笑む姿を見て、少しだけ気が楽になった。

「ありがとう」

 カップを手に取って香りを楽しむ。

「カグラさんは、お幾つなんですか?」

 向かいの席に座ったティアが問いかけてきた。

「ぼくは、十七歳になったばかりだよ」

「そうなんですか。想像していたよりもずっと若い方が来たので、びっくりしました」

「若いって、きみと同じ歳じゃないか?」

「私がですか?」

 ティアが目を丸くする。

「きみも十七歳だろ? 誕生日を過ぎていればだけど」

 ティアが首を左右に振った。

「私、自分がいつ生まれたのか知らないんです。でも、どうして?」

「ぼくの世界にいる、きみの同調者は、ぼくと同じ年に生まれているんだ。同調者が時を同じくして生まれるということが真実ならだけど、年が違うのに、こんなに姿が似てるって事もないんじゃないかな」

 ティアが身をのりだした。

「本当? 貴方の世界のこと教えてくれませんか? 私と同じ人はどんな風?」

「――たくさんの国がある」

 彼女が落ち着くのを待ってから、話し始める。

「ぼくの国では、子供はみんな一箇所に集まって勉強したり、運動したりするんだ。ぼくと、きみの同調者である小羽は三十人くらいの同じグループに所属している」

「コハネ」

 と、ティアが呟いて虚空を見上げる。

 彼女の頭の中で、ぼくの世界はどのように形作られているだろう?

「小羽は、ぼくの好きな女の子の一番の友達で、いつも一緒にいるのを見かけるよ。おっとりしてるけど、しっかりもので……。ぼくの友達は小羽の事が好きで、女神みたいだって言ってる」

 ティアが頬を赤く染めた。

「いいな。私も、恋がしてみたい」

 うっとりとした瞳で、ティアは、ぼくの話を聞いている。

 その後も、ぼくたちは様々な話題で盛り上がった。

 ティアはきっと、話し相手が欲しかったのだろう。その話は尽きることが無いように思える。

 温かくて楽しい時間だった。でも、ぼくにはこの時間がもどかしくもあった。

 頭に浮かぶのは、力を欲する言葉。

 窓から差し込む日差しは、徐々に赤みを帯びてきている。

 彼女もそれを感じたのか、一度後ろの窓を振り返ると、切なそうに目を伏せた。

「――こんなこと、考えるのは不謹慎かもしれない。でも、貴方に会えてよかった。このままここで、歳を重ねていくよりもずっと」

 震える声で彼女が呟く。

「カグラさん、力を手にして何を望みますか?」

 ――試されているのだろうか?

 思い浮かんだのは『世界を護る』という言葉。

 そんなんじゃない。と、首を振る。ぼくの思いは……。

「ぼくはただ、ファナを助けたい。ぼくを助けようとして連れ去られた風の神官、風の都のお姫さま。ファナは、ぼくが好きな女の子、優希の同調者なんだ。優希がいたから、今のぼくがある。ぼくは優希に救われ、ファナにも救われたんだ」

「大切な人なんですね。

 ――羨ましいな、私には分からない。人を想う気持ち、愛する気持ち」

 言葉にされると、さすがに照れる。

 ティアの瞳に涙が浮かんだ。それを隠すようにすっと目を閉じた。

 目を閉じたまま、二、三回呼吸をして、ゆっくりと目を開く。

 その眼差しは、強いものに変わっていた。

「行きましょう」

「どこへ?」

「力を解放する為に。私の役目を果たす為に……」

 ぼくは差し伸べられた手を受けて、立ち上がった。


 ティアに付き従って歩く先、固く閉ざされた扉があった。

「迷いはありませんか?」

 この扉をくぐったら、もう後戻りはできない。そう感じる。

 でも、迷うことなんてない。

 ぼくが頷くと、彼女は扉の中央に埋め込まれた蒼い石に手をかざした。

 扉は開くのではなく、その場から音もなく消失した。

 いつの間にか緊張に手が湿りを帯びている。心臓の鼓動が高鳴るのを感じる。

 深呼吸して、中へと足を踏み入れた。

 部屋全体が蒼く澄み切ったガラスのようで、淡く光を反射している。

 神秘的な空間だった。

 しかし、この空間にいてさえ、ティアの姿は違和感なく映る。

 純白のローブに身を包んだ彼女は、今までよりもさらにその輝きを増していた。

 自分の存在だけが不釣り合いに思えてくる。

 部屋の中央まで歩くと、ティアが振り返る。彼女も緊張しているのか、その手は震えていた。

「なんだか緊張するね」

「……ええ、そうね」

 震える声で答えると、ティアが拳を握りしめた。

「始めましょう」

 彼女の美しい声が、部屋に響く。

「カグラさん、あなたの魔力を解放します」

 ティアが、ぼくの額に手を当てる。ぼくは、ゆっくりと目を閉じた。


「精霊よ、命あるすべてのものよ、心を開いて」


 ティアの優しい言葉に、体に温かいものが流れてくるのを感じる。

 目を開けると、大気中に沢山の光が点在しているのが見えた。

「私は魔法を教えられないけど、少なくともこれで魔法陣を発動することはできる筈よ」

 ぼくは頷いた。

「手の平を上に向けて」

 ぼくが左の手をすっと差し出すと、その手の上に彼女が手を重ねた。

 温かくて柔らかい感触が伝わってくる。


「我が命の灯火よ、流れる血の輝きよ。この手に集え」


 言葉に応じてティアとぼくの手の中に何かが生まれた。

 ティアが手を離す。

 ぼくの手の中には、蒼く輝く石があった。

「石には魔法陣は刻まれていて、水の魔力を結晶化することができるの」

 ティアの手にも同じように輝く石があった。

「見ててね」

 彼女が距離を取る。

「ヴァッサ」

 ティアの手の中に、澄み切った蒼に輝く刀身を持った剣が生まれた。

 ぼくは石を握りしめ、

「ヴァッサ」と、同じ言葉を唱えた。

 手の中で石が盛り上がり、指を押し広げる。

 それは柄へと変化し、ぼくの手にも美しい剣が生まれていた。

 その重さは石であった時とそう変わりがなく、驚くほど軽い。


「カグラ、あなたとわたしは今、力を半分に分け合っている。あなたの力を示して」


 ティアが剣を構えて地を蹴った。

 反射的に後ろへ飛ぶ。今までいた空間が切り裂かれた。

「ティア?」

 彼女が踏み込み、下から上へと切り上げる。

 上着の右胸の部分が裂かれて肌が覗く。

「力はもう、貴方の内に存在している。体で感じて」

 本気……なのか?

 彼女からは放たれた突きを、身をずらしながら剣を横に薙ぐ。

 乾いた音が響き渡った。

 休むことなく続けられる彼女の斬撃。

 それは、まるで舞い踊るかのように美しかった。

 無駄のない鋭い動き。

 でも、その一つ一つを、ぼくは捉えていた。

 ティアが早く動けば動くほど、ぼくの体はそれに反応する。

 右から左へとティアの剣を弾くと、ティアはそのまま弾かれた方向に体を回転させ、逆方向から剣を横に薙いだ。

 遠巻きに見れば無駄な動きに思えるのかも知れないが、その動きは早い。

 意表をつかれたことで遅れた反応は致命的だった。

 左に振るったままの剣を引き戻して受ける余裕はない。そう判断して後ろへ飛ぶ。

 ぼくの右腕が浅く切り裂かれた。

 鮮血が滲み出して、袖から下を朱に染めていく。

 見た目ほどの痛みはない。それが戦いの最中であるからなのか、傷が浅いからなのかは判断できなかった。

 どくん、と心臓が高鳴った。

 死の恐怖に、体中の血が沸き立つようだった。

 その様子に、ティアがまるで自分のことのように顔を歪める。

 目にうっすらと涙さえ浮かべて、さらなる一撃を放って来た。

 剣を振るい、それを弾き返す。

 自分の体の反応速度が、今まで感じたことがないくらいに上がっている。

 体は恐ろしいほどに早く動く。

 ティアの動きも早いけど、その動きを見極めるだけの目もある。

 なら、さっきのティアのように、予測できないような攻撃が有効に違いない。

 きっと、彼女にも戦いの経験は無い。本の知識が彼女の知識の全てだと言っていた。

 でも、ぼくの中には戦いのイメージがある。

 いろんな映画のアクションシーンが脳裏に浮かんでは消える。

 ティアが距離を詰めて、剣を縦に振り下ろした。

 下から上へと剣を掲げてそれを受けるように見せかけて、斜め前へと踏み込んだ。

 左肩を剣がかすめる。構わず、そのままの勢いで体を右へ回転させる。

 ティアが振り下ろされた剣を戻すより早く、自然と体が反応して、ぼくはティアの横をすり抜ける。

 意識の方が遅れて、状況を理解しようとする。

 ぼくは、今……?

 すり抜けざまに振るった剣は、彼女の胴を薙いでいた。その鈍い感触が手に残っている。

 腕が震えて、ぼくは剣を落とす。

 ティアの長い髪の一房が地面に落ちていた。彼女もまた振り返って、それを見た。

 彼女の体がふらりと揺れる。

「ティア!」

 倒れゆく彼女の体を無我夢中で支えた。

「髪、床まで、届いたね……」

 まさか、そんな。

「悲しまないで、貴方のせいじゃない」

 彼女の瞳に涙が滲む。

「私はこの為に生きてきた。神官の力は巫女の命と引き替えにして得られるの。だから……、貴方は悲しまないで」

 ティアは、こんな状況にあってまで、ぼくの気を案じてくれている。ぼくが傷つかないようにしようとしている。

 なのにぼくは、自分のことばかり考えて、何一つ彼女のことを分かっていなかった。

 必要な準備って、心の準備だったんだ。

「私の力、受け止めて」

 彼女が差し出した手を握りしめる。その手から温かいものが流れ込んできた。

 それが、彼女の命のように思えて、ぼくは手を離した。

 そんなことをしたら、彼女が死んでしまう。

 しかし、ティアは逆にぼくの手首を握りしめた。

「逃がさない。これで、自由になれる。どこへでも……行ける」

 嘘だ。そんなに瞳に涙を溜めて……。それが本心の筈がない。

 ティアの瞳から大粒の涙がこぼれた。

 ぼくと同じ歳の少女だ。今までずっと一人きりで生きてきた女の子なんだ。

 それが、その結末に用意されているのがこんなことなんて。

「ティアぁ」

 きみの本当の気持ちは……。

「私も、恋をしてみたかった。カグラ、――私を抱きしめてくれますか?」

 声が出せない、体が動かない。

 ぼくにそんな資格など……ない。

「そう……ですよね、貴方はユキのこと……、ごめんなさい」

 違う、そうじゃない。

「その幸せを壊したくないから、助けてあげてね」

 なぜだ、なぜ彼女が死ななければならないんだ。

 生きようともしないぼくが、生きたいと願う者を……。

 こんなにも、生きることを切実に願っている子が目の前にいるというのに。

 ぼくは、ゆっくりと、そして強く、彼女を抱きしめた。

 ティアの体が小さく反応する。

「温かい……」

 呟いた彼女の温もりが徐々に失われていく。

「ティア、ティア……」

 ぼくは、どうすることもできずに彼女の名前を呼び続けた。


 不意に、彼女の重さが感じられなくなった。

 目が見えない、自分が目を開けているのかさえも分からない。

 ぼくはどうなってしまったのか? 心を失ってしまったのか?

 そう思った時、遠くにぼんやりとした明かりが見えた。

 徐々に周りの景色が鮮明になってくる。

 街灯、錆びた鎖に繋がれたブランコ、色あせた滑り台。

 寂れた公園に、叩き付けるような雨が降っていた。

 血に染まった手を見る。

 ティア……。

 叶うことなら、全てを洗い流して欲しかった。

 だけど、降り注ぐ雨は、ぼくの体をただ透過していくだけだった。

「ああああぁ」

 嗚咽が漏れる。

 ティアを殺した。ぼくが、この手で……。

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