その日、ぼくは天使に恋をした。
一人になりたかった。
中学二年になった夏の日のことだった。
校舎の屋上へと繋がる扉を開けたぼくの目に、強烈な光が差し込んできた。
むせかえるような熱気に体を包まれながら、目を細めて足を踏み出す。
こんな夏まっさかりの屋上に昼間から足を運ぶ物好きなどいない。
そう思ってここまでやってきた。
特別に嫌な事があった訳ではない。むしろ何もない、いつもと変わらない日だった。
校舎の端へと歩むぼくの体を時折吹く風が心地よく撫でていく。
夏の日差しは容赦なく降り注ぎ、薄っぺらな上履きの底からはすぐに焼けたコンクリートの熱が伝わってくる。
これなら目玉焼きが作れるかもしれないな。と苦笑いを浮かべた時、中庭の方から風に乗って女子生徒の笑い声が聞こえてきた。
誰とも知らない彼女たちの姿を思い描いてみる。
何がそんなに楽しいのだろう?
ぼくは笑わない。笑えない……。
みんなと同じ時間にいても、同じ輪に入っていても、どこか遠くから自分を見ている。
ぼくは日常を演じ続けている。
ぼくだけが、みんなとは違うのだろうか?
学校に来て授業を受け、部活に出て、夜は塾に通う日々。
そんな単純な毎日の繰り返しの中で、生きて行く事に意味なんてあるのだろうか?
親も先生も、一言目には学歴を口にする。良い高校、良い大学、良い会社。
それが何だって言うんだ。それで幸せに慣れるというのか?
違う、そんなのちっとも幸せじゃない。
もっと波乱に満ちた、映画や小説の中のような世界に生まれたかった。
見たことも無い場所、新しい発見、息もつかせぬ展開。
溜息をつき、ペンキが剥がれて赤茶けた柵に目を落とす。
それは、超えてはならない日常の境界線の姿。
この先に求めるものがあるかなんてことは、分からない。
ただ、その気になれば、簡単に乗り越えられると思った。
身を乗り出して、眼下を覗き見る。
「――死にたい」
ここにいてもつまらない。生きてる理由が見つからない。
ここから居なくなってしまえば、そんなことを考える必要などなくなるのかもしれない。
それは魅力的な考えに思えた。
突然、背後でコンクリートを蹴る音が聞こえて背筋が張り詰める。
慌てて後ろを振り返ろうとした矢先、首に強い力が加えられて体が後ろに反り返った。
襟を掴まれて引っ張られたのだと解った時、ぼくの目には青く澄んだ空と真っ白な雲だけが映っていた。
雲に向かって伸ばした手が、虚しく空を切る。
ただできたことは、目を閉じて身を硬くすることだけだった。
屋上のコンクリートに背中から叩きつけられて、後頭部を強く打ち付ける。
鼻の奥がツンとした。
「熱っ」
地面に触れた手がコンクリートに焼かれて、反射的に手を引っ込める。
閉じたまぶたの裏が光を通して赤く染まる。
身を起こそうとしたとたん、鋭い痛みが襲いかかってきた。
「くっ、おおぉ、痛たたたた……」
少しでも痛みの感覚を和らげようと頭をさする。
視界の隅で揺れている紺色の物体が、制服のスカートであることに気づいて見上げると、見知らぬ女子生徒と目が合った。
あっ、と口に手を当てて、女の子が一歩退いた後、ゆっくりと屈み込む。
「大丈夫?」
と、心配そうな顔で問いかけてくる。
頭は痛いし、背中は熱いし、まったく大丈夫じゃなかった。
頭を押さえて、ゆっくりと立ち上がると、彼女もそれに続く。
ショートカットで、ぼくと同じくらいの背丈の女の子だ。
その大きな瞳に、ぼくが映っている。
彼女の細くて、しなやかな腕は、日に焼けて健康的な色をしていた。
明るく活発そうな子だなと思いかけて、活発を通り超えた鉄砲玉のような一面を既に垣間見た後だと気づく。
「死ぬかと思った」
恨めしく、そう口にした。
彼女が目を吊り上げて、ぼくの胸を指で突く。
「それはこっちの台詞よ。こんな昼日中に屋上から飛び降りようだなんて、少しは周りの迷惑とか考えないわけ? そこらじゅうの生徒のトラウマになるわよ。テレビや新聞の取材がたくさん来て、家族や残された人がどんな思いをするのか、考えたことがある? 世間から変な目で見られたり、陰口叩かれながら、生きてくことになるのよ」
一気にまくし立てられて、言葉を失った。
「身近な人を自殺で無くした人が同じように自殺で死亡する率は、普通に生活している人の何倍にも増えるって話もあるの。自分の命が自分だけのものだなんて、思ってるんじゃないでしょうね?」
彼女は、鬼気迫る表情で、こちらを見据えたまま動かない。
いや、そこまでは……。と、言いかけた言葉を口にすることできない。
後のことなんて、考えてもいなかった。
いつも喧嘩ばかりしている両親。
あの人たちは悲しむだろうか? それとも、ただ迷惑に思うだろうか?
彼女が頭上に手を上げた。
殴られるのかと思って後ずさりするが、顔に当たる太陽の光を遮るのが目的だったらしい。
彼女が、ふぅー、と息を吐いた。
「こんなとこに居たら干からびちゃう」
と、踵を返して昇降口の方へと歩き出す。
校舎の中へ戻るのかと見ていると、ドアの横を素通りしたところで振り返った。
こちらに向かって、手招きすると裏手に回る。
なるほど、と思った。
きっと彼女は最初からそこにいたんだ。
――ぼくは躊躇いながらも、その後に続いた。
「ここだと風が気持ちいいでしょう? わたしのお気に入りの場所よ」
彼女が笑みをこぼした。が、すぐに眉間に皺を寄せる。
「で、どこまで話したかしら?」
俯くと、しばらく唸っていたが、ぱっと顔を上げる。
ころころと変わる表情が見ていて面白かった。
「まあいいか、と・に・か・く、自殺は残されたものを不幸にする。自殺は罪よ。あなた、何かやりたいこととか、生きがいとかないの?」
やりたいこと……。と、いわれても、思いつくことなど何もない。
ぼくには、これといって秀でたものはない。
学校の成績はそれほど悪くは無かったけど、とりわけ好きじゃないし、スポーツ全般は苦手だった。
将来なりたいものなんて目標もない。
「きみは?
――きみは何のために生きているの?」
ぼくは答えが見つけられず、逆に問い返す。
「わたし?」
一瞬、虚を付かれたような顔をしたが、彼女はすぐに顔を和らげた。
「わたしは、わたしを必要としてくれる、全ての存在のために生きている」
彼女が空を見上げ、大きく手を広げると、瞳をすっと閉じた。
「わたしを生んでくれた、お父さん、お母さん。いつも笑っている、おじいちゃん、おばあちゃん。学校の友達、先生……。毎日出会ういろんな人たち。
――みんなの笑顔が、わたしを幸せな気持ちにさせるの。だからわたしは、みんなが幸せに笑えるようにしたい」
希望に満ちた、優しい言葉だった。
彼女がゆっくりと瞳を開ける。吸い込まれてしまいそうな漆黒の瞳。
さっきまでの彼女とは別人のような、まるで天使のように清らかで優しい横顔。
その背に翼を広げ、今にもここから飛び去ってしまうのではないかと思ってしまう。
「わたしは、天使になりたい」
彼女の言葉に、心を見透かされたような気がして、ぼくは戸惑いを隠せなかった。
冗談にしか聞こえないような言葉。
でも彼女なら、本当に天使にだってなれそうな気がして、ぼくは目を逸らすことができなかった。
彼女もまたぼくから視線を逸らさない。
少しだけ目を見開いた後、優しく笑い、ゆっくりとした動作で頷いた。
「あなたも、もう、わたしと無関係な人ではないの。
――決めた。これから、あなたから生きる理由を聞くまで、ずっと問い続けてあげる。それまでに死んだりしたら許さないから」
彼女が悪戯っぽく笑った。
「でも、そうね、その前に、まずは天国まで連れて行ってあげる」
そう言うと、彼女はぼくに手を差し伸べてきた。
まったく意味が分からない。
出会ったばかりのぼくに、どうしてそんなことが言えてしまうのだろう?
固まったままのぼくを見かねて、彼女が無理やりに手をとった。
その手がとても温かくて、やわらかくて、ぼくはどきりとしてしまう。
引っ張られるままに、彼女の後に続く。
彼女は、もう片方の手でポケットからハンカチを取り出すと、日に焼けた昇降口のノブに当てて、ゆっくりとその扉を開いた。
ぼくは、ぽかんとして、その様子を見つめていた。
「天国って、ここを下りて?」
「そうよ、丁度この階段を一階まで下りたところ」
一階に何があったろう? と、考えてみても、すぐに思い出すことができなかった。
ここの階段を使って、一階まで移動することがないからだ。
「夏でも冷房が効いてて、新任の白衣の天使がいるのよ」
保健室? 彼女がヒントを出して、ようやく天国の意味が分かった気がした。
「知らないの? 男子の間じゃ、結構話題になってるみたいだけど」
「ぼくは、あまり気にしたことがなかったけど」
そもそも、誰かを好きだ嫌いだといった話をするほど、仲の良い友達もいなかった。
「そんなんじゃだめよ。そうだ、このまま白衣の天使に一目惚れでもしたら、問題が一発で解決するんじゃないかしら?」
そんな都合よくいくわけがない。と、ぼくは小さく溜息をついた。
階段を下り、彼女が保健室の扉を開ける。
「なんで白衣を着てないんですか!」
開口一番、彼女は保険医の先生を指差しながら言った。
呆然として、こちらを見つめる先生。
「今日は外回りに行くもの……」
ぼくは思わず吹き出してしまった。
ツボに入った。と、いうのだろうか、笑いが止まらない。
二人に背を向けて、その場にしゃがみこんだ。
落ち着きかけては、脳裏に二人の姿を反芻して、また笑いがこみ上げる。
声を出して笑うなんて、何時以来だろうか?
おなかが痛い。くそっ、こんなことって……。
「今日は何の御用かしら?」
と、戸惑う先生の声が聞こえた。
「彼が屋上に生えてたワライタケを食べました」
彼女が即答する。
「屋上に?」
このまま放っておいたら、話がどんどんずれていってしまいそうだった。
「たっ、食べてませんから」
ぼくは後ろ向きのまま、手をパタパタと振った後、ふう、と一つ深呼吸した。
もう大丈夫。自分に言い聞かせて立ち上がると、先生を見た。
肩まで伸ばした黒髪は艶があり、真っ赤な口紅が白い肌に映えていた。
パンツスタイルの黒いビジネススーツが、綺麗というよりむしろ、カッコいいという印象を与える。
確かに、こんなお姉さんが居たら自慢かもしれない。
だけど若いといっても、二十歳は過ぎてるだろうし、お姉さんに遊ばれるって感じなのはごめんだ。
明るくて、可愛くて、ちょっと何するか分からないような女の子の方が、一緒に居て飽きないし楽しいと思う。
視線を感じて横を見ると、女の子がニコリと笑っていた。
どちらかと言えば……。と、屋上での彼女の姿を思い返して、頬が熱くなる。
「そう、じゃあ、用件は?」
「彼が屋上で転んで頭を打ったみたいなので、少し心配になって」
屋上で転ばせた、が正解だろう? と、非難の眼差しを向ける。
「出血はある?」
ぼくは首を左右に振った。
「痛みは?」
「――かなり、治まってきたと思います」
後頭部に手を当てると、そこには、こぶができていた。
「でも、こぶができてて、触ると痛いですけど」
先生は顎に手をあてると、小さく頷いた。
「そうね、頭痛がひどくなったり、吐き気や手足の痺れなんかが出てこなければ、大丈夫だと思うけど……。少し休んでいくかしら?」
「はい」
授業をさぼる言い訳できたと思って即答する。
「そう、じゃあクラスと名前を教えてもらえる? 次の授業が始まるまでに、職員室に連絡しておくから」
「2Aの天野神楽です」
そう口にした時、隣に立つ女の子の名前を知らないことに気がついた。
「2年B組、神崎優希です」
彼女が鈴を鳴らしたような声で言葉を続ける。
『ゆき』
心の中で彼女の名前を繰り返す。綺麗な名前だと思った。
「あなたも休んでいくのかしら?」
先生が怪訝な顔をした。
彼女が小さく頭を振る。
「いえ、まだ名前を言ってなかったから」
先生が首を捻らせる。
それは、ぼくに対しての言葉だったのだろうか?
「先生、よろしくお願いします」
と、彼女は一礼した後、
「では、わたしはこれで。またね、天野くん」
と、ぼくに手を振り保健室を後にした。
『またね』
その言葉がなんだか温かくて、嬉しくて、彼女の去った扉を見続けていた。
その日、ぼくは天使に恋をした。