都会の星
もうこんな時間……タクシーだな。
このところ残業が続いているが、その分仕事は順調。2件ほど取れそうな契約があって、どちらかが決まったら今月のノルマは達成だから、あとはゆっくりしようと思っている。
勇人は人気の無い廊下を通用口に向かって歩きながら考える。
駅前と大通り、どっちが早くタクシーを拾えるか。
駅前は車も多いが人も多い。25日を明日に控え、酔っ払いは少ないがオレみたいな残業帰りのサラリーマンは多い。一方、大通りと呼ばれる方はちょっとした穴場になっていて、駅前までゴチャゴチャと入りたくない車が客待ちをしているので、知っているヤツがそれを拾う。どちらにするか。
キーを叩いて通用口のセキュリティロックを解除しようとするが、タッチパネルの調子が悪くスムーズにいかない。3回ほど入力してようやく鍵が開いた。今日は通りにしてみるか。
押し開けたドアから夜風が吹き込んできた。
「ハズレか……」
目の前を大型トラックが猛スピードで走り過ぎていく。こころなしか車の数もいつもより少なく感じる。大通りはハズレると30分以上待たされるんだった事をいまさら思う。
明日は出張で朝が早い、駅前に戻ってみようか?
賃走中のタクシーが目の前を走り去る。駅前から出てきたヤツだろう。男が3人、いや、おそらく後ろに3人で、4人乗り。ずいぶんと酔っ払いがいそうだ。その駅前で順番を待つのとどちらが待つのか?
腕時計で時間を確認する。10分。それだけ待ってダメなら駅前に移ろう。今日はついてない、動き回ってもいいことはないだろう。
「やれやれ」
溜め息とともに見上げた夜空は低く、黒一色に塗りつぶされた中に星が1つ、またたくばかりだった。
翌朝、勇人は寝坊した。
ワイシャツのままで突っ伏していたベットから身を起こすと、大急ぎでシャワーを浴び身支度を整える。朝飯など悠長に食べている場合ではない。パックの栄養剤を飲みながらマンションを飛び出す。
駅までの道を走りながら考える、カバンの中身も昨日のままで、必要な書類は会社を出る時に全部入れてある。玄関から走って3分の改札をすり抜け、ホームへ駆け上がって満員電車に体を押し込む。
今何分だ?
自力ではどうにもならなくなってから時間が気になる。腕時計を見ようともがくが身動きさえ取れない。定期を取り出すために持ち替えたカバンに引っ張られ、左手はあらぬ方へ行っている。仕方なく内ポケットを探るが携帯も無い。そういえばカバンの中だ。
だから品川のホームに降りると真っ先に時計を確認した。32分。ちょっと遅れたが電車には間に合う。
待ち合わせに指定したホームに行ってみると、後輩は既にまっていて、険しい顔で携帯を見ていた。
「野口、こっちだ。すまん遅れた」
勇人が声をかけると、野口は安心し、すぐにホッとした顔になった。
「おはようございます。自分、間違えたかと思いましたよ」
「すまんすまん。それで金井さんは?」
「金井部長もまだ来てないんですよ」
よかった。部長を待たせたりしたら何を言われるか分からない。
険しい顔に戻る野口を尻目にホッとする。
「遅いですねぇ、金井部長」
「そうだなぁ」
「ところで、自分はじめてなんですよ、金井部長。どんな人なんです?」
そうか、まだ受注も経験してない新人だから研修で会ってなければそうなるか。
おじさんというよりおじいさんといった感じの人なんだが、そう言ってしまうのはやはりまずい。ご年配の方?
「そうだなぁ、ちょっと……」
「いやー、遅れた遅れた。すまんすまん」
間一髪、あわや失言する寸前に本人があらわれた。
「おはようございます」
「おはようございます、こちらこそ今日は遠方まですいません」
「なぁに、私も昔はあっちこっち飛び回ったもんだよ。それこそ日本中をね」
どんな人なのかもう言うまでもないだろう。今日もさっそく部長の昔話が始まった。
新幹線に乗ってからもペースは変わらない。
「しかし近くなったもんだよ、昔に比べたらね」
「最近、やっと新幹線が通りましたからね」
ホームで返したのと同じ返事をする。この後、部長の若かりし日の出張話が延々と続く。もちろん帰りも同じ調子だ。はっきり言って退屈でできれば同道したくないのだが、受注を巡って争っているライバル会社が上司を連れ出してきた以上こちらも対抗しないわけにはいかない。安易だが確実なところで部長を担ぎ出したしだいだ。ここは我慢するしかない。
前に出張した時は5セットぐらいだったが、今回はどれくらいになるだろう。
野口を期待の新人として紹介した甲斐あって、部長は彼の正面に陣取って昔語りを続けている。可哀想だが新人は何事も経験が肝心、勉強と思ってあきらめてもらおう。
目の端で外の景色を追う。流れ去る景色に緑が混じり灰色の風景を押し流していく。トンネルをくぐると緑が深くなる。そうして県境の川を渡った頃、一通り昔話を繰り返した部長がつぶやいた。
「しかし遠いねぇ」
遠方のお客様は訪問する機会が限られる。ここぞとばかりに色々詰め込んだため打ち合わせは夜までかかったが、何とか契約にこぎ着ける事ができた。
ノルマ達成だ。
しかし意気揚々とビルを出る頃には日は落ちてすっかり暗くなっていた。
「お疲れさん」
「部長こそ、お疲れ様でした」
「どうだい?地元で一杯」
「いえ、新幹線があるうちに帰らないと」
「そうか、日帰りだもんなぁ。便利になるのもよしあしだなぁ」
部長と飲むなんてぞっとしない、いつまでも同じ話を続けてそうだ。
心の中では新幹線に感謝しつつも口には出さない。
「今はどこでも日帰りですからね。地方といえば泊まりだった昔とは違いますよ」
「そうだねぇ。昔、出張といえば夜の飲みが楽しみだったもんだからねぇ」
まあ、昔話をさせておけばゴキゲンなので、扱いは楽だが。
「函館は特に刺身が美味くてね。港町はだいたいそうだって言うけど、地方特有の味っていうのかな。違うもんだよね。あれ」
部長の昔話はホームに上がっても途切れない。これで毎回内容が違うなら大したものなんだけど。
「雰囲気が違うというのかな。同じような建物が建っていても景色が違って見えるもんでね。あれがいいんだよね」
駅までの道すがら、2回は聞いた話を繰り返す。
オレは「はぁ」という空返事とともに出た白い息を追ってちらっと上を見た。
都会とは違って芯まで冷えてくる寒さで、息の白さも心なしか濃く感じる。
共に白い息を見上げた部長が新しい事を言った。
「ああ、景色といえば夜空もいいもんだというねぇ。ほら」
夜空。言われるままに空を見上げ、そして息を飲んだ。
黒というよりも深い紺色の空。
一面が紺なのではなく、それこそ黒に近い色から水色に近い色まである深い空。
その上に無数の色とりどりの星がちりばめられる。色彩ばかりか明暗も濃淡も異なる無数の星が。
「これが本当の星空だよ。これを見たら東京の空なんて見れたもんじゃない」
部長が得意そうなのも、はためにも素直に感動しているのが分かったからだろう。
帰りの新幹線でも部長は相変わらずだったので、会社に寄るのを口実に早々に別れる事にした。普段は直帰する野口も社に戻るというから、よっぽど懲りたのだろう。
部長が退屈なのもあったが、オレは何より受注した事をさっさと報告して解放されたかったのだ。
社に戻ったオレは野口と手分けして受注の仕上げをした。議事録を仕上げ、いくつかの書類を提出する。そうすれば今月はもうゆっくりしていられるのだ。
終電には間に合いそうにないが、今月最後の残業と思うとむしろ気が楽だった。
案の定終電を逃しいつもの駅前で野口と二人、タクシーを待つ事になった。
たくさんの酔っ払いと共に空車を待つのも、一人だと退屈だが何か話せる相手が居ればそれほどでもない。オレは野口と今回の受注や今日の訪問の話をしていた。
今日の話、部長に同道願って対価は高かったがその甲斐あったと言った時、野口がふと口にした。
「東京の星も悪くないと思うんっすよ」
野口が部長の言葉で引っかかったのは繰り返された昔話よりもその言葉だったという。
「自分、東京でいつも見てる星はどれかなって思って探したんっすけど見つけられなくて」
「そりゃあれだけ星があれば分からないだろ」
「そうなんですけど、それって悲しいじゃないっすか。何か埋もれちゃってるみたいで」
多くの星に埋没するのが、自分が群衆に埋没するみたいだと野口は言う。
「……こっちの星は、すげぇ頑張って輝いてるのが分かって……おかしい、っすかね?」
空を見上げながらそんな事を言う。
「おかしいだろ」
口では否定しながら、内心うらやましかった。
誰かに負けたくなくて闘志を燃やせる、そんな若さがだろうか。
オレはそんなに老けただろうか。
野口につられて空を見上げたオレが見つけられた星は1つ。
あれはきのうも見上げた星。
かすかに、弱々しく、それでも一生懸命に輝いている星。
ただノルマを終わらせて人並みの成果を上げて満足しているオレより輝いてないか?
「いや、そうでもないかもな」
その肯定に野口が調子に乗る。
「そうっすよね?自分も頑張ろう、って気分になりますよね?」
ああそうか……そうだな、オレももう少し頑張ってみようか。