誕生日を知らない私に、旦那様は三百六十五日分の『おめでとう』を用意してくれました
「君の誕生日は、いつだ」
結婚して三日目の朝、旦那様はパンを持ったまま、そう聞いた。
辺境伯ルドガー・ハルシュタイン。北の国境を預かる、大きくて、無口で、笑ったところを見た者がいないと言われる人だ。その人が、バター皿の向こうから、真剣な目で私を見ている。
私はセラフィナ。三日前から、その人の妻になった。旦那様は、まだ一度も、私の名前を呼んでいない。いつも「君」だ。
「存じません」
正直に答えた。
旦那様の手が止まった。
「……知らない?」
「春のころ、と聞いております。継母が、そう申しましたので」
「春の、いつだ」
「それは、忙しいから覚えていない、と」
「結婚証書にも『春季』としか書いていなかったな」
「はい」
実家では、妹のゾフィーの誕生日は、六月十一日だった。何週間も前から、屋敷じゅうが騒ぎになる。仕立て屋が来て、楽団が来て、お菓子の塔ができる。長女の私は、その日の朝から、お客様の外套を預かる係だった。
自分の誕生日を聞いたのは、八歳のときが最後だ。継母は、鏡の前で髪を直しながら、こう答えた。
「春のころでしょう。そんなこと、いちいち覚えていられるものですか」
父は、黙って新聞を読んでいた。
それきり、聞かなくなった。聞かなければ、がっかりしなくて済む。
「そうか」
旦那様は、それだけ言って、パンを食べ終えた。
次の朝、三月一日。私の席のお皿の横に、小さな白い花が一輪、置いてあった。花の下に、折った紙が一枚。
開くと、几帳面すぎる、四角い字で、こう書いてあった。
『本日は誕生日である。おめでとう。 ルドガー』
「あの、旦那様。これは」
「誕生日だ」
「私の、でしょうか」
「そうだ」
「ですが、私の誕生日は、分からないと」
「分からないなら、毎日にすればいい」
旦那様は、いつもの顔のまま、スープをすくった。
「一年は三百六十五日だ。毎日祝えば、どれかは必ず当たる」
私は、花を持ったまま、固まった。
理屈が、あまりにも真っ直ぐで。真っ直ぐすぎて、笑ってしまいそうになった。笑ったら失礼な気がして、唇を噛んだ。
「……三百六十五日、ですか」
「そうだ」
「毎日」
「毎日だ」
壁際に控えていた老家令のテオドールが、小さく咳をした。
「旦那様。来年の二月は」
「テオドール」
「……失礼いたしました」
テオドールの肩が、少し揺れていた。何を言いかけたのかは、そのときの私には、分からなかった。
◇
それから、本当に毎日だった。
二日目は、温かいミルク。三日目は、窓辺に置かれた小さな毛糸の靴下。五日目は、私が一度だけ「綺麗」とつぶやいた、廊下の絵の複製。
どれにも、あの四角い字の札がついていた。
『第二回。本日も誕生日である。おめでとう。』
『第三回。昨日より寒い。足を冷やすな。おめでとう。』
靴下は、新品だった。誰も履いたことのない、私だけの靴下。値札の紐が、片方に残っていた。
その夜、靴下を胸に抱いて、少しだけ泣いた。泣いたことは、誰にも言わなかった。
料理長は、毎日、手のひらほどの小さなお菓子を、札の横に添えるようになった。
札は全部、寝台の下の靴箱にしまった。一枚ずつ、開いた折り目を、指で伸ばして。
札の字は、日に日に、少しずつ柔らかくなっていった。
私は、最初の十日、「ありがとうございます」が言えなかった。
贈り物をもらったとき、どんな顔をすればいいのか、知らなかったのだ。実家でもらったことがあるのは、妹のお古の外套だけだった。
十一日目に、やっと、小さな声が出た。
「ありがとう、ございます」
旦那様は、スプーンを止めて、窓のほうを向いた。耳が、赤かった。
「……ああ」
それだけだったのに、その日の札には、字が二行も増えていた。
二十一日目は、刺繍糸の箱だった。
「嬉しいです」
今度は、すんなり言えた。言ってから、自分で驚いた。嬉しい、という言葉が、私の口から出るなんて。
三十日目の贈り物は、手袋だった。
編み目が不揃いで、右と左で大きさが違う。親指の位置が、少しずれている。
「テオドール。これは」
「旦那様が、三晩、徹夜なさいました」
老家令が、小声で言った。
「軍の天幕の補修はお得意ですが、編み物は、初めてで」
私は、右と左の違う手袋をはめた。右手のほうが、ぶかぶかだった。
そのぶかぶかが、一日じゅう、あたたかかった。
四十日目の夜、書斎の前を通りかかった。扉の隙間から、旦那様の背中が見えた。
机いっぱいに、地図が広げてあった。国境の地図ではない。屋敷の見取り図で、私の部屋のまわりに、赤い駒がいくつも並んでいる。
「テオドール。明日の贈り物は、東の窓辺から攻める」
「旦那様。それは、贈り物の置き場所でございますか」
「そうだ。昨日の栞は西の窓辺だった。同じ場所では、先を読まれる」
「……どなたにでございますか」
「敵だ」
敵はいなかった。いたのは、扉の外で口を押さえて震えている、私だけだった。
五十二日目の贈り物は、鮭だった。
丸ごと一匹。私の腕より長い、北の川の塩漬けだった。
『第五十二回。滋養がある。おめでとう。』
食堂の入口で、私と料理長と鮭は、しばらく無言で見つめ合った。
笑ってはいけない。笑ってはいけない。唇を噛みすぎて、返事ができなかった。
旦那様の顔から、血の気が引いた。
「……外したか」
「いえ、あの、違います」
旦那様は、その日の昼食を、一口も食べなかった。テオドールによると、書斎の机に突っ伏して、「鮭は、軍の天幕では最高の贈り物だった」と、五回つぶやいたそうだ。
その夜、私は初めて、自分から札を書いた。
『鮭、とても美味しかったです。ありがとうございます、ルドガー様。 セラフィナ』
旦那様の名前を書いたのも、これが初めてだった。
翌朝の札の字は、いつもの倍、震えていた。
『第五十三回。……そうか。おめでとう。』
私が「春のころ」と言ったせいで、春の間は、贈り物が毎日、少しずつ大きくなった。
三月の終わりには、小さな本棚。四月には、私の背丈に合わせた机。五月には、庭に、私の名前をつけた薔薇の苗木。
けれど、春が終わっても、「当たり」は出なかった。
六月に入った夜、私は旦那様に、頭を下げた。
「申し訳ありません。春では、なかったのかもしれません」
「謝ることではない」
「でも、春の間に、こんなにたくさん」
「当たらなかった、というだけだ」
旦那様は、帳面から目を上げずに言った。
「当たるまで、続ける。それだけのことだ」
その帳面が何なのか、そのときの私は、まだ知らなかった。
六月十一日に、実家から招待状が来た。妹の誕生祝いだった。
旦那様は、何も言わずに、馬車を出してくれた。
お菓子の塔の横で、継母が笑った。
「あら、辺境伯夫人。お祝いに来てくださったの。あなたの誕生日は、毎年どこかで勝手にしていらっしゃい」
私は、うつむかなかった。
「はい。毎日、しております」
継母の笑顔が、一瞬、止まった。
帰りの馬車で、旦那様は窓の外を見たまま、ぽつりと言った。
「第二百回は、少し大きなものにする」
「旦那様。そんなに、無理をなさらなくても」
「無理ではない」
旦那様は、それきり、窓の外から目を離さなかった。
◇
九月の半ば、第二百回の朝。庭の薔薇が、初めて咲いた。
枝に、札が結んであった。
『第二百回。本日も誕生日である。咲いた。おめでとう。』
少し大きなもの、とは、これのことだったらしい。花は、思ったより小さかった。
「もっと大きく咲く予定だった」
旦那様は、薔薇に向かって、真顔で言った。私は、今度こそ、笑ってしまった。
笑ったところを見た者がいないと言われる人が、口の端を、ほんの少しだけ上げた。
秋が深まって、冬が近づいた。
十二月三日の朝、私は初めて、旦那様の誕生日を知った。
テオドールが教えてくれたのだ。
「旦那様は、毎年、この日は戦場か、書類の山の中でございました」
私は、前の晩、徹夜で編んだものを、旦那様の席のお皿の横に置いた。
灰色のマフラーだった。端が少し曲がっていて、左右の長さが違った。
「……これは」
「お誕生日、おめでとうございます」
旦那様は、マフラーを持ったまま、動かなくなった。
長い、長い沈黙のあとで、低い声が落ちた。
「誰かに祝われたのは、初めてだ」
私は、息を止めた。
「軍の天幕では、誕生日など、誰も数えない。数えなくても、慣れてしまえば、困らない」
旦那様は、マフラーを首に巻いた。曲がった端が、胸の前で揺れた。
「だが、慣れているからこそ、君に同じことをさせたくなかった」
鼻の奥が、つんとした。
旦那様の札が、毎日少しずつ柔らかくなった理由が、分かった気がした。祝う側が、一番、祝われたかったのだ。
◇
冬が深くなって、日数が三百を越えた。
旦那様は、二月の初めに、四日ほど屋敷を空けた。
「国境の巡察だ」
そう言って出かけて、泥だらけの外套で帰ってきた。靴の裏に、北の街道には無い、赤い土がついていた。
「旦那様。お怪我は」
「ない」
それ以上、何も言わなかった。
けれど、その夜、私は見てしまった。旦那様が帳面を広げて、最後の頁に、何かを書き足しているのを。
三百六十五行の、びっしりと詰まった頁。その下の余白に、小さな字で、一行だけ。
近づこうとして、足を止めた。
旦那様の肩が、ほんの少し、震えているように見えたから。
二月二十八日の朝、私の席のお皿の横に、いつもの花と札があった。
『第三百六十五回。本日も誕生日である。おめでとう。 ルドガー』
「旦那様」
「うん」
「ちょうど、一年です」
「うん」
「これで、全部、祝っていただきました。三百六十五日、毎日。もう、十分です。毎日が当たりでした」
私は、本当にそう思っていた。
旦那様は、札から目を上げて、私を見た。
「それは、違う」
低い声だった。
「毎日は、確かに祝った。だが、君の本当の誕生日は、一日だけだ。その一日を、君は、二十年、祝われずに生きてきた」
私は、言葉に詰まった。
「その一日を、私は、見つけた」
旦那様は、帳面を閉じた。
「明日だ」
◇
二月二十九日。
目が覚めると、窓の外は、薄く雪が降っていた。
朝食の席には、いつもの花はなかった。
かわりに、テーブルの真ん中に、一枚の札が立っていた。四角い字で、番号がついていない。
『本日、二月二十九日。君の誕生日である。』
「……二月、二十九日」
つぶやいてから、手が震えた。
「四年に一度しかない日だ」
旦那様は、椅子から立ち上がった。
「去年の暦には無かった。来年にも、ない。再来年にも、ない。四年に一度、今年だけ、暦にある日だ」
テオドールが、そっと扉を開けた。
杖をついた、小柄な老女が入ってきた。白い髪を、きちんと結っている。古い外套の袖口が、ほつれていた。
「……アンナ、さん?」
喉が、勝手に鳴った。幼いころ、私を膝に乗せて、童話を読んでくれた人だ。私が七歳のとき、継母に暇を出された、乳母のアンナだった。
「お嬢様」
アンナは、深く頭を下げた。
「お約束を、果たしに参りました」
旦那様が、静かに言った。
「二月の頭に、君の生まれた村まで行った。教会の記録を見せてもらって、この人を探した」
赤い土の、靴。あれは、私の生まれた村の土だったのだ。
「本当は、その日のうちに渡してもらえた。だが、アンナ殿は、首を縦に振らなかった」
「亡き奥様との、お約束でございますから」
アンナは、懐から、色褪せた封筒を取り出した。
「お嬢様の誕生日の日にしか、お渡ししてはならない、と。十三年、待ちました。二月二十九日には、三度、お屋敷の門まで参りました。三度とも、門番に追い返されました。旦那様が、四週間くらい、待てないはずがございません」
旦那様が、咳払いをした。耳が、赤かった。
「奥様が、お産が始まった晩に、お書きになりました。『この子の誕生日が来るまで、決して開けないで』と」
私は、震える手で、受け取った。
封は、一度も切られていなかった。
中には、一枚だけ、薄い便箋が入っていた。ところどころ、インクが滲んでいた。
『フィナへ。
二月二十九日に生まれてくる、あなたへ。
この日は、四年に一度しか来ません。だから、あなたは、とても遠くから、私たちのところへ来てくれたのです。
四年に一度しか会えない日に、生まれてきてくれるのですね。ありがとう。
その日はきっと、世界が一日ぶん、あなたのために長くなる日です。
いつか、あなたを祝ってくれる人が、あなたの隣にいますように。
母より』
読み終わる前に、涙が、便箋に落ちた。
フィナ。
私をそう呼ぶ人は、もう、この世にいないと思っていた。
世界が一日ぶん、私のために長くなる日。
お母様は、私が生まれたその夜に、亡くなったと聞いている。生まれたばかりの私に、これを書いたのではない。生まれる前の晩に、書いたのだ。会えないかもしれないと、分かっていて。
「どうして」
声が、かすれた。
「どうして、誰も、教えてくれなかったのですか」
扉の外で、大きな足音がした。
父と継母が、青ざめた顔で、立っていた。旦那様が、十日前に、招待を出していたのだ。
「お義父上」
旦那様の声は、静かだった。
「彼女の誕生日を、ご存じでしたか」
継母が、慌てて口を開いた。
「閏日など、あってないようなもの。毎年祝うなんて、できませんもの。だから私は、春のころでいいと」
「存在しない日など、ありません」
旦那様が、遮った。
「彼女が生まれた日です。それだけだ」
旦那様は、継母から目を離さなかった。
「四年に一度の祝いを、あなたは四度、見送った。うち三度は、アンナ殿が門の外で待っていた」
「そ、それは、門番が勝手に」
「門番には、誰の命令か、確認済みです」
継母は、口を開けたまま、閉じられなくなった。
旦那様は、卓上に、一冊の古い帳簿を置いた。教会の洗礼記録の写しだった。
「ここに、署名がある。お義父上の、字で」
父は、長いこと、黙っていた。
それから、肩を落として、小さな声で言った。
「……知っていた」
継母が、息をのんだ。
「あの子が生まれた日に、私は、妻を亡くした。祝おうとするたびに、思い出した。後妻が閏日は無いも同然だと言ったとき、救われた気がした。……逃げたのだ」
父の目から、涙が落ちた。
私は、母の手紙を胸に抱いたまま、父を見た。
怒りが、湧かなかったわけではない。けれど、それより先に、浮かんだのは、別のことだった。
「お父様」
「……すまなかった」
「私、毎日、祝っていただきました」
私は、旦那様を見た。
「この一年、毎日、祝っていただきました。ですから、もう、数え忘れた二十年のことは、いいのです」
それは、嘘ではなかった。
「ただ、これからは、お父様も、ご存じの誕生日を、持っていてください。二月二十九日です」
父は、顔を覆った。それから、ゆっくりと顔を上げて、継母の腰に下がった鍵束に、手を出した。
「それを、出しなさい」
「あなた?」
「門番に命じたのは、お前だな。この家の主は、私だ。今まで、そうしてこなかっただけで」
継母の手から、鍵束が落ちた。床で、大きな音がした。六月のお菓子の塔より、あっけない音だった。
旦那様は、手を伸ばして、私の肩に置いた。大きな、あたたかい手だった。
「君は、今日、五回目の誕生日を迎える」
「……五回目、ですか」
「二十年で、五回だ。世界は君に、あまりに少ない日しか、与えなかった」
旦那様は、懐から、最後の札を取り出した。
「だから私は、残りを、一生かけて返す」
札には、四角い字で、こう書いてあった。
『第三百六十六回。本日が、本当の誕生日である。おめでとう、フィナ。生まれてきてくれて、ありがとう。 ルドガー』
フィナ。アンナから聞いたのだろう。旦那様が、不器用な字で、母と同じように、私を呼んでいた。
三百六十五日分の「おめでとう」では、一日、足りなかった。
その一日は、母が私のために、遠い昔から、取っておいてくれた日だった。
壁際で、テオドールが、小さく咳をした。
「旦那様。申し上げましたでしょう。来年の二月は、と」
「……あのとき、最後まで聞いておけばよかった」
旦那様が、低くつぶやいた。
部屋の隅で、料理長が、堪えきれずに吹き出した。
その夜、旦那様の帳面を、こっそりのぞいた。
最後の頁の余白に、あの一行が、読めた。
『三百六十六。当たり。ここから先は、一生ぶん。』
その下に、新しい字で、続きが書き足されていた。
『三百六十七。三百六十八。三百六十九。』
どこまでも、どこまでも、続きの数字が、並んでいた。
その下の余白に、私はペンを取って、自分の字で、一行だけ書き足した。
『第一回。本日は、あなたの誕生日ではない。おめでとう。 フィナ』
三百六十五日、毎日祝えば、どれかは必ず当たる。
当たりの日が十二月三日だと、もう知っているのは、内緒にしておく。
旦那様の理屈を、借りることにした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
毎日の「おめでとう」が、少しでも届いていたら嬉しいです。
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