2話 君の記憶と俺の任務
夕方の光が校舎の窓から細く差し込み、廊下の床を長く照らしていた。
屋上へ続く階段の踊り場。そこには、まださっきの出来事の余韻が残っていた。
床に座り込んだ男。手首を撃ち抜かれ、呻き声を漏らしている。
その隣に立つ龍二。そして、数歩離れた場所に春菜がいた。
龍二は、男の腕を結束バンドで固定しながら、短く息を吐いた。
「もうすぐ応援が来る」
低い声で言う。
「この男は、我々公安が責任を持って引き取る」
春菜は、黙ってその様子を見ていた。
さっきまでの静かな放課後が嘘のようだった。教室で話していたクラスメイトが、今は拳銃を持って、テロリストを取り押さえている。
普通なら現実感を失う場面だ。だが春菜は、しっかり状況を見つめていた。完全記憶の頭脳は、すでに多くの情報を整理している。
男の顔。拳銃の形状。龍二の射撃の角度。すべてが鮮明に残っている。
「大黒くん」
静かに声をかけた。龍二が振り向く。
「なんだ」
「さっきの人……テロリストなの?」
「可能性は高い」
短い答えだった。龍二は、男のポケットを調べ、携帯端末を取り出す。そして、電源を切り、ポケットに入れた。
「学校を狙ったのかな?」
春菜の問いに、龍二は一瞬だけ考えた。本来なら一般人に話すような内容ではない。
しかし、すでに拳銃も身分も見られている。
「まだ、断定はできない」
そう言ってから続けた。
「だが、この学校に何か目的がある可能性は高い」
その言葉を聞いて、春菜は少しだけ目を細めた。
「じゃあ」
一歩近づく。
「大黒くん、危ない仕事してるんだね」
龍二は小さく肩をすくめた。
「仕事だからな」
「潜入捜査?」
「……まあな」
短い沈黙が流れる。その沈黙を破ったのは、春菜だった。
「だったら私、協力できるよ」
龍二は眉をひそめた。
「は?」
「だから捜査」
さらっと言う。まるで部活の話でもするかのような軽さだった。龍二は思わず苦笑する。
「無理だ」
即答だった。
「なんで?」
「一般人だからに決まってるだろ」
当然の理由だった。だが、春菜は引かなかった。
「でも私、覚えてるよ」
龍二を見る。まっすぐな目だった。
「さっきの男の顔、身長、靴のブランド、拳銃の型」
指を折りながら言う。
「全部」
龍二の表情がわずかに変わる。
「……言ってみろ」
春菜はすぐ答えた。
「身長はたぶん175くらい。右利き。拳銃はグロック系だけどスライドが少し長いから17か34。靴は海外ブランド。たぶん軍用」
龍二は数秒黙った。そして、小さく息を吐く。
「本当に覚えてるんだな」
「だから完璧に覚えてるって言ってるでしょ」
春菜は少し得意げに言った。
龍二は、階段の壁にもたれた。頭の中で計算する。
もし、この少女が言っている通りなら。
彼女は、強力な情報源になる。
しかしそれと同時に、危険に巻き込むことにもなる。
警察官として、一般人を危険な目に合わせる行為は、許容出来ることではない。
「ダメだ」
龍二は、もう一度言った。
「君は、普通の高校生なんだ」
春菜は少し黙った。それから、ゆっくり言った。
「でも」
龍二を見る。その目には迷いがなかった。
「さっき助けてくれたよね?」
「……」
「もし大黒くんがいなかったら、私たぶん死んでた」
龍二は何も言わない。
春菜は続けた。
「だから今度は、私が助けたいの」
龍二は思わず笑ってしまった。
「助ける?」
「うん」
「俺……公安警察を?」
「うん」
その真剣さに、龍二はしばらく言葉を失う。
そしてその時だった。遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
公安の応援部隊だ。龍二は、男を見下ろす。そして春菜を見た。
「今日のところは帰れ」
静かに言う。
「そして、この件は忘れろ」
春菜はすぐ答えた。
「無理だよ」
即答だった。
「だって、勝手に覚えちゃうから」
龍二は額を押さえた。本当に厄介な能力だ。
そしてその時、春菜がぽつりと呟いた。
「ねえ」
「なんだ」
「この男……一人じゃないよ」
龍二の視線が鋭くなる。
「どういう意味だ?」
春菜は階段の下を見た。
「さっきここに来るときにね」
静かに言う。
「同じ靴の人が、もう一人いたの」
龍二の目が変わる。
「どこで見た」
春菜はゆっくり答えた。
「校門の外だよ」
そして続けた。
「黒い車に乗ってた」
龍二の心拍が一瞬で上がった。
仲間がいる。しかもまだ近くにいる可能性が高い。
龍二は男の腕を強く掴んだ。
「仲間はどこだ!」
男は黙ったままだ。
その瞬間、遠くで車のエンジン音が聞こえた。
龍二の表情が変わる。そして、彼は言った。
「鈴木」
春菜を見る。
「とりあえず、俺と一緒に来い」
龍二の言葉を聞いた瞬間、春菜は迷わず頷いた。
2人は、階段を駆け下りた。校舎の廊下には、まだ生徒がいる。だが、龍二の足は止まらない。一直線に昇降口へ向かう。
「大黒くん」
走りながら春菜が言う。
「車は黒。ワンボックス。窓スモーク」
龍二は軽く驚いた。
「ナンバーは?」
「横浜」
即答だった。
「4桁は?」
「62-19」
龍二は、内心舌を巻いた。本当に全部覚えている。
昇降口を飛び出す。夕暮れの校門。そして、そこに一台の車があった。
黒いワンボックス。エンジンがかかったまま。その車の運転席には、男が一人。龍二と目が合う。
次の瞬間、男はアクセルを踏んだ。
タイヤが鳴るのと同時に、車が急発進した。
「止まれ!」
龍二は叫んだが、当然止まるはずがない。車は、校門から道路へ飛び出す。
龍二はすぐ拳銃を抜いた。だが撃たない。周囲には住宅がある。あまりにも一般人が多すぎる。
そして舌打ちをする。
その時だった。
「大黒くん!」
春菜が叫ぶ。
「右に曲がる!」
龍二が振り向く。
「見えたのか?」
「違う!」
春菜は息を切らしながら言う。
「さっきの人、スマホで地図見てた!」
龍二の思考が動く。
「どこだ!」
「港の倉庫!」
龍二は一瞬で判断した。
仲間の回収。もしくは爆発物の回収。どちらにしても放置できない。
「鈴木」
龍二は低く言った。
「ここで待ってろ」
だが春菜は首を振った。
「嫌」
「ここからは危険だ」
「そんなこと知ってるよ!」
春菜は、龍二を見る。まっすぐな目だった。
「でも、私の方が役に立つ」
龍二は黙る。確かにそうだ。
ナンバー。顔。動き。すべて記憶している。
龍二は数秒考え、そして言った。
「俺について来れば後悔することになるぞ」
春菜は小さく笑った。
「もうしてる」
「?」
「もっと早く話せばよかった」
龍二は少し驚いたが、春菜は続ける。
「だって大黒くんのこと、前からずっと気になってたから」
夕日が二人を照らす。
ほんの数秒の沈黙。龍二は苦笑した。
「変わった告白だな」
「今じゃない?」
「今じゃないだろ」
そう言ってから。龍二はポケットから小型の無線機を取り出した。
短く報告する。
「こちら黒崎」
公安で使っている偽名だった。
「対象車両確認。黒のワンボックス。ナンバー横浜62-19」
無線の向こうで声が返る。龍二は続けた。
「これより対象車両を追跡する」
そして通信を切って、春菜を見る。
「鈴木」
「うん」
龍二は静かに言った。
「今日からお前」
少しだけ間を置く。
「俺の相棒候補だ」
春菜の目が少し大きくなる。
「候補?」
「まだ決定じゃない」
龍二は歩き出す。校門の外へ。
「これからしばらくは、試験期間だ」
春菜は笑った。そして龍二の隣に並ぶ。
「じゃあ頑張る」
龍二は、横目で彼女を見た。
普通の女子高生。だが、その頭脳は、公安の情報分析官並みか、それ以上もしれない。
そして何より、恐怖より好奇心が勝っている。龍二は小さく呟いた。
「とんでもない相棒になりそうだ」
春菜は聞き逃さなかった。
「それって褒めてる?」
「さぁな」
2人は、夕暮れの道路を走り出す。テロリストの車を追って。
公安警察と完全記憶の少女。その奇妙なコンビは、まだ始まったばかりだった。
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