1話 静かな日常と銃声の鳴る放課後
春の終わりが近づいた午後。
窓の外では柔らかな風が桜の名残を揺らし、校庭の端にある木々の葉をかすかに鳴らしていた。
湊高校3年2組。
教室には、昼休みの賑やかな空気が広がっていた。
「なあ龍二、お前進路どうすんだよ」
机に肘をついた友人の高橋が、前の席から振り向きながら言った。
「う〜ん……正直まだ考えてないんだよなぁ」
大黒龍二は短く答えた。ノートを閉じ、窓の外へ視線を向ける。
いつも通りの態度だった。
「またそれかよ。お前成績いいんだからどこでも行けるだろ?」
「どうだろうな」
興味の薄そうな返事。それ以上会話を続ける気は、彼にはないらしい。
高橋は肩をすくめ、別の友達との会話に戻っていった。
龍二は静かな男だった。
誰とも仲が悪いわけではない。むしろ頼られることも多い。だが、自分から輪に入ることはほとんどない。
それでも、教室の空気から完全に外れているわけでもない。
絶妙な距離感で、日常の中に溶け込んでいる。
それが彼の仕事だった。
表向きは、普通の高校生。
しかしその実態は、警察庁警備局警備企画課。俗に言う、公安警察の警部だ。そして、実際の年齢は、18ではなく、26歳だ。
現在は、湊高校に潜入捜査中。その目的は、この学校には、ある極左組織の関係者が接触している可能性がある。
それを調査するための潜入だった。
だからこそ、龍二は常に警戒している。
制服の内ポケット。そこには警察手帳。さらに服の内側のホルスターには、コンパクトな拳銃が隠されていた。
もちろん校内で使うことなど、本来あってはならない。
だが、公安にとって「想定外」は最も危険な言葉だった。
「大黒くん」
その時、柔らかい声が聞こえた。
龍二が顔を上げる。そこに立っていたのは、鈴木春菜だった。
黒髪のセミロングに穏やかな笑顔。そして、落ち着いた雰囲気の少女だ。
「このプリント、先生が配ってって」
「ああ、ありがとう」
龍二は、そのプリントを春菜から受け取った。
春菜は軽く首をかしげる。
「大黒くんって、いつも静かだよね」
「そうか?」
「うん。でも嫌いじゃないよ」
そう言って笑う。その笑顔は自然で、どこか人を安心させるものがあった。
そんな春菜には秘密がある。
完全記憶能力。
見たもの、聞いたもの。一度認識した情報は、ほぼ完全に忘れない。
だが、本人はそれを特別なものとは思っていなかった。
「静かな人って、ちゃんと周り見てるって言うから」
春菜はそう言って席へ戻った。
龍二は少しだけ目を細める。
───面白い子だ。
それが彼女への率直な印象だった。
だが、この時の龍二はまだ知らない。
数時間後、自分の正体が、彼女に知られることになることを……そして、2人の人生が大きく変わる出来事が起きることも。
その日の放課後、夕日が校舎の廊下を赤く染めていた。
部活に向かう生徒。帰宅する生徒。校内にはまだ、人の気配が残っている。
龍二は、屋上へ続く階段付近を歩いていた。
このエリアは普段人が少ない。潜入捜査では、こういう場所の観察も重要だった。
その時だった。階段の上から、微かな物音が聞こえた。
金属が触れるような音。龍二の表情が変わる。足音を殺しながら階段を上がる。
そして、踊り場に差しかかった瞬間、誰かの声が聞こえた。
「……誰?」
聞き覚えのある声だった。龍二の心拍が一瞬だけ速くなる。
春菜が、階段の先、屋上の扉の前に立っていた。
そして、その向かいには、黒いバッグを持った男がいた。
見慣れない顔。フードを深くかぶっている。
そして、その男の手には、拳銃が握られていた。
龍二の思考が一瞬で、戦闘モードに切り替わる。
(テロリストか)
この学校は、すでに狙われていた。そして今、一般生徒が一人、巻き込まれている。
龍二は、静かに息を吐いた。
『潜入任務中のため、正体がバレてはならない』
だが次の瞬間。彼は決断していた。制服の内側に手を入れる。
そして、拳銃を抜いた。
拳銃を抜いた瞬間、龍二の体はすでに動いていた。
踊り場から一気に階段を駆け上がる。
「動くな!」
低く鋭い声が響く。突然の声に男が振り向いた。
その視線の先には、銃を構えた龍二がいた。
制服姿の高校生。しかし、その構えは完全に訓練されたものだった。
「……警察か?」
男が低く呟く。
「速やかにその銃を捨てろ」
龍二の声は落ち着いていた。銃口は男の心臓に向けられている。わずかな揺れもない。
春菜は、その光景を見て固まっていた。
理解が追いつかない。
クラスメイトの大黒龍二。静かな男子生徒だ。
その彼が。今、拳銃を持っている。
しかも、その立ち姿は、明らかに普通ではなかった。
男が舌打ちした。
その次の瞬間、男の銃口が春菜へ向けられる。
「それ以上、こっちに近づくな!」
人質。最悪の選択だった。
だが、龍二の目は変わらない。
距離は約5メートル。障害物なし。
男の手は震えている。その様子からして、訓練された兵士などではなく素人のそれだ。
確実に撃てる。
龍二の思考は冷静だった。
だがその瞬間、春菜が動いた。
ほんのわずか。半歩だけ横へ。龍二の射線が開く。
完全記憶の少女は、瞬時に状況を理解していた。
その動きに龍二は反応する。
そして、引き金を引いた。乾いた銃声が校舎の中に鋭く響く。
男の拳銃が弾き飛ばされる。手首への正確な射撃だった。
男が悲鳴を上げて崩れる。龍二は、すぐに距離を詰めた。
地面に落ちた銃を蹴り飛ばし、男を床に押さえつける。
腕を捻り上げ、完全に動きを封じる。
「警察だ。無駄な抵抗するな」
低い声で、改めてそう告げる。男は、うめき声をあげるだけだった。
数秒後、龍二はゆっくり立ち上がった。
そして振り返る。そこには春菜が立っていた。
驚きと混乱。そして、強い好奇心。様々な感情が混ざった表情だった。
「……大黒くん」
静かな声。
龍二は、拳銃を下ろした。観念したように小さく息を吐く。そして言った。
「悪いが、今のことは、見なかったことにはできないか?」
春菜は首を横に振った。
「そんなの無理だよ」
即答だった。
「だって私、全部覚えてるもん」
龍二は苦笑する。
『完全記憶』という彼女の能力は、以前から噂では知っていた。
「だと思った」
少し沈黙が流れる。
春菜は、ゆっくり歩いて近づいた。そして、龍二の目を真っ直ぐ見た。
「ねえ」
「なんだ?」
「大黒くん……あなた本当は何者なの?」
龍二は数秒だけ考える。
潜入任務。本来なら絶対に明かしてはいけない。
だが、こんな状況になった以上。もう隠しきれない。龍二はポケットから警察手帳を取り出した。
それを静かに開く。そこにあるのは、警察庁の紋章。
それを見た春菜の目が、大きくなる。
「警察庁……?」
龍二は静かに言った。
「俺は、警察庁警備局警備企画課に所属する公安警察だ」
春菜はしばらく黙っていた。
しかし次の瞬間、ふっと笑った。
「そっか」
龍二は少し驚く。
「驚かないのか?」
「驚いてるよ。でも」
春菜は言った。
「助けてくれたのが、大黒くんでよかった」
その言葉に、龍二は一瞬だけ言葉を失った。夕日が廊下を赤く染めている。
静かな校舎。
その中で、公安警察の潜入捜査官と、完全記憶の少女。
二人の運命は、この放課後から、大きく動き始めていた。
そして、この事件をきっかけとして、数々の事件へと繋がっていくことを、まだ誰も知らなかったのだった。
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