第9話 涙
「今、なんて言った?」
「だから、まだやり足りないって言ってるの」
「お前がやったのか? これ」
心臓がやかましい。事ここに至っても、俺の脳はそれを認めたがらない。
「なんの恨みがあって、こんな事を……?」
「ああ。そいつ、都の刀を落としたのよ」
「刀?」
立川の方を見ると、日本刀らしき物を大事そうに胸に抱えている。
「落とした?」
「そうよ。そいつに刀の手入れを頼んで、今日持ってきてもらった所で落としたのよ」
「……それだけ?」
「うん」
あっけらかんと肯くその姿に眩暈がした。確かおっちゃんは、武器の整備や製造が仕事だと言っていた。どうして日本刀なんて原始的な武器なのかはわからんが、今はどうでもいい。
有原は落としたからこうしたと言った。落としたから殴ったと言った。落としたから――立つこともままならないほどの暴行を加えたと言ったのだ。
「……立川、お前もやったのか?」
有原の隣で表情無く立っている立川に問いただす。
「いいえ。涼子ちゃんの手が早かったので、私は見ておりました」
「なんで止めなかった?」
「……なにか悪い事をしましたか?」
絶句した。その表情には一片の欠片も罪悪感が見当たらない。不思議な事を言ってるのは俺だと言わんばかりの目で見上げてくる。
ふと気付けば、酸欠したように息が上がっている。人間とは思えないその表情を見ていると、心臓がやけにうるさく跳ね、頭の中に不快な雑音が走り出す。それらに呼応するかのように、意識の深層からその既知の領域が浮かび上がってくる。
「こういうことですか?」
立川はおっちゃんの近くまで歩み寄り、おもむろに片足を上げた。
「ぐあああああああああああ!」
「なっ!?」
足は勢いよくおっちゃんの腕に落とされ、骨の折れる生々しい音が俺の耳まで届く。
立川は逆側の腕に狙いを定め、再度その細い足を上げた。
「や、やめろ!」
瞬時にフェイズ1の領域を支配下に置き、立川に飛び掛る。しかしその安易な行動は、この場では愚策と呼ぶもの相当した。
フェイズ能力者は、この場で俺一人ではないのだ。むしろフェイズを使う選択をしたことによって、こちらから相手の縛りを解いてしまったに等しい。
「何してんの?」
立川に向かって伸ばした右手は、届く寸前で有原に掴まれていた。握られた手首部分から、尋常ではない握力が伝わってくる。まるでコンクリートで固められた様にピクリとも動かせない。
立川は振り上げた足を地面に降ろし、不思議そうに首を傾げてこちらを見やった。
「あんた、何か勘違いしてない?」
「……どけ」
俺の本気の怒気を前にして、有原はやれやれと肩を竦めた。
「男なんて私達にとってその辺のゴミなのよ。私達があんたを普通に扱ってるのは、国枝基地長の厳命が出てるからよ。それがなければあんたもそこのゴミと大差ないわ。まぁでも、あんたは普通の男とちょっと違う感じだし、興味を持ってたのは本当よ。特に都がね」
そういえば、遼平が何時かこんなことを言っていた。
『軍人のお前より俺達はまだ安全だが――』
それは逆に言えば、軍人ですらない遼平達でも、完全に安全じゃないということなのだろう。そして、俺が今日までこれといった迫害を受けなかったのは、紗枝さんの厳命があったからに違いない。
「……おっちゃんに謝れ」
だが、それがどうした。俺はやられないから、それで良かったなどと言うつもりか。
「聞いてなかったの? なんでゴミに向かって謝るのよ」
「謝れと言ってる」
「……謝らなかったら?」
――。
「まさか私達とやる気? そういえば、あんたフェイズ1になったばかりだって言ってたわね。私達はフェイズ3よ? ……もうすぐ4だけど」
そんなの関係ない。絶対――。
「? ……どうしたの?」
こんな雑魚、必ず――せる。
「黙れっ!!」
意図せず先行する自我、と表現するのが正しいのだろうか。
まるで別の人格が俺の中に存在し、俺を狂気に染めようとする。それを振り払うように大声を出した。
「な、なんなの?」
俺の突然の叫びに驚いた有原は、手を離して後ずさった。お前に黙れと言った訳じゃないが、否定するのも面倒だ。
意識がしっかりしない。高熱でもあるかのように頭がフラつく。感情に任せたままフェイズを開放しすぎた為か、それとも別の原因なのかは分からないが、吐き気のするような衝動に襲われた。
そして一番不可解なのは、目的地さえ霞んでいたフェイズ2の領域が、手を伸ばせば届く位置まで来ている事だ。それは俺の錯覚なのか、それとも――。
「……謝らなければ、ぶっ飛ばす」
奥歯を噛みしめ、自分自身が敵対する意思を告げる。
「だから無理だって。フェイズ1君」
「関係ねぇよ」
「いや、あるって」
「いいからかかって来いやフェイズ3子。紗枝さんには言い付けないであげるから」
「……ちっ」
有原の雰囲気が変わった。俺はそれに対して戦闘態勢を取る、と言っても何の格闘技経験もない俺の格好は素人もいい所だ。しかしそれでも意識を集中すれば、知覚できる領域を広げられる。
両足のつま先を平行に揃え、腰を落とし、足の親指に力を入れる。そこを支点とする体重移動で、相手の動きに対する反射速度を高める為だ。
「ふっ!」
「!?」
踏み込みんで来た有原のスピードは、フェイズ1の感覚器官を持ってしても残像のように見えた。
一瞬で目の前にいた有原は、俺の鳩尾めがけて左拳を突き出そうとしている。それら一連の動作は確かに速かったが、目で追えないほどではなかった。つまり、それに付いていける運動能力さえあれば、回避できる道理だ。
「あ、あれ?」
俺に避けられた事が意外なのか、有原はキョトンとしている。
「……なんで避けられるの? あんた、ほんとにフェイズ1?」
避けたらおかしいんだろうか? いまいちよくわからないが、そんなことどうでもいい。
俺は地面を蹴って走る。走りつつ、今の自分が使えるフェイズ1の領域を全て開放する。それを見た有原は、考える事をやめて俺に意識を向けた。
射程距離に入ったと同時に、利き腕とは逆の左を有原の顔面に向かって最短距離を走らせる。その時、意識したのはスピードだ。それは次への布石になる。有原は避け切れなかったのか、両腕で顔面を覆った。
「っ!?」
インパクトの瞬間、硬いものを殴ったような痛みが左手に走った。腕に何か仕込んでいるんだろうか? しかし、その躊躇で布石を無駄にするわけにはいかない。
左を出しながら構えていた右を腹部に全力で叩き込むと、有原の小さな体は蹴られたボールのように吹っ飛んでいった。
「勝った、のか? ……うっ」
ズシリと体全体に疲労感がのしかかる。フェイズ1の力を出し惜しみ無く使った結果、俺の体には早くもガタが来ていた。
息を切らしながら有原の様子を伺うと、身動き一つせず仰向けで寝転がっている。その姿を見ていると、胸中に不安がこみ上げてきた。人間一人をあんなに吹き飛ばせた事に恐怖を感じる。これじゃあ普通の人間なら殺している所だ。
「ぐぅ!? っっああああああ!!」
予期せぬ激烈な痛みが、右拳を襲った。
うずくまりながら右手を見ると、パックリと肉が裂け、折れているであろう骨まで見えている。そのあまりの痛みに、眩暈と吐き気が同時に襲ってくる。このまま倒れ込みそうだ。
激痛を必死で噛み殺している最中、前方から誰かが近づいてくる気配を感じ取る。
そうだ、立川が居た。有原をぶっ飛ばして黙っている筈がない。でもどうして俺の右手は壊れたんだ?
「涼子ちゃん、大丈夫?」
「え……?」
前から聞こえてくる筈の立川の声が、俺のすぐ後ろから聞こえた。しかし、足音が聞こえてくるのは前からだ。
痛みを堪えながら顔を上げると、あんなに派手に吹っ飛んだ有原が、何事もなかったように平然とそこに立って居た。
「あんた、やっぱりフェイズ1ね」
有原の表情は失望に近く、つまらなそうに服の汚れを手で払う。
「……っ、ど、どういう、ことだ?」
頭の中の大半が痛みに染まり、切れ切れにしか問い掛ける事ができない。
「あんた、フェイズ1にしては異常なスピードと反射速度だったわ。ああ、力もね。フェイズ2以上の能力者じゃないと、手加減したとはいえ私の攻撃を避けるなんて無理よ。あんた、嘘ついてない?」
「知ら、ねぇ……」
「まぁどっちでもいいけど。それで、まだやるの?」
有原は乱れた前髪を触りながら言う。さっき対峙していた時の警戒心は、もうそこには伺えない。俺と有原の力量差を思えばそれも当然。どんなカラクリか分からないが、効かない攻撃に警戒する必要なんてないのだ。
その圧倒的な戦力差に加え、俺の体は既に満身創痍である。利き腕である右手は破壊され、フェイズ1の全開により体中は軋みを上げている。ここからの逆転の目は、万に一つもないように思える。
「宗一、くん」
声のした方に顔を向けると、へたり込んでいたおっちゃんが体を起こしていた。そして、血の通っていない顔に笑顔を貼り付けてこう言った。
「もう、やめなさい。……ありがとうよ」
そのなにもかもを諦めたような礼を聞いた俺は、あまりにも馬鹿馬鹿しくなって薄く笑った。
相手のほうがフェイズが上だから勝てない? ならこっちも上げればいい。簡単な事だろう。だってほら、もう手を伸ばせば届くじゃないか。
通常、何かを習得する為には相応の時が必要だ。その相応の時を日々の修練、たゆまぬ研鑽、自己の練磨に捧げる事で、その道程の踏破に到る。先日フェイズ1に到達した俺に、フェイズ2を使える道理なんてものはなかった。しかしそんな常識とは異なる形で、フェイズ2の終着点はそこにあった。
奇怪である筈の現象にも関わらず、俺にはなんの疑問も未知への恐怖も生まれなかった。おっちゃんの言葉で、そんなものは全て吹き飛んでしまった。そして何よりも、自分の馬鹿さ加減に笑うしかなかったのだ。
フェイズ2に届くと分かっていたにも関わらず、恐怖に慄いて引き返していた俺が、逆転の目がないなんてよくも言えたもんだってな――!
「少し黙ってもらえるかしら?」
おっちゃんの近くに居た立川が、再度足を振り上げる。その表情にはなんの色も伺えない。
「やめろっ!」
右手の激痛を無視し、立川に向かって叫ぶ。しかし、その行動を止める事はできそうにない。
その目、その表情は、人間が虫を潰す時に見せるものだった。――止まらない、絶対に。
まずい! 行け! 止めろ! 速く! 走れ!
「えっ?」
駆け出した俺の速度は、立川の常識を超えるものだった。瞬時に接近された立川は、呆気に取られ、隙だらけで俺を見上げた。
――――。
「ぐっ!?」
その瞬間、どす黒い強烈な衝動が俺を襲った。
半歩踏み入れただけのフェイズ2が自意識を拒絶したのだ。
「っ!」
俺の一瞬の怯みを察知した立川は、焦ったようにフェイズを行使した。すると途端に、目の前の女の子の気配が人ではない何かに変貌する。
だが、それがどうした。こいつが有原と同じく不可思議に固くなろうとも、俺がこいつを殴る未来はどうあっても変わらないし、変える気もない。
立川はまだ足を振り上げていて体勢が不十分。つまり今ならなんの策も労さずに、この構えている左腕を突き出すだけでいい。それで、当たる。
俺は左拳を固く握り、腹部目掛けて下から突き上げた。その時、壊れた右拳の事は頭から消え失せていた。効く効かないなんて事もどうでもよかった。
只、判って欲しかった。そんな表情で迫害される人の悲しみを。
「がっ!」
殴った腹部の感触は、意外にも柔らかく感じられた。直撃を喰らった立川は、俺が繰り出した拳速そのままの勢いで、後方にある施設まで弾き飛ばされ、コンクリートの壁に激突した。手に持っていた日本刀が、抜かれることなく転がって行く。
「えっ!? み、都!」
有原が血相を変えて、沈黙した立川に駆け寄っていく。
「効いた、のか……? っ……ぐ、ぅ……」
痛みの走る頭に疑問符が浮かぶが、すぐに消えていった。
刻一刻と濃くなっていく頭の中のノイズ、砂嵐、闇、濁流。俺はそれらに抵抗するのが精一杯だった。
「た、辰巳ぃ!」
有原は失神している立川を腕に抱き、俺に向かって敵意を込めた視線を叩きつけて来る。
ああ、親友を痛めつけられれば憎いだろう。当然だ。でも、読み取れる感情はそれだけではなかった。有原の目尻には涙が浮かび、留まりきれなかった水分が頬に一筋の線を描いている。
しかし、友人を想うが故に流れるその美しい涙は、現状の有原にとって最大の失敗になる。そして、それを見てしまった俺にとっても――。
「なんで、だ」
「……え?」
――。
「そんな顔でき、るのに……なんで……」
「なんであんたが泣いて……」
――――。
「なん……で……なんだ、よ」
「……」
ああ……。俺は一体、何を喋っているんだろう? なんで、泣いているんだろう? 自分でも上手く説明できないけれど、何故かどうしようもなく悲しかった。
友人の体を心配する有原の涙に嘘はない。でも、なんでだろう? その涙が真摯であればあるほど悲しく、そして――許せなかった。
「なんで、その優しさで! あんな、酷い事――――がっ、あああああああああああああ!!」
いつの間にか体全体を覆っていたフェイズ2に、自意識を侵食されていく。俺はそれに一切の抵抗をせず、黒く塗りつぶされていく意識に身を任せた。あんなに忌み嫌っていた破壊的な衝動に、今の俺は感謝さえ覚えていたのだ。
このどす黒い何かがなければ、俺はこの場に立ち尽くすのみだっただろう。しかし、与えてくれた。この悲しさを解消する方法を。そして、動かしてくれた。人としての心を全て刈り取り、この役立たずの体を。もう俺には、その衝動に抵抗する理由がひとつもなかった。
「まさか、フェイズを上げてるの? そんな、どうやって? フェイズ1になったばかりじゃないの?」
――許せない、そんな涙。
「や、やめなさい! 行くな! 戻れ!」
――認めない、そんな涙。
「ダメ! ダメよ!! 精神が焼き切れるわよ!」
――認めて、たまるか!
「っ!?」
有原に向かって10m程の距離を、一歩の跳躍で詰める。このくらいできて当たり前だと確信していた。それと同時に壊れている右拳を、立川を抱えている有原に向かって無慈悲に突き出す。そこには欠片も迷いなんてものは無かった。例えそれで――す事になっても。
「ぐぅ!?」
精神的に隙だらけだったにも関わらず、有原は鋭く反応して事なきを得た。あの短時間でフェイズを行使し、回避行動に移るまでの流れは見事というしかなった。
有原が回避した脅威、痛覚を失ったかのような感覚の俺の右拳は、鉄板で補強されているコンクリートの壁を易々と貫いており、拳撃で拳を中心とした半径5m以上の部分がひび割れていた。
ふと足元を見ると、気を失っている少女が仰向けで地面に寝転がっていた。有原が置き去りにした、という表現は不適格だろう。俺の攻撃の反動で、不本意にも離れてしまったのだ。
「ぅ、ぅぅ……っ!?」
有原は回避に全力を費やした事で、不十分な体勢で転がってしまい、即座に動けない状態になっていた。そして顔を上げた直後に気付いた。今の俺が、これから何をするか。
「や……やめて……」
離れてしまっている俺との距離は、その行為を妨害するには絶望的なものだと確信したんだろう。
有原は震えた声で、手前勝手になにかを懇願してくる。それは少し前の、俺であったものが叫んでいた言葉に符合した。
「や、やめて……! やめろ!」
ピクリともしない立川の喉元に手を当てると、柔らかな感触がした。
今の俺の握力なら、意識を失っている女の細首などゼリーのごとく握壊できるだろう。今も添えているだけで壊してしまいそうだ。
立川がおっちゃんの腕を無表情で折った時の感情は、こんなものだったのかと想像する。
例えばそう、虫を潰す時。罪悪感など微塵も浮かばない。あっても嫌悪感くらいだろうか。だが有原は確か、男はゴミだと言っていた。それを殺すという感覚は、俺には少し想像が及ばない。
「やめろ! やめろってば! やめないと、殺す! 絶対、殺すぞ!」
ゴミを殺すのは、今の俺のように快楽を得る行為に相当するのだろうか。
「ぅ、ぁぁあああああああああ!!」
止まらないと悟った有原が、体を起こして駆けて来る。その顔は満遍なく涙で濡れていた。だがもう遅い。手に摘んだ蚊を潰す行為に、時間なんて必要だろうか? 答えは否だ。
有原の瞳にはもう、憎悪と殺意しか灯っていない。俺を殺す。ただそれだけの人間。その姿は、今の俺のようにも見え、叫んでいる姿は俺であったもののように見えた。
壊れ物を扱うかのごとく握力を強める間際、ふたつの感情がぶつかった。
今の俺は、立川を殺したいと心底願いながらも、今の有原になら殺されても悪くない――なんて、そんな訳の分からないことを、一瞬だが確かに、思ってしまったんだ。
「宗一君!」
「――え」
瞬間、世界が反転した。
立川の喉に添えていた手は、するりと撫でるように抜けていく。
「えっ!? ……み、都!」
有原は目の前の出来事に理解が追いつかず一瞬、硬直したが、すぐさま立川の元へ駆け寄っていく。
「また麻雀、やろうな」
「……ははっ」
おっちゃんがそういうなら仕方ない。ああ、またやろう。隣に居る有原に、殺されてなかったらだけどな。
俺は自らの意思で、フェイズと共に意識を断絶した。