第8話 訓練中の出会い
「ハァ、ハァ、ハァ……ッ……ハ、ハァ……」
俺は今、一心不乱に走っていた。
「そういちー。へばってるぞーー」
遠くから何度かすれ違っている遼平が声を掛けている。疲労困憊の俺はそれに返答する事はせず、めんどくさそうに手を振って合図する。実際、めんどくさかった。
一時間前――。
「走って来い」
「え? なんで?」
紗枝さんが眼鏡クイーな感じで俺に言う。
てか、あんたそれ伊達だろ? フェイズ1で目が良くなるんだから。でも切ると元に戻るのかな?
「フェイズ1のまま走って来いと言ってる。今お前に必要なのは慣れだ。それに基礎体力と精神力もな」
「えっと、どこを?」
「基地のバリケードを横にして、そうだな……十周でいい。終わったら帰って来い」
あまりにも簡単そうに言うので、反射的に肯きかけてしまった。
「い、いやいや! それってつまり基地の外周ってことじゃないすか! この基地どんだけでかいと思ってんの!?」
「うん? 一周10kmくらいだろ、たしか。……いや、12㎞だったかな」
「それを十週とか! しかも今、昼だし! 俺、今日で帰ってこれないじゃん!」
「ごちゃごちゃ言わずに行け」
「……何この人? 鬼すぎだろ? ちょっと伊達眼鏡だからって調子乗ってね? ……そうか! その伊達眼鏡を取って髪を降ろしたら霊的な何かと間違われるんだな? その為の伊達眼鏡なんだな? 言っとくけどその眼鏡、全然似合って……るけど、眼鏡外して髪降ろした姿を密かに期待してたりなんかしないんだからね!」
「行け」
「はい」
――現在。
怖かった、あれは怖かった。
と言う訳で、俺は走ってるんだが、フェイズ1にして走ると普段との違いに驚いてしまった。全然息が乱れないし、前に出す足にも全く重さを感じない。綿のように軽い体を、足の裏でポンポン浮かしているような感じだ。
「ぜぇー、ぜぇー、ぜはー」
で、調子に乗ってたらこの様だよ。体力的にもきついが、フェイズ1にしていることで精神もガリガリ削られていく。単語帳捲りながら全力疾走という紗枝さんの比喩は、山田君に座布団ニ枚要求したいくらいうまい。
縁も付き添ってくれていたけど、ぜーぜー言ってる俺の横で本を読みながら併走してたんで、俺のちっぽけなプライドを守る為お引き取り頂いた。トボトボ帰っていく、ちっちゃな後姿が罪悪感を誘ったけど。
「しかし、やっぱりでかいなぁこの基地」
外周が10~12㎞ってことは、単純に計算してもペンタゴンよりでかい。俺の真横にある、基地全体を囲むバリケードの高さも20m以上はありそうだ。
走っていて基地内を結構見て回ったが、ここには近代兵器の類が少ない。ないことはないんだけど、仮にも戦争しているのに、この装備でいいんだろうか? それともフェイズはそれらをも上回ってしまうんだろうか?
「これで、半分……」
最初の一週は十分弱だったが、今はもう二十五分くらいのペースになってしまっている。しかしそれでも、俺の時代のフルマラソン世界記録を上回るペースだ。フェイズって恐ろしい。
「ちょっと……」
「ぜぇー、ぜぇー、ぜぇー」
「ね、ねぇ、ちょっと!」
「はー、はー、ぶはー」
「ちょっとってば!」
「ぐおお!」
走ってる最中、鋭い出足払いを喰らい、慣性の法則のまま俺は吹っ飛んだ。
「ぜぇーぜぇー。な、なん……だ?」
痛みを堪えつつ顔を向けると、制服を着ているポニーテールの女の子が、倒れている俺を見下ろしていた。
「あんたが辰巳宗一ね? まぁ聞かなくても知ってるけど」
「ぜぇー、ぜぇー、ぜぇー」
「私は有原涼子。歳は18」
「はー、はー、ぐはー」
「あんたに、用が……」
「ふぅー、ばふぅー、ぜはー」
「…………」
「はふっ、ふぅー、はぁー、ぜぇー」
「ちょ、ちょっと待ってあげるわ!」
なかなか面白い奴だという第一印象だった。
◇◇◇◇◇◇
「で、何だ? 人を転ばしといて侘びもなし?」
「ぐっ。……あんた男のくせに偉そうね」
出たよ、男性差別者。人を転ばしといて男のくせにと来たよ。
有原のような女性はこの時代に来てからうんざりするほど見てきたので、もうハッキリ言って慣れた。
彼女は鋭い目つきで睨んでくるものの、若干幼さの残る容姿で残念ながら迫力がない。縁より少し高い背、160くらいだろうか? それでも178ある俺からしたら小さい部類だ。その小ささと童顔で、笑えばポニーテールの似合うかわいい女の子なんだろうけど……。
「ちょっと! 聞いてんの!?」
これである。出会って5分でヒステリック。観察に忙しかったから聞いてなかったけど。
「だから、なんだっつの?」
「あんた国枝基地長のお気に入りなんでしょ? なんで?」
「む」
なかなか嫌なことを聞いてくる。確かに不自然だもんな、基地長なんて偉い人とよく一緒に居るのは。
しかも軍部唯一の男。さぞやいろんな噂が尾ヒレどころか二足歩行してる事だろう。
でも正直に「研究対象だから」なんて機密を言うわけにもいかないし、大体こんな偉そうな女に正直になる理由がない。
「付き合ってるから」
「なああ!?」
「おっ、ナイスリアクション」
「あっ! う、嘘ついたでしょ!?」
「いや、ホントだけど。紗枝さん寝る時も眼鏡取らないんだぜ?」
「いやああああああああああああああ!!」
凄く面白かった。この時代で初めての弄りキャラを獲得した気がする。
あの三人を弄るのは簡単だが、後が怖い。特に眼鏡の人。
「じゃ、じゃあ、レイストローム基地長は?」
「ああ、アリサさんか。右に同じ」
「何それ!? 二股じゃない!」
「おや、これまたおかしな事を。一夫多妻制ってさいこーだよな」
「うわあああああ! こんな男にいいいいい!!」
これはちょっと意外だった。一夫多妻は認められてるものの、女性としてはやはり不誠実になるものなのか。男性自体少ないので、一夫多妻を日常として捉える機会も少ないんだろう。政府大失敗だな。
「うぅぅ……。じ、じゃあ、縁ちゃんは? ……ぅぅ」
「い、いや、もういいじゃん。泣いてるじゃん、お前」
「いいからぁ……うっぅ」
「ふぅ……仕方ないなぁ。そんなに知りたきゃ教えてやる。縁は…………嫁だ!」
「手遅れだったあああああああああ!!」
途中から可哀想になって来たが、トドメを入れる俺。
しかし、素直な奴だな。全部信じちゃったよ。
「も、もういい! ……ぅぅ……バーカバーカ!」
ポニーテール振り乱して走り去っていった。
子供かお前は……。
「宗一君、女泣かせだな~」
「え?」
声のした方を振り返ると、先日、男性寄宿舎で将棋をしたおっちゃんがいた。軽トラックの窓から顔を出してニヤニヤしている。
「おっちゃん、仕事中?」
「おう。ちくっと材料を取りにな」
「材料? なんの?」
「武器のさ。俺はこの基地の武器の整備、製造の仕事してるからな」
「へぇ~」
「どうだ? 今日の晩、また指すか?」
おっちゃんが右手で駒を指す動作で俺を誘惑してくる。
すごく魅力的な提案だが、まだマラソンが半分残ってるし、走り終えたらぶっ倒れそうな気がするし、う~ん……。
「麻雀でもいいぞ」
「行く」
即決だった。さすが俺の安らぎの地、男性寄宿舎。男を誘う娯楽が満載だ。
◇◇◇◇◇◇
それから気合で基地10週マラソンを終え、その足で男性寄宿舎に直行した。
遼平やおっちゃんらと卓を囲んだものの、俺は既にマラソンで疲労困憊だった。うつらうつらと夢の中まで後一歩の状態で、遼平が心配そうに声を掛けてくる。
「あ、それロンだ。ぬりーなー、宗一」
「ぐあああ! 眠い時に麻雀しちゃダメー!」
しかしロン牌は見逃してくれなかった。勝負の世界は非情である。
そんな感じで男性寄宿舎で思う存分に遊び、我が家である病院まで帰宅した。もう辺りは真っ暗どころか、今日が昨日になっててもおかしくない時間帯である。
麻雀なんかするんじゃなかった。結局ボロ負けだよ。まぁ楽しかったけど。
自業自得な面もあるが、今日は本当に疲れた。これで泥のように眠れる。……そのはずだった。
「……紗枝さん?」
何故か病院前に、紗枝さんが腕を組んで仁王立ちしていた。
「なにしてるんですか?」
「……」
「あれ?」
「…………」
「おーい」
呼びかけても、目の前で手を振っても反応がない。どうしたんだろう。
「……走り終えたら帰って来いと、言わなかったか?」
「え!?」
言ったっけ? 言ったような気がするが、ちょっと今日一日を振り返ってみよう。
ああ、非常に残念な事に、ハッキリと言ってたな、うん。……え? まさか、待ってたとか? マジで? そんなの、イヤよ?
「まさか今まで走っていたとは言うまい」
「あ、いえ……いや~、はっは。俺、足遅いですから~」
「……ほう」
口端が邪悪に釣り上がり、眼鏡の縁がピキューンと光った。……ように見えた。
「……言い訳はそれでいいのか? くくく」
「嘘です! ごめんなさい!」
土下座してみたが、今日はこのまま朝日を見る事になった。
◇◇◇◇◇◇
「ハァ、ハァ、ハァ……ハァ、ぜぇー」
今日も走っている俺。
紗枝さんに走れと命じられてから一週間。何故か今のノルマは二十周になっている。しかも「二時間切るまで毎日続けろ」とか理不尽なことを言われた。
やたら怒ってたし、俺なんかしたっけ? ……したね、はい。でも一つだけ言いたいのは、人間は時速100㎞で走れないと思うんだ。……多分。
「ちょっと! 辰巳宗一!」
「……」
「え……? こら、止まれ!」
「…………」
「な、何で無視すんのよーー! 男のくせにーーー!!」
出やがった……。
有原涼子。一週間前に現れて以来、呼んでもないのに毎日ご降臨なさる。何故、降臨という言葉を使ったかと言うと、本当に上から降ったように目の前に現れるからだ。
上を見上げても空。周りを見渡しても、近くに高さ20m以上のバリケード。遠くに基地の施設。
まぁかなりの不思議現象だが、そんな人間もいるんだろうきっと。そう結論付け、有原の横を無言で通り抜ける。
「ぐえ」
「待てっつの!」
後ろから襟を捕まれた。首が絞まる、苦しい、離せ。
「今日は用があるのよ」
「ゴホッ、ガハッ……。いつもと寸分違わぬセリフじゃねーか、ゴホッ」
「い、いや、いつもあんたが話の邪魔するからよ! 今日はホントに用があるの!」
「何だよ一体」
「ちょっとこっちに来て」
「ったく……」
ひとつ溜息をついて、有原に渋々ついていくことにした。
俺、マラソンの途中なんだぞー、タイム計ってんだぞー……と、ぶつぶつ文句を言いながら何かの施設の裏手まで来ると、そこに一人の女の子が立っていた。
その子は俺を見つけるなり、朗らかな笑みを浮かべて話しかけてくる。
「はじめまして、辰巳さん。私、立川都と申すものです」
「はぁ……」
優雅におじぎしてくる女の子は、まるで日本人形のような艶やかさだった。
隣に並んでいる有原と同じくらいの背丈で、軍服のような制服が浮いていてもったいない印象を受けた。着物を着ればさぞ似合うだろうと容易に想像がつく。
大きく澄んだ瞳。一直線に切り揃えられた前髪。背中まである艶のある黒髪。それらは古き良き、昭和初期の香りを感じさせる。彼女は有原の一つ年下の十七歳だと自己紹介に付け加えた。
「この子があんたと話をしてみたいってさ」
有原はやっと目的を達成したかのように言う。
それだけで一週間使ったのか、こいつは。
「国枝基地長、レイストローム基地長、縁さん。このお三方がご贔屓にされている軍部唯一の男性。興味が湧くのも当然です。それに、こうやって近くで見ると凄く凛々しい方ですし」
横で有原が「こいつが?」という、嫌悪感丸出しの顔になっている。
しかし、礼儀正しい子だな。男嫌いでもないようだし、有原の友達に似つかわしくない。
褒められて悪い気はしないし、話してもいいんだが、マラソンの途中っていうのがなんともタイミング悪い。遅くなるとまたあの悪鬼に怒られる。
「あー、まぁとりあえず自己紹介しておくか。俺は辰巳宗一、歳は19だ」
「ええ、存じてます」
「ん、そっか。じゃあ好きな食べ物はカレー、嫌いな食べ物は甘口カレーだ」
「まぁ。私は両方好きですよ」
「…………」
うん? なんか違う……。
どこがと言われれば難しいが。俺の微妙なネタにマジレスだ。返しも変だし……。
有原は「なに言ってんだこいつ? つまんねーし突っ込みづれぇよ」と言わんばかりの顔である。そう、それだ。
「今から、はいなら『あるある』。いいえなら『ねーよ』って答えてくれないか?」
「あるある」
順応性は高いようである。
「自分の恥ずかしエピソードを思い出して奇声をあげるよな?」
「ねーよ」
「トイレで大をする時、家でするより学校でするほうが快感だよな?」
「ねーよ」
「学校の休み時間、急に静まり返ることってあるよな?」
「あるある」
「その隙をついて屁をしてみたくなるよな?」
「あるある」
「あるの!?」
有原とシンクロしてしまった。
「あの、私からもよろしいでしょうか?」
「ん、どうぞ」
「私と付き合ってもらえませんでしょうか?」
「はぁ!?」
まただ。……かぶんなよ有原。告白より衝撃だよ。まるで気が合ってるみてーじゃん。
「私、恋というものがしてみたいんです」
「は、はあ……」
「この基地一番のプレイボーイ(死語)であり、節操なしであり、色魔であり、正方形であり、黄金の右手(自分専属)であり、サクランボである辰巳さんなら、きっと私に教えてくれると思うんです」
「言い方をソフトにしてもお断りします!」
「なぜですか? 私、こんなにかわいいのに」
「うぜぇ!」
やはりかぶる俺と有原。
ちょ、なんなのこの二人。デコボコすぎるだろ……。
「そ、そろそろ行っていいか? 俺、訓練の途中でさ」
「あるある」
「い、いや。それはもういいから」
「あ、はい。お引き止めしてしまってすみませんでした。またの機会を楽しみにしてます」
「ああ。じゃあな」
俺は二人に軽く手を振り、マラソンを再開した。
有原涼子に立川都か。また話してみてもいいかな。
◇◇◇◇◇◇
「フッ、フッ、ハッ、ハァ」
マラソン訓練開始から二週間。フェイズ1の感触にも慣れてきて、タイムの伸びも順調だ。
ここ最近のマラソン三昧で発見したのは、やはり重要なのはフェイズだと思い知ったことだ。体力も当然、重要なファクターだが、それを向上させているフェイズを、いかに自分のものにできるかがポイントと言っていい。
もう前のような破壊衝動もほとんどなくなり、体も軽い。この短期間で成長を実感できるのは楽しかった。
「……ん?」
見覚えのある二つの後姿が目端に映る。ポニーと黒髪ロング。有原と立川か?
あいつらはあれ以来、二人セットで俺のマラソンを邪魔しに来るようになった。訓練の休憩時間に来ているようで、十分くらいしたら帰っていく。その間は下らない事を話してる記憶しかないけど、最近はそれが少し楽しみだったりする。
その二人が基地施設の影で何かを話し合っているようだが、様子がおかしい。気になった俺は、軌道修正して二人に駆け寄った。
「よう」
「ん? ああ辰巳か」
「あら、辰巳さん」
振り返った二人は、いつもとなんら変わりはなかった。
有原は「ああ、こいつか」と、どうでもよさ気。立川は「こんにちわ」と歓迎ムード。
様子が変に見えたのは、俺の勘違いだったということで落ち着いた。……それを、見るまでは。
「……え?」
二人の前方に、一人の男性が居たことに気付く。その人に俺は見覚えがあった。
「ど、どうしたんだよ、おっちゃん!」
男性寄宿舎で俺とよく遊んでくれる、将棋のおっちゃんだった。そのおっちゃんが頭から血を流し、顔中を腫らし、服は土とほこりだらけの有様で、力なく地面に座り込んでいる。
俺は有原と立川を押し退け、おっちゃんに駆け寄った。
「おお、宗一君。いや、ハハ、転んだだけだよ」
「こ、転んだって……血塗れじゃねーか。一体どう転んだんだよ?」
「大丈夫だから。心配しないで」
「全然大丈夫じゃねーよ。ほら、医務室行こうぜ」
おっちゃんの腕を肩に掛けて医務室に向かおうとすると、意味のわからない言葉が飛んでくる。いや、俺はその言葉の意味を理解したくないだけだった。
「辰巳、なにしてんの?」
「は? ……医務室に行くんだよ」
「なんで?」
「なんでって……怪我してるからだろうが」
「勝手に連れて行かないでくれる?」
有原は次々と俺の理解不能な言葉を吐き出す。
その言葉を別世界から聞いているような感覚に陥りながら、俺はまたかと心中呟いた。
また今日も、自分の耳を疑わないといけない。
「まだやり足りないんだから」