第45話 謝罪と利害
エマさんが基地に来てから三日目の昼。
今日の夜にここを発つらしいので、もうほとんど時間は残されていない状況だが、未だにリナと引き合わす事が出来ないでいる。そして厄介にも、俺自身に新たな問題が浮上してきた。気付けば胸ポケットにある紙を触ってしまっている。
「ねーねー、なんかして遊ぼー」
「あ、ああ……」
服の袖を引っ張ってくる正面のリナに生返事。それが不満だったようで、ぷーと柔らかそうな頬を膨らませた。
今日は休日なので朝からずっと一緒に行動している。これといって何かをした覚えもないが、今は昼食を済ますのも兼ねて、食堂の一角にある喫茶スペースでぼーっと座っているだけだ。
「そーいちはご飯食べないの?」
「ああ、もう少ししたら食うよ」
「ふ~ん。……ひーまー」
俺の金で昼食を腹いっぱい食べたお子様は、余りあるエネルギーを発散したいようで、まったりするのにブーたれてくる。
しかし、なんと言ったものか……。エマさんがあの歌詞を俺に見せた事で、この親子騒動における一連の行動の意味が分かってしまった。分かった上で、俺はどうすればいいのか迷っている。
「ねーねー、オレンジジュースたのんでいい?」
「……ああ」
起点はエマさんであり、あの歌詞だ。歌詞の内容を簡単に言えば、この男性不遇時代に対する糾弾だ。あのテロリストの声明と大差ない歌詞を、現代の歌姫であるエマ・ソルヘイムが世界に向かって歌うのだ。その影響力たるや相当のものになるだろう。そしてそうなれば、後にどういった現象が起こるかは明白。
まず、エマさんは世間から凄絶な批判を浴びる事になるだろう。下手をすると歌手として再起不能なダメージを負ってしまうかもしれない。そしてその批判は悪意となって、娘であるリナにも波及する。基地のマスコットキャラから一転、リナは後ろ指を差されるような存在になるだろう。
「ねーねー、このうずまきみたいなお菓子たのんでいい?」
「……ああ」
エマさんは恐らく、リナを突き放そうとしているのだろう。娘を大事に思うが故に。
だがそれならば、そもそもそんな事をしなければいいと思うんだが、そんな簡単な話ではないんだろうな。
なにかの覚悟に基づいた行動である事に疑いの余地はないが、それでもエマさんは迷っているんだろう。こうして娘に会いに来たのが良い証拠だ。……いや、もしかして基地に来たのは、別れの挨拶、とか?
「ねーねー、このケーキたのんでいい?」
「……ああ」
そしてもう一つ。彼女は俺を只の軍人とは思っていない。俺にリナとの事を一任してきたのも、俺の事を探るように訊いてきたのも偶然ではないんだろう。
全てを分かった上だと仮定すれば、その目的はなんだ? まさか、統一戦線と繋がっているなんて事もあり得るのか?
俺がこの時代で初めて会った、女性でありながら男性不遇を嘆く人。築き上げた全てを捨て、愛する我が子を捨ててまで、彼女は闘うと言うのだろうか。
「ねーねー、もいっこケーキたのんでいい?」
「……ああ。って、どんだけ食うんだよこのちくりんが! 俺の昼飯分まで食うつもりか!?」
俺そんな金持ってないんだぞ! バクバク食いやがってこの成長期が! この時代のケーキたけぇんだぞ!
「そーいちが一杯食えよって言ってたもん」
「うっ……わ、わかった。これで最後だからな。一杯食ってもいいけど、横にだけは行くなよ。お前は将来有望なんだから」
「え? そ、そかなそかなぁ、えへへー。じゃあ、もうちくりん言わない?」
「え……? 言うよ?」
「な、なんでそんな不思議そうなんじゃあああああ!」
ああもう、子供の癇癪は耳が痛い。俺はそれどころじゃないのだよ。
そもそもこいつはエマさんのしようとしている事を知っているんだろうか? ……まぁ知らないだろうけど、探りを入れてみよう。
「なぁリナ。お前、お母さんの仕事に詳しかったりするのか?」
「……ううん。お母さんそういうの全然教えてくれない。別にどーでもいーし」
そう言って興味無さそうにケーキをほうばるが、演技しているのが丸分かりである。
まぁ、そうだろうな。いくらこいつが子供だとはいえ、あの歌詞の意味が分からないとは思えない。今、俺がこの紙をリナに渡せば、こいつはどうするんだろう? ……悪戯に思われるのが関の山か。
「…………くく」
「な、なにそのぶきみな顔?」
いくら考えても、俺の出来る事なんて無い。不毛すぎる考え事に笑ってしまった。
だってそうだろう? これはこの親子の問題であり、他人が介入するところなど皆無だ。どうするかは本人が決める事だし、どう行動するか他人にどうこう言われてやるものじゃない。
だから俺ができることと言えば、こいつに選ばせることくらいしかないのだ。
◇◇◇◇◇◇
「滞在期間を延ばす、ですか?」
「はい。なんとかなりませんか」
俺の要望に、エマさんが不思議そうに首を傾げる。まったくもって正常な反応だ。
「スケジュールを調整すれば可能だとは思うけど……ただ留まる事に意味を感じないのだけれど」
「いえ、意味はあります」
俺はそう言って、胸ポケットからエマさんに渡された紙を取り出す。
四つ折にされた紙の内容は、エマさんの護衛や紗枝さん達には見えない。だから俺の言葉の意味も行動の意図も当然読めない。少しだけ内容を書き変えたその紙をエマさんに手渡すと、
「……ふふ」
半分ほど読んだくらいで、おかしそうに肩を震わせる。そして俺に目配せをひとつ。
「俺と一曲、作ってください」
「……え?」
読み終えて顔を上げたエマさんに、間髪入れずにそう言った。
「そ、そう来るとは思わなかったわ」
エマさんが心底意外そうに言う。紗枝さんも、こいつ何がしたいんだ? といういぶかしんだ目で俺を見ている。領家に至っては、失礼な事をしたら殺すと睨みつけてくる。
「作詞、作曲、辰巳宗一。歌手、エマ・ソルヘイムで、リナに一曲プレゼントしましょう」
これでもダメなら、もう諦めるしかない。他人がでしゃばれるのはここまでだ。
俺の荒唐無稽な提案に、エマさんはしばらくの間、顔を伏せて目を閉じていた。膝に置いている手が、微かに震えているのが見える。
「……ええ。良いアイデアね」
今から一週間。
俺とエマさんは、来るべきシークレットライブの為、曲作りに没頭することになった。
◇◇◇◇◇◇
「来てくれてありがとう! お前ら大好きだーーーー!」
しーん……。
ライブ前の俺のハイテンションMCは、まだ春の冷たい風に流されていった。
ちっ、ノリわりー観客共だなぁ。今日は一日、嫌な事を忘れてはじけてIKOUZE。
「うざー……」
有原がぼそっとつぶやいた。その両脇に座っている縁と立川も同感のようで、なんともいえない苦笑いを浮かべている。紗枝さんとアリサさんはリアクションが面倒なのか、こちらを見もしていない。とまぁ、以上五人がこのシークレットライブの観客だ。
監視や護衛の方々(特に領家)には悪いが、紗枝さんに頼み込んで引かせてもらった。ここ最近、俺がリナ関連で行動していた時は常に監視の気配があった。まぁそれは当然の配慮だし、隣にいられるよりは何倍もマシなので有り難かった。
場所は基地施設の中で一番広い屋上を使わせてもらうことになった。俺は皆から貰ったアコースティックギターを装備。エマさんは用意すると言ったマイクを断り、そのまま歌う気だ。流石はプロの自信というべきか、そのくらいは当然なんだろう。
そして今回の主役であるリナは……。お、いるいる。
「っ!?」
俺と目が合ったリナは、慌てて扉の向こうに引っ込んだ。
このライブの事を話してからずっと「行かない!」と意地を張っていたが、まぁ所詮は子供の意地であり、エマさんの前には出れないもののしっかり来ている。そうでなければ困るんだけどな。
「始めましょう」
準備が整ったようで、エマさんが俺に促してくる。それにしっかりと首肯して返す。
この場にいる観客は熱狂的ファンという訳ではないが、それでも全員一度は彼女の歌を聴いた事があるようで、この状況がどれだけ贅沢な事か分かっているだろう。伴奏としてギターを弾かせてもらう俺も、彼女の隣に立っているだけで緊張してくる。ステージに立ったエマさんが発散する空気は、どこまでも本気だ。
「……」
エマさんが扉の影に隠れているリナに目を向けて、一瞬だが柔らかに微笑んだような気がした。
「……いいんですか?」
「ええ」
俺は最後の確認をエマさんに取ると、彼女はなんの躊躇も無く頷いた。
「……ふぅーー」
一度、空を振り仰ぎ、深く息を吐く。肩に掛かるストラップの位置を調整し、ネックに左手を当て、ピックを握りなおす。
この歌が終わった時、歓声はあがらない。これは只の親子の儀式なんだから。結末は娘との和解か、それとも離別なのか。
俺は出来うる限り最高の未来を思い描き、マイナーコードを屋上の青空に向かって鳴り響かせた。
――――三日前。
「ダメダメ、なにそのコード進行。ありきたり、20点」
「……がく」
厳しい。厳しすぎるよエマさん。
作詞、作曲、俺! と豪語したものの、その全てにダメ出しを頂いている。これじゃあ全部エマさんが作っているようなものだ。まぁ素人の俺がそう簡単に、彼女を満足させる曲を作れるとは思っていないけどさ。というか、そんな条件が来ると思ってなかったし。
「エマさん。……歌わないという選択は、できないんですか?」
二人とも手が止まる。そうできるのなら、最初からこんな曲を作る必要は無いんだ。不毛な問答だということは、なんとなく理解している。
俺からすれば、いや、他人が見れば誰でも、リナは親のわがままに振り回される可哀相な子供だ。この歌を世界に向かって歌うなんて愚行を諦めれば、何も起こらないんだ。
「そうね。ここまで付き合ってもらったあなたには話しておこうかしら」
二割ほどしか埋まっていない五線譜を机に置き、エマさんは俺に顔向ける。
「夫との、約束なの」
ダメだししていた時とは一転して声のトーンが下がる。
「私達はイギリスの出身なのだけれど、リーナが物心つくころには日本に移住していたわ。いえ、そうするしかなかった。今のイギリスは国際的に亡国として扱われているほど国土を失っているわ」
「カーズの侵攻、ですか」
「そう。でも、イギリス国民はまだ国を諦めていない。今でも二割まで減ってしまった居住可能地域で抵抗しているわ」
ヨーロッパにあるカーズの拠点は三つ。イギリス、ノルウェー、フィンランド。
その中でもイギリスは、島国という点が最悪だ。日本のように北海道、本州、四国、九州と分かれていれば、間にある海がカーズの侵攻を遮る役割をしてくれるのだが、イギリスにはその天然の要塞が無い。
「まだイギリスに住んでいた時、軍人である夫はいつもこう零していたの。まとまることのできない人類がカーズを退ける事なんてできない、何でそんなことが分からないだ、って。毎日毎日聞いてるこっちが飽きるほどね。……おかしいと思わない?」
「おかしくはないですが……まぁ少し、なんというか……純粋ですね」
「そうよね、子供でも知っている事なのにね。……ふふ」
苦しくも幸福だった日々を懐かしんでいるのか、エマさんは笑みを零した。
「でもね、そんな子供のような彼の言葉に、私は誰よりも賛同しているの。いいえ、感化されたのかもしれないわね。彼の望みはいつしか私の望みとなっていた」
子供でも理解している事を、大人が実践できない。なんとも情けない話だと思うが、世の中は往々にしてそう出来ている。一介の軍人がそれをどんなに訴えたとしても、何を奇麗事をと嘲笑されるだけだろう。
「亡命の日、イギリスに残る彼の見送りに、私は赤ん坊のリーナを抱きながら約束したの。いつか私があなたの代弁者になってみせる、って。その時にはもう私は歌手として世界進出していたから、出来ると思ってた。……だけど彼はこう言ったわ、『おいおい、その胸に抱いているのは人形なのか? せめて俺達の許可を取ってからにしてくれよ』って笑いながらね」
この人は、紛れも無く夫を愛している。幸せそうに語る彼女の言葉の端々には、愛している男性への情が溢れていた。
俺が一番、問いたかったのは「女性であるあなたが何故そこまで?」という、この時代なら当たり前の疑問だったが、それが俺の口から出ることはなかった。
彼女が夫以外の男性をどう思っているのかは分からないが……いや、そんなものはもう関係ないんだ。夫との約束を果たす為に、ただ突き進んでいる。……盲目的に。
「旦那さんの許可を取れたから、リナに会いに来た訳ですね」
「いいえ。夫の許可も取れていないわ」
「え……? 反対されたんですか?」
「もう、訊けないの」
「…………」
嫌な想像というのは、何故こんなにも裏切らないんだろう。いや、俺は薄々気付いていた。
その人がこの場にいるのなら、彼女は歌わないだろう事を。
「亡命から一年後、戦死したとイギリスから通知が届いたわ」
重苦しい沈黙が降りる。今この部屋には紗枝さんと護衛数人が待機しているが、なにも喋っていない彼女らすら沈黙したような印象を受けた。
そもそも彼女の夫がイギリスで戦死しているという情報は、著名人である彼女にとっては周知の事なのだろう。彼女のファンどころか、時事に疎くなければ一般人でも知っている筈だ。だが本人が語るエピソードには血が通い、聞く者の心を揺さぶってくる。マスコミのスキャンダルなどと比べるまでもなく。
「私はリーナには出来る限り自由に生きてもらいたいと思っているの。でも、私の娘である時点で窮屈な思いをさせているわ。だからこれ以上、あの子に私の娘である事を押し付けたくないの」
「これを歌った後は、どうするつもりですか?」
世界を敵にした後は、という意味だ。
「そうね……。既にこの基地でもあの子は有名みたいだし、ここにはいられないわね。軍を抜けさせて私の知人に親権を引き取ってもらうかするでしょう。もちろん、あの子が望めばだけれど。……ほんと、我ながら勝手な事を言っているわね」
望む望まない以前に、それしか選択肢がないと言うのが正しい。だが、エマさんがリナの事を心配しているのは間違いない。その準備も出来ているのだろう。
「ソルヘイム氏、それ以上は」
「あら、ごめんなさい国枝さん。少し喋りすぎたようね」
紗枝さんが割って入ってくる。既に彼女の言葉は、発声してはいけないレベルだ。
これが画面の向こう側での発言なら、それを見ている人達はどういった反応になっているのか。彼女が歌い続けてきた目的がそれだけだと知ったら、追いかけてきた人達はどういった気持ちになるのか。まさに、裏切り行為に等しい。
「……なら、英語版も作らないといけないですね」
「元々そのつもりよ。最初に渡したのだって日本語訳の歌詞だったのよ。でもあの子、日本語しか分からないから、あの子に聞かせるときは日本語でないとね」
俺はしたくもない確信をしてしまった。エマさん本人も言っていたように、彼女は本当に勝手な事を言っている。天秤の対に、娘や今まで応援してくれた人を置いてすら揺るがない。
不成立になってしまった約束への執着は、もう狂信とさえ言っていい。そして他人から見れば、暴挙だろう行為も躊躇わないその覚悟。
ああ、やっぱり彼女は……あのテロリスト達と何も変わらない。だから俺は、彼女を畏怖しながらも、分かってしまったんだ。
「もうひとつ、訊いていいですか?」
「んもう、早くしないと間に合わないわよ。一体なに?」
「あなたは、娘を愛していますか?」
「……愚問ね」
彼女を折る事は、もう誰にも出来ない。
それが例え、実の娘であっても。
――――。
曲全体の三分の一。それが、俺がギターを弾くことの出来た時間だ。
誤解を生んでしまいそうな表現だが、決して俺がコード進行を忘れてしまったとか、技術的に演奏できなかったとか、ギターの弦が切れてしまったという話ではない。
この日に備えて練習してきたし、簡単なコードのみの曲なので、高いレベルではないが全曲通じて演奏できるはずだった。だが俺のアコースティックギターは沈黙し、エマさんの歌声だけが、その場にある音の全てになっていた。
エマさんが歌いだした瞬間、そのあまりの歌唱力に意識を持っていかれた。いや、これを単に歌唱というジャンルに収めてもいいのか。そんな風に思わせるほど、彼女の歌声は澄んでおり、重厚であり、張り詰めていた。
音響などあったものではないこの屋上で、奥深い音の束は空に向かい、拡散し、ふってくる。圧倒的な緊張感を湛えて。
聞き惚れた。俺の演奏が止まってしまったのは、その一言に尽きる。彼女の歌声に圧倒され、耳に意識を集中する以外の行動を封じられたように、呆然と彼女の姿を捉える事しか出来なかった。
体感ではその長短を把握できなかった僅か四分半。
たった一人で紡ぐ旋律は、フルオーケストラのような暴威で落ちていった。
「――――……」
最後の余韻を引き摺ったまま、エマさんはゆっくりと頭を下げた。
「辰巳君」
「……は、はい!」
「途中で演奏を止めるなんて0点ね。……ふふ」
「す、すみません……」
まったくその通りです。言いだしっぺは俺だってのに。でも、不思議と後悔は無かった。
エマさんの呼びかけで意識を引き戻した俺は周りに目をやった
「……」
予想通り、拍手のひとつも起こらない。全員が全員、眉をひそめて戸惑った表情になっている。彼女達の心境は、最高の歌声への称賛と、最低の歌詞への混乱でない交ぜになっているのだろう。
俺とエマさんで作った歌詞は、エマさんの詞を少し弄っただけで、根っこの部分は何も変わっていないのだ。
「……申し訳ないが、聞かなかった事にします」
最初に口を開いたのは紗枝さんだった。
やっぱり、こうなったか……。だがこれは当然の事だ。最高とは程遠かったが、最低でもない。むしろ感謝すべき大人の反応だ。
「……しかし」
「え……?」
「あんな歌を聞かされちゃあ、この屋上から出て行くまで忘れられそうに無いわね。ね、みんな」
アリサさんがウインクしながら紗枝さんの後に続く。
「ええ、そうですよ。音楽をあまり知らない私でもチキン肌全開です」
「感動、しました……ぅ……。これから……ぅえ……CD全部、集めます……ぅぇえ」
立川がアリサさんに続く。有原は単純に歌に感動しているようで、時間差でぼろぼろ泣きだした。そして縁が立ち上がり、エマさんと俺に向かって何度も大きく手を叩いた。それを皮切りに、大小様々な五つの拍手が重なり合っていく。
「……ぅ」
やばい……。俺まで有原みたく泣きそうだ。ただでさえエマさんの歌で引っ張られてるってのに、これはまずい。
だが感動してる場合じゃないぞ、俺。
「皆、ありがとう! では解散!」
「え? ちょ、ちょっと宗一君!?」
「あああ! も、もうちょっと余韻に浸らせなさいよ!」
非難轟々もなんのその。その場にいる観客五人を屋上から追い出す。当然、俺も出て行く。
「っ!?」
扉を開けた先のリナが、驚いた顔で俺達を見上げてくる。その頬には涙の跡が見えた。
「リナ、行って来い!」
その小さな背中を押してやる。勢いが強すぎたのか、リナはつんのめるような形で屋上に飛び出していった。それを確認してすぐさま扉を閉める。
リナが俺に何か言ってたような気がしたが、そんなものは知らんと無視する。
「よし帰ろう。じゃあ帰ろう。すぐ帰ろう」
「お、押さないでよ! わかったから」
これで俺が出来る事は全て終わった。ご覧の通り、ほとんど何もしていない。俺がした事は、リナに選ぶ場を用意してやっただけだ。
これから先はリナが決める事。あいつがあの歌に拍手を送り、不遇の未来を受け入れるのか、それともエマ・ソルヘイムの娘である事を手放すのか。そんなことは他の誰でもない本人が決めるしかないんだ。
親に振り回されるリナは、可哀相な子供なのかもしれない。だがエマさんは、そんな事など百も承知でリナに向けて歌った。だから、あの歌は娘への決意表明であり、謝罪なんだ。
折る事の出来ない母を許してくれ、と。
◇◇◇◇◇◇
「辰巳君。お世話になったわね、良い休暇になったわ」
「いえ、こちらこそ楽しかったです」
エマさん出立の日。
司令部の前でエマさんを見送る事になったのだが、周りがすごい状況になっている。彼女を一目見ようと、数えるのも馬鹿らしくなるくらいの女性が俺達を取り囲んでいるのだ。
「お母さん、また来てね」
「ええ。リーナも元気でね」
抱擁を交わす二人。その姿はまさに親子そのものだった。
良かったな、などと一概に言う気はないが、それでもそうできたことに喜びを感じてしまう。
「ちょっと、そこの男邪魔!」
「ゴミがフレームに入ってくるな! 容量がもったいないだろ!」
「グロ写真を撮る趣味はないんだけどなぁ」
「……」
ひでぇ……。てかお前らもうちょい自重しろや。仮にも軍人だろが。
「……ふふ」
「え」
エマさんが意地の悪そうな笑みを浮かべたと思った直後、ふわりと俺に抱きついてくる。
やばっ……! 咄嗟に耳を塞ぐ。
「きゃあああああああああああああああああああああああああああ―――!!!」
ぐああああ……! 耳いってぇぇええ! 塞ぐぐらいでは魑魅魍魎どもの超音波を防ぎきる事が出来なかった。絶対分かってやっただろう、エマさん。
いいかい、君達? これはただの欧米式の抱擁で、挨拶みたいなものなんだ。男女のこれとかあれとかそんなものなにもないんだから勘違いスンナああすげー良い匂い……じゃなくて! もう分かった! 恥ずかしいから離してくれ! 俺の命を守る為にも!
「あなたを――」
え……?
エマさんはある呟きを残し、俺を解放して一歩後ろに下がった。その言葉があまりにも衝撃的過ぎて、周りの女性達の悲鳴がどこか遠くの世界で響いている。
「辰巳君。タイトルは決まった?」
「……あ。は、はい、一応」
呼びかけに意識が戻ってくる。
そうなんだ。あの歌の題名が最後まで決まらず、宿題としてこの日までに考えなければならなかったんだ。一応、作詞作曲は俺(九割エマさん)なので、題名も自分で考えろとの事だ。
名義を俺にしたのは、曲作りの際、エマさんの側近や紗枝さんの突っ込みを逸らす都合が良かったからで、特に他意はない。だからあの歌はあの時の一回こっきりになるのだが、エマさんがそういうのなら最後までやり遂げよう。
「――――で、どうですか?」
肝心な部分が、その瞬間だけ大きくなった喧噪に飲み込まれてしまった。もう一度言い直そうと口を開きかけた時、
「良いタイトルね。合格よ」
エマさんが一発オッケーを出してくれた。曲作りしていた時には無かった事だ。
嬉しさと同時に申し訳ない気分になったのは、これは俺の創作したタイトルではないということだ。まぁこういうのは言葉遊びの亜種なので、どんなタイトルをつけてもどこかで聞いたことのあるようなものになってしまうものだ。
そう言い訳しつつ、これを書いた人も許してくれるだろうと思うことにした。細かい事は気にしねー、みたいな人柄だしな。
「エマさん、さっきの返事ですが」
「もういいの? 考える時間が必要だと思ったのだけれど」
「いえ、必要ありません。その話、こちらからぜひお願いします」
呟きの返答を今ここで済ませる。返事など元々ひとつしかないのだ。
「本当に? 私はあなたを利用しようとしているのよ? 意味は伝わってる?」
「はい、分かってます。どちらも俺の望む所だし、利害の一致と言ってください」
「……わかったわ。あなたも『そう』なのね」
それは買いかぶりすぎだ。少し照れ臭いぞ。
「いえ、まだ予定ですから、ははっ」
「っ……ありが、とう……」
エマさんは口元を手で隠し、誰にも見えないよう俺の影に入って深く顔を伏せた。そんな母を、リナは心配そうに見上げている。
不安にさせてしまってごめんな。でも、エマさんは決して悪い意味でそうなっているんじゃないだ。
「じゃあね、リーナ」
「うん!」
エマさんはリナともう一度抱擁を交わす。これでまたしばらくお別れだ。
俺はとリナは、エマさんを乗せた車が見えなくなるまでその場に立ち尽くしていた。
「そーいち、お母さんなんて言ってたの?」
リナが俺を見上げて袖を引っ張ってくる。
「ああ。リナをお願いって……。それと……」
「それと、なに?」
「……リナはいまだにおねしょするから気を付けてってよ」
「おねっ!? す、するかばかあああああ!」
癇癪を起こしたリナをおいて逃げる。リナから逃げるというよりは、ストッパー(エマさん)を無くした暴徒から逃げる。ここにいると俺のガラスのハートが多分に心配なのだ。
後ろからリナが叫んでいる。喧噪に紛れて聞き取れないが、間違いなくその声は弾んでいた。
あの年齢で不遇の未来を受け入れた少女に、悲喜どちらを感じればいいのか分からないが、俺の口元も間違いなく釣りあがっているだろう。
まったく役に立てず、解決なんて言うのもおこがましい結果になってしまったが、リナが選んだ未来にこそ俺の出来る事があるかもしれない。
そして、やはりというべきか。推測どおり、エマさんは何らかの組織と繋がっていて、俺に関する情報を持っている。それが男性統一戦線かどうかは不明だが、それに近しい組織と考えて間違いない。知っているにも関わらず無知を演じていたのは、監視されている場でどれだけの情報が引き出せるか試したのだろう。
エマさんが情報を持っていると確信したのは、俺が改変した歌詞を彼女が見た時だ。疑いを持った俺は、歌詞という筆談を使い、彼女にカマをかけた。
最終的には影も形も消すようにしたが、最初にエマさんに提示した歌詞には、あのテロ事件での裏側の動向を匂わせておいたのだ。すると彼女は笑った。「知っているぞ」と。
今それを知っているのは政府上層部と一部の軍関係者だが、後一つだけ思い当たる。
統一戦線の本体。もしくは、電波妨害の解除を第一に要求してきたテロリスト達、その情報の流出先。
「リナーー! お前の母さんなあ! 女だっだぞーーー!」
「しっとるわーーー!」
いつの間にか真後ろにいた。耳がキンキンする。
エマさんはこの時代で会った女性の中では、俺が持つ女性像に一番近かった。外見ではなく、内面的にそう感じた。
彼女は臆病で、冷徹で、涙脆く、盲目的で、計算高いリアリストだ。そして一人の男を全身全霊で愛し、包み込む母性を持ち、女性にしか無い確かな優しさを持っている。
エマさんはあの歌をリナに聞かせる事も無く、娘を突き放す覚悟を決めていたはずだ。だからこそリナに冷たく接していた。
だが揺れていた。揺れていたからこそ基地に来たのだ。そして別の決断をした。娘に向き合い、選択を委ねようと。
「……もう逃げないの?」
俺の上着を掴み、不満そうに見上げてくるリナ。ここまでくればもう脅威は去ったからな……って逃げて欲しいのかよ?
おねしょ疑惑に文句を言ってくる事もなく、リナは頬を赤く染めて俯いた。何かモゴモゴと口を動かしているが、中々言葉が出てこない。
「ふわっ!?」
柔らかい頭の上に手を置き、ワシワシとかき混ぜてやる。
お前はいいよ、言わなくて。いや、言う必要なんてないんだ。
リナは「くすぐったいやめろ」とか言いながらも俺の手を払ってこない。はは、分かりやすい奴。
「ありがとう……か……」
「え、なに? って髪がグシャグシャになるー」
この時代であんなに真っ直ぐに感謝されたのは初めてかもしれない。でも本当は、礼を言うのはこっちなんだ。
エマさんは、俺が一番欲しいものをくれる。それは厚意などではなく、お互いの損得が絡み合った取り引きに近いものだったが、そのほうが安心できる。俺は彼女の夫でも娘でもないんだから。
「や、やめろってばかぁ」
「まあいいじゃん、今だけなんだから。なんなら大サービスで抱きしめてやろうか? ほ、ほら、はやくおいで、ハァハァ」
「ひわぁ!? そ、そーいち変態だった! 皆に言ってやるうううううう!!」
「それは困る!? おい、冗談だやめろ! や、やめろください!」
北海道から生きて帰ってこれたなら、俺はそれを手にできる。
あのテロリストが言っていた、俺に出来る事。俺にしか出来ない事。
自分勝手な理想を叶える手段――。
世界を変革する小さな欠片を。