第40話 人差し指
喉が……渇いた……。
そんな生理的欲求で、意識が覚醒した。
ここは、どこだ……? 電気も無いし真っ暗だ。今、何時だ? あれから、どれくらいの時間が経ったんだろう? 眠っていた訳でもないのに、今この時が分からない。
兵士達に取り押さえられた事は、ボンヤリと覚えている。記憶が途切れたのは、彼の自殺を見た次の瞬間から。
そうか……。俺は今、監禁されているのか。
「……ぐ……ぅ」
く、苦しい……。起きようとした体が言う事を聞かず、床に再び舞い戻ってしまう。
擦り傷や打撲の跡はあるけど、その痛みよりも、体全体を覆う倦怠感と疲労感が凄まじい。筋肉と体の節々がギシギシと軋む。過剰に体を酷使した後のようだ。
「どうだ?」
「しばらくは動けないかと」
遠くから紗枝さんの声が聞こえる。どうしてか、久しぶりに聞いた気がする。
「入るぞ」
ドアを開けて入ってくる紗枝さん。真っ暗だった部屋に、一筋の光が差し込んでくる。
どうぞ、とも言えず、うつ伏せになったまま出迎える。申し訳ないが、体も口も動かない。
入ってきたのは、紗枝さんとアリサさんのようだ。薄くしかない視界の端に白衣が映った。
「落ち着いたか? ……と言っても喋る事もできないか。なら指でサインしろ、イエスなら人差し指。ノーなら小指を立てろ」
人差し指を立てる。それだけで、手の筋がつりそうになった。
「今回ばっかりは、お前の行動は見逃せないな。何のことか分かるか?」
少し逡巡した後、小指を立てる。
「やはり、覚えていないか……。お前はあのテロリストが自殺した後、兵士達に襲い掛かった。すぐ取り押さえたから怪我人などはでなかったが、あれは立派な殺人未遂だ」
まじ、か……? 全然、覚えていない。
「それで、お前に少し訊きたい事がある」
なんですか? という意味で人差し指を立てる。
「お前は稀に、普段の理性的な行動からは考えられないような暴走をする。有原達と揉めた時、無謀にもフェイズを上げた事。防衛戦での自殺にも等しい特攻。何があったのかは知らんが、男性街で自己干渉能力を手に入れた事。そして今回のテロ事件においては言わずもがなだ。……そういえば、講義の最中にもあったらしいな」
返信はできなかった。
「特に男女間の事になると、それが顕著に現れている。思い当たる節はあるか?」
少し間を置いて、人差し指をゆっくりと立てる。
「お前が過去からの来訪者と仮定するのなら、この時代に戸惑うのも当然だろう。だが社会問題に対しての不満は、不遇な扱いを受け続けてきたこの時代の男性には遠く及ばない筈だ。だがお前はこの時代の男性以上に、この問題を嘆いている節がある。これはどういう事だ?」
わかりません、という意味を込めて小指を立てる。
「ひとつ疑惑がある。今までの検査結果ではその証拠はなく、只の推測にすぎないが」
なんでしょう?
「お前、もしかして……操作されていないか?」
!? ……それは、カーズに……という意味か?
くそっ、もどかしい。何で俺の口は動かないんだ。
「操作されているかどうかは脳波から出ている電気信号で判別できる。普通の人間が起きて活動している脳波は、周波数で言えば8Hz以上。測定部位によって異なるが、一般的にα波、β波と呼ばれるものだ。対して赤目の脳波は常に5Hz未満という低い値になっている。これはほとんど眠っている状態だ」
それが俺の検査結果には現れてないって事だろ?
「他者の精神に干渉できる能力者なら、主観的にそれを捉える事が出来る。なにせ操作されている赤目の精神は空っぽで、触れる事もできないからな」
存在しないものに、干渉することはできない。当たり前だ。
俺の精神は空っぽではない……筈だろ?
「カーズ拠点から発見されたお前を只の人間だとは思っていないが、それは肉体面だけだと勘違いしていたのかもしれない。赤目と違って、お前は自分で考え、行動できているからな」
俺も、そう思っている。
「赤目とまったく違った……そうだな、例えば何かをトリガーにして発動するようプログラムされているとか」
「紗枝ちゃん、さっきから全部私の言葉なんだけど?」
「う、うるさい。話の腰を折るな」
思い当たる事があり過ぎて、指をどう動かしていいのか分からなかった。同時に認めたくなかった。この感情が、操作されたものだなんて。
「宗一君、今からいくつか質問するから、正直に答えてね」
アリサさんに人差し指を立てる。
「自分は過去からやってきた」
人差し指を立てる。
「この時代の男女差別は許せない」
人差し指を立てる。
「悪いのは女性」
……小指を立てる。
「女性が憎くて仕方ない」
…………。
「正直に」
小……いや、人差し指を……立てる。
「自分の行動や感情が信じられない事がある」
……人差し指を立てる。
「覚えている限り、男女間の事で、我を失いそうなことが何度もあった」
人差し指を……立てる……。
「男女間の事で状況を問わず、フェイズが自分の意志とは無関係に起動した」
「っ!?」
それは……。
「どう?」
…………人差し指……だ。
「やっぱり……ね……」
アリサさんが残念そうに、上げられた指に溜息を吐く。
その質問と答えはまさに、俺が操作されている疑惑を裏付けてしまう証拠のように思えた。
「じゃあ最後の質問。私の精神干渉を受けて、今の危うい人格を矯正したい」
「……っ……」
口から呻く様な声が漏れた。
アリサさんは俺に問うような言い方をしているが、これは恐らく強制だ。仲間である兵士まで殺そうとする狂人を、このままにしておくわけがない。そして研究対象という面から考えても、そのほうがどう考えても都合がいい。
「えっと、補足しておくと、これは宗一君の自己干渉を他者に向けたものなの。一種の暗示と思ってもらっていいわ。自分でやるよりはどうしても強制力が落ちるし、後で私がキャンセルする事もできるから、安心して」
嘘だ。催眠術なんて生易しいものじゃない。人格を外部から矯正するなんて、操作と変わらない。操作されている疑惑のある俺を、上書きで操作する気なのかもしれない。キャンセルできると言っても、それはアリサさんにしか不可能だ。俺の自由意志は放棄されている。
「……ごめんね」
そう言いながら、額に手を伸ばしてくるアリサさん。
それは一体、何の謝罪だ? これから行なう干渉が、俺にとって望ましくないものなのか? 今まで基地に閉じ込めておいて、さらに精神まで意のままにしようとする事か? 俺が研究対象でなければ、私は味方でもなんでもないという意思表示なのか?
「……」
今の俺は、理性的に判断できているだろうか? それとも、トリガーに指が掛かった状態なんだろうか?
殺してやりたいほど憎い。そんな感情が今も少しずつ、意識の奥底から漏れ出ているように感じる。だがその殺意を、決して目の前の二人には向けたくはない。縁にも、有原にも立川にも、味方の兵士達にも同様だ。
しかし、今はそう思えているのに、あの時の俺はアリサさんの手を掴み、感情のまま醜い言葉を吐き、挙句の果てには仲間すら殺したいと思い、そして、殺そうとした……。
思い返せばテロ事件のみではない。今までの俺は、本当に危うい存在だった。操作されていようがいまいが、味方を殺すなんて絶対に許されない行為。だが、アリサさんの干渉を受け入れるという事は、自分のこの感情を嘘だと認める行為に他ならない。
「宗一、私を殺したいのか?」
「っ……」
俺の心を見透かしたように言い放つ。テロリストの返り血を浴びた紗枝さんの姿が脳にリアルに投影され、漏れ出ていた殺意がその勢いを増す。
いくら言葉で飾ろうと、感情に嘘はつけない。今でも俺は、あなたを殺したいと願っている。
「くく……私はお前の嘘を吐けない所が嫌いではない」
天井に向けられた人差し指を見て、不敵とも言える笑いを零す。
何が、おかしい? 俺は、あんたを殺したいと言っているんだぞ?
「時には仲間を捨ててまで手にしたい目的もあるだろう。今回のテロ事件はお前にとって、その選択肢が突きつけられるものだった。なにせお前は男なのに、こちら側に立っていたからな」
力尽きたように人差し指を下ろす。
「私はその裏切り行為を咎めはしないが、それはお前の描く未来に繋がっているならば、だ。今回のように何の意味もなく仲間を殺そうとする、感情に振り回されただけの行動は認めない。それが操作の結果であるなら尚更だ」
あの行動の発露が、カーズの操作だろうと俺自身のものだろうと関係ない。そのどちらであろうと、俺に干渉して人格を矯正する。紗枝さんはそう言っている。
中途半端な位置で手を止めていたアリサさんが、屈み込んで視線を合わせてくる。彼女の蒼い瞳は、さっきの謝罪を表現するように頼りなく揺らめいている。
「……」
この手を受け入れたら、俺はどうなるんだろう? 今まで感じてきた、この時代に対する鬱屈から解放されるんだろうか。もう男女間の不条理には興味すら持たなくなってしまうんだろうか。
知人が理不尽な暴行を受けていても、目の前で誰かが殺されても、女性と関わらないように距離を取り、投げられた石を受け止めず、告白してくれた子からも逃げだし、そして――彼の満足な死を、第三者のような冷めた目でただ見下ろすのみだったんだろうか。
「……っ……」
俺はこの手を拒絶したら、どうなるんだろう? 操作の疑惑が払拭されないまま感情に流され、目の前まで伸ばされた手をまた掴み取り、湧き出る殺意のまま仲間に手をかけてしまうんだろうか。
この世界に来て世話になった人達、その全てを裏切った末、俺は自身の望みを叶える為に、ただ邁進するんだろうか。あの夢で見た、何も無い荒野を歩いて。
「……っ……が……」
動け……。動けよ! くそっ! なんで、動かないんだよ! この役立たずの手は。
もうアリサさんの手が目前まで迫っている。このままだと、俺の意志とは無関係に干渉されてしまう。それは今までの俺が死ぬということになるんじゃないのか? そんな事、受け入れられるわけが無い。
――……どいつもこいつも、勝手な事を言いやがって。
動け……。
――なにがごめんね、だ。なにが咎めはしない、だ。基地に閉じ込めておいて、俺の感情すら消そうとするお前らが、何を偉そうに正論を吐いている? 今更、何を謝る?
動け……!
――俺が研究対象でなければ、お前らはなんの躊躇もなく俺を放り出すくせに。ゴミを見るような目で見下すくせに。無表情のまま暴力を振るうくせに。大儀を盾にして裏切るくせに。殺すくせに。
動けよ!
――だから、俺がお前らと同じようにして何が悪い?
「ぁ、ぁあ……」
――掴み取れ、その手を!
俺は……。
「……」
鉛のように重い人差し指を、ゆっくりと持ち上げた。
◇◇◇◇◇◇
「すみませんでした」
誠心誠意、頭を下げる。床に視線を落としているから、前に立っている女性の表情は伺えない。しかし簡単に想像が着く。彼女が俺を見下し、憎しみを込めた視線を向けている事くらい。
「もういい、帰れ」
「はい……。本当に、申し訳ありませんでした」
感情を抑えたように、ドアが少しだけ強めに閉められる。
俺はあの事件で、彼女達を殺そうとしてしまったんだ。この対応は、男女関係なく当たり前だ。
むしろ刑務所に入っていないだけ、俺は恵まれている。普通の軍人なら軍規に裁かれ、今頃まずい飯を食べている事だろう。こうして謝罪に回れるだけ感謝しないといけない。
もうあらかた回っただろうか? アリサさんに無理を言って貰った、今回の関係者リストはもうほとんどチェック済み。だが牧野副長官だけは、俺の一存で会うことは出来なかった。連絡を取れるかもしれない紗枝さんに謝罪の旨だけは伝えておこう。
「次は~?」
護衛兼監視の有原が、この謝罪回りにうんざりしたような顔で言う。
行く先々でギスギスしていればそれも当然だ。護衛は俺の意志じゃないが、付き合わしてしまって本当に悪い。次で最後だから、我慢してくれ。
その最後とは、当然――。
「すみませんでした」
縁、有原、立川だ。
いつものチャラい雰囲気なんか欠片も出さない。俺はこの三人に一番、誠意を込めて謝らないといけない。
「え、え~……っと」
「そ、宗一君、頭を上げて下さい」
戸惑う有原と縁。
護衛の有原を引き連れて、今俺に宛がわれているホテルの一室に集まってもらった。
「べ、別に怒ってないわよ。あんたが暴走するのなんてしょっちゅうだし」
「そうですよ。しょっちゅうです、しょっちゅう」
なんか……。そう思われているのも心外だな。そんなにしょっちゅうを強調しないで欲しい。
しかし今は頭を上げれない。覚えていないとはいえ、俺は彼女達を殺そうとした。そしてハッキリと覚えている。俺は本当に、彼女達を殺したいと思ったのだ。
それが操作の結果によるものなのかは依然、疑惑でしかないけれど、この押し潰されそうな罪悪感は転嫁されず、常に俺を責め続けている。謝って許してもらえるとも思えないし、これは俺の自己満足でしかないのかもしれないが、それでも謝る以外の方法が見当たらない。
「……立川?」
唯一リアクションのない立川が気になり、顔を少しだけ上げて目を向ける。
次の瞬間、信じられないものを見てしまい、ギョッとして硬直してしまう。
「……グス」
涙をボロボロ零して泣いていた。あのいつも動じない、口をつけば変な事しか言わない立川が。
「あ~ぁ、泣かしちゃった」
「み、都ちゃん。……ほらこれ、ハンカチ」
「……ぁう……ぅぅ……」
頭の中が真っ白になり、俺は光速にも匹敵する速度で、床に頭と手を着地させた。
「ごめん! すまん! 申し訳ない!!」
これ以上、謝罪の言葉が思い浮かばない。語彙が豊富ではない俺は、もう体で表現するしかなかった。俺が立川に何をしたか全く覚えていないが、ここで覚えていないという言葉を使うのは躊躇われる。覚えてないから彼女を傷付けてもいい、なんて道理は存在しない。
「宗一さんに、睨まれました……グス……」
「……え?」
「あの時の宗一さんの目、怖かったです……ひくっ……」
攻撃した訳ではなかった事に少しホッとする。でも立川が泣くなんて、それはよっぽどの事だったのか?
「都は気を許してる人には弱いからね。私と喧嘩しても、いつも都のほうから折れるし」
極度の人見知りである立川。それは親しい人に全ての親愛を向けている裏返しなのかもしれない。俺は立川の信頼を裏切って敵意……いや、殺意を持った目を向けてしまった。それは彼女にとって、耐え難い出来事だったのかもしれない。
「本当にごめん! 悪かった!」
「グス、グス……」
「俺に出来る事ならなんでもするから!」
「本当ですか!?」
「あ、いや……」
鬼のように食いついてきた。一瞬で腰が引けてしまう。
既に立川の涙はピタリと止まっていた。相変わらずこいつの切り替えの早さについていけない。
「本当の本当に!? なんでもですか!?」
「あ……ああ」
鼻息荒く、思い切り身を乗り出してくる立川。……唾。唾が飛んでる。
落ち着け。……主に俺が。
「え、えと。何にしようかしら? 一日中、語尾にデスティニーをつけてもらうとか、この真冬に『今日あっついなぁ~』って言いながら半袖短パンで講義を受けてもらうとか、国枝基地長のおでこを『隙有りだぜ!』って言いながら叩いてもらうとか、遼平さんに抱きついて愛の言葉を囁いてもらうとか、宗一さんを一日自由にして、私のご主人様になってもらうとか……」
ぐおおお……。どれもきつ過ぎるでござる……。
てか最後のはなんだ? 奴隷だったら分かるけどご主人様かよ。お前はどんなフェチの持ち主だよ?
「宗一さん、一つだけですか? 全部じゃ駄目ですか?」
「一つだけなら、俺は泣いて喜ぶと思います」
なんでもと言った手前、口答えしない潔さを見せる俺。
「じゃあ考えておきます。楽しみにしてて下さいね」
「……はい。……何卒、お手柔らかに」
「ぷっ」
「……ふふ」
俺と立川のやりとりに、笑いを零す縁と有原。
俺達のいつも通りの空気感、その和らいだ雰囲気に包まれながら、俺は噛みしめた。
憎しみに駆られ、切り捨てようとしたこの温もりこそ、俺が護りたかったものだったんだ。あの時、持ち上げた人差し指は、きっと正しかった。やたら重く感じられたのは、紗枝さんの推測どおり、俺が操作されていたからだ。そうだ、そうに違いない。だってほら、今はこんなに心が軽い。
「……は、はは」
釣られてしまったのか、笑い声が勝手に口から零れていく。そんな俺の様子を見た三人が、安堵した屈託のない笑みを浮かべた。
そうだ、これでいい。
俺はこの掛け替えの無い温もりを捨ててまで、一体何を得ると言うんだ?
これでいい。
これで……いいんだ。
◇◇◇◇◇◇
『以上、テロ関連のニュースをお伝えしました』
見ているのが虚しくなり、テレビを消してリモコンをベッドの上に放り投げる。
政府の対応を指示するが67%。それがテロ事件での世論調査の結果だった。異常なほど高い数字だ。……と、そう思っていたのは俺だけだった。紗枝さんやアリサさんからしたら、この数値はかなり低い水準に留まっているらしい。
その原因はやはり、彼の最後の反撃に拠る所が大きいのか。非業の死、というべきなのか。彼は人の死というものを、国民に生々しく直視させた。あの行動に一体何の意味があったのか、今はもう誰にも分からない。
この低水準とされる世論調査結果は、彼のメッセージがテレビの向こうの人達に届いた結果なのだろうか?
そして予想通り、政府の対応は全てが報じられる事はなかった。人質の半数を見捨てた事や、裏でのテロリストの要求などは、どのテレビ局も触れもしない。全国放送から事後処理の全ては、政府の筋書き通り。唯一予定外だったのは、彼の公然自殺。
「……」
ベッドに寝転がり目を閉じると、あの光景が浮かび上がってくる。だが、心に波風は立たない。凪と言ったら支障があるが、ごく普通の悲しい出来事として捉えている。
これはやっぱり、アリサさんの干渉のせいなんだろうか。
暗示、催眠術の類……と言っていたな。強制力は自己干渉よりも弱い、とも言っていた。ということは、俺自身の干渉で上書きできるということか? 少し、試してみるか。
――十秒間、縁が嫌いになる。
「……っ……ぐ!?」
頭の奥に堅い物を差し込まれたような痛みが走り、脳から干渉が引き剥がされてしまった。
なんだ、今のは……? この暗示は不成立ということなのか? ……じゃあ、これならどうだ?
強化した人差し指で、手の甲を一瞬だけ撫でる。
「……問題、ないのか?」
痛みを一切感じない出血部位を眺める。
痛覚を排除する暗示を脳内に叩きこみ、手の甲を切ってみたが、この暗示は成立しているようだった。
「いてて……」
効果時間が切れ、傷がズキズキと痛み出す。
やはり、そんなに甘くないか。人格を強制するような暗示、もしくは普段俺の思っている事と反対の命令は、何かの妨害にあってしまう。肉体に関連する命令のみ、問題なく通るということか。
「ク……クックック……ぬかり無いなぁ、アリサさん」
そりゃそうだ。俺が簡単に上書きできるような暗示じゃ意味ないからな。
演技がかった自嘲するような笑いを零してみたが、虚しさが広がるのみだった。
ちっ……馬鹿馬鹿しい。俺は今更、何を試しているんだ。
「入るよー」
「……どうぞ」
ノックと共に、少し高めの女性の声が聞こえてくる。
またかと一つ溜息を吐いた後、仕方ないという口調を隠しもせず入室を許可する。
「やほー」
陽気な挨拶とともに入ってきたのは、ここ一週間ほど俺の部屋に入り浸っている女性、西園美香さん
年齢不詳。身長女性平均。細いというかミイラ。女性相手に髪切れよと言いたくなるほど長い。前髪で目が確認できない程だ。……とまぁ、こんなもんでいいだろう。
「今、心の中で乱雑に扱わなかった? なんかすごい気分が悪いんですけどー。ミカリンはそんな電波をビンビン受信しましたよー」
「気のせいです」
電波はお前だ、というツッコミも面倒だ。一応年上らしいので、その配慮でもある。
「えー、そかなー? タツミーが私をどう思ってるかとか凄い興味あるなー。あっ、でも色恋とかの話じゃないよ? 勘違いしないでよねー。……あれ、もしかして今の自爆しちゃった? いわゆるツンデレになっちゃてた?」
本当によく喋る人だ。見た目はオタク少女といった感じだが、外見と釣り合わずによく口が回る。
そのタツミーってのどうにかならないんだろうか。ちなみにアクセントはタの部分だ。
テロ事件から十日。あれから監禁を解かれた俺は、都内のホテルで待機するように命令されている。しかし待機とは名ばかりで、俺はこの部屋から出る事すらままならないよう監視されている。今も扉の前には、護衛という名の見張りが目を光らしている事だろう。
そして部屋全体に張り巡らされている干渉能力。もし窓を叩き割って逃げようとでもしたら、即探知されてしまうだろう。
別に逃げたりしねーっつの。そう心の中でぐちると、あんな事したら当然だ! と宗一Dに突っ込まれた。
「ふんふ~ん。テレビでも見ようっと、ポチッとな」
「……」
俺のベッドに遠慮なく寝転がり、テレビ鑑賞を楽しみだす西園さん。無警戒にも程がある。
「あっ、エマだ。エマだよタツミー。いつ見ても綺麗よねー」
「芸能人なんか知りません」
「う、嘘? エマ・ソルヘイム、知らないの? 超有名な歌姫じゃん」
「知らんつの」
「ふ~ん、テレビ見ない人なんだ。じゃあ今見てよ。ほら、すんごい綺麗でしょー? これで一児の母なんだよー」
テレビ見ないというか、部屋に無いのだ。この時代の芸能人なんて一人も知らん。歌姫ねぇ……どれどれ?
「むぅ……。たしかに、美術館の絵から出て来たみたいに綺麗ですね。なんか怖いくらいに……って、そんなことどうでもいいです」
「え~~。ぶーぶー」
ブーイングしながら頬を膨らます西園さん。前髪で目が見えないから、表情が口元でしか判別できない。
彼女はこのホテルに来て以来、毎日のように俺の部屋に来て、特に何もせず帰っていく。
一体、何がしたいんだこの人は?
「一体、何がしたいんだこの人は?」
「こ、こらこら……。そういうのは心の中に留めておいて欲しいかなーって」
「ふん、原因のあなたにそんな事言われたくないですね」
「ミカリンて呼べ」
「ふん、原因のミカリンにそんな事言われたくないですね」
「あはは、よく出来ましたー。頭なでなでしてあげよう」
うざい。頭を撫でられながら、この珍獣の撃退方法を考えていた。
アリサさんの干渉で落ち着いたとはいえ、やっぱりあの事件は気分の良い物じゃない。一人にして欲しいんだが、彼女はそれを許してくれない。この珍妙なキャラも手伝って、いつも邪険に扱ってしまう。
縁達はどうしているんだろう? あれから顔も見ていない。このホテルにいるとは思うが。
「あなたは何者ですか?」
「ミカリン」
「……ミカリンは何者ですか?」
ああ、めんどくせぇ……。
「まーたその質問? だからぁ、私は研究所の職員だってば」
彼女はテロ事件で人質になっていた職員らしい。人質交換で助かった二十三名の中の一人。これはもう何度も聞いた。
「ミカリンはねー、助けてくれたタツミーに凄く感謝してるの。だからその恩返しに毎日現れているって訳」
「俺は何もしてませんからその感謝はお門違いです。それに、部屋に上がり込んでくつろぐだけ、なんて恩返しは存在しません」
「え~、だってホテルの一室で男女二人きりだよ? これは男にとって夢のシチュエーションじゃないの? あっ、そういえば、さっきエマにも反応薄かったし……。タツミーってもしかして不能?」
「……くっ。……研究所の職員ならやることがあるでしょう?」
ここでツッコミを入れちゃ駄目だ。いつものように話が脱線してしまう。俺は学習するのだ。
「そうそう、そうなのー。職員の皆、事後処理ですっごく忙しそうなのよね~。大変だよね~」
「あんたもだろうが! 仕事しろ!」
「ミカリン」
「ミカリン仕事して!」
「働いたら負けなの」
な、殴りたい……。そのうっとうしい前髪に瞬間接着剤を塗りたくって、エターナルアイマスクにしてやりたい。
「え、えーー!? なにその手ー? ついに私を襲う気になったのー? 私の体の隅々まで触りまくる気ねー。……タツミーがタッチミー……なんちて」
殴る。殴らざるを得ない。世の女性達も、ここは殴れと言う筈だ。
「あー! ちょっと、ストップストップぅー! 大人気ないよタツミー! 女の子を殴るなんて犯罪だよ? 五年以下の懲役又は五十万円以下の罰金だよ?」
「……ぐっ」
具体的だ。そしてこの世界では本当にありそうで怖い。傷害罪とは扱いが違うのだろうか?
貨幣価値はこの時代と俺の時代ではそう変わりがない(多少はあるが)。時代が進むごとにインフレするのが普通と考えられているが、この時代でそれは当て嵌まっていない。当たり前だが経済の面でも、地球外生命体の侵略で打撃を受けているのだろう。
今のドル円レートは、俺の時代から比べると結構な円安の水準で推移している。
ヨーロッパ圏にカーズの拠点が三つもあるからなのか、ユーロの暴落が顕著だ。ポンドにいたっては、既に市場から消えてしまっている。デフォルトした国も多数だ。……うむ、経済学部だったので、少し熱が入ってしまった。
「隙あり!」
「え? うわっ」
ミカリンが飛び掛ってきた勢いで、ベッドに倒れ込んでしまう。
「うふふー」
淫靡な笑みで口元を歪めながら、すだれのように垂れている長い前髪を掻き揚げるミカリン。その時に見えた彼女の顔は、普段の行動からはほど遠い年相応の顔立ちである事が確認できた。
もうちょっとお洒落に気を遣えば、充分見れる顔してるのになぁ……もったいない。なんて、男を魅了する香りに包まれながらボンヤリと考えていた。
「ふー」
「うひぃ!?」
ちょ、ちょっと! 息を吹きかけるな! 顔近づけてくんな! 体を密着させるな! 長い髪が顔に落ちてきて痒い。……くそ、なんで女ってのはこんな良い匂いがするんだよ! というか、なんだこの人は? この時代で男を誘惑する女なんて絶滅危惧種なんじゃないか?
「お・ん・が・え・し……いる?」
「いりません」
「ちょ、えーーー!?」
きっぱり拒否すると、ウソー!? といった感じで驚かれた。
ふふん。俺を並の男だと侮るなよ? ……理性を総動員したのは秘密だ。
「やっぱ不能だー」
失礼な。縁なら120%いただいていた。……って、縁はこんなこと絶対しない。
まぁ、この人も冗談でやっているんだろう。ていうか、早くどけ。
「……何をしている?」
サーっと顔から血の気が引いていくのを感じた。今、最も聞きたくない声が聞こえた気がする。
「あれれ? 紗枝さん、いつの間に入ってきたの?」
「ついさっきだ。ノックもした。……西園、あまり戯れが過ぎないよう言っておいた筈だが」
「え、えへへ、ごめんなさい。タツミーからかうとおもしろくて……中々手強いけど」
パッと俺の上から飛び退き、ベッドから降りていくミカリン。少し紗枝さんにビビリ気味だ。
この二人は面識があるのか、互いをよく把握しているようなやりとりだ。紗枝さんとか言ってるし。
「例の件だが、今から運ぶので来てくれとのことだ」
「そうですか。じゃあタツミー、これからお出かけしようか」
「なんでそうなる……んですか? 俺に何の関係が?」
「いいからいいから。どうせ暇でしょ?」
「……う」
寒気のする視線を叩きつけてくる紗枝さんが怖い。「ゴタゴタ言わず来い」と言いたげだ。
わかったよ。わかりましたよ。行けばいいんでしょ……。って、二人とももう出て行こうとしてるし。
「行くよー」
ちょ、まだ着替えてもないのに。ちょっと待ってくれよ。ていうか、テレビくらい消していけよ。あんたがつけたんだろ? ……あれ? またニュースやってる。チャンネル変えたのか?
『テロリスト全ての身元が判明しました。元軍人から男性街出身者のほとんどで構成されていたようです。あの公然自殺をしたリーダーの名前は――』
「……ぃっ……」
「どうした? 行くぞ」
「……………」
「宗一」
「はいはい、今行きますよ」
俺はその先を聞くこともなく、人差し指で電源ボタンを押した。