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2 : 8  作者: 松浦アエト
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第4話 開錠


 遺伝子操作施術は意外とあっさり終わった。まぁあっさりというのは俺の感覚の話で、麻酔で眠らされて次に目が覚めたら三日経っていたというだけだ。

 その間の事をアリサさんに訊いても答えてくれなかったけど、施術は成功したらしいのでそれだけで俺は満足だ。そしてどうやら、術後にやらなければならない事があるらしく、国枝さん、アリサさん、縁の三人が、その為に俺の病室に集まっているという状況である。


「じゃあゆっくり目を閉じて」


 俺は椅子に腰掛けている状態で、アリサさんの指示に従い目を閉じた。


「何が見える?」


 暗闇の中、国枝さんの女性にしては低い声が聞こえてくる。


「何が? 瞼の裏が見える」

「ち、違う! お前からかっているのか?」

「むっ」


 俺は目を閉じたまま、前々からの要求を再提出する事にした。


「あのさ、国枝さん。俺にも名前があるんだから、名前で呼んでください」

「はぁ? お前なぁ、今そんな事関係ないだろう」

「あります。呼んでくれないと黙秘権を行使します」

「なっ!」


 国枝さんが驚愕したような声を上げる。やべぇ、楽しくなってきた。


「はい、縁、アリサさん。コールミープリーズ」

「宗一君」

「くくっ、宗一君」


 二人に振るとあっさり返信してくれる。そうそう、人を呼ぶ時は名前でないと失礼だよね。


「……」

「!?」


 う、うおおおおお、目を閉じてるのになんだこの威圧感は! 肌に何かがビシビシ刺さるよ!? これが俗に言う殺気というやつなのか!? 調子に乗りすぎて俺はここで死ぬる!

 数秒の沈黙の後、殴られるんだろうなぁなんて覚悟を決めていると、意外にも了承の返事を頂けた。


「……宗一。これでいいか?」

「おお! ありがとう紗枝さ、ぶぐぁ!」


 さらに調子に乗って自ら殴られに行ってしまった。


「ハハハハハ、宗一君ナイスすぎー。アハハハハハハハハ、ッハハ、ッハ、ヒー、くるちいよー」

「そ、宗一君。自殺はダメですよ?」


 アリサさん大爆笑。縁はちょっとマジ入ってる。


「宗一、死にたいのか?」

「世界的研究対象の俺を殺すとおっしゃるの、紗枝さんはぐふっ!」


 俺は引く事をしらない男だった。


「ちっ、もういい。話が進まん」

「はい、じゃあ続けましょう。紗枝さん」

「……」


 さ、さぁ真面目にやろうかな、主に俺の身の為に。

 俺はこのふざけた空気を変えるように、ひとつ大きく深呼吸をする。そしてゆっくりと目を閉じ、慎重に意識を内に向けた。

 その瞬間、そこにある何かが浮かび上がってくるのを感じ取る。頭の中にハッキリとイメージ化されているわけではなく、見えるというより知覚していると言った方が近いだろうか。今にも消えそうに朧だが、でも、確かにそこにあるという確信を抱く。


 具体的にそのイメージを言語化するならば、廊下の先にある扉。一本道の長い坂。何十何百もある階段。天辺の見えない山。光が僅かに差す海底。

 それら全てを一つとして捉えているような感覚だが、どうにも上手く言葉にできそうにない。

 感じ取ったものを端から声に出して報告していくと、国枝さんがストップをかけた。


「その中のどれかではないのか?」

「いえ、他にもいっぱい……無数に感じ取れます」


 目を開けて周りの様子を伺うと、縁は首を傾げて俺を見ていた。紗枝さんは顎に手を当ててなにやら思案中。アリサさんは目をキラキラさせながら、紙にペンを走らせている。


「宗一君、宗一君。他には何が見える?」

「アリサ……そういうのは後で聞け」

「あ、あの。何か変ですか?」


 なにやら不安になってきた。主にアリサさんの目の輝きが。


「ああ、変だ。各個人異なるが、そのイメージはどれかひとつに固定されている」

「じゃあ俺が見たのは?」

「前例がないので分からんな」


 さらりと結論を述べる眼鏡さんは、頭を下げてしばらく黙考した。その後、何か納得する答えが出たようで、隣に立っていた縁に不吉なことを命令した。


「縁、戦闘態勢を取れ」

「うええええ!?」


 何、何、何なの? 俺を葬る気なの? その癒し系で? いや、紗枝さんもなんか構えてるんですけど!?


「心配するな、念の為だ。殺しはしない」

「何の念の為ですか!?」

「おまえが暴走した時の為だ。いいから目を閉じて集中しろ」

「わ、わかりましたよ……」


 理不尽な女にビクビクしながらやけくそ気味に目を閉じた。はは、もうどうとでもなれ。


 ――。


 再度、意識を集中する。その奥底から浮かび上がってきたものは、やはりさきほどと同種の世界観だった。

 暗い暗い海中、何もない荒野、地平線に伸びていく道路。

 それらに属する無数のイメージが俺の頭の中を駆け巡り、捉えた直後に幻のように掻き消え、また新たなイメージが生成され、そしてまた消えていく。


「一歩進め」

「え?」

「その頭の中のイメージをひとつ前へ持って行くんだ」

「前へ……」


 抽象的過ぎて何を言ってるか分からないと文句のひとつも言いたくなる所だったが、俺は紗枝さんの言葉を正確に理解した。第三者に言われるまでもなく、本能から来る欲求がそれを教えてくれていたのだ。

 そうだ、前に進め。進まないといけない。俺は――どうしようもなく進みたいと思っている。

 その動機がどこから生まれているのか、といった疑問は生じ無かった。その動機に意を差し挟む必要すらないと感じた。

 そんなことは、心臓の鼓動に注文を付けるがごとき行為であり、一笑に付されるものに相違ないのだろう。


 俺は――階段の一段目に足をかけるように、遠くに見える扉に向かう一歩目のように、海面に向けて浮上しだすように、MT車のギアをひとつ上げるように、雑草が土を割って芽を出すように、暗闇に差す一条の光に手を伸ばすように、この世に誕生して泣き叫ぶ赤子のように――俺は、ほんの一歩だけ、前に踏み出した――。


「あ――」


 次の瞬間、天地がひっくり返ったかのように今まで捉えていた自意識が変革した。

 なんだ、これは? これが、俺? 俺の持つエネルギー? 自分であることが信じられないほどの熱量を感じる。感覚を超越したような領域に立っている。

 これが一歩目の力? ならば、遥か先に見えている地点に到達すればどうなるんだろう? そしてそれは何を意味しているだろう?

 階段の先。閉ざされた扉。上方にある水面。一点だけの小さな光。

 その向こう側には一体何が……何があるんだ――。 


「――戻れ、宗一!」

「宗一君!」

「えっ? ぐぶああああ!」


 呼びかけられてハッと意識を取り戻した直後、縁の突進が俺の腹に突き刺さっていた。その勢いのまま椅子ごと後ろに倒れこむ。

 縁は俺と一緒に倒れこみつつも、俺の両手首をしっかり握って床に押し付けた後、足で胴体を挟みこむ形でマウントポジションを取っていた。


「いててて……。あの、縁……さん?」

「だ、大丈夫ですか!?」


 いや、今大丈夫じゃないです。動けません、全く、これっぽっちも。なんて力なんだこの癒し系。ビクともしないぞ。


「くそぅ、スパッツなのが悔やまれる」

「え……? うひゃ」


 スカートの乱れに気付いたのか、縁は慌てて飛び退く。ふっ、甘いな縁。

 その後、倒れた椅子を直したりして、皆が(主に俺が)落ち着きを取り戻したところで、紗枝が口を開いた。


「正気を失いかけていたな。初めての者には結構ありがちな事だから気にしなくていい。なにか違和感はあるか?」

「体がだるいし、ボーっとします」

「まぁそうだろう。単語帳を捲りながら全力疾走したようなものだからな」


 あのまま先に進むと、精神と肉体が崩壊していたかもしれないほどの手応えを感じた。暴走しかけていたのを、縁が止めてくれたようだ。


「縁、ありがとう」

「いえいえ。えへへ」


 うん、やっぱり縁はかわいい。その隣で目を血走らせて何か書いてるアリサさん怖い。


「宗一が見た、えー、まぁ扉にしておくか。その扉の先がフェイズ1だ」

「フェイズ……?」

「そう、段階の事だ。その段階を進めるごとに、自己の資質の限界まで能力が向上していく」

「レベルアップってことですね」

「少し違うが、そうだ。現在、人類の遺伝子工学で開けられるロックは五つ。つまりフェイズ5が最高だ。だが本人の資質がなければフェイズ1で止まることもある。フェイズ1の場合、最初のロック、外せないロックの二つ。フェイズ5の場合、外せるロック五つ、外せないロックが一つの計六つといった感じだ」

「それが俺には一つしかないと?」

「そうだ。それを施術で外した」


 それって安全弁がないようなもので危険なんじゃないのか? 自己の資質を超えるわけだし。


「フェイズ1のロックを開錠することで、そこまでの道程も見えるようになる。今の宗一はフェイズ0の状態だ。開錠しても次フェイズへの道程を踏破できない者も多く存在するが、宗一の場合なんとしてもフェイズ1までは到達してもらいたい。研究の為だ」


 説明を受けても、やはり現実感に乏しい。

 俺が腕を組んで唸っていると、紗枝さんが「少しみせてやろう」と言った後、アリサさんに紙とメスの調達を頼んだ。

 紙は分かるけど、メスってあの手術とかで使うメスのことだろうか? それをどうするんだ?


「いいか。よく見ていろよ」


 アリサさんからメスと紙を受け取った紗枝さんが、手品師のごとく見えやすいように俺の目の前に持ちあげた。

 紗枝さんは俺が見ていることを確認すると、メスの鋭利な刃に、紙を十字に対して近付けていく。その動きはひどく緩慢だった。そのままスーっと、メスと紙が交差していく。

 え、なにしてんの? 紙を切るのが能力だとでも言うつもりだろうか。


「ん……?」


 ほどなく何かの金属が地面に落ちたような音がした。

 床に目を向けると、シルバーの金属片でやたら鋭利なそれは、まるで……。


「…………はぁ!?」


 切れたのはメスのほうだった。

 紗枝さんに握られているメスを見ると、刃先から3㎝ばかりがなくなっていて、紙は全く切れていない。


「……なんの手品、がふっ」

「現実を見ろ! また精神鑑定に回すぞ!」


 ツッコミはええ。頭いてぇ。


「今のがフェイズ3の能力。その片鱗だ」

「3……」


 今ので……? 本当に銃火器に勝てるかもしれない生身の人間がいた。目の前に。


「すげぇ、すげぇよ! 紗枝さん!」

「縁もできるぞ」

「なぬ!?」


 バッと縁に顔を向けると、何やらえへへと照れている。かわいい顔して恐ろしい……。

 あぁ、俺は本当に未来に来てしまったのかもしれない。


「宗一。お前にはこれから訓練を受けてもらう。あぁそれと、講義にも出たほうがいいな」

「訓練と講義ですか」

「ここは基地でもあるが、同時に教育機関も備えている。歴史とか地理とか、足りない知識も多いだろう」


 それはこちらからお願いしたいくらいありがたい話だ。なにせ俺の歴史は西暦2012年で止まっていて、それから五十年後の現在では一般常識すら欠けていそうなのだ。


「全員女性の中、男一人というのが少し心配だがな……」

「え……?」


 国枝さんがぼそっと呟いた言葉を俺は聞き逃さなかった。

 そういえば講義に出るということは、縁と散歩した時に見た子達と同じ空間に居ることになるんだ。あの睨み殺すような視線を向けてきたあの子達と……って、それ大丈夫なの? パンツ脱がされて体育館裏に干されたりしないの?

 浮かび上がる悪い妄想にビクビクしていると、紗枝さんは俺を安心させるようにふっと優しげに笑った。それが一瞬、救いの女神ように見えてたりもしたのだが、そんなもんは壮絶な勘違い以外の何物でもなかったのだ。


「まぁ殺さないように言っておくから大丈夫だ」

「心配するレベルがおかしい!」


 翌日。基地内放送にて俺の存在(詳細は伏せられた)が公表され、学校に行く事になった。

 その時の放送で、紗枝さんは大真面目な声で「殺さないように」と言っていた。放送後、俺は紗枝さんにズル休みする子供のように駄々をこねたが、鬼に情なんてものはなかった。



◇◇◇◇◇◇



 宮城県栗原にある、ここ北日本防衛軍基地内にある学校は、俺が居た西暦2012年の学校と大差はなかった。最も異なる点は、在籍する生徒が十から四十と幅広い年齢層であることだ。そして、そのほとんどは女性に偏っている。


 殺伐とした雰囲気や、上官に絶対服従などの、いわゆる軍のイメージとは随分掛け離れている。

 もっとこう、敬礼ビシーとか、~であります! とか、そういうのを頭に思い描いていた俺は、拍子抜けもいいところだった。女性が多いこの世界では、男の作った古い慣習なんかは退廃してしまったのかもしれない。


 只、戦争が身近にある世界は、やはりというべきか、授業や訓練に取り組む姿勢は西暦2012年とは段違いだ。寝ている生徒は皆無だし、不真面目な生徒は同じ生徒によって制裁が加えられたりする。講師や目上の人に対しても、飾りではない尊敬の念が込められているように感じる。

 俺は少なからず、時代間のギャップというものを、そこかしこで感じていた。


 一人の男が講義に加わると周知になった翌日、俺は縁に連れられて購買らしき所に来ていた。

 今はがやがやと耳障りな喧騒の中、講義に使う教科書を選んでいる。


「宗一君、どれにするんですか?」

「えっと……」

 

 俺が講義を受けるにあたり、紗枝さん曰く「自分に足りないと思う講義を受けろ。訓練校レベルでクラスに所属なんぞ、宗一にとっては時間の無駄だ。年齢の高い者や優秀な者は実際そうしている」眼鏡クイッ。みたいな感じで言われたのだ。

 まぁ確かに現役大学生だし、今更二次関数習ってもね。

 パラパラ捲った数学の本を閉じて棚に戻すと、その瞬間ざわめきの音量が跳ね上がった。いやー、ここは活気があるなー。


「縁、この購買すごい人気だよなー。いやー景気よくていいねー。俺の時代の日本なんかさー」

「みんな宗一君目当てですよ」

「……」


 ああ、やっぱりそうだった……。

 俺を取り囲む女生徒達は、黒山の人だかりのごとく凄い数だ。しかし人口密度で言えば、俺から半径5m以内は縁だけという過疎っぷりである。

 俺のアクションひとつで、喧騒を操れる気さえしていた。


「男よー……最悪ー」

「ホントにここに来るのぉ? 勘弁してよー」

「まぁいいんじゃない」

「殺したい、今すぐ」

「クラスには入らないみたいだし、会わないでしょ」

「なんで縁ちゃんと一緒にいるの?」

「よっし、数学は受けないみたいだね」

「男とかみんな死ねばいいのに」


 喧噪を煩わしいと感じつつも、俺の脳は冷静にその情報を分析していた。

 嫌悪派六割、穏健派二割、殺人衝動派一割、縁スキー一割。とまぁ、こんなところだろう。

 ハハッ…………帰りたい。


「縁、大丈夫なのかこれ」

「え、何がですか?」

「いや、めっちゃ見られてるし。暴発して過激派に走りそうな人もいるんだけど」

「大丈夫ですよー。ふふっ」


 宗一君たら面白いこと言いますねー、などと言って可愛く笑う。


「その笑顔が天使なのは認めるが、言葉に何の説得力もないな」

「私が守りますから平気です」

「いやだって、ここの人達も遺伝子操作されてるんだろ? 縁と一緒じゃん」

「ここの学校はフェイズ0~2の人が通う所なので」

「なので?」

「束になっても私には敵いません」

「……」


 怖い。かわいい。こわかわいい。

 新しいジャンルを発見した気分だった。


「ち、ちなみに縁さんはいくつなんでしょう?」

「フェイズのことですか? それなら4です」

「へぇ~、凄さがよく分からんけど、縁は強いんだなー」

「あ、ありがとうございます。エヘヘ」


 縁は照れくさそうに少しだけ頬を染める。え、そこ照れポイントなの?

 しかし今は縁といるから大丈夫だけど、講義とか訓練の時は一人なんだよな……。そこはかとなく身の危険を感じる。


「大丈夫です。講義も訓練も付き添いますから」


 俺の不安そうな顔を見てか、縁は察したように言う。


「私の今の指令は宗一君の監視と護衛、その他いろいろ。まぁ平たく言えばお世話係です。あっ、でも指令じゃなくても、私は宗一君のこと守りますから安心して下さい」


 おぅ……。


「どうしました? 宗一君」

「ありがとう。縁」

「きゃっ」


 湧き上がってきた感情に堪えきれず、縁の手を取って礼言う。

 感謝、または親愛の情というのが正しいだろうか。この世界で目覚めた時、隣で寄り添ってくれていた縁に、俺は生まれたばかりの雛鳥のようにインプリンティングされてしまったのかもしれない。


「きゃああああああああああああああああ――!!?」


 喧噪のビッグウェーブ。いい雰囲気が台無しだった。


「さ、さぁ。早く選びましょう」


 縁はパッと手を離し、真っ赤になって照れていた。

 俺はその表情を見れただけで、周りの女性などどうでもよくなった。



◇◇◇◇◇◇



「ぐぅ……。ガハッ……ハァ、ハァ……」


 俺は耐え切れなくなり、床に膝を付いた。

 額からは滝のような汗。荒く激しい呼吸。言うことを聞く部分の少ない体。

 一歩も動いていないのにこの有様である。


「ったく、全然ダメだな」

「ダメダメだねー」

「ダメですねー」


 遺伝子操作を施してから一週間。俺は未だフェイズ1到達の足がかりさえ掴めずにいた。

 ここは屋内の演習場。学校の体育管が五つは入りそうなくらい広く、少しの衝撃ではビクともしないであろう頑丈そうな建物だ。

 常に俺べったりの縁。訓練中はよく顔を出すアリサさん。忙しそうでたまに様子を見に来るだけの紗枝さん。お馴染みの三人が集合していた。


「あ、あの。正気に戻してくれるのはありがたいんですが。もうちょっとこう、平和的かつ穏便なやり方はないんすか?」


 脳内のイメージで自意識を前に進める際、やはり意識を持っていかれてしまう。

 それを阻止する方法は、単純な外部からの干渉によって速やかに覚醒させること(国枝紗枝談)と言う事だが、平たく言えばやばそうになったら殴って目覚めさせろって事だ。おかげで俺の顔は、毎日喧嘩帰りのワンパク小僧である。


「ご、ごめんなさい……」


 しょんぼりする縁。俺をこんなブサイク顔に整形しているのは、主にこの子なのだ。


「縁は正気に戻れるギリギリの手加減で殴っているんだぞ。その優しさに感謝しろ」


 呆れたように言う紗枝さん。

 へ、へぇ、そうだったのか。あれで手加減していたのか。実は縁に恨まれているのかと勘違いするくらい痛かったぞー、あははー。


「もうそれあきた~。早くフェイズ1に行ってよ~、その先が知りたいのに~」

「アリサさんは喋らないほうがみんな幸せです」


 以前よりは進めるようになったが……いや、進んでいる気がするだけなのかもしれない。

 階段で例えると、残り百段で十段目まで登ったのに、見上げるとまだ残り百段ある。そんな錯覚? 幻覚? に囚われている。


「ちなみに、正気を失い続けたらどうなるんでしょう?」

「精神と肉体に深刻な障害がでる。大抵の場合、精神が先に焼き切れて脳死状態だ」

「ヒイィッ」


 縁様、ガンガン殴って下さい。踏んでくれてもいいです。むしろそっちでお願いします。


「仕方ない。今度は止めないから行ける所まで行ってみろ」

「ええ!? 今さっき自分が言った事、覚えてますか!? 二十七でボケましたか、がふっ」

「よし、やるぞアリサ」

「はーい」

「ちょ、さらっと殴っても俺は止まりませんよ! マイブレインを守る為に! この若年性アルツハイマーが!」

「絶対やる」

「うわああああ! 火に油あああああああ!」

「ええい、やかましい! さっさと始めろ! そうならんようにするから!」


 思いっきり疑いの眼差しで紗枝さんを見ると、アリサさんが近づいてきて俺の額に手を当ててくる。


「大丈夫よ。私がフォローするから」

「ぅ……」


 アリサさんの柔らかな微笑みは信頼に足るなにかを醸し出していて、俺の中の反骨心を根こそぎ刈り取ってしまう。


「私もだ。心配するな」


 紗枝さんは縁を下がらせてから俺の正面に立った。

 この二人にそうまで言われてしまうと、流石にもうグダグダできそうにない。会ってまだ日は浅いが、信頼できる何かを持っているように思う。

 俺は覚悟を決め、静かに目を閉じる。そして意識の奥深くに、自己の存在を落下させていく。


「――――」


 捉えたイメージ内で前に進む。前に――。前に――。

 でも、遠い。少しも近付かない。近付いている気がしない。手を伸ばせば届きそうなのに、遥か彼方のようにおぼろだ。だが、諦めない。一心にそれを求めて、進むことだけを考える。

 進む――。進む――。前へ――。

 どのくらい来たんだろうと振り返る。しかし後ろには何もない。何も見えない。

 もしかして前というのは、物理的な意味ではないのかもしれない。では概念的に捉えればいいのか。それとも哲学的に論じればいいのか。俺の前は今どちらなのか。普遍的な前とは違うのか。

 上ではなく、東でもなく、後ろでもなく、左でもない。俺が求めるのは、そんな前――。


 ――ああ、そうだ。


 俺の『前』は、そう……北海道だ。

 そう、そうだ。……行け!

 決めただろう? 真実を見に行くって――。



 ――この目で!



「――っあ、ああああああああああああ!!」


 ガチリと、頭の中でなにかが嵌るような音を捉えた瞬間、五感全てが枠外に吹き飛んだ。


「アリサ! どけ!」


 暴風雨のような混濁した意識の中、ぼんやりとだが確かに、隣にいたアリサさんが跳ね退くのを知覚した。そして紗枝さんが人間とは思えない凄まじい瞬発力で、10m程の距離を助走もなしに一足飛びで俺に近付いて来ているのが分かる。

 紗枝さんは俺の意識を断ちに来たのか、一足飛びで得た運動量をそのまま右拳に乗せて、俺の顎を穿とうとする。俺は見えているのかいないのかわからない目で、そのスロー映像を捉えている。いや、認識していると言うべきか。


「なっ!?」


 生物の防衛本能に寄るものか。俺は紗枝さんの繰り出された殺人的な右拳を、無意識の内に左腕で外側に弾き飛ばしていた。

 紗枝さんが驚愕しているのが分かる。そして、少しだけ笑った事も。


「その程度では北海道に連れて行ってやれん、なぁ!」


 右腕を弾かれて体勢が不充分になっているのにも関わらず、紗枝さんは蹴りを繰り出してくる。常人の反射速度では到底追いつけない雷撃のような左上段蹴りが、俺の顔面目掛けて疾走する。さっきまでとは根本的に次元の違う攻撃に、俺は右腕一本を犠牲にして衝撃に備える。


「!?」


 しかし瞬時にその覚悟は悪手だった事に気付く。俺の右腕は吹き飛んではいなかった。

 信じがたいことだが、紗枝さんはあのスピード領域の蹴りをフェイントに使ったのだ。そしてその瞬間、俺は自分の敗北を悟ることになる。その気の殺がれで出来た致命的な隙は、今の俺にはどうすることもできない。

 刹那、紗枝さんの右手の初動を知覚した所で、俺の意識は途切れた。



 …………。



「……あれ? ……ぐ、ぐわあああああ! いてええええ! 痛くない所がねええええ!」


 意識が覚醒した瞬間、怒涛の勢いで痛みが体中に走った。


「まったく。気付いた途端やかましいな、この男は」


 痛みに悶えながら顔を挙げると、お馴染みの三人が居た。

 紗枝さんは呆れた様子で俺を見下ろしていて、縁は心配そうな顔を浮かべて近寄ってくる。

 そんな中、アリサさんが疲れ果てたように座り込んでいるんだけど、その理由に思い当たらない。


「端的に言うぞ。宗一はフェイズ1に辿り着いた、が、そこに留まれなかった。つまりはもう一度やり直しだ。だがまぁ、今日は感覚を掴む為の訓練だったからそれで及第点だ。面白いものも見れたしな」


 あ、そうすか。ほとんど覚えてないんですけど、楽しそうで何よりですね。 


「縁、こいつを担いで行ってやれ。私はアリサを運ぶ」

「わかりました」


 俺は縁におんぶ、というか身長差がありすぎて、背後霊のように垂れ下がった状態で、未だ俺の部屋である病室にずるずると引き摺られていった。

 帰り道の途中、俺は失いかけの意識の中で三人に感謝しつつ、わずかばかりの充足感に包まれていた。


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