第39話 反撃
横から伸びてきた手を掴み取る。その時に注意したのは、手の平に触れないよう手首を掴む事だった。アリサさんが暴走する俺の口を止めに来たのだ。
だが遅すぎた。スピードも力も無いその手を、勝手に感覚が鋭敏になっていた俺が掴み取るのはひどく容易だった。
予期せぬ状況に瞠目する牧野副長官に、意志を持った視線を叩きつける。
「……」
こちらの不興和音をテロリストに知られたくないのか、黙したまま俺を睨みつけてくる。牧野副長官の右手は、俺の意志を込めた視線にフリーズする。通信機のスイッチに手を掛けたまま。
『優しいね、君は』
「――ッ!」
野太いその声で自分を自覚した。まるでたった今、覚醒したかのような、意識のチャンネルが入れ換わったような感覚に陥った。
咄嗟に右手の握力を緩める。前チャンネルのままならアリサさんの手を握り潰していただろう確信を抱く。まるで分裂症でも患っている病人のように、自分が希薄になった。
『だが心配無用だ。こちらもタダでやられるつもりはない』
「……やられるのが前提、だとでも言うのですか?」
俺は一度頭を振って、応対した。
『無論』
きっぱりと誇らしげに言うテロリスト。彼らは全てを分かっていたのだろう。自分達の行動が自分達に確実な死をもたらす事を。なんとなくだが、そんな気はしていた。
『どうやら状況は我々に少し不利に傾いたようだ。そちら側で何かの策でも実行するんだろう。だがそれでも、二つの要求が通れば我々の勝ちなのだ。後にどうなろうがね』
俺の不用意な一言だけで、鋭く洞察する。
『私の演説を聞いて何かを感じてくれた人もいるだろう。後の世代が息づいている限り、我々は永遠に敗北しない』
彼は捨て石になることを辞さない。自己犠牲を厭わない。全てが織り込み済み。自分の死すらも計算に入れて、只ひたすら統一戦線の為に、世の全ての男性の為に邁進している。
『さぁ、言うといい。君の選択した答えを』
「え……?」
『望むのは満足な死か、それとも不遇の生か』
満足な死は、闘いの中に。
不遇の生は、現実という名の牢獄に。
「俺、は……」
自分が、よく分からない。
アリサさんの手を掴み取るまでは、あんなに強烈に闘いたいと思っていた。そうしないと死に追い立てられるような焦燥感に苛まれ、狂人のようにそれを欲していた。
だがもうその欲求は、ここに在った事を疑ってしまうほど手から零れ落ちていた。
「アリサさん……」
目は向けず、軽く握ったままの手はそのままに、アリサさんに問う。
自分自身の不協和音は、この場では棚上げにした。逃避と表現するべきなのかもしれないが、今はこの状況を進ませる事だけに集中する。
「実験とは、何ですか?」
ここに来る前に言っていた実験という言葉。今質問したのは単なる興味本位ではない。それは俺にとって重要なターニングポイントになるのは簡単に予想できる。それはここに到るまでに、様々な判断材料が揃っていたからだ。
研究価値が下がってきたとされている俺に対する護衛が、以前より厳重になった事。戦闘には関係のないアリサさんの同行。国際遺伝子研究センターという重要拠点が、その実験に関係する事など。
その実験は、俺の戦う足場と成りえるのか。それを今ここでハッキリさせたい。
「……」
テロリストに聞かれるとまずい内容なのか、アリサさんは牧野副長官を一瞥。少しの逡巡の後、彼女は嘆息して首を縦に振る。
「……P.Iフィールド」
「え?」
「カーズ拠点に展開している『Particle interception field』への物理的干渉実験。つまり、粒子遮断フィールドに対抗する人類初の試みよ」
「なっ!?」
ガツンと殴られたような衝撃を受ける。さらりと放たれた答えは、この世界、そして俺にとっても重すぎるものだった。
人類の誰もが突破する事のできないフィールドへの干渉実験。そんな人類の命運を左右するかのような重要な実験に、俺が必要とされている? 何故だ? カーズ拠点跡から発見されたからか? そして、その実験の正否は何を意味する?
『く、くくく……。くはははははは!』
スピーカーから馬鹿にするような笑い声が木霊する。
『なんて事だ、私の耳は正常なのか。今なんと言ったのかね? 不可侵にして神の技術とまで比喩されるあのフィールドに対抗するだって? それが本当なら、私も私の戦いを捨てて賭けてみたくなるじゃないか。このマイクの向こう側にいる辰巳宗一に』
「賭けてみる気はない?」
『くく、それも悪くないな。……アリサ・レイストロームよ』
名前を出した時点で気付いたのか、それともこちらの情報は筒抜けなのか、既知していたと言わんばかりにアリサさんをフルネームで呼称する。
『しかし、現時点では与太話にすぎないな。嘘を言っている可能性もある。にわかに信じられる言葉ではない』
「そう、残念ね」
『悪いな。こちらも仲間の命を背負っているのでな』
彼の言ってる事ももっともだ。俺でも信じ切る事が出来ない。そんな不確定な話に、仲間全ての命を懸けるなんて看過出来ないのも当然だ。
『それで、答えは出たかね? 辰巳君』
「……」
掴んでいたアリサさんの手を、心の中で謝罪しながらゆっくりと離す。
「ありがとうございました」
『……そうか』
俺の話を聞いてくれて、俺にも出来ると言ってくれて、嬉しかった。
「俺が闘う相手は、地球外生命体カーズです」
何度、訊かれようとも、それに対する答えは一つだけである。やっぱり以前と変わらない。これだけは如何なる時でも、今の俺の中でブレさせたくはない。そう願っている。
『その答えは、この場ではなんの意味も無いものだな』
「そうですね、その通りです。だから……」
俺とあなたでは向いている方向が決定的に違うのだ。
「あなたは俺の敵だ」
『ああ、そうだ。君は私の敵だ』
すみません。申し訳ない。ごめんなさい――。
ありとあらゆる謝罪の言葉が、頭の中で何度も繰り返される。謝ったところで何も変わりはしない。ただ俺達の進む道に、互いは障害物として存在していただけのこと。もしかしたら俺は、後にあなたと同じ道を辿るのかもしれないが、でも今はその時期ではなかった。
障害なら排除しなければならない。あなたを踏み躙ってでも。見殺しにしてでも。
「すみません。酒は御一緒できそうに無いです」
『はは、そうだな。あの世があれば酌み交わそう』
「その時は、ぜひ」
せめて、彼にとって満足な死を願おう。
◇◇◇◇◇◇
「認定医師団23名が建物内に入ります」
「よし、人質交換を始める。テロリストに解放するよう伝えろ」
アリサさんを筆頭とした認定医師団との人質交換が始まった。
もう俺に出来る事はない。もし何かを起こすとするのなら、傍らにいる護衛とは名ばかりの監視を潜り抜けなければならない。
俺とテロリストの最後の対話は、気を逸らすどころか時間稼ぎにすらならなかった。もう彼らは、俺を敵と認識している。敵と表明してからのテロリストは俺を無視し、即座に牧野副長官との交渉に移ってしまった。
「いいか。条件を満たしたら即突入の合図だ」
「はい。レイストローム氏のコールが入り次第、現場に連絡を入れます」
どの局にも報道規制がかかっているのか、もう民法放送のテレビには何も映っていない。対策本部の専用のモニターにのみ、研究センターの一望が映し出されている。
今更の報道規制だが、これは配慮だろう。生放送で人が殺される場面など、一般市民に見せる訳にはいかないのだ。
「アリサさん……」
研究センターの正面入り口から入っていくアリサさん。二日前にあった瓦礫は除去されていた。
モニターに映し出された彼女の表情は、命の保障のない危難に向かう中、なんとも堂々としたものだった。
人質交換で、全ての人質を入れ替える案は、テロリスト達に受け入れられなかった。
医師団と同数の交換。しかし現在の人質の半数を超えてはいけない。その条件が、統一戦線の最大の譲歩だと、彼は言った。
人質になっている研究所職員は47名。医師団と交換するのは23名。つまり最低でも24名は、そのまま人質として捕らえておきたいのだ。
医師団がフェイクである事も考慮に入れた彼らの知略。
もし医師団が偽者で、潜入してきた軍人であっても、人質が残っている限りこちらからは手を出せない。人質を医師団と職員、二つのグループに分けて監視すれば良いのだ。あちらにも能力者がいるのだから、軍人かそうでないかはすぐにばれる。
彼らの危惧と予防線は外れていない。事実、あの中の何人かはフェイズ能力者である軍人だ。しかし、それでもこの人質交換は成立した。牧野副長官は統一戦線の条件を飲んだのだ。
彼女の狙い、そして彼女達の会話に出て来る『条件』とはなんなのか、俺には見当も付かない。
「レイストローム氏からコールが入りました!」
「よしっ! 現場兵士は突入!」
なっ……!? ちょっと待てよ! モニターに映る研究センターに、まだ何も動きは無いじゃないか。今は交換の最中。せいぜい人質達が、建物内ですれ違ったくらいだろう? 今、突入なんかしたら残っている人質が、医師団が、テロリスト達が……あ、アリサさんが……。
血の気が引くとはこの事か。想像される悲惨な未来に眩暈が襲う。
「宗一、落ち着け、きっと大丈夫だから!」
まるで自分に言い聞かすような、頼りない励ましの言葉。そう言った有原も、俺と変わらない真っ青な顔になっている。
末端の兵士には知らされなかった作戦内容だった為、皆一様に呆気にとられたようにモニターを凝視している。
紗枝さんはともかく、アリサさんは一般人レベルなんだ。いや、それ以下の弱さである事は、俺はもうとっくに知っている。さっき掴んだ手から伝わってくる力は、子供と間違うばかりの弱々しさだった。
相手が戦闘タイプのフェイズ能力者でなくとも、今や時代遅れの銃で撃ち抜かれただけで、打ち所が悪ければ階段から転げ落ちたくらいで、彼女は簡単に死ぬのだ。
「……縁」
縁が震えていた。肩に触れた小さな体から、縁の感情が伝わってくる。しかし体全体で体現している不安は、表情にはおくびにも出していない。姉のように慕っている人の命の危険は、流石の縁も動揺してしまう事態なんだ。
「な、何ですか? 宗一君」
いや、違う……。俺は考え違いをしていた。
縁は強い。彼女の意志は確固たるもので、並大抵の事では揺らがないと、そう思っていた。でも、それは違った。
仲間の死が悲しくない訳が無い。人を殺す事に苦しまない訳が無い。戦場に赴く恐怖が無い訳が無い。縁はいつも精一杯、強がっていただけなんだ。
「大丈夫」
縁の震えている手を握る。そして、しっかりと目を合わせて言ってやる。
俺は今、ちゃんと演技できているだろうか?
「……っ、はい」
崩壊しそうに表情を歪ませる縁。しかしそれは、瞬きすると見逃してしまうだろうほんの一瞬だけの弱さだった。
◇◇◇◇◇◇
突入からものの十分程で、研究センター内をあっさりと制圧してしまった。やはり正式な軍隊とテロリスト達では戦力に開きがありすぎるのか、拍子抜けもいいところだった。
それから三十分程の時間を置いて、俺と護衛、対策本部の人間が研究センター内の立ち入りを許可される。
「あ、アリサさん!」
いた! アリサさん、無事でよかった!
後ろから俺を呼ぶ声が聞こえるが、そんなものは関係ないと喜び勇んでその背中に駆けて行く。
「!? ……ぁ」
アリサさんが振り返った途端、その足が止まる。止まるしかなかった。
正面を向いたアリサさんは、血だらけだった。それは照明の中、俺の認識する現実として存在した。着用している白衣は、もはや赤黒い面積のほうが多く、頬から流れ落ちた血が地面を叩いた。
「アリサさん! だ、大丈夫ですか!?」
そんな……。あ、アリサさんが血だらけ……。どこか怪我をしたのか? こんな出血量は命に関わる。アリサさんが、死ぬ? い、嫌だ! 早く! 早くなんとかしないと!
「……あのね。宗一君」
「あ、あわわ……。あ、アリサさんどこですか? どこを怪我したんですか?」
「ちょ! どこ触ってんのよ!?」
「で、でも、ちゃんと止血しないとこの出血はやばいですよ、あわわ」
「お、落ち着きなさい! え……? キャーーー! そこはだめぇ!」
「恥ずかしがってる場合じゃないでしょう。さあ、ボクに全てを曝け出してごらんぐぶっ!?」
肘。肘が鼻面に突き刺さった。……痛すぎる。
途中からアリサさんの体に怪我は無いことに気付き、嬉しさのあまり悪ノリしてしまった。
視線で俺に多大なダメージを与えている女性方に誤解しないよう言っておきたいが、触ったのは白衣と肩と腹くらいだ。まったく、アリサさんはオーバーなんだから。
「まったくもう」
頬を膨らますアリサさん。それを見た俺は、大きく息を吐いた。安堵感が胸に広がっていく。
「宗一」
「あ、紗枝さん……っ!?」
紗枝さんも血だらけだった。朱の一色に染まったその姿は、ゾクリと背中に寒気を走らせる。彼女の冷えた表情に、舞い上がっていた頭が急速に冷静さを取り戻す。
血だ……。あれは恐らく返り血なんだ。一体、誰の……?
「本部で大人しくしていろと言ったろう」
「彼は……」
「……なに?」
「テロリストは、どうなりました?」
「どいて下さい!」
「うわっ!?」
俺と紗枝さんの間をすり抜けていく担架。その上で呻き声を上げているのは女性だった。
統一戦線は全て男だけで構成されているからテロリストではない。負傷した軍人だろうか? それともう一つ不自然なのは、テロリストが消えたように見当たらないことだ。制圧してから三十分の空白は、一体何の為の時間だったんだ?
「あれは、何ですか?」
「怪我人だ」
「そんな事は分かってます。あの人は……軍人ではないんですか?」
俺は何故こんな質問しているのか。確認しているのか。その答えはごく簡単な違和感からだ。
担架に乗って苦しんでいる女性は、軍服ではないのだ。彼女の纏っているのは、アリサさんのような白衣に近い清潔感を漂わせる着衣。……もしかして、研究所の職員なのか?
「人質だった者だ」
「どうして怪我をしているんですか? テロリストに暴行を受けたんですか?」
「まぁそうだ」
自分で暴行という言葉を使っておきながら、その表現が不適格なものであることを理解していた。
担架の上で苦しんでいる女性は、全身の肌が焼け爛れ、片方の足が潰れされたように膝から先を失っていた。もう動く理由が一つも無い腕も、全身と同様に墨のように黒く変色している。
俺が感じた違和感は、末端の兵士達も同じようで、複雑な表情のまま現場処理に従事している。だが誰もその疑問を口に出そうとはしない。訊いても無駄な事なのか。そんな質問は軍規に背く事になるのか。俺には分からないが、同時に関係ない。知りたいという欲求のまま、紗枝さんに質問をぶつける。
「答えて下さい。テロリストは? 人質は? どうなったんですか?」
「……いずれ分かる事だ、いいだろう。テロリストは一人を残して殲滅し、既に死体処理をした後だ。仮想の医師団と交換をした人質は全員無事。残された人質は現時点で十六名が死亡。残り八名はいずれも重傷から重体。成功の範囲内だ」
「!?」
自分の耳を疑った。テロリストが殲滅された事にではない。彼に敵対した時、それは覚悟していた未来だったからだ。
問題は後半。残された二十四名の人質、その半数以上が死亡……?
紗枝さんの口から出た衝撃的な事実に、俺と同様に状況を把握していなかった兵士達がざわめきだした。
「なんだよ、それ……。それで、成功って言うのか?」
「範囲内、と言った」
「残された人質のほとんどが殺されてるじゃないですか」
「突入した瞬間、人質の管理されている部屋を爆破された。敗北を悟り、自爆的な行為に走ったのだろう」
「そんな事は突入する前に分かってて、対策を打つものじゃないんですか」
「だから言ったろう。……成功の範囲内だ」
範囲って、誰がそれを決めた? 想定の範囲内だから、爆破される恐れに目を瞑って突入に踏み切ったとでも言うのか?
「犠牲も払わず、あの状況を打開できる策があったのなら、言えば良かっただろう」
牧野副長官が皮肉めいた言葉を言いながら、紗枝さんと俺の間に入ってくる。その言葉は傍で聞いていた末端の兵士達にも向けられていたようで、皆一様に視線を床に投げた。
結果に文句を言う事ができるのは、方法を提示した者だけ。そして、その責任と罪を負う者だけ。彼女の言ってるのは正論だ。でも、納得しきれない。
理想を掲げた統一戦線のテロ行為。兵士達の命を賭した任務。俺と彼との交渉。その全てが、何も得る事が出来ず吹き飛んだ。そんな印象しか受けない結末になってしまった。
人質全てを無傷で救出する最良の未来ばかりではないと覚悟はしていた。だが、何だこれは……? 俺達がやってきた一つの任務は、一つの目的に向けられたものではなかった。上と下では、同じ方向を向いていなかったんだ。
「ハッ――」
胸を覆うおぞましいほど不快な虚無感。これを一体どう晴らせばいいのか。何にぶつければいいのか。
納得なんてしない。理解なんてしない。正論なんて、権力者が自己を正当化する為の最後の砦にしか成りえない。
――――。
ガチリと、今日何度目かの渇いた音が脳内に響く。急速に向上する五感機能を捉えながら、俺は得心した。
あぁ、まただ。また俺は――狂ってしまうのだろう、と。
「……っ」
お前らの勝手に決めた成功で何人の人間が死んだ? 自分なら納得できるとでも言うのか? 切り捨てられた人達が、その覚悟を持っていたとでも言うのか?
もし大多数の国民にこの結果が受け入れられるのなら、それは俺が狂っているからなのか、世界が狂っているからなのか、そのどちらかしかない。
「おい! おとなしくしろ!」
ふいに、空気を切り裂くような叫びが飛んだ。その方向に目をやると、暗闇でよく見えない廊下の奥から傷だらけの男性が浮かび上がってくる。
何かの能力で拘束されているのか。聞き覚えのある声を出す男性は、誰かに触れられた訳でもないのに、取り押さえられたように床に倒れ込んでしまう。
「あなたは?」
「辰巳君……ゴフッ……。こんな格好で、すまないな」
俺の名を呼ぶその声で確信した。この男はあの演説をした、俺と話をしたあの男で間違いない。
見た目は四十を過ぎている中年だろうか? 倒れ付すその姿からでも、組織のリーダー足る風格は色褪せていない。
このテログループを背負って起つ男。紗枝さんの言っていた一人の生き残りとは、彼の事だったのだ。いや、この状況は生かされているというべきなのか。何よりも気になったのは、彼が何故未だにここに留まっているのかの一点だった。
「どうだ辰巳君、君にとってこの世界は?」
「黙れ」
「ガハッ!」
背を踏み付けられ吐血する男。廊下の白い床に、生々しい赤黒い血が散乱した。
「……何が言いたい?」
牧野副長官が取り押さえている兵士達に手を振り、男の発言を促す。見下ろすではなく見下した目。その目にも躊躇う事無く、男は喋り続ける。
「まさか……ゴフッ……人質を、見捨てるとはな。……誤算だったよ」
「……」
牧野副長官は何も答えない。事実でも認めるわけにはいかないのか、テロリストに冷えた目を向け続けるのみだった。
「今更お前達に言いたい事など何もない。ただ最後に、この目で辰巳宗一を見れた幸運に感謝しただけのこと」
「そうか。だがお前はこれで最後ではない」
「ああ、分かっているよ。これから尋問……いや、拷問にかけられるのだろう? 組織のことを訊き出す為に」
「その通りだ。お前達だけが統一戦線では無いことなど百も承知。むしろお前達は末端の武闘派構成員なのだろう」
「ふっ……。まいったな」
俺の考えていた以上に、統一戦線は巨大な組織だった。それは一般の人にもそう印象付けされているのだろう。遼平や男性寄宿舎の皆は、この事件を歴史的なもののように見ていた。
それでも彼らは末端の構成員に過ぎない。統一戦線の本丸が何処にあるのかすら見えてこない。
「私を生かしているのは、それだけではないのだろう?」
「……どういう意味だ?」
「外を見れば誰でも分かる。今頃、報道規制が解かれ、私を主犯として護送する所をメディアで流すのだろう? 犯人の姿を知らしめる事で、大衆は敵視すべき存在を明確に認識できるからな」
そうなのだ。ここに入る前に、既に報道陣の記者やカメラが入り口前に列挙していた。
彼は今から数え切れないフラッシュを浴びながら、護送車への道を歩く事になるだろう。つまり、全国に知れ渡るのだ。彼がテロリストの主犯であり、この惨劇を引き起こした張本人だと。それだけで世間は憎しみを向ける対象者を特定できる。本当のことなど、一切知らされずに。
「どうだ、辰巳君……。この世は地獄と呼ぶに相応しいだろう」
筋書きを描かれた正義と悪。予定調和の物取り劇。
世論は誘導される。真実は歪曲される。国民の意思はあるようで存在しない。テロを、そして男を悪と決め付ける情報しかない中で、世の大多数の女性達は何を思うだろうか。
政府が人質を見捨てた事など報じるわけがない。殺したのはテロリストだと恥ずかしげもなく公言し、裁きを下した自分達が正義だと主張する。そして、こう国民に問いかけるのだ。
別に構わないだろう? 直接口に出せずとも、本心ではそう望んでいるのだろう?
鏖殺した所で奴らは、取るに足らない男という存在なのだから――。
「――やめろ」
ほら……。やっぱり俺は、狂っている。
この体と口はもう俺の意思では止まらない。止まってくれない。
「今すぐ、彼を放せ」
既に極限まで開放されていたフェイズ3の領域が、さらに押し広げられていく。
今までで最も愚かな目的で自己に干渉し、夢想者が創造される。
「放さないと――殺すぞ」
――憎い……。――憎い。――憎い。――憎い! ――憎い!!
無限とも思えるように湧き出てくる、唯一つの感情に支配されていく。
狂気と狂想で満ちる、混沌とした思考を解いてけばなんのことはない、僅か一文で俺のこの飢餓的な欲望を表現できた。
――目の前の女共を、殺したい。
女であれば関係ない。こいつらを殺し尽くせれば、今の俺はこの上も無い快楽と達成感を得るだろうと確信する。
開錠された理性の鍵穴。そのパンドラの箱から止め処なく溢れてくるものは、真っ黒な殺意と憎悪だけ。その箱の一番奥に希望なんてものは入っていなかった。これだけの総量の憎悪が、自分の中で蠢いていた事実に驚愕する。
そう、俺は狂っている。狂っていない理由がどこにも見当たらない。
何故なら今の俺は、隣に立っている縁すらも、心底殺したいと願っているのだ――。
「辰巳君」
「……っ……」
その男の呼び掛けだけは、この狂人の耳に正確に届き、切り替わるように明滅していた意識を固定させた。
「今、私ごときを救って何になる? それは君の描く未来に繋がっているのか? 私達は敵同士なのだろう?」
「……ぐ……っ……」
「なに、心配には及ばない。私もタダでやられるつもりは毛頭ない。今はこんな状態だが、反撃は出来る。だから落ち着くんだ」
俺の狂気じみた言動や態度に緊迫した兵士達が、今にも飛び掛ってきそうに戦闘体制を取っている。その中には紗枝さんや縁達も含まれていたのかもしれないが、既に俺は彼女達を一個の女としか見れていなかった。判別をつけるべき部分は、性別だけで充分だからだ。
「私の反撃を見ていてくれ。私が生きている限り。……約束だ」
「……わかり、ました。……約束します」
「では、行くとしようか……ぐっ……」
彼はそう言いながらふらりと立ち上がり、兵士達を引き連れるようにして自ら正面出口に歩いていく。
彼が見ていてくれと言ったのは、彼が報道陣に囲まれる場面を、ただ傍観していろという意味ではない。彼の言葉は恐らく、法廷か何かの公の場で戦うという意味の宣言だったんだろう。
でも、そんな事が可能なのか? 男が主張を公言することも許されない、この狂った世界で。
「君なら、出来るさ」
彼は最後に、振り返りもせずにそう呟いた。その瞬間、完成しきっていない干渉が脳から断絶され、夢想者は綺麗さっぱりと消え失せた。しかし未だに湧き出てくる源泉不明の憎悪は、収まる気配を一向に見せない。それを押さえ込む為に、俺の理性は磨耗し続けていた。
「出て来ました! 彼がこの惨劇を引き起こした張本人。今回のテログループのリーダーだと思われます!」
彼が出口を潜った瞬間、各メディアのリポーターが次々とカメラに向かって喋りかける。同時にたかれたフラッシュと照明があまりにも多く、夜の闇をその場所だけ切り取ったように明るくなっていた。
俺は予定調和のその光景を、マジックミラーが施された窓の裏から眺めていた。メディアに俺達が露出していいのは、連行する兵士だけと決まっている。
「が……ぎ……」
力一杯食いしばった歯が、不快感を促進する音色を発生させる。鉄の味が味覚を刺激してくる。
この堅く握りしめた拳を、嬉々として彼を撮っている記者達にぶつけてやりたい。何もかも欲望に任せてあそこに突っ込んで行き、彼が演説した言葉をもう一度叫んでやりたい。そんな衝動に襲われた。
彼らは真面目にジャーナリズムを遂行しているつもりなんだろうが、俺にはその真剣な表情が笑っているようにしか見えなかった。
彼に向けているそのマイクは何を求めているのか。彼の口から何が出てきたら、奴らは満足するというのか。彼は全ての望みを、あの全国放送で公言していた。それはほんの欠片すらも届いていなかったのだろうか。
「……?」
釜で煮え立っているような激情を噛み殺している最中、目の前の状況が不自然に動き、ふと意識を奪われた。
彼は連行されて護送車に向かう道中、何かを隣の兵士に語りかけている。兵士は難しい顔を浮かべ、仕方ないといった感じで頷く。すると、彼は出て来たばかりの建物、つまりこちらの方向に向き直った。
かなり動き辛そうではあるが、拘束から僅かばかり解放されたようだ。
「……は?」
次に彼の取った珍妙な行動に、俺は唖然と口を開いたまま固まってしまった。
数多のフラッシュで逆光にすらなっているこちら側からでは、彼の表情を伺い知る事はできない。だが彼の行動は、そのシルエットのように映し出された光の中で、しっかりと俺の目で確認する事ができる。
彼は――右手を振っていた。
力一杯、体全体を使って大きく。位置を違う事無く、マジックミラー越しの俺に向けて。
出会いと別れによく用いられる、ごく一般的な行動。能天気に俺を呼ぶ声が今にも聞こえてきそうだった。
場にそぐわなすぎるその行動は、周囲を困惑の渦に巻き込むのに充分なものだった。引っ切り無しにたかれていたカメラのフラッシュが、一時的に収まっていく。そのおかげで、ちょうどいい光量になった一瞬、彼の全体像がハッキリと視界に飛び込んでくる。
彼は――泣いていた。
「……なんで、だよ」
そして、その直後に見てしまった光景に、無意識にそう呟いてしまった。
あれが彼の言っていた反撃。彼が生きている限り、俺はその反撃を見届けなくてはならない。そう約束をしてから僅か数分後、それは今この瞬間に果たされてしまった。
「なんで……そう、なるんだよ……」
浅い過呼吸に陥り、声がどうしようもなく震えた。
俺に向かって振られていた手は、カメラのフラッシュが復活し、最高潮に達したあたりで進路を変えた。その直後、ドサリと重い物が地面に落ちたような音が耳に届いた。何かを撒き散らしながら転がっていく球状の物体が見えた。赤い液体を夜空に向かって放射する噴水が出来上がった。
つまり、振り下ろされた手刀で切られた物の断面は、どこまでも色鮮やかなまま電波に乗って、全国を駆け巡ったのだ。
そう、彼の最後の反撃とは――
「なんで、だよ……? ……なん、で? なんで!? なんでだあああああああああ!!」
――自分の首を、斬り落とす事だった。