第36話 巌
「……え?」
縁は俺の告白に瞠目して呆然となった。聞き返すように口をついた言葉は、耳に入った情報を咀嚼し切れていない事をありありと表現していた。あまりにも予想外な出来事だったんだろう。
「……」
視線を合わせたまま沈黙、時が止まったような静寂。それを頼りなく照らす沈み切っていない太陽。
ここから逃げ出したいくなるような恐怖と共に、場違いな優越感が湧きあがってくる。
今、井上縁の意識の全てを支配しているのは、間違いなくこの俺だ。彼女が構築する世界で、俺という登場人物の重要度がこの瞬間、跳ね上がる。それが良い意味なのか悪い意味なのかは、脇役である俺に決定権はない。
給水塔の裏から生唾を飲むような音が聞こえてきた。勝手に首を突っ込んできた二人の脇役は、勝手に緊張しているようだ。
「……あの」
「っ……な、なに?」
縁が沈黙を破り、物語を一歩前進させようとする。俺は情けなく震えた声を隠す事も出来なかった。
「それは……私の考えている意味で、あっていますか?」
その問いに、少しばかりない頭を回転させる。
この歪な人口比の時代では、もはや男女の恋愛は非日常と化している。何を持って好きか、それを縁は確認しているのだろう。
「……宗一君?」
「ああ。……俺は女の子としての井上縁が好きだ」
瞬間、逃げる事も出来るという選択肢も浮かんできたが、それを掻き消すように口を動かした。
「そう、ですか……」
意思疎通が成功すると、縁は前髪で顔を隠すように俯いてしまった。身長差があるので縁の表情を確認する事が出来ない。
発声された言葉に落胆のような色彩が窺えた。僅かな希望を根こそぎ刈り取るような声色は、俺にネガティヴな未来を覚悟して欲しいと言っているかのようにも聞こえた。
やはり、迷惑だっただろうか?
俺達の関係性を考えると、ここで断わってしまうと後の護衛に支障が出てしまう。先程より長く感じられる沈黙の時間は、縁がそのことを考えているからなんだろう。拒絶という答えに窮してしまうのも当然と言える。
これ以上、俺は……俺の好きな人を困らせていいのか?
「あの、縁……」
「そ、それで?」
「え?」
物語を失恋で締めくくろうとした矢先、何かを促してくる縁。
「それで、何ですか?」
答えを待つ立場の俺に、答えを求めてくる縁。
俺はそこではたと気付いた。この後の事を何も考えていなかったことに。
「え、と。……な、何だろうね?」
考えがまとまらずアホみたいな疑問を口にすると、ズザーという音と共に、有原と立川が給水塔の裏からずっこけていた。縁が肩を震わせて振り返る。
この馬鹿ども。思いっきりバレたじゃねーか。
「なによそれ!? アホか!」
「宗一さんて馬鹿なの? 死ぬの?」
二人は隠れていた事がバレたとかどうでもいいらしい。とりあえず俺を罵倒するのが先のようだ。
「そこは『付き合ってくれ』でしょーが!」
「え……? 『嫁になってくれ』じゃ?」
「都は黙ってて!」
なんかヒートアップしている有原。相変わらずぶっ飛んでいる立川。
お前ら、邪魔しているという自覚はないのか? でも気持ちは分かる。俺が見ている立場なら、男側を遠慮なく殴ってツッコミを入れている場面だ。
「宗一はほんと形容の仕様がないほどのアホね。形容詞にそーいちって言葉を新しく作ってくれないかな? アホの最上級という意味で」
「宗一さん、ここは押し倒すのが正解です。その行動に出れない為に、悲しくも宗一さんが童貞であることが露見してしまいました、シクシク」
「お、お前ら言いたい放題いいやがって……。処女ーズは黙ってろ」
「な、なによー! 心配してあげてるのに!」
アホ二人の登場に、ぐだぐだ感が加速していく。
ああ、もう。なんでこうなるんだよ。
「? ……縁ちゃん?」
ぎゃあぎゃあ言い合っていると、有原が縁を一瞥した後、何かに気付いたように縁の顔を覗き込んだ。俺の位置からでは、二人のほうに顔を向けている縁の表情がよく見えない。
縁は何故か、有原と立川のほうに小走りで駆けて行った。
「へ……?」
「ゆ、縁さん?」
縁はその勢いのまま二人に抱き付いた。俺の告白から俯いた顔は、未だに持ち上がらない。
あれ……もしかして……。
「ぅ~~……」
縁は照れていた!
二人の胸に顔を埋めて唸っている。少しだけ横から見える頬は真っ赤に染まっていた。さっきの沈んだような声は何だったんだ?
「よしよし。ほんとひどいわね~、宗一は」
「縁さんが可愛いすぎて死にそう……」
俺を置いてきぼりにして、女の友情を深めている三人。ひしっと二人にしがみついた縁の可愛さは生きるのが辛くなる程だった。俺もあの頭をよしよししたい!
「さぁ、アホはほっといて帰ろ」
「う、うん……」
「そうですね。この縁さんをたっぷり愛でないと、ジュル」
さっきから立川が怖いが今はスルーだ。
三人は肩を寄せ合いながら、屋上の扉に歩いていく。
「そ、宗一君」
足を止めた縁が、こちらに顔を向けずに呼びかけてくる。
「私は恋愛とか、付き合うとか、そういう事がよく分かりません。でも……」
俺の告白に対しての答えを、縁はぽつぽつと語りだした。
「私も、宗一君が好きです」
縁はこれ以上なく照れながらそう言った。有原と立川を盾にしているので自信は無いが、声は震えに震えていた。
それは飛び上がって喜びたくなる答えだったが、縁が言う『好き』という言葉を、俺の時代の感性のまま、額面通りに受け取るのは躊躇われた。
人としてなのか、男としてなのか。それが何を指しているのか、縁自身にも分かっていないだろう。男に接する機会すら希少な時代では、それも当然なのかもしれない。
付き合うという男女間の明確な約束事は交わされなかった。縁が恋人であると、これから会う人に紹介する事もできない。でも縁のその言葉を引き出せただけで、俺はこれ以上なにもいらなくなるほど満足できたのだった。
「ありがとう、縁」
◇◇◇◇◇◇
告白の結果報告をしようと思い、男性寄宿舎に足を運ぶ。何人かに相談はしたけど、実は遼平に一番話を聞いてもらったんだよな。
いかに縁がかわいいかを力説する俺に、いい加減うんざりといった顔をしていたけど、最後までちゃんと聞いてくれた。やっぱり同性というのは話し易い。
「ふ、ふふふ……」
やばい。顔が勝手にニヤける。縁に好きって言われちゃったよ。嬉しすぎる。
ほんと、もうそれだけで良い。これ以上望んだらバチが当たるね。
「……ん? どうしたんだ?」
寄宿舎の入り口を潜ると、ロビーに人が集まっている。みんな真剣な表情でテレビに釘付けになっていた。
「遼平、どうした?」
「……ん」
視線は俺に向けず、神妙な面持ちのまま顎でテレビを見ろと促してくる。一体、何なんだ?
『現場からお伝えします。テロ組織は国際遺伝子研究センターの入り口を爆破して封鎖後、立て篭もったまま沈黙を守っています。数十名の職員を人質にとり、爆破から既に二時間以上が経過していますが、中の様子や人質の安否は依然不明なままです』
テロだって……? この日本で?
「今回はかなり本気だな」
「ああ。これはかなりの事件になるぞ」
誰かの呟きが耳に届くが、理解に少し時間が必要だった。もう何度も見てきたような、そんな口ぶり。それに妙に気になったのは、その声色だった。なんで、そんなに……?
「遼平……」
「……ちょっとこっちに来い」
そこで初めて俺に視線を向ける遼平。
有無を言わさないその真剣な表情に引き摺られ、黙って遼平の後を着いていく。
「ここでいいか」
ロビーの隅のほうに移動。遼平はテレビに夢中になっている人だかりを一瞥して言う。
「で、なにか訊きたいんだろ?」
「あ、ああ……」
もう告白の結果報告なんて頭から吹っ飛んでいた。
俺は嫌な予感を抱きながら、遼平に質問をぶつける。
「こういう事って頻繁にあるのか?」
「ああ。まぁな……」
「国際遺伝子研究センターってどこだ?」
「……東京」
……? 質問に答える遼平の歯切れが悪い。
めんどくさそう? ……いや、違う。迷っているのか?
「どうかしたのか? 遼平」
「……」
「遼平?」
「あーもう! 説明してやるからちゃんと聞いてろよ! この記憶喪失野郎が!」
いや、そこでキレられても訳分からんのだが。まぁ何か吹っ切れたようで良かった。ちゃんと聞くぞ。
「あのテロ組織は全て男性で構成されている。以前から何度もこういったテロを繰り返してるんだ」
「なに……? 一体、なんで……?」
「はっ、お前にも動機くらいは分かるだろう」
口をついて出た、至極当然な疑問が空しかった。この時代でその問いは愚問でしかない。
「場所から考えると、今回はかなり大掛かりなテロだ」
「そうなのか?」
「国際遺伝子研究センターは今の日本ではかなりの重要拠点だ。赤目の遺伝子研究はもちろん、遺伝子操作による能力開発を、国際的に認められている日本で唯一の場所だ」
「そんな重要な場所を乗っ取られたのか?」
「ああ。だから、厳重な警備である筈のその場所を、一体どれ程の戦力で制圧したのかと思うと、簡単に想像できるだろ?」
「今回が本気だと?」
「……もしかしたら、自滅覚悟なのかもしれない」
そんな重要な拠点の警備なら、もちろんフェイズ能力者なんだろう。
銃火器すら無力としてしまうフェイズ能力者を相手に、生身の人間が一体どうやって対抗したんだ?
「目的はなんだ?」
「……さぁな。今はまだ沈黙を守っているが、人質を盾にとってなんらかの要求を政府に出してくるだろうな」
「そうか……」
男性の聖戦、というべきなんだろうか。遼平の不機嫌な態度に合点がいった。こいつは自分の中の感情をどう処理していいか戸惑っているんだ。
恨みの感情を晴らしてくれるテロリストに、諸手を上げて賞賛するのか。それとも、多数の死傷者を厭わないその愚かな行動を糾弾するのか。こいつは今、もがいている。
「そういえば、何か用があったんじゃないのか?」
「……いや、いいんだ」
縁に告白して浮かれた気分はすっかり霧散していた。
俺が告白をしていたあの時。テロリスト、つまり女性を憎悪する男性達は、必死に戦っていたんだ。関連性なんか全然ないし、比べる事がまずおかしいが、何故かそんな風に考えてしまう。
当たり前のように世界は巡っている。俺が笑っている時、知らない誰かは屋上から飛び降りているんだ。
「ん? すまん」
携帯電話が鳴った。着信を見ると紗枝さん。……嫌な予感マックス。
「もしも」
『お前、今何処にいる? 二分以内に戻って来い(プッ、ツー、ツー)』
「……し」
有無をも言わせない通話時間を確認すると、ジャスト三秒だった。四文字くらいちゃんと言わせて欲しい。
「悪い遼平、また今度な」
「ああ」
遼平に別れを告げてロビーを後にする。その帰り際、皆がテレビに向ける期待と羨望の眼差しと、堅く握られた拳を視界の隅で捉えたが、俺はそれを見るのを避けるようにして男性寄宿舎を立ち去った。
◇◇◇◇◇◇
「くそっ! なんて理不尽な眼鏡だよ!」
戻って来いと言うから、必死で走って病院まで戻って来たが誰もいなかった。
紗枝さんに電話すると、『屋内の第二演習場だ馬鹿。二十秒で来い』とか言われた。最初から言えっつーの。
「……う」
第二演習場に入っていくと、そこに乱れなく整列した女性が五十人ばかり。
入った瞬間、女性達から凄まじいまでの視線の嵐を浴びる。その視線を言語化すると「なんでこいつがここに?」だろう。その中に見知った顔を何人か発見した。
「遅いぞ。その辺に並んでろ」
理不尽大王に促されて、整列している女性達の最後尾に並ぶ。文句を言ってやりたかったが、そんなお気楽な雰囲気は欠片も無い。
「既に知っている者もいると思うが、今から約二時間前の午後六時頃、国際遺伝子研究センターがテロリストの襲撃を受けた」
全員当然のごとく知っていたようで、ざわめきひとつ起こらなかった。
紗枝さんからの電話があった時点でその事だろうとは思ったが、俺になんの関連性があるのかよくわからない。
「北日本防衛軍は政府からの出動要請に従い、兵士を派遣する事になった。そこで、ここに集まってもらった遊撃部隊第一小隊と、各部隊から選抜した諸君にこの任に就いてもらう」
なるほど。テロリストの鎮圧は軍として当然の出動理由だ。
この面子が遊撃部隊の人達なのか。どの女性も場慣れしてる感が半端無い。
「現時点では情報が錯綜していて、テロリストの規模や戦闘力等は不明瞭な部分が多い。人質に関しても一部の身元しか判明しておらず、数十人程度としか把握していない」
テロとは奇襲だ。それが成功し、今のところテロリスト達が有利に事を運んでいる。
「任務の内容は、強攻策試行時の人質奪還とテロリストの鎮圧。作戦の詰めは現場に到着してからになるが、この紙に現時点で考え得るパターンDまでのマニュアルを記載しておいた。本来の軍規律に基づいた内容なので既に全員知っていると思うが、現場到着までに必ず覚えておくように。……配ってくれ」
「はっ」
やぱい。紗枝さんが何を言っているのか全然分からん。紗枝さんは防衛戦の時のアリサさんのように親切ではない。アリサさんは……あ、いた。
「……」
目があったがウインクされて終わった。解説は諦めよう。このマニュアルを読んで、なんとか自分で理解するか。
「辰巳宗一」
「!? はい!」
いきなり紗枝さんに呼びかけられ、マニュアルに落とした頭を浮上させる。
「お前にはテロリストとの交渉役をやってもらう」
「交渉……ですか?」
言われた瞬間、何故俺がここにいるか腑に落ちる。が、同時に違和感もあった。
確かに相手が男性で、この時代背景から彼らの動機を考えると、男性が交渉役をするのが良いように思うが……。
「それから、交渉役の辰巳宗一の護衛に何人か就いてもらう」
女性兵達の、俺に対する懐疑の視線が和らぐ。何故ここに俺がいるのか得心したようだ。
護衛は井上縁、有原涼子、立川都、高瀬由梨。その他5人の名前が挙げられる。どう考えても意図的だ。
「この任務では交渉役の辰巳宗一が鍵となる。なるべく人質を無傷で救出したいというのが政府の意向だ。護衛役ではない者も、辰巳宗一に危険が及ばないよう全力で対応しろ」
「はっ」
「今より一時間後に出立する。辰巳宗一は少しここに残れ。他の各員は戦闘準備の後、所定の位置で待機。では、解散!」
「はっ!」
紗枝さんの号令に、きびきびと退室していく兵士達。
ぽつんと一人残された俺は、紗枝さんとアリサさんに向き合う。
「どうした? 何か言いたい事がありそうだな」
「紗枝さん、俺が交渉役なんて自信がありません」
正直に心情を告白する。自信なんて欠片もありはしない。
この時代の人間ではない俺に、女性を憎悪する男性の気持ちを理解するのは難しい。違う時代で生きてきた俺とテロリスト達の価値観は、一体どれ程の差異が生じているのか、想像すら遠く霞んでしまう。
「当たり前だ」
「……へ?」
「勘の悪い奴だな。ここにアリサがいる時点で少しは察すると思ったが」
「……?」
アリサさんがここにいる事に少しの不自然さを感じたが、紗枝さんの言わんとしてる事がわからない。
アリサさんはハッキリ言って関係ない。医療部隊が出てくるならともかく、基本的には戦闘を必要とされる場面で出番はない。基地長という役職ではあるが、彼女は俺の研究に重きを置いている。
先程感じた違和感と、アリサさんがここにいる不自然さ。それを言語化すると、どうなる……?
「俺は……交渉役……ではない」
「そうだ」
やはり、そうなのか。交渉役に男の軍人が必要と言うのなら、俺でなくても良い筈だ。
この基地に男は俺しかいないと言っても、仙台基地に男性の部隊はあるし、政府でもその人材確保は容易く出来るだろう。なにも世界的研究対象である俺を担ぎ出す必要性は全くない。逆に言えば、俺でなければならない理由があるんだ。
「交渉に関して頭を悩ます必要なんかないぞ。お前にそんなことは期待していない。もし本当に交渉するようなことになっても、その時はフリだけでいい。適当に喋っておけ」
「な、何なんですかそれ? 意味が分かりません」
「政府からの要請で、念のためお前をその場に待機させておいてくれとの事だ。交渉役の任務を与えたのは表向きでしかない。こうしておけば、今回の選抜部隊はお前を疑問視せずに守ろうとするだろう」
「つまり彼女達の本当の任務は、俺の護衛?」
「テロリストの鎮圧も政府の正式な要請だからないがしろにはできないが、本来この任務に要する以上の人員を召集した。その分はお前の為だ」
一言も喋らないアリサさんに目を向ける。
ここにいるという事は、アリサさんも行くんだよな? 何の為に……?
「一ヶ月後あたりに予定していたある実験を前倒しする事になった。今回の事件で政府が焦ったんだろう。どちらにせよ、お前は東京に行かねばならないんだ」
「何の実験ですか?」
「……」
「紗枝さん?」
紗枝さんの言葉が止まり、少し何かを考えたような仕草を見せる。その一拍の沈黙は、事の深刻さを突き付けるように俺の胸に刺さってきた。
「まずテロリストを鎮圧しなければこの実験が成立しない。お前は自分を守ることだけ考えていろ」
「あっ! 紗枝さん!」
「……ひとつ、忘れていたな」
去ろうとした紗枝さんが振り返り、思い出したように言う。
「お前は、どうしたい?」
「え?」
「強制はしない。東京へ行くかどうかはお前が決めろ」
「……」
おいおい……。あれだけ有無を言わせない流れだったのに、ここで俺の意志を確認してくるのか。
紗枝さんにしては分かりやすく感情が顔に出ている。その底意地の悪そうな悪魔的表情に『答えは分かっているが一応訊いてやる。嫌と言っても連れて行くけどな』と書いてあった。
「……い、行きますよ。行けば良いんでしょうが!」
「クク……。一時間後だ。遅れるな」
「あっ! ちょ、ちょっと!」
微笑を零し、それだけ言い放ち去って行く。今度の呼びかけは空しく屋内に反響した。
「……なんなんだよ、一体」
二人が何かを隠しているのは明らかだ。全てを話してくれないのは、秘匿性の高い機密だからなのか。それとも、俺がまだ彼女らの信頼に足る強さを手に入れていないからなんだろうか。
『東京』『テロリスト』『交渉役』『実験』
また俺の前に立ち塞がってくる強大な世界。その圧倒的なまでに巨大な巌に、自分の矮小さを痛感し、無力感に苛まれる。
「……はっ」
浮かんできたネガティブな思考と、進歩のない自分を嘲笑する。もう何度も何度も思い知らされ、そして同じ答えを出してきた。俺が考える事、成すべき事は、常にひとつだけで充分なのだと。
俺は俺の意志で動き、俺の価値観でこの世界を見る。それだけでいい。
だってそうだろう。これは誰の世界でもなく、俺自身が捉えている世界なんだから。
◇◇◇◇◇◇
自室に戻り、準備を整える。といっても軍服に着替えるだけで、特に時間を必要としなかった。
そういえば、さっき貰ったマニュアルをまだ読んでない。時間が来るまで読んでいよう。
「なになに? えー、対テロリスト戦闘時概略、軍規より抜粋……」
いかん。言い回しといい、カチコチの文章だ。俺でもなんとか理解できるという事は、これでも簡略化された文体なんだろう。法律なんかと抱き合わせでこられるとお手上げだった。
「パターンA。…………う~ん。要するに、交渉に重点を置いて時間的猶予を確保。人質を最優先で救出するって事か」
なんとか解読して読み進めていく内に、自然と顔が曇ってくる。パターンがひとつ進むごとに、状況悪化を見据えた戦略が立てられている。そしてパターンB、C共に、最後に締めくくられた文はこうだった。
『テロリストの生死は問わない』
そしてその横に※印が打たれ、超法規的措置と書かれていた。
国際的なテロ法とは解釈が違うのだろうか? 読んだ事がないからよく分からないが、死刑が廃止されているこの時代においてのこの注意書きは、テロリストが法廷の場で死刑を宣告される事を含んでいるのかもしれない。
「……な」
そして最後のパターンDを見た瞬間、自分の目を疑った。
『パターンD : パターンA~Cに該当しない場合、テロリスト全ての殲滅。※超法規的措置』
つまり――皆殺し。