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2 : 8  作者: 松浦アエト
34/46

第34話 拒絶


 心地良い――。


 フワフワと漆黒の海に浮かんでいるような感覚。自己干渉で人格を強制すると訪れる快楽。考える事を放棄した開放感が俺を包み込む。

 目的を遂行する事だけを考えていればいい。感情の一欠けらも湧き上がってこない。


 ――なんて、楽なんだろう。


 なにも迷う事は無い。なにも選択する事は無い。なにも感じる事は無い。

 一つの目的を遂行する為に生み出された道具や機械のように。只、そうすればいいんだから。


「えっ!?」


 突如現れた闖入者に、女性達が驚愕の眼差しで俺を捉える。

 更科さんに向かって振り上げられた足は、俺の登場で行き場を地面に落ち着けた。それに対し、俺は安堵の溜息を吐くこともなかった。


「た、辰巳宗一!? な、なによ! 文句でもあんの!?」


 一言も発さず、冷えた目で状況を見ている俺に向かって一人の女性が叫ぶ。


「あ、あんたのせいなんだからな!」

「? ……なにが?」


 突然の責任転嫁発言。訳が分からず、これには問いを返さずにはいられない。


「この子がこんな風になってるのがよ!」


 地面に横たわっている更科恵を指差す。彼女を蹴った本人が。

 目を向けると、更科恵は青ざめた顔のまま俺に向けて微笑を浮かべる。心配させまいとしているのか、それとも助けが来たと思い安堵したのか。


「たつみ、さん。……ごめん、なさい……ごほっ」


 肺に損傷があるのか、しゃがれた声で俺への謝罪を口にする。

 どうやら前者だったようだ。更科恵から俺に対する罪悪感が伝わってくる。


 今は、何より不思議だった。彼女が俺に何を謝る必要があるというんだろう。そして何故、彼女は俺に信頼の目を向けているんだろう。俺とこの女が会話したのはあの告白の時だけだ。それで俺を分かっているとでも言うつもりだろうか。それとも、それほど俺を見てきたということだろうか。

 もしかして俺は、侮っていたのかもしれない。更科恵に対して。更科恵の想いに対して。


「まさかカッコよく助けようとか思ってんの? 馬鹿じゃない?」

「あんたこの子ふったんでしょ? ならもう関係ないじゃない。どっか行ってよ、気持ち悪い」

「……国枝基地長に守られてるからって調子に乗るなよ?」  

 

 忌むべき本人の登場に、周りの女性達が加熱する。憎しみを乗せた視線で、口汚く次々と罵声を浴びせてくる。それは彼女達にとっても決して楽しい行為ではない筈なのに、その感情の大半は喜色のように感じとれた。


「私達、友達だったのに! 全部あんたのせいよ!」


 目の端に涙を溜めて、俺に怒りをぶつけてくる。自分の発した言葉が、感情が、支離滅裂な物と気付かないままに。

 どうやら彼女達曰く、俺のせいで友達を傷付けなくてはならなくなったらしい。 


「く……くくっ……はは、あはははははははははははは!」


 喜に属する感情など何も湧いてきてはいない。だが見せ付けるように笑ってやった。彼女達にとっては、さぞ醜い高笑いになっていることだろう。


「な、何笑ってんのよ!」

  

 友人に暴力を振るって尚、自分は悪く無いという妄信。それを笑わずに真剣に受け取れなどと言うのだろうか。


「それで、続けないのか?」

「え……?」


 俺の質問に、加熱した空気が一気に冷める。


「友達の更科恵が俺に告白した事で、お前達は裏切られたような気持ちになった。男みたいな下等生物を好きになったりして……ってところか?」

「そ、そうよ」

「だったら続ければいい。お前達が男を憎む経緯なんか知らないし、どんな悲惨な出来事があったかなんてのも関係ない。お前達の怒りが純粋な物なら、どんな理不尽な行動でもできるだろう。今していたように」

「何……言ってんの?」

「それとも、今ここで俺を殺すか?」

「っ!?」


 俺が誰の庇護下に置かれてようと関係ない。今ここで俺は一人きりなんだ。彼女達の怒りが純粋であるのならば、迷わず俺にその矛先を向ける筈。そうするのが自然なのだ。

 それが出来ず更科恵を迫害するのは、彼女達の本質が逃避と保身であるからなのだろう。 

 

「君」

「……えっ?」

「さっき振り上げてた足、どうするか見せてくれよ」


 その場にいた女性達が目を見開き、呆然と俺を眺める。倒れている更科恵も信じられない事を聞いたような表情になっていた。

 俺自身、信じられない。これが本当に、俺が望んだ夢想の姿だったんだろうか?

 

「……やらないのか?」

「な、なんで、あんたに命令されなくちゃならないの?」  

「そりゃごもっとも。じゃあ、代わりに俺がやってやろう」

「は?」


 自分の言葉を実行する為、倒れている更科恵に向かって歩き出す。

 それは脅しでもなんでもなかった。今の俺は目的遂行の為、無抵抗な人の腕を折る事など容易い。


「ちょ、ちょっと! 何する気!?」

「や、やめて!」


 瞬時に狼狽する女性達。更科さんを庇うように俺の行く手を遮る。


「なんだ? これ以上やるつもりはないとでも言うのか?」

「だ、だから! あんたに関係ないって言ってんの!」

「関係あるだろう。俺のせいでお前らの友情に傷をつけた。だから俺が汚れ役をやってやろうと言うんだ」

「む、無茶苦茶よ!」


 その通りだ。今の俺の行動は筋道がひとつも通っていない。これじゃあ只の暴君でしかない。


「じゃあさっき、お前達が更科恵に暴行を加えていたのは正しいと言うのか?」

「そ、そうよ。皆裏切られたんだから。……ねっ?」


 俺の質問に答えるのに、わざわざ周囲の反応を伺う。

 彼女達はまだ自己形成もままなっていない。何の迷いも無く殺したいと吐き捨てた西川さんとは違う。この程度打倒できなくては、これから先が思いやられる。 


「弱いな……」

「え?」

「弱いと言った。お前達の感情なんか全て借り物だ。他人の怒りに依存しないと怒れない。他人の表情を見てからでないと自分の感情すら決定できない」

「は、はあ!?」

「だから目の前にあるチャンスを実行しない。俺を殺すという怒りを実現できない。しようともしない」

「く……ぅ……」

「お前達は、自分の弱さを責任転嫁するだけの存在」 


 転嫁先は更科恵。そしてその背後にある男という大きなカテゴリー。

 こいつらが男を嫌悪するに足る理由があったとしても、それは弱いからであると断言できる。自分を制御できない人間は等しく弱い存在。……そう、この俺のように。


 あぁ……でも、弱いというのは果たして悪い事なんだろうか。人一人が持ちえる強さなんかたかがしれている。人は何かに群れ、依存しないと生きていけない存在。それを弱いと糾弾したところで、彼女達に、俺に、一体何が出来るというんだろう。


 上から目線で彼女達に正論を吐いている、俺ではない俺。それはなんて、醜い姿なんだろう。

 正論で全てを片付けられると夢想しているんだろうか? 多種多様の価値観は置き去りにし、何が正しいかを他人に説いてどうなると言うんだろう。自己顕示欲を満たし、快楽を得たいだけではないのだろうか?

 今の俺に感情があれば、さぞ気持ち良いことだろう。正論という名の仮面を着けた、弱者への罵倒は。


「これだけ言っても、何もなしか」


 飛び掛ってくることも想定していたが、彼女達はただ敵意を向けた視線を飛ばしてくるだけ。

 仕方ない……。


「た、つみ……さん?」


 更科恵が近寄った俺を見上げてくる。そして不思議そうに見ている。数日前に告白した男の、無慈悲に振り上げられる足を。


 ――おい……。何をする気だ? や、やめろ……。やめろ!


 ここにはない声に、誰かの口元が釣り上がったのを感じ取った。


「ぁぐ!?」


 先程蹴られた腹部に、寸分も狂わせず足を振り落とす。更科恵は痛みより先に、驚愕に支配された表情を一瞬だけ浮かべる。

 信じられないだろう。自分が好意を寄せている相手が、こんな理不尽な暴力を振るうなんて。


「がはっ! ごほっ! う……ぁぐ……」


 新たに吐き出される液体。それはまだかろうじて胃液と表現できる物だった。

 これでいい。これが俺の本当の目的だった。ここからは、こいつらと戯れよう。

 

「や、やめろおおおお!」 


 もう一度落とす気のない振り上げた足に釣られて、一人の女性が飛び掛ってくる。


「ははっ! そうだ、来い! お前らの怒り、それでこそ本物だ!」


 込み上げて来る愉悦。これで目的はほぼ達成された。

 ここでこいつらにある程度の重傷を与えるつもりだったが、そうだな……。念には念を入れて、殺しても良いかもしれない。曲がりなりにも、こいつらは更科恵の友人なんだから。 


 ――! ――――!


「……」


 何を言っているのか分からない。お前は本当に弱い存在だな。

 そんな声は、誰にも届きはしない。


 ――自分自身にすらも。



◇◇◇◇◇◇



「……」


 仰向けに倒れて見る空が、紅く染まってきた。

 結局、講義も訓練もサボってしまった。後で皆に怒られるんだろうな。


「いてぇ……」


 五人がかりでボコボコにされてしまった。彼女達は抵抗しない俺に気が削がれたのか、苦しんでいる更科さんを抱えて逃げるように去っていった。

 これで、よかったんだろうか。その疑問は、今の俺が正常であることが答えになっているんだろう。


「はぁ……」

「よ、よう。……縁」


 いつの間にか隣に立っていた縁。防衛戦の時といい、お前は忍の人かなにかなのか? その溜息が何を表現してるのか重々分かっているから、もう何も言わないでくれ。


「……いつから見てた?」

「最初からです」


 そんな気はした。縁があれで完全に引き下がるとは思えないし。


「宗一君があんな事するとは……ビックリです」

「失望、したか?」


 俺は……自分自身に失望した。

 自分に好意を寄せてくれた相手に理不尽な暴力を振るった。だが自己干渉を使わなければ、俺は傍観するのみだっただろう。しかし、使ったところであの非道な振る舞い。どちらも正解ではなかった。


「いいえ。見直しました」


 ……は? 何を言ってるんだこの子は? 好きと言ってくれた女の子を足蹴にする、最低の行為を目の前で見てそれはないだろう。

 そんな俺の戸惑いを余所に、縁は俺に手を差し出してくる。

 

「悪者になるのは、辛いでしょう」

「……」


 視線を縁から外すと、仰向けの体勢から茜色の空が視界に広がった。その世界のあまりの綺麗さ。この世界のあまりの醜さ。天と地で何故これほどの差がつかなければいけなかったんだろう。

 今更ながら、俺は更科さんを救うという意味を考える。あの状況での救いとはなんだろうか。そして、俺が設定した目的は――。


「勘違いだ」

「……え?」


 だがそうであったとしても、縁に認めさせるわけにはいかない。あの行動で褒められるなんて、自分で自分を許せない。


「あいつらうっとうしかったからな。あそこまでやったらもう絡んでこないだろ」


 差し出された手を無視して起き上がる。同時に演じた悪態は、上手く出来ているか俺には分からない。 


「そうですか」 


 望んだ反応が返ってこない。少し困ったような顔で、立ち上がった俺を見上げている縁。


「俺は……」


 怒って欲しかった。罵って欲しかった。縁に俺を裁いて欲しかった。そうすれば、少しは楽になれる。俺は少しでも、この罪を軽くしたかった。だが縁は、俺が望んでいる言葉を口にしてくれない。


 ――お前が今抱えている負債。他人に精算させてもいいのか?


 縁の瞳を見つめていると、つい先日聞いた紗枝さんの言葉が蘇ってきた。

 俺はひとつ息を深く吸い、情けなく歪んでいるであろう顔を縁から外す。


「俺はまだまだだな」

「そうですね」


 白旗を上げて降参。この子は本当に頑固だ。自分が信じているものを決して曲げたりしない。自分という俺が一番信じていないものを信じることが出来る。

 いつか知りたいなと思った。その強さの秘密を。


「帰るか」

「はい」 


 更科さんを子供じみた正義感で助ける。それもひとつの手だと思う。だが、その後は? 彼女達の更科さんへの迫害は悪化するのが目に見えている。

 常に彼女を守るとでも言うのか? 彼女の好意を拒絶したのに? それで更科さんは満足か?

 満足するのは……俺だけじゃないのか?


「思い出したよ」


 自分に強制した命令。立ち止まる術しかなかったこの足を動かした力。自分ではできなかった非情な振る舞い。

 その全ては、この暗示から始まっている。


『更科恵を拒絶しろ』


 

◇◇◇◇◇◇



「……うん。やっぱギターはいいなぁ」


 ここ最近、訓練後の暇な時間に誕生日プレゼントで貰ったギターを毎日弾いている。

 病院でうるさくしてはいけないのでこの寒い屋上でやるしかないが、真冬の寒さなんか気にならない程、俺は久しぶりに手に入れた趣味に没頭していた。


「あいたー」


 やっぱり寒い。手がかじかんできた。細い弦を押さえるのがきつい。

 ギターを壁に立てかけて小休憩。屋上に来てもう二時間になるが、まだ全然やりたりない。

 もうすぐ深夜と呼べる時間。上を向いて吐く息が、基地の薄明るい照明の中、真っ白に染まる。


「結構上手いじゃない」

「……少しコードを覚えたら誰でもできますよ。……アリサさん」


 想定外の観客に、目を向けずに返答する。

 いつからいたのかこの人は。盗み聞きとは趣味が悪い。ちょっと恥ずかしいじゃないか。


「わかりやすいわねぇ、宗一君は」

「なにがですか?」

「マイナーばっかりなんだもん」

「…………」


 アリサさんは何か音楽の経験があるんだろうか?

 俺が弾いていた曲はマイナーコードが多く含まれていた。音楽的な意味でのメジャーやマイナーは、音の明暗を指す用語で、マイナーコードが多いと暗めな曲になる。


「感情は音に表れる……か」

「上手くないし、真顔で言うと恥ずかしい台詞ですね」

「あっ。や、やっぱり。……てへっ」


 てへっ。じゃねーよ。……かわいらしい人だな。


「宗一君はモテるのねー」

「……いえ」


 アリサさんが本題に移る。少し回り道をしてくれたんだろう。

 俺がモテるとかじゃないと思う。今回の事件は、この圧倒的に開いた人工差が一因になっている。多数の女性の中に一人しか男がいないのなら、女性達には選択肢がないんだ。多くの女性達の中に俺を気に入ってくれる子がいただけだ。

 俺以外にもっとたくさん男が居れば、更科さんは別の人を好きになっていたかもしれない。


「……っ」


 頭を振って最低な考えを吹き飛ばす。そんな考え方は彼女の気持ちを侮辱している。俺はどこまで彼女を貶めたら気が済むんだ。あの濡れた地面にどれだけの思いが込められていたのか俺にはわからないが、否定する事だけはしてはいけない。


「彼女を遠ざける為にやったんでしょ?」

「……」


 話のあらまししか聞いてない筈なのに、この人の鋭さは恐ろしい物がある。いや、実際に見てないからか……。俺が更科さんの腹を蹴った場面を見ていれば、そんな風に解釈できない筈だ。


「何故そう思うんですか?」

「彼女を蹴ったって聞いたけど、宗一君が遠慮無しに蹴ってたらフェイズ1の子なんて即死だからね。こう、胴体が千切れてドヴァーって」

「ドヴァー……」


 その表現はどうかと物申したかったが、まぁいいやとスルー。

 確かに強化能力を持っていないフェイズ1の更科さんを、本気で蹴ったらそうなっていただろう。

 少し背筋が凍る。俺はあの時止まれなくても何も不思議ではなかった。だが実際は止まった。殺していてもおかしくない目的だったのに。


「違うの? じゃあ、彼女が気に入らなかったの?」

「い、いや、まぁ。どっちでもいいじゃないすか」

「え~。どっちなのよ~。教えてくれたっていいじゃな~い」


 どちらが本当でも、俺が彼女にした行為は消せないんだ。あの非道な振る舞いが許されるとは思ってない。


「ねぇ~ねぇ~、どっちよ~」


 なんか、しつこい……。

 もっとさっぱりした人だと思ってたんだけど、恋愛ネタだから興味があるのかな?


「……しゃで……」

「え? 何? 聞こえない」

「前者で!」


 根負けした。あまり言いたくなかったけど、まぁいいか。アリサさんだし。

 だが彼女の為に彼女を遠ざけるという選択を、胸を張って正しいなんて言いたくはない。彼女は近付きたいと思ってくれた。その想いを叶えられないのは、他の誰でもない俺自身なんだから。


「だって」

「は?」


 アリサさんがひょいと振り向いて、誰かに結果報告した。

 え……? 誰に? ……まさか。


「こ、こんばんは」


 更科さんが屋上の扉の影からビクビクしながら出てきた。隠れていた事になのか、少しバツが悪そうだ。

 俺は予想外の人物の登場に呆然。半開きの口でアホ面を形成した。 


「えっ、あ、ええ?」


 なんてこった。俺は彼女の中で最低な男でないといけなかったのに。なんでこんな事をするんだ、アリサさん。


「あっ、宗一君。暗示はキャンセルできるから、したかったら私の所に来なさい」


 それだけ言って、アリサさんは寒さに体を抱きながら屋内に入っていった。

 えっ……? ちょっと待てや。それであんたの役目終わり? なんなのこれ? 


「辰巳さん」

「え? う、うん」


 状況についていけない頭のまま立ち上がり、更科さんと向かい合う。

 えと、どうしたらいいんだろう?


 ――――。


「!? あっ、ぐぅ!」


 あまりの頭痛に顔を歪めてしまう。脳内の指揮系統が乗っ取られていくのを感じる。

 更科さんを認めた途端、俺の中のもう一人が顕然とその存在をあらわにした。それは俺が望んだ俺自身。作られた夢想者。目的を成すまで止まれない、信念という名の盾を掲げて進む愚者だ。


「だ、大丈夫ですか!?」


 突然苦しみ出した俺に駆け寄ってくる更科さん。

 まずい……。ダメだ!


「止まれ!」

「っ!? は、はい!」


 支配されつつある思考で、なんとか更科さんをその場に縫い付ける。 

 今、近寄られると何をするかわからない。下手をすると殺してしまう。

 

「……っ……ぅ……」


 口の中が血の味で満たされていく。自己干渉に抵抗する為、歯を食いしばって舌を噛んだのか。

 でも、ちょっとまて……。俺は何故、抗っているんだ? 自分で望んだ筈なのに。


 ――暗示はキャンセルできるから。  


 アリサさんが残していった選択肢が浮かぶ。目的で設定すると、達成するまで止まれない自己干渉能力。それをキャンセルできるという事なのか? 

 そういえば、最初の自己干渉から俺を引き上げたのはアリサさんだった。


「……用件は……なに?」

「え? そ、それより辰巳さん、私レイストローム基地長を呼んできます!」

「い、いいから! 言ってくれ!」


 早く。早く、言ってくれ……。この自我が残っている間に。


「……わかりました」


 更科さんが不安げな表情のまま、苦しんでいる俺に目を向けた。

 彼女は息を一つ深く吸い、浅くゆっくりと吐き出した。彼女の心そのものを表すような白い息が風で流されていく。先ほどまでの脅えた雰囲気を一変させ、彼女は胆力の篭った目で俺の目を真っ直ぐ見据えた。


「ごめんなさい。ご迷惑をおかけして」


 彼女はペコリと頭を下げた。そして続ける。


「私、辰巳さんがこの基地に来た時から、ずっと目で追ってました。講義の時とか、食堂とか、少ない時間なんですけど、それでもずっと見てました。……同じ講義を受けたこともあったんですよ? ……始めは好奇心だけだったんですが、いつのまにか、その……好きになってました。隣の子に向ける優しげな表情を、私にも向けて欲しいな……って。でも……」


 続ける言葉に躊躇ったのか、更科さんは俯いてしまう。

 しばしの沈黙が流れた。俺も何も喋ることができない。ここで彼女の言葉に割り込む事はできない。

 しばらくの後、勢いよく顔を上げた更科さんの表情は、先程までと別人といえる程の憂いを浮かべていた。 


「あの時の辰巳さんの行動……その意味がなんであろうと、さ、最低の行動だったと、お、思います!」


 表情と言葉が全く合っていない。彼女は今にも零れ落ちそうな涙を必死で留めていた。

 何故そんな泣きそうな表情なんだろう。何故、震えた声なんだろう。何故、言葉通り憎しみを宿した瞳ではないんだろう。

 

「私、辰巳さんが……き、嫌いになり、ました……」


 ここに至り俺は得心した。それはこの子が、この子の想いが、本物に相違ないからだと。

 彼女は俺なんかよりずっと強かったのだ。彼女は泣きそうになりながらも、自分の意志に従い前に進んでいるのだ。自己干渉に頼らないと意志を貫けない俺なんかより何倍も強い。

 もうこの先は聞かなくても分かる。彼女はきっと言うだろう。俺の為に――。


「だから、もう私の事は……ぅ……忘れて、ください」


 ――拒絶の言葉を。

 

「最後に謝れて良かったです」


 この時代で男女が交際するという意味を、この子はしっかりと認識していなかったんだろう。実際、俺の想像をも遥かに超えるものだった。嫌がらせなんて生易しいものではない。悪意を隠しもしない暴力行為に及んだ。

 それで彼女は思い知った。そして結論を出したんだ。自分の気持ちを殺すという結論。想い人にこれ以上迷惑をかける訳にはいかない。相手を第一に考えた悲しい選択。


「違う!」

「ひゃ」


 そんな……そんな理由認めてたまるか! 恋愛も制限される時代だと? ふざけんなよ! 

 彼女が今どれほどの想いで、拒絶の言葉を放ったのか。それを考えただけで、脳みそが沸騰しそうだ。 


 ――何故だ?


 彼女の言葉を否定した瞬間、もう一人の自分が疑問を投げてくる。

 目的は達成された。彼女自身によって。

 なのに――。


 ――なのに何故、お前は否定するんだ?


 違う! 違う! 違う!!

 許せない……! 認めない……! あんな言葉は否定してやる! あんな覚悟は否定してやる!

 俺が否定するのは、あんなことを言わせるこの世界だ! 


「……聞いてくれ、更科さん」

「は、はい」


 そもそもが間違いだった。彼女の告白を受け入れなかった時から。

 俺と付き合うと彼女が酷い目にあうかもしれない……なんて、この時代に流された考え方だ。大手を振って付き合えば良い。俺は、この世界を認めていないんだから。


 ――拒絶。拒絶。拒絶しろ。罵倒。暴力。殺害。なんでもいい。拒絶しろ。拒絶、拒絶――。


「ぐ……ぁぁ……」


 苦しみながらも自我が成立し、対立している両者。通常ならば抵抗できる物ではない。

 何故こうも互いに拮抗しているのか、できているのかというと、只一つの点に置いて俺と彼の目的が一致しているからだ。だから、言う事が出来る。俺自身の答えと、彼の望みを叶える言葉を。それは紛れも無い、只一人の言葉。


「俺は……更科さんとは付き合えない」


 彼女と付き合えないもっと単純で明白な理由が俺にはある。綺麗事の言い訳を並べて、自分の気持ちに嘘をつくのはやめろ。そしてそれを伝えないといけない。それが想いを踏み躙る者の責務。

  

 ――――……。


 脳が焼ききれそうな痛みが徐々に沈静化していく。

 もう一人の自分も理解したようだ。結局、結末は変わらない事を。

 

 ――俺は彼女を拒絶する。


 辛い……。ああ、辛いな。下手な悪役を演じた時の比ではない。でも俺は、それ以上に嬉しかった。

 この胸を鋭く刺す痛みを感じ取る事が出来ている。こんな俺にもまだ残っていたのだ。彼女を拒絶する為に必要な試練。大切だと思っていた何かが。


 俺から再度、放たれた拒絶の言葉に、留まりきれなかった涙が彼女の頬を伝っていく。しかし彼女は決壊してしまったそれに気付いていない。取り繕った表情は依然、変わらない。認める事の出来ない彼女の覚悟は、容赦なく俺を揺らす。

 

「……っ……」


 言え……。言うんだ。

 現実にIFなんてない。拒絶する者に、それを思い描く資格すらない。

 だから、言え。飾らない弱い気持ちは、心の中でだけ呟けばいい。


 ――本当にありがとう。こんな俺を、想ってくれて。


「俺……」


 過程を変えた同じ結果。無意味に思えるそれは、今後何かをもたらしてくれるだろうか? ……わからない。

 でも今は、臆面も無く願う。それが、俺の身勝手な願いだったとしても。


「好きな人がいるんだ」


 彼女が、次の恋愛に進めるように。


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