第33話 正義感
早く! 速く! 疾く!
「おおおおおおお!!」
脳内に干渉を直接叩き込み、その強制力により人間としてのラインを一歩一歩踏み越える。
自己干渉能力による強制力は精神だけに留まらない。いや、厳密に言えば、精神を介して肉体に干渉するというのが正しい。
通常の人間ならば心理的にストップさせる身体能力の限界値。それは自己防衛本能によるもので、人間は本来の能力の三割程しか出す事が出来ないという定説がある。それは至極当たり前に備わっている、人として当然の機能だ。
でも、こうするとどうだろう。手に入れた自己干渉能力を使い、自分にこう暗示を掛ける。
圧倒的な瞬発力。初動から最高速までの時間短縮。体の反応速度。思い描く最高速度。
『その全てを手に入れる為に、肉体を厭う事を禁ずる――!』
頭の中で激しく鳴り響く警鐘。それに比例し生み出される、目も眩むスピード。
燃料は自分。変換されたエネルギーの全てはスピードへ。自己防衛本能と対立する、夢想という名の自己干渉。
「……」
現在の標的。つまり紗枝さんが、吹き飛ぶ景色の中で俺を冷静に観察している。
屋外の広大な演習場が狭く感じる。それほど今の俺達のスピードは、人間としての常識から遠ざかっている。
自己干渉能力の教練は、そのままこの鬼ごっこのような訓練に移行した。課題は紗枝さんの体に触れる事。ただそれだけだ。
「くそっ、この……!」
速い、速すぎる。この国枝紗枝という人は、なんて世界に住んでいるんだ。
すでに周りの景色を知覚できない。高速で吹っ飛んでいく何かから、全てが白く染まっていく世界。認識力が俺の生み出すスピードに着いて来れていない。そんな限界領域の中、余裕を持って俺の追撃をかわす紗枝さんに、底知れない畏怖を抱いてしまう。
標的を見失うな。認識力を強化するんだ。それも只の強化では意味が無い。このスピードも、自己防衛本能に勝利した極限の強化でないと意味が無い。それこそが、フェイズ能力の使い方。強化と干渉は対立し、共存する。干渉で自己を滅殺し、強化で自己を高みへ――。
「邪魔、だっ!」
心理的ブレーキの壁を干渉で破壊していく。本来なら絶対超えられないもの。超えてはいけないもの。人格を強制している訳ではないので、今の俺の思考は本来の自分と相違ない。ただ、少しばかりの興奮状態ではある。
「は、ははは……。あははははははははははははは!!」
手をいくら伸ばしても届かない。いくら壁を越えても追いつけない。それが楽しくて仕方ない。
何てことだ。これだけ自分を殺して得たスピードでも彼女に届かないなんて。一体、彼女は今までどれほどの滅私を繰り返してきたのか。そんな背中に近付いている実感が、笑いを殺せないほど嬉しくて仕方ない。
「舌、噛むぞ」
呆れ気味に俺のバカ笑いに突っ込んでくる。それに少しだけの違和感。紗枝さんの口の動きより若干ずれて聞こえた声。でも今は、それを聞き取る余裕なんかいらない。
全ての五感能力を紗枝さんを認識する目に。全ての身体能力を紗枝さんに追いつくスピードに。
自己を滅殺して辿り着け。あの背中に――!
◇◇◇◇◇◇
「といった感じだ。分かったか?」
「はぁー、はぁー、が、……あぐ、……ぐはぁー」
地球にべったりと身を預けている俺。頭の上から何か声がするが、今はそれに耳を傾けるどころではなかった。
体全体の軋みと、フェイズを行使した独特の疲労感。それらがいつもより桁外れの勢いと総量で俺を苦しめる。これは自己干渉の埋め合わせであり代償。つまりは借金だ。
「一分でそれか。まぁそんなもんだろう」
そう。紗枝さんとの攻防は僅か一分間だったのだ。結果は……まぁ、言わなくてもわかってくれ。
その短い時間は、紗枝さんに言われてあらかじめ自己干渉で設定しておいた。こうしておくと、効果時間が切れれば本来の自分を取り戻す事が出来る。時間設定はこの能力を使用する際に必ず行なうよう紗枝さんに約束させられた。目的で設定すると、それを成すまで止まれないからだ。
「うぐ、が……ああ」
ちょっとこれは……洒落にならん。
体への過剰負荷を無視した代償は大きい。戦闘不能どころか行動不能だ。へたり込んだ体勢のままなにも動かせない。
「だから言っただろう。命を縮める行為だと」
あんたは息切れすらしてませんね、ちくしょー。
スピードに特化したフェイズ5に、フェイズ3の俺が同じ土俵で勝負するのは、歴然とした差を見せ付けられただけだったようだ。
だが俺は更なる可能性を感じた。俺はまだ自己干渉能力を使いこなせていない。心理的ブレーキはまだ機能していたのだ。もしそれを殺し切る事が出来れば、さらに高次元の速度が可能な筈だ。そして今以上の代償も。
「いだだだ……ん?」
周りが騒がしい。傷みを堪えて顔を上げると、こちらに注目している多数の女性達が見える。
今日は休日。ここは屋外の演習場なので、教練前からすでに人は結構いたが、彼女達の様子が何か変だ。
「な、なんなの? それ……」
「宗一さん、恐るべしです」
見学していた凸凹コンビが呆気にとられている。
リナと縁もいるが、こちらを気にせずキャッキャと遊んでいる。仲良いなお前ら。……てか見ろよ。
「ほう、思った以上に効果があったな」
「なにが、ですか? ……いでで」
「遠目から見ているだけでは自己干渉能力とは分からんから、観衆は本来の実力と誤解する。これでお前に手を出そうなんて輩は考えを改めるだろう。護衛ももういらんかもしれんな」
俺の力を衆目に晒したのはそういう計算だったのか。ということは俺、中々良い線いってたんだろうか? それを証明するように、数十人の女性達のザワメキは大きくなっていくばかり。でも、この体勢から動けない今の俺は情けなさ過ぎるだろう。
「はいはい。私の出番ねー……ったく。なんで休みの日にこんなブツクサ」
「いや、ブツクサ言うのは良いですが、直接言ってはダメですよ。日本語的に」
「うっさいうっさい」
アリサさんが文句タラタラで近付いてくる。
ああ……俺の天使よ。早くこの体を癒しておくれ。
「待てアリサ」
「なーに? 紗枝ちゃん」
「放っておけ」
え……? なにそれ? 鬼なの? あんたは鬼なの? 眼鏡なの? 三十路なの? いや、それは知ってたな。常識過ぎて困る。
「おい……。死にたいのか?」
「声に出ていた!?」
「……私は二十八だ」
いや、あの……。知ってますから。冗談ですから。紗枝さんが少し拗ね気味になってるのがかわいい。意外な一面を見た。だがそんな雰囲気は捉えた直後に消え失せ、一瞬でいつもの厳しい表情に戻る。
「お前が今抱えている負債。他人に精算させてもいいのか?」
「……む」
まったく……。これだからこの人には敵わない。またその背中が遠く感じられる。
これは俺の為の俺の能力。その精算は自分で成さないといけない。こんな卑怯な能力の、最低限やらなければいけない責務だ。それを放棄する事は、今の俺には許されない行為に感じる。
紗枝さんは遠回しにだが、俺の道を示してくれている。俺は俺を取り戻した時、今の俺で在る事を否定できないのだと。
「へへ……。ちょっとだけスッキリしました」
「そうか。だがまぁ、病院までは連れて行ってやろう。ほら」
「……いえ。それも含めてお世話になりませんよ」
差し出された手を拒む。振り切るのに相当な精神力を必要とした。情けない体勢でも、少しは格好をつけたい。それが男心ってもんよ。
「そうか。じゃあ、お前達も解散しろ。宗一は放っておけよ」
「は~い」
「あ、あれ?」
あっさりと俺の見栄が実現。そこには賞賛もクソもなかった。
次々と引き上げていく皆々様。なんて上官命令を遵守する人達なんだろう。
おーい。……ごめん。今の嘘……かも。動けない……。俺は動けないんだよ? ここに放置でいいのか君達! それでいいのか! 男心を察してくれる人いないの? ちっ、かっこつけるなよ、とか言って肩を貸してくれる人いないの? そこから暑苦しい友情物語が始まらないの? 始まったりしたら嬉しいな~……なんて……。
「男、バンザイ!」
肌に触れる地球だけが、俺を冷たく受け止めてくれていた。
◇◇◇◇◇◇
「さぶっ!」
一月下旬の真冬の気候が俺を攻め立てる。相変わらずへたり込んだまま動けない。
フェイズで温度環境にも強くなっているが、寒いものは寒い。まぁ、風邪なんかはまずひかないからいいんだけど。
「あ、あの~」
「ん?」
頭上から声がする。うつ伏せのままなんとか首を捻り、声の主を見上げると一人の女の子。
俺より年下だろうか? 小柄でロングストレートの撫でたくなる頭。ビクビクした感じが小動物っぽい。こういう弱々しい守ってあげたくなるタイプの女の子は、俺の周りにいなかったな。
「辰巳さん、お話があります。今いいですか?」
「……どうぞ」
地球と抱擁している人に、今いいですかという質問をするこの子のキャラがわからない。
嫌な予感しかしなかったが、話の続きを促す。この体勢の会話は、周りから見ればシュールの一言だろう。
「えと、あの。……わ、私の! こ、こここ恋人になって、いただけませんでしょうか!」
「…………」
シュールだ……。思ったのはそれだけだった。うつ伏せになって苦しんでいる俺を見下ろしながらの告白。……シュールすぎる。彼女は気にならないんだろうか? 俺は気になって仕方ない。
「あの……。冗談?」
「い、いえ! 本気です! ずっと前から、その……好きでした!」
「……ぅぐ」
流石に今のは心臓に来た。女の子の真摯な告白に、心動かないほど俺は擦れていない。
「た、辰巳さんが一人になるのをずっと狙ってたんですけど、いつも誰かと一緒で……。どこに住んでるのかもわからなかったですし、その……。こんな事言われるのは迷惑かもしれませんが、あの……」
あー、もうやめて。すげー恥ずかしい。その必死な感じで俺が凄く恥ずかしい。
「えと、君は……」
「は、はい! なんでしょう!」
「……ごめん。……なんでもない」
男は嫌いではないのか? そう聞こうとして思い留まる。
この時代の女性だからそうであると決め付ける。そんな先入観はこの子に対して、この時代の人達に対して失礼だ。いろんな人が居て、いろんな価値観があって当然じゃないか。
「あ、私、更科恵、16歳です。フェイズはその、まだ1になったばかりの若輩者です。えっと、先程の辰巳さんの訓練、凄かったです! 速すぎてほとんど見えませんでしたけど、超かっこよかったです!」
「ぎゃああああああああああああああああああ!!」
「ひぃ!? ど、どうしたんですか?」
「い、いや、なんでもない。……今のは効いたぜ」
「?」
込み上げて来るこそばゆいような、恥ずかしいような感情に思わず奇声を上げてしまう。
この時代に来てこんなにベタ褒めされるのは初めてだ。いつも邪険に扱われているもんだから、その反動は絶大。嬉しいのはもちろんだが、違和感のほうが強烈過ぎる。
「そ、それで、あの。……どうですか?」
「え?」
更科さんは真っ赤になって、前髪で顔を隠すように俯く。そういえば、告白の返事を言ってないどころか考えてもいなかった。……恋人、か。
恋愛。男と女の永遠のテーマ。それはこんな時代でも変わらず存在している。それを喜ばしく思う反面、少し寂しくなる。俺の時代では掃いて捨てるほどあったこんな男女のやりとりが、この世界ではどれほど希少なものになっているんだろう。
万単位の人口が存在しているこの基地で、今まで浮いた話のひとつも聞いたことが無かった。男性唯一の住居である男性寄宿舎でも、そんな話は一切出て来ない。一人一人に聞いていけばそんな話もあるかもしれないが、まるで避けているかのように俺の耳には届かない。
ん……? もしかして、本当に避けているのか?
「あのさ、ちょっと聞きたいんだけど」
「は、はい! どうぞ!」
「この基地で恋人がいる人って、まわりに隠したりしてるのかな?」
「……そう、かもしれません。隠しているのか、本当にいないのかは分かりませんが、その気持ち……私もわかります」
なんとなく想像は付く。男性を嫌悪の対象と捉えている女性が多いこの基地で、男性と交際する。そうなれば、付き合っている女性も迫害を受ける可能性が高い。簡単な方程式。
「……あ」
ということは、護衛としていつも俺の傍に居る縁、有原、立川もそうなんじゃないのか? もしかして俺が思っている以上に、俺は彼女達に救われているんじゃないのか?
「私、辰巳さんと交際できたとしても、それを隠したりしません。あっ、もちろん辰巳さんがそれで良ければですが」
彼女の覚悟もまた相当だった。自分の恋心を真っ直ぐ肯定している。だから俺も答えなければいけない。真剣に、真摯に、真っ直ぐに。
「……ぐ」
いつまでも地球とキスしてる場合ではない。痛みを噛み殺して体を起こし、俯いている彼女の正面に立つ。
「ありがとう」
俺のどこを気に入ってくれたのかよく分からないが、好意を向けてくれる事を素直に感謝したい。
そして考える。この子の思いを受け入れるのか否か。
「……」
いくら考えても、答えは否だった。その理由はいくらでもある。
俺自身がこの基地で特殊な存在。恋人関係になる事によって、彼女に係る重荷が多大である点。自分で精一杯な今の俺に、恋人を思いやる余裕があるかどうかが不明。そして、もっとも重要な理由になっているのが、俺は目の前の女の子の事を何も知らない。現時点でそれらの天秤の対に置くには軽すぎるのだ。
「ダメ……ですよね」
更科さんが先回りで結論を口にする。そしてそれは間違えていない。
「……うん」
「そ、そう、ですよね……。いきなりすぎでしたし。……あは」
その結論を肯定する。だが、謝らない。俺は自分を優先して、更科さんの想いを踏み躙ったんだ。
その無理矢理作った笑顔がいくら俺の胸を鋭く突いていても……謝ってはいけない。
「ごめんなさい」
更科さんは謝罪と共に深く顔を伏せた。小柄な体が震えているのが見て取れる。
俺は只それを黙って見ているしかできない。感情のままに、彼女を慰めるなんて行為は許されない。
「さよなら」
長くも短くも感じた時間。儀式を終えたかのように更科さんは顔を上げ、作られた笑顔で別れを告げて走り去って行く。
「……さよなら」
その後姿が見えなくなった後、自分の足元に目を向けた。
無意味で無為なIF。
――もし、俺の時代だったなら。
そんな仮定は、濡れた地面への侮辱でしかなかった。
◇◇◇◇◇◇
「……ん?」
「どしたの、宗一」
講義の間の昼休憩。いつものように基地施設の隅の方で昼食中、数人の女性グループに目が引き付けられる。
更科さん。でも、あれは……。
「何かあるんですか?」
今日の護衛役である有原と立川が、不思議そうに俺の視線の先に顔を向けるが、もう女性達は建物の影に隠れてしまった。
先日の告白から数日が経っているが、更科さんを見たのはあれ以来、初めてだった。
気になったのは更科さんを取り囲む女性達の雰囲気だ。昼休憩の和気藹藹とした空気はそこにはなく、殺伐とした様子だった。
「なに?」
二人の不思議そうな顔を見る。もう手遅れかもしれないが、この二人を頼るのも巻き込むのもありえない。俺はおもむろに下腹部を抑える。
「ぅぐ! は、腹いってえええ! ちょっとトグロ巻いてくる!」
「……」
飯時に何言ってんだコラ? みたいな顔された。
ちょっと表現に失敗した感は否めないが、早く行かないと見失ってしまう。呆れた二つの顔を置き去りにしてダッシュ。
「うおっとぉ!?」
「きゃっ!」
基地施設を曲がった瞬間、誰かとぶつかりかける。なんとか体を捻って回避。
咄嗟に謝ろうとしたところで、それが縁だったことに気付いた。
「そ、宗一君ですか。びっくりしました」
「ああ、ごめんな。……えと、それじゃ俺行くから」
「……ちょっと、待ってください」
急ぎ前に出る足を、手首を掴んで制止させられる。
「どこへいくんですか? もうすぐ講義じゃないんですか?」
「えと……。トイレにちょっと大用があって……」
「……フェイズを使ってですか?」
ぐっ……鋭い。というか普通に不自然。
見失わないよう五感を強化していたのが裏目に出てしまった。
「さっきすれ違った女性達と、何かあるんですか?」
疑問系の問い掛けとは裏腹に、確信を持った目で俺を見上げてくる。
俺のこれからの行動は、縁の中で確定しているんだろう。この握られた手首は離してくれそうにない。でも縁を巻き込むなんてありえない。これは俺自身の問題なんだからな。
「縁。……離してくれ」
「ダメです」
「……離せと言ってるんだが?」
「ダメです」
「離さないと……」
「ダメです」
この子の頑固さは並大抵の恫喝では揺らがない。知ってはいたが、対立するとこれほど厄介だったとは。
縁の雰囲気が人ではない何かに変わっていく。フェイズを行使してまでも、俺の行く手を遮る気だ。
彼女は俺に危害が及ばない一念で行動を決定している。例え俺に嫌われてでも、それを押し通すんだろう。でもそれは、今の俺も同じ事だ。
「離さないと……ぶっとばすぞ?」
頭の中のスイッチを戦闘態勢にシフトする。乾いた音と共に、進化の段階がひとつひとつ上がって行く。
両者引く事の出来ない対立の解消は、相手を捻じ伏せるしか方法がない。
「ダメです」
「……そうか」
――求めるのは刹那の筋力と傲慢な思考。
「行って何をするんですか?」
「……わからないけど、俺は行くぞ」
――右手首に絡みつく意志を打倒する為。
「行かせません」
「……」
――僅か数秒間の悪夢を見よう。
「っ!?」
縁の腕を掴み返し、意識を刈り取る為に繰り出した手刀が紙一重で避けられる。
瞬き未満の一瞬で繰り出された零距離攻撃だったにも関わらず、それを難なく回避する凄まじいまでの反射速度に舌を巻いた。相変わらず突き崩せないフェイズ4の牙城。
俺の口から出たのは、攻撃が成就しなかった醜い舌打ちだった。それとは裏腹に、頭はこの状況を冷徹に分析していた。
縁の恐るべき反応速度を捻じ伏せるにはどうしたらいい? 答えは簡単だ。
「うっ!」
掴んでいた腕を更に引き寄せ、縁を後ろから抱きしめるような形で拘束する。
俺の手を掴んだのは間違いだったな。力で縁は俺に敵わない。自分の土俵に引き込み勝ちを確信する場面だが、状況は五分五分といったところだろう。
後は首に回っている腕を締め上げ、縁の意識を断つだけだが、その為にはこれから繰り出されるだろう縁の干渉攻撃に抵抗しなければならない。縁が落ちるのが先か。俺が吹っ飛ぶのが先か。
「……?」
触れ合っている部分から、予想していた違和感が伝わってこない。
まだ諦める局面ではない筈だ。その予想外の出来事にしばし硬直してしまう。
「……宗一君。どうしました?」
「何故、抵抗しない?」
「私の事情が今関係あるんですか?」
「ないな」
「ふふ」
何が可笑しいのか。縁は何の抵抗も見せず肩を震わせる。
縁の言うとおり、縁の事情は関係ない。今はこの腕に少しだけ力を入れ、縁の意識を断つことだけを優先すべきである。
「ぅぐ!?」
あまりの頭痛に呻いてしまう。それと同時に押し寄せる罪悪感。自己干渉が切れた合図だ。
まずい、この隙は戦闘中では致命的だ……。
「……って、あれ?」
何もしてこない縁。後ろからなので表情は伺えないが、どうやらまだ笑っているらしい。
「……なんでよ?」
「何がですか? ……ふふ」
「おもしろいの?」
「はい」
「……何が?」
「秘密です」
弾んだ声で返答してくる。何か良い事でもあったんだろうか? よくわからないが、本題を進めよう。
「行って良いのか?」
「ええ。私の負けです。……ふふ」
何のことかさっぱりわからないが、その笑いに段々腹立ってきたぞ。今どんな状況か忘れているようだが、自己干渉の代償に苦しみながらも出来る復讐はあるんだぞ?
でも能動的にやるのは躊躇われる。本物の変態になる気は流石にない。状況を認識させるだけで充分だろう。
「……縁」
「なんですか?」
「今、俺達ラブラブだよな?」
「らぶ……ら……ぶ……?」
後ろから思い切り抱きしめてるからね!
「ぎゃあああああああああああああ!!」
「ぷげら?!」
やるんじゃなかった……。
◇◇◇◇◇◇
やってきたのは基地施設が折り重なって建っている人目の付きにくい場所だった。
五人ほどの女性達に囲まれている更科さん。予想通り険悪な雰囲気だ。
「あんた、あの男とどういう関係なの?」
一人の女性が脅えている更科さんに、苛立ち混じりに質問を投げる。その質問だけで、俺はこの状況を簡単に理解した。原因は俺と接触した事だ。
更科さんの俺への告白は、屋外演習場のど真ん中だった。誰かに見られていてもおかしくはない。
「わ、私が告白してフラれた、だけ」
更科さんが周りの威圧に脅えながらも正直に話す。
ちょっと頭を抱えた。この状況でそれは馬鹿正直というものだ。いくらでも逃げ道はあっただろうに。
「……は? 今、なんて言ったの?」
まずい……。女性達の雰囲気が更に攻撃的なものになった。
嫌悪に歪んだ表情。汚い物を見るような目。それを向けられる更科さん。
「ひっ……あ、あの……」
「なんて言ったのって……訊いてんだよ!」
「あぐっ!?」
鋭い蹴りが更科さんの腹部に突き刺さる。
「が……げほっ! ごほっ! ごほっ!」
吹っ飛ばされ、倒れた更科さんの口から吐き出される胃液。少しだけ混じっている血の赤。
フェイズ1の更科さんでは防御力が常人レベルだ。強化された蹴りは致命傷になっていてもおかしくない。
「……汚いなぁ」
「お似合いじゃん? ……くく」
まだ気が済まないのか。地に伏せて苦しんでいる更科さんに容赦なく罵倒を浴びせる。
良い気味だと言わんばかりの醜い嘲笑。見下ろし見下した視線。
そんなに彼女達にとって、許せない行為だったんだろうか?
異性に想いを伝える事。それがこの時代ではあんな迫害を受けるに足る行為なのか? 少なくとも、それを許容できない人が目の前に五人いる。許容できる人が一人いる。多対小。この構図の正義は常に多にある。正否よりも優先される力関係。
「!」
倒れている更科さんに向かって振り上げられる足。
その光景は、立川がおっちゃんの腕を折った時と見事にオーバーラップした。
「や、やめ――」
反射的に反応した体が、手を伸ばした形のまま停止した。あの時と違って、俺の足はその行動を止めようと動き出さない。
――行って何をするんですか?
縁が放った言葉の鎖が、俺の体全体に巻きついてくる。
その鎖を断ち切る意志。今の俺にはそれが見当たらない。彼女達の迫害を止めようと伸ばした手は届かない。
「嘘……だろ……?」
自分自身に驚愕する。衝撃的な事実に気付いてしまった。
そう、今の俺は……。
――彼女を助けたいとすら思っていない。
見当たらない。見つけられない。自分の中の何処を探しても。
以前の俺が大切にしていた物。大切にしたいと思っていた物。
俺は、失ってしまったのか?
目の前で迫害を受けている知人を助けたいと願う心を。虐めている人が悪い。だから虐められている人を助ける。そんな子供のように単純で純粋な正義感を。
もう遠い昔を思い返しているような気がする。それほど現在と異なる過去の自分。
そんな俺が、何をする為にここへ来た?
――何を? 決まってる。
漫画のように颯爽と現れて更科さんを助ける?
――それでこの迫害は終わるのか?
女性達に説教してハッピーエンド?
――馬鹿な、ありえない幻想。
俺の言葉は、今までどれほど届いてきた?
――届くと思っていたのなら、それは傲慢だ。
あの女性達に届くとは到底思えない。
――だから傍観するのか? ここで立ち竦むのか?
そんな甘い期待をする俺はもう見当たらない。
――ああ……。だから、代わりに俺がやろう。
フェイズ3という進化の段階を除いて。
――俺が、踏み躙ろう。
この夢想者を除いて。
――殺せ。
自分自身を。
――そして命じろ。
自分自身に。