第32話 別視点 欠落と捏造
◇◇◇◇◇◇ ≪ 国枝紗枝 ≫
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『召集令状』
生誕後の遺伝子検査により、国枝紗枝(以後、甲)は軍が設定するフェイズ値に適合。甲が満十歳になる誕生月に、北日本防衛軍栗原基地への入隊を命ずる。尚、この令状は日本政府が定めた徴兵制度第一条第一項に准ずるものである。
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「紗枝ちゃんは大丈夫だからね」
母が私の頭を撫でながら柔らかい笑みを浮かべる。
政府から送られてきたという手紙。当時、十にも満たない私がその意味を理解するには幼すぎた。
政府管轄の精子提供からの人工授精の生まれ。母は会社経営者であり、富裕層に属する家庭だ。
たった二人の家族はこの令状が届くまで、この時代の歪みを高みから見下ろし、無視し、偽りの幸福を築いていた。そんな中、突きつけられた現実は、母を幾分以上に痩せ細らせていった。
政府からの徴兵令状に異を挟む事は出来ない。否と示せば重罪として罰せられる。適合者の少ないフェイズ3以上の能力者には、こういった令状が届くのが通例となっている。
徴兵制で定められている年齢制限、つまり、十歳に到達する一月前辺りにこうやって令状が送られてくる。生誕後の遺伝子検査の結果は誰にも知らされない為、その期間の家族のストレス足るや相当のものだろう。
母は私を兵役から逃れさそうと奔走した。つまり、金と権力と縁故の力を総ざらい投入した。
なんにでも例外はある。皆が皆、平等に兵士になる訳ではない。金を払えば、権力者なら、その義務を放棄する事も、入隊の時期を遅らせる事も可能なのだ。
持つ者は子供を守れ、持たざる者は子供を守れない。それが当たり前の世界。
「紗枝! あっちにいってなさい!」
母が電話を終え、苛立たしく机を叩く。それが一度や二度ではなかった。
卑怯と言うだろうか、持つ者の娘を守る行為を。しかし、その全ては失敗に終わっていた。
もしフェイズ3ならば、そこまでの金銭は必要ない。中間層数人が十余年も働けば払いきれるくらいの額だろう。しかし私の為に投入された金銭は、もう会社の経営を圧迫するレベルに達している。それでも兵役から逃れる事は許されない。
その理由は至極簡単で、後々知る事となる。
私のフェイズが、私の進化の最終地点が、人類最高の頂だったからだ。
「や、やった……。やったわ! ああ……紗枝……」
なにがやったのか。喜び涙している母のぬくもりを感じながら思う。
でも、なんでもよかった。久しぶりに見れた母の笑顔と、この抱擁さえあれば。
明日は私の誕生日。良い子にしてないとプレゼントを貰えない。だから今日は早くベッドに入ろう。明日からは、いつもの母に戻っていて欲しいと願いながら。
翌朝。二階の自室から一階の居間に、寝惚けながら下りていく。
昨日の母の機嫌の良さと自分の誕生日ということもあり、私の足は軽やかに階段を踏んでいった。もうケーキが用意されるかもしれない。そんな期待を持って、居間の扉を開いた。
温もりと笑顔が待っていた筈の居間にあったのは――母と、男と、赤だけだった。
視界のどこにでもある赤。生ぬるい臭気。洗面器の水をぶちまけたような濡れた床。
私を捉えている四つの瞳の内、二つは目の前の男。残りの二つは大好きな母だ。しかし、こちらを見ている母の眼球は、ただこちらに向いているだけだった。
「……あ」
私を捉える瞳が二つ減った。踏み潰されて――になってしまった。これで私を見ているのはこの男だけとなった。ここにはもう母だと判別できるものがない。
パズルのように散らばったそれらを掻き集めた。早くやらないと死んでしまう。早く繋がないと腐ってしまう。どこかで聞きかじった教養が頭を支配した。今この時だけそれを狂信した。手に持ったその全ては柔らかくて、温かくて濡れていて、そして不思議と臭かった。
一心不乱にパズルを組み立てている時、耳障りな轟音と共に新たなピースが舞った。
「……やめなさい」
誰か分からない女性が私の濡れた手を掴む。私は散らかさないで欲しいと思った。床や壁にへばり付いている全部が赤で統一されてしまい、もうどれが男でどれが母なのか区別がつかなくなった。
その中でふと、この腕は母だと気付いた。間違えるわけが無かった。今まで何度も私を包んでくれた腕だったのだ。自信を持って母の腕を拾い上げ、見つけたよと笑って目の前のお姉さんに向かって掲げた。
「ごめん、なさい」
何故お姉さんが謝るのか分からなかった。何故お姉さんが私を抱いて泣き崩れるのか分からなかった。だがそれも悪くないと思った。そして私は母に悪いと思った。だから心の中で謝った。
――ごめんね、お母さん。
本当はこの千切れた腕に、私は抱かれたかった筈なのに。
◇◆◇
「蒼井司令。お呼びですか?」
「いらっしゃい紗枝。……あっと、今は国枝基地長でしたね」
二十三という若さにして異例の役職に抜擢。フェイズ5到達から約一年後の出来事だった。
軍に入隊するという事は、母の尽力を無にしてしまう行為だった。だが、私は自分を守る為にはそうするしか道が無かった。もう私には、普通の人生を歩めない。
「今から出撃ですが」
「わかってます。それについて、一言助言しますが……」
「男性部隊を連れて行くな、ですか?」
先手を打つ。もう何度も言われて食傷気味だった。
この時代の男性差別は、我が基地にもしっかりと根付いている。もしかすると一般人よりもその根は深いかもしれない。しかし、戦うのに男も女も無い。戦場では連携も最低限しか取らないのだから、揉め事もあまりないだろう。
「息子さんが、心配ですか?」
「いえ。それは関係ありませんが……。この所、基地内の争いごとが絶えないでしょう?」
男性部隊には蒼井司令の子息が所属している。だがこの人には低俗な質問だったようだ。
確かに最近、基地内で男女の諍いを聞かない日がない。味方同士の争いで怪我人が何人も出ているのだ。私自身、その事に関心が無いわけではないのだが、軍隊なら過剰に係るストレスで諍いの類が絶えないのが当たり前。その程度の認識だった。
「しかし、既に男性部隊は出撃しています」
「……わかりました。でも気を配って置いてください。それもあなたの役割ですよ」
「はっ」
この時の私は、蒼井司令の言葉の何割を真剣に受け取っていたんだろうか。もし全てを受け止めていれたら、あの事件を未然に防ぐ事ができたのだろうか?
◇◆◇
「相沢、どうだ?」
前線に向かう道中。通りすがりの男性部隊の待機地点で足を止める。
「あっ、国枝基地長。昇進おめでとうございます!」
「……そんなことを訊いてるんじゃない」
この相沢正という男は、基地で一番の変わり種だ。軍人のくせに男女関係の改善について真剣に考えているらしい。夢は総理大臣だとかなんとか。
こいつに会う度に「男は嫌いですか?」と、もう両手で数え切れないほどのやりとりをこなしている。
「ところで国枝さん。男は……」
「嫌いだ」
面倒なので即答してやる。相沢が肩をがっくり落とすその姿が少し面白い。
本音を言えば、どちらでもないだ。いや、どうでもいいというのが的確だろう。只、戦場に長く居ると、その憎悪に引っ張られそうになる事がある。もしかするとこの男のこの質問は、私にとってリセットの役割を果たしているのかもしれない。
初めて見る男という存在に母が殺された幼少時、その憎しみで気が狂いそうになった事もあった。だがその考えは、自分が強くなるにつれ自責の念に変わっていった。母を守れなかった私が全て悪い。弱さはそれだけで罪。現実は、当時子供である私を考慮しないのだから。
「蒼井、どうだ?」
「はっ。問題ありません」
埒が開かないので蒼井に話を振る。親に似たのか、生真面目に返答してくる。戦場に出るのはこれが二度目らしいので、まだ初々しさが抜けていない。
「じゃあ頼んだぞ」
「うーす!」
後方待機の男性部隊を追い越して前線へ向かう。蒼井司令の心配も杞憂に終わるだろう。
そんな根拠の無い楽観は、粉々に打ち砕かれる事になる。
◇◆◇
「おい! 大丈夫か!?」
前線で赤目との戦闘中、不穏な通信が入り、男性部隊の待機地点まで引き返すと、そこは前線と大差ない光景が広がっていた。ペンキを辺りに撒き散らしたように赤黒い地面。散乱している人体の一部。倒れ付す人間……いや、男達。
腕の中で息も絶え絶えに私の名を呼ぶ相沢。その隣で蒼井は静かに佇んでいた。人の形を成さずに。
「なにをしている! 医療部隊を呼べ! ……聞こえないのか!」
周囲に向かって叫ぶが、就任したばかりの若輩の基地長に従う者は誰もいない。いや、通常の範囲なら問題なく命令を遵守する兵士達。それがこの場面でこの態度。
考えられなかった。死地へ赴けという命令よりも、今この男が死ぬ事のほうが、彼女達の中で上位なのだ。
そう、考えられない。私は何度も心の中で断じた。感情に任せたままに味方を殺すなど、絶対あってはならない。私には、お前たちの何もかもが分からない。
――本当に?
「聞こえないのなら……」
――本当に私は、分からないと言うつもりなのか?
「……死ね」
周囲の兵士達の空気が一瞬にして張り詰めた。五十人ばかりいるだろうか。後方待機の兵士ごとき、全員殺すまで五分と掛かるまい。お前達がやった味方殺し、最悪の禁忌を、その身を持って償え。
寂しがらなくてもいい。私も数時間後にそこに逝き、地獄でもう一度お前達を殺してやる。
「ま、て……」
気づけば、虫の息の相沢に弱々しく足首を掴まれていた。
「へへ……。あり、がとう……国枝さん」
それを最後に相沢は事切れた。笑えるくらいあっさりと。もう掴まれた足にはなんの力も掛かっていない。
「……は?」
なんだ、それは? 相沢の行動が理解不能すぎて、失笑してしまいそうになった。
今のが最後の力だったろうに、私に礼……? 礼だと? 人生最後の言葉が女性に対する礼? お前を殺した責任のある指揮官への礼?
私が蒼井司令の助言をもっと真摯に受け入れていれば、私が男性部隊に追いついた時点で撤退の命令をだしていれば、私が分不相応な地位にならなければ、こんな惨劇を引き起こす事もなかったというのに。
自分本位の言い訳を伝える間もなく、相沢は何も欲しない存在になってしまった。何度もうっとうしく「男は嫌いですか?」と訊いてくることもなくなった。それに答えることも出来なくなった。
「……」
快晴の空を見上げる。足首に絡みついた手は、私の身勝手な殺意を拒絶する。
見慣れすぎた仲間の死に、涙も零れない。一筋の感傷も胸を突かない。あったのは味方殺しの断罪。こいつらを殺したいという衝動だけだった。
そんな私が、相沢を殺した彼女達と一体何の違いがあると言うのだろうか。言えるのだろうか。
「ふ、ふふ。……はは」
どうしようもなく許せなかった。こんな欠落した人間が今も尚、醜く生へ執着している事が。
私の最も幸福な死に場所は、きっとあの日あの場所だったのだろう。だから、もう終わりにしよう。最後の役目を成した、その後に。
◇◆◇
「……っ」
最低最悪。そして最後の報告。蒼井司令の動揺が、これほど顕著に表面化するのは二度目だった。
「男性部隊は味方の女性に全滅させられました。全て私の責任です」事実だけを、そう告げた。
「わかり、ました……。基地長を召集してください。……それから」
顔面蒼白の蒼井司令が頼りない足取りで立ち上がる。無理も無い。彼女は私の判断ミスで息子を失ったのだ。全て男女の確執を軽んじていた私の責任。
だがこの人は個人的な感情で私を責めない。後に軍規に即した罰則は課すだろうが、なによりも自身の責が一番重いと捉えている。本当は感情に身を任せ、私を殺したいほど追求したいだろうに。
全く変わらない。あの時から。……それが、私の逆鱗に触れているとも知らずに。
「……!? 紗枝!」
その憤りと同時に、この抱えきれない感謝を愛しく思っていた。
そして、この場所で死ねる事を、目の前の彼女に感謝したい。
「ぐ……!」
自分の首を撥ねる為に一点強化した手刀が、頚動脈の数ミリ手前で止まる。
彼女のフェイズ5の能力。空間干渉による操作術。つまり念動力。またはテレキネシス。
有効範囲なら彼女の思い描く通り、物質や生物の動きを操る現象具現化。
既に進化の代償が顕現している彼女の両足。機能を失いつつあるその足で、空間に貼り付けにした私への距離を詰めてくる。
「何故……。何故! 何故だ!? 死んだ! 死んだんだ! 私のせいであなたの息子が! 十二人もの男性が味方に! 憎め! 私を憎め! そして殺せ! 感情をぶつけろ! それで……人間のつもりか!」
彼女の能力を知らない訳ではなかった。だが今の彼女が他人の命、ましてや息子を殺した責任を負うべき者の命を気遣う余裕などある筈が無い。そして彼女の本心も私の死を願っている。
そんな浅はかな私の予想と望みは、今この時でも拒絶された。
「非人間! 偽善者! 狂人! 何故あの時、助けた!? 感謝されるとでも思ったのか!? 私がフェイズ5だからか!? あんな地獄から命だけ救ってなんになる!? 私を死なせろ! 死なせてくれ! あなたの目の前で!」
積年の感情を吐露する口以外、全く動かない。
彼女に命を拾われた。だが私はあの時から、この現実で生きる意味を見出すことができなかった。だから彼女に儀を果たし、認めてもらい、そして死ぬ。恨みや憎しみであっても構わない。それが生涯唯一の望みと信じていた。
「や、やめろ」
動けない私の体を、包むように抱いてくる。
「私はもう、あの時とは違うんだ!」
私は叫んだ。子供のように。
あなたに助けられるしか生きる術がなかったあの時とは違う。今や数えきれない程の人間を殺してきた。単純な戦闘能力なら世界でもトップクラスだろう。なのに、もう解放された筈の右手は、僅か数ミリの頚動脈を断つ事すらができなかった。
「大きくなりましたね、紗枝」
母が死んでから、一度しか受け入れなかった抱擁。幼少の頃からなんら変わらない暖かな腕。心安らぐ匂い。
「な、何が……?」
囁く様に小さな礼の言葉が耳に届いた。
今日、二度目の感謝の言葉。相沢と同じく、私の何に向けられた礼なのか理解出来ない。私は追求され、責任を問われる立場だというのに。
私は現場到着後に、まだ生きていた相沢の遺言を聞くことができただろう。最後の望みを叶えてやれたかもしれない。苦痛を消して安らかに逝かせてやれたかもしれない。
私はそれよりも自己の感情を優先し、殺意に駆られただけだった。その自分勝手で愚かな感情は、二度と手に入れることが出来ない貴重な時間を消費させた。それはもう取り戻せない。
私を抱いている蒼井司令も、あの時の相沢にも礼などふさわしくない。恨み言や怨嗟の言であるならば、私を苛むこの苦しみを背負わなくて済んだかもしれなかった。
「っ……ぅぅ……」
嗚咽を零し、崩れ落ちそうな蒼井司令の体を支える。あの時も、こうやってこの人の体を支えていた。泣いている顔を見ていた。あの時と同じだった。
只ひとつだけ、違う点を除いて。
「……」
もう思い出せないほど遠い過去に置き忘れてきたものが、自分の意志を介さず目から解放された。
そんな人間味が、この破壊された心にまだ存在している事に驚いた。嗚咽も零れず、表情も崩れず、重力に任せてそれが床に落ちていった。
「ごめんなさい」
そして理解した。支えられていたのも、泣いていたのも、礼を言いたかったのも、いつだってこの私だったのだ。
母の思いを踏み躙る軍入隊。仲間の死に動かない感情。仲間の死より優先される殺意。思慮の浅さが引き起こした味方殺し。そしてなによりも、二度もこの人を泣かせてしまった。それらはきっと、許されざる罪に違いない。
私の贖罪の第一歩は、生まれて初めて感情をこめた謝罪の言葉だった。
◇◆◇
「ほう、そんな目で私を見る男など久しぶりだ。くくっ」
似ている。カーズ拠点跡から発見されたこの男。容姿や風貌は全く違うが、そう思わせる何かを持つ目を私に向けている。
多忙な日常で、嫌でも風化していく記憶。もうあの事件が遠い過去のように思える。だが忘却は許されない。私の贖罪は、この鼓動が止まるまで終わりはしないのだから。
「質問に答えてくれ。眼鏡さん」
相沢との初対面のエピソードが思い浮かび、少しだけ可笑しくなってしまった。
またあの時のように、ハッキリと名乗っておこう。眼鏡をあだ名にされかねないからな。
くく……。理由まで当時と同じか。私も成長しないな。
――そこの眼鏡の彼女! 男は嫌いですか?
「国枝紗枝だ」
◇◇◇◇◇◇ ≪ アリサ・レイストローム ≫
「日本……ね」
2012年に飛来した地球外生命体。その来襲は、私の祖国であるフィンランドの国土を著しく制限した。フィンランド共和国の首都であるヘルシンキは、カーズが飛来した時点で地図上から消し飛んだ。都市機能の中核を担っている首都の崩壊は、国全体の混乱を意味していた。半径、数百kmに及ぶフィールドから次々と生み出される赤目の攻勢に、年々広がっていく立入禁止区域。
ヨーロッパにおいては、ノルウェー、フィンランド。そしてイギリスにカーズの拠点が形成されている。半島はもう三割程が、島国であるイギリスは完全に壊滅させられ、人類の侵入がほぼ許されない区域になっている。
国土を失った民衆を受け入れてくれる国は意外にも多くあった。その筆頭が日本。
カーズ飛来以前より人口減少を危惧していた日本は、男児出生率の低下によりさらに拍車が掛かった人口減少を食い止めるべく、世論の反発を押し切り移民政策を実行。経済的援助の見返りとして外国人を呼び寄せるという、昔から何一つ変わっていない左翼外交。
住む場所が無くて困っているのはこっちだというのに、金を出して頭を下げてまで一体、何を得るというんだろう。
「びみょーだなぁ」
空路が制限され、本来より大幅な時間を掛けて日本を目指す航空機内でごちる。日本に移住するのは幼少の頃より決まっていた事なので、既に日本語に不自由する事は無い。
何が微妙かって日本という国が微妙だ。16になったばかりの私を、多額の経済的援助で呼び寄せるというその行動。
後に私がフェイズ5だと分かった時に思ったが、いくら私のフェイズが人類最高の頂であるとはいえ、まだこの時点でフェイズ3の私がそこに辿り着ける保障はないし、フェイズ5に到達したからといって、必ずしも目的の能力を得られる訳ではない。
「ま、いっか。私は得するし」
日本政府の私への見返りは、日本での滞在と遺伝子の研究場所を無償で提供してくれる事。
既にフィンランドで軍の医療部隊や研究に従事していた私は、この国で本来の目的に没頭する事ができると判断し、移住を決めた。そこには国家間のやりとりもあっただろうが、詳しい事は知らされていない。
裏で汚いやりとりが行なわれていようと別に構わない。日本という国を好きになれなくても問題は無い。私の望みはカーズによる人間操作術の解除。その為なら他の全ては犠牲にする。
本当の望みは手遅れだと分かっていても、私はもう止まれない。
◇◆◇
目の前の赤い目をした男が、その目に勝るとも劣らない真紅の地面を踏んで歩み寄ってきていた。
母の死去以来、姉と施設で暮らしていた私がまだ5歳の頃の出来事だった。
幼少の頼りない記憶ながらも、突如目の前に現れたその男の顔を私はよく見知っていた。私はその男の行動の意味を理解しようとせず、ただただ呼びかけるばかりだった。
「――!」
何かを満面の笑顔で喋っている私。それは虐殺の限りを尽くした男にふさわしくない言葉だった。
やっと帰ってきてくれた。今までどこに行っていたの? お腹減ってない? お母さんはもう死んじゃったの。お父さんみたいな人にころされちゃったの。お父さんが帰ってきてくれて嬉しい。また家族で暮らせるね。お姉ちゃんもそこにいるよ。きっとお姉ちゃんも喜ぶよ。ううん、絶対喜ぶ。だから早く起きて、お姉ちゃん――。
「……?」
父の手を払うような動作を不思議に思い、その方向に目を向けた。視界の隅に映った自分の左半身に本来あるべきものがなかった。私の体なのに私の命令に従わなかった。少し離れた位置に転がっている私の腕を発見した。あんな遠くじゃ動かせないのも仕方ないと納得した。
「――! ――――!!」
赤く染まった姉が、上半身を起こして私に叫んでいた。逃げろと聞こえた。意味が分からなかった。お父さんが帰ってきてくれたのに嬉しくないのかと怒りたくなった。でもできなかった。思った通りに口が動かないのだ。それに何故だろうか。目の前の赤が白く、白く……霞んでいった。
◇◆◇
「……ん」
ゆっくり目を開ける。ぼんやりとした思考で自分の動く左腕を見下ろす。
少し眠っていたみたい。まだ飛行機は日本に到着してないようだ。こんな夢を見るのも、もう忘れ物のない故郷と離別する日にふさわしいのかもしれない。
あの後、軍の介入により父は処理されたと聞いた。しかしその場所は、私がいた施設とは遠く離れた場所であり、その説明はどうにも腑に落ちなかった。
感情を一切、持たない殺人機械である赤目が、私を殺さずに去ったのは何故だろうか。家族を殺す事に抵抗がないのは、姉を殺した時点で分かっている。……いや、果たしてそうだろうか? 姉は確かに傷ついていたが、私が気を失う時点まではまだ生きていた。説明してくれた軍の人が、何かを秘匿しているのかもしれない。
「気を失った私を死んだと思った……」
その可能性が一番高い。それを裏付けるように、そういった例は珍しくない。
現実なんてものは往々にして人間の甘い希望を打ち砕くが、私の疑問はまだ確定してはいないのだ。赤目に直接聞きでもしない限り、真実は分からない。と、そこまで考えて、自分の甘さに嘆息する。
――父は私を愛していたからこそ、私を殺さなかった。
人類の誰もが成しえていないカーズの操作から脱却する方法が、そんな奇跡であって欲しいと夢見ていた。
◇◆◇
日本に渡り三年。十代でフェイズ5到達という偉業を達成。
医学と遺伝子研究とフェイズ訓練という三足のわらじを履きながらも、全ての分野に置いて私は他の追随を許さなかった。天才と称する人もいれば、外国人の私を妬む人もいた。
移民政策は政府の意向であり、国民感情を置き去りにした感は否めないようだ。
「国枝基地長。何してるんですかー?」
「……」
ベンチに座っている国枝基地長を発見して顔を覗き込む。でも反応が無い。……というか顔怖い。最近基地長に就任したばかりで疲れているんだろうか。……なんて、理由は分かっている。
先日の味方殺しの事件。噂程度にしか知らないが、それは彼女にとってどんなものだったのだろうか。
祖国フィンランドでも根付いている男性蔑視。でも私にとっては完全に興味の範囲外だ。実際、男と接する機会がない。考えても埒が明かないし、そんなことに気を回す余裕をもない。
「つんつん」
おそるおそる頬を突付いてみる。……はい、無反応ね。特に仲が良いわけでもないけど、話しかけてるのに無視とは腹立つわね。
「えい」
「ひっ!?」
頬から額に指を移動させて干渉を発動。途端にベンチから転げ落ちる眼鏡さん。
以前テレビで見た事のある、マッチョガイのイメージを送ってみたのだ。
「な、なんのつもりだ!? レイストローム!」
「そんなに驚かなくても」
意外とおもしろい人なのかもしれないわ。顔が怖いだけで。
「私に関わるな。悪いが今はふざける気分ではない」
「あらあら。国枝基地長ともあろう方が、随分しょぼくれてますこと」
「……お前、私が怖くないのか?」
「お気に障りました? それはそれは大変失礼しましたわね」
怖いよ~。……何その猛獣すら逃げ出しそうな威圧感? いや、実際逃げる。
でも腹立つのよね。本人にその気はないかもしれないけど、これみよがしにへこんでたりして。基地のトップなんだからしっかりして欲しいわ。
「……なんだ?」
「練習」
国枝基地長の額に手を当てる。その行動を前に動揺すらしない彼女。
私の能力を知った上でいい度胸だ。見てやろうじゃない。あんたが落ち込むほどの理由。その光景を。
「……一応、機密なんだがな」
「あれだけ噂されてたら今更でしょ? 本当の機密は思い描かないようにね」
触れた額から伝わってくる。彼女の強く思い描いているイメージがハッキリと脳に投影される。
精神という現象の具現化。今は記憶と言うのが具体的だろうか。物質が地に還るのなら、精神は何処に還るんだろう。この能力を手に入れてからそんな疑問が湧いてくる。
具現化された記憶は映像として私に捉えられる。彼女の今強く思っていることの全てが流れ込んでくる。
「おい……」
「な、なに?」
「……泣くな」
いつのまにか目から零れ落ちていた。そして頭に手が優しく添えられていた。
無遠慮に彼女の悲しい記憶に踏み込んでしまい、私は身を切り裂くような後悔に苛まれた。他人が興味本位で覗いていい物ではなかった。彼女の深すぎる悲しみに引き摺られてしまう。
「グス……。うっさいわね」
私の最低な行為を咎めもせず慰めるな。あんたに余裕なんか無い筈でしょうが。本当に泣いているのは、あんたのほうなのに。
「この馬鹿! ばかぁ! め、眼鏡! ……ぅぅうああぁぁぁあああああ」
「貶してから号泣するな。どうしていいかわからんじゃないか……。それに、眼鏡は悪口じゃないだろう」
馬鹿は、私だった。
つい先日、ある実験があった。それはまだ生存している赤目に、私の精神干渉を行使する事。
私がフェイズ5になった数日後、能力調査という名目で行なわれた試みだった。
『赤目にアリサ・レイストロームの感情が届き得るか否か。読み取れるか否か』
フェイズ5になった私は、自分の欲する能力を手に入れた。しかし同時に、私の積年の望みは潰えてしまった。私の精神干渉を持ってすら赤目の心理には届かなかった。元々無いものを読み取る事はできない。
だから、全ては幻想だったのだ。
操作された赤目にも、本当は感情が存在しているという期待も。家族は殺さないのかもしれないという甘い望みも。父が優しかった記憶すらも。その全ては、私が生きる為に美化された自分への言い訳。
私は全てを見ていた。
姉が目の前で赤目になった父に殺された事も。倒れている私を無視し、より多くの人間がいる方向に走っていった事も。男性軽視の理不尽な扱いに耐え切れなくなった父が、母を殺した犯罪者だった事も。
目の前の彼女は違う。あれほどの修羅の歩み全てを受け入れている。自分に嘘はついていない。
『自己干渉能力』で蓋をし、暗示で逃げてきた私とは違う。
「……泣くな。アリサ」
さっきから溜息まじりに同じ事しか言わない。もう体感では正しく計れない時間。帰れば良いのにずっと寄り添ってくれている。
私はぐずりながら心の中で言った。
もう少し待っててね。一人じゃ寂しいでしょう。この涙が止まった時、自分の記憶を具現化できた時、受け入れられた時、卑怯な自己干渉を打倒した時、きっと私も、そこに行くから――。
◇◆◇
「では頼みますね。アリサ・レイストローム」
「はい」
フェイズ5到達から五年後。二十四歳という若さで基地長の役職に抜擢された。年齢と外国人。その二つが枷になり、出世の道はかなり険しいものだった。
只、私は既にそういった欲求は無くなっていた。この話も前々からの打診だったが断わろうと思っていた。それを受け入れたのは、ある事情が出来たからだ。
「蒼井司令。その後いかがですか?」
「……相変わらずです」
目の前の彼女。蒼井司令はフェイズ5ではあるが、既に進化の代償によりその足は全く機能しない。
フェイズ5が希少である理由は、代償によりあらゆる人間的機能を失う事に起因する。そういった人達は能力を行使してそれ以上の代償を支払うと命に危険が及ぶ為、フェイズ5の称号を剥奪されるのが一般的なのだ。
フェイズにおいて次のようなルールもある。
生誕後に判明する個人のフェイズは、基地長すら知り得ないほど機密レベルが高い。政府直轄の機関が全て管理している。当人すらも自分のフェイズが一体どこまでなのか、実際に進めてみないと分からない。
機密レベルの高さはフェイズ5である理由から、ある者は金の為、ある者は思想の為と、危害が及ぶのが目に見えているからだ。幼少から大仰に護衛を着けたりはしないが、フェイズ5と判明した時点で軍に隔離する国も存在する。日本やヨーロッパ等では、まだ人権が尊重されているほうなのだ。そういう団体の圧力が強いと言うべきか。
「国枝基地長にも見てもらいますから」
「紗枝ちゃ……国枝基地長ですか?」
「ええ。目が赤くないとはいえ、未知の物に備えは必要でしょう。後、何人か監視役を見つけて下さいね。紗枝も忙しい身の上ですから。……ふふ」
むむ……。この全てを見透かしたような笑い。言い換えた名前。私この人苦手なのよね。
「了解しました。研究の経過は随時に」
「はい。頼みましたよ」
私が基地長を受け入れた理由とは、カーズ拠点から発見された男に他ならない。その研究の為に、役職は必要不可欠だ。その有る無しで、秘匿される情報が出てくるかもしれない。
既に欲する理由も無くなった私の目的。それはもう私自身の純粋な知的探究心に昇華されている。
人間はカーズの操作を打倒する事ができるんだろうか? 人工的に手に入れた進化はどこに続いているのか?
そう、私はただ純粋に見てみたいんだ。人間という種の可能性を。
◇◆◇
「だ、大丈夫ですか? アリサさん」
「……うっさいわね」
ああもう。やっぱり失敗だったわ。
あの時、無理矢理にでも腹筋してやるべきだった。いずれ分かる事だと思って諦めたんだけど。階段くらいでどんだけ心配してんの? うっとうしくて仕方ない。
カーズ拠点跡から発見された男は、一言で言うと普通だった。あまり男の事は詳しくないから、これが男の普通と言ってい良いものかはわからないけど、彼は極一般的な常識的な人間だ。
まぁちょっと女と違うのは、変にかっこつけたり、見栄はったり、意外にも強引に意見を押し通したりする所かな。あっ、あとアホな所ね。これだけは忘れちゃいけない。
発見当初。私はこの男を自分の研究に利用する事しか存在価値を見出していなかった。それが今はこれだ。心配そうな表情でまとわり着いてくるのがうっとうしくもあり、かわいくもある。相手が良識ある人間なら、近くで接すると情も湧いてくる。弟ができたらこんな感じなのかな?
「だー! うっとうしい!! ついてくんな!」
うっとうしさがかわいいを大幅に上回り、追っ払う事にした。ローキックで。
しかしそれでも食い下がってくる仮想弟。
「だって心配で」
「ぬっ……う、うるさい! 階段くらいで危なかったら日常に支障がでるわ!」
「……違うんですか?」
ぐ……。嫌な所で鋭いわね。ちょっと照れてしまったし。
正直に言うと階段は相当疲れる。それはもう息を切らしかねないほどに。でもそんな代償は、フェイズ5になると決めた時点で覚悟している。
それは、あなたもそうでしょう? 辰巳宗一君。だからこのお願いは、以前と違う答えが返ってくるのでしょうね。
「……宗一君」
「なんですか?」
「私を、守ってくれるの?」
いやらしい質問だったかな? 以前は冗談交じりに聞いて反撃されたけど、あの時点では彼の本音だった筈。そして今はきっと違う。そんな確信がある。
「……わかりません」
「そっか」
そう……。それでいい。正直に告げてくれただけで充分。それが私への最高の答え。それは冷たいとか見捨てるとか、そんな低次元な話ではない。
何を置いても守ると豪語する。そんな自分を捨てると断言するも同然の人に、何も守れはしない。そんな幼稚な発想は、自分に酔っているだけの人。夢想の自分を思い描く人。
奇しくもフェイズ3において、私と同じ能力を選択した宗一君。
彼が以前の私のように、本当の逃避を選ばない事を祈りましょう。私に出来ることは、それくらいしか思いつかない。
「宗一君て……」
「は、はい」
それとひとつ言いたいのは、私はこういうシリアスな空気が苦手なの。だからいつまでも暗い顔しないでくれる? 暗く沈むあなたはなるべく見たくないだな、これが。
よし。いつものウインクでこの空気を一変させてやろうじゃない。私がかわいいからって惚れるなよ、若者。
「嘘つきね」