第31話 代償と調律
なんだろう……? これは、夢?
目の前に広がる荒野。見据える先は、果てのない地平線。そこに呆然と立ち尽くしている俺。
肌を撫でる風が心地良い。意識せずとも、体が自然に前に進もうとする。そこに俺の意志が存在しなくても。
確信する。この場所こそが、俺の求めていた世界なんだと。
俺は自分に干渉して、弱い自分を殺そうとした。
人として反則的な行為。生物としての禁忌。俺が俺である為に犯した、自分自身への冒涜。
だが、それがどうした。事の善悪などに囚われるな。盲目的にあの地平の先を目指せばいい。そこにきっと俺の望むものがあるんだから。
足を一つ進める度に、解き放たれていく感覚に陥る。
そう、人としての檻から――。
「――――」
誰かの呼ぶ声が、俺の足を止める。
進みたいのに進めない。俺がやっと手に入れた場所なのに。望んだ道なのに。
何故だ……? 何故、邪魔をするんだ?
「――ろ!」
体全体を覆う凄まじい強制力。ここは俺の世界であるにも関わらず、一歩たりとも進めなくなる。
こんな事ができるのは一人しか知らない。だがその思い描く人物が、俺を止める理由に思い当たらない。瀕死の赤目を前に、生殺の選択を俺自身にさせたのは彼女だというのに。
彼女は否定するんだろうか? 俺自身が選んだこの道を。
「起きろ!!」
「……っ!」
不意に覚醒する。いや、させられた。それは決して呼びかけによるものではない。
目の前には予想通りの人物。絹のようにきめ細かいストレートの金髪。青ではなく蒼という表現が的確な吸い込まれそうな瞳。華奢な体躯。白衣の外国人。――アリサ・レイストローム。
視界に広がる景色は、見慣れた俺の病室だった。一体いつ帰ってきたかの記憶が無い。
でも、今はそんな事どうでもいい。重要なのは、何故アリサ・レイストロームが俺の進行を阻んだのかという事。
「……どうして?」
頭に霞がかかっているような浮遊した意識で問い掛ける。いつもと異なる自分が喋っているような感覚。それは紛れもなく、俺が望んだ俺自身。
自己干渉の成否の行方は、次に俺の口から放たれる醜い一言で確定した。
「答えろ。何故、邪魔をする?」
これ以上ない恩義を感じている相手に対してこの言葉。理由の説明も受けていない。問い掛けの答えすらどうでもいいと感じている。
普段の俺からすると考えられない悪態だ。だが今の俺の思考の大半は、目の前の女が邪魔者であるという認識。それ以上でもそれ以下でもなかった。
「ふ~ん、聞きたいの?」
「いえ、特には」
アリサ・レイストロームに危害を加えるほど、状況は切迫していない。
常人の身体能力しか有しない彼女なら、俺が強硬に出れば簡単に妨害を阻止できる。だからこの人はそれほど脅威ではない。今の問題は……。
「……」
壁に体を寄り掛からせて、黙したままこちらを観察している国枝紗枝。
この人にはどうあがいても勝てない。ここで目的遂行の為に争うのは得策でない。そんな合理的な判断を躊躇いなく選択する。
「まだ目が覚めてないようね?」
「いえ、覚めてました。なんかさっきは寝ぼけてたみたいです。……ふわ」
ベッドから体を起こしつつ、いつもの辰巳宗一に戻る。そう見せかける。
ここはいつもどおり振る舞え。自己干渉を完全に物にするにはまだ時間がかかる。その証拠に、心にも無い発言は、まだ俺の胸を少しだけ締め付けている。
「起きろって……言ってんのよ!」
「え? ……ぶげっ?!」
アリサさんに思い切り頬を叩かれ、その衝撃で体ごと持っていかれそうになる。
力のないアリサさんの全力ビンタ。殴った手もかなり痛いだろう。それにただのビンタではなく、確実に干渉の力が篭っていた。
「……あ」
頭の中の霧が晴れ、思考がスッキリとする。その瞬間、干渉から開放された脳に、後悔の念が怒涛のように押し寄せる。
「ご、ごめんなさい、アリサさん! お、俺は……」
俺は何て事を考えているんだ。何を喋っているんだ。
「……ったく、やっと起きたか。よかったな、アリサのビンタで」
紗枝さんの握り拳の行き先を想像したくない。さっきまでの俺は殴られて当然だ。誰も殴らなかったら俺が殴ってる。でも、そんな自分を望んだのは、間違いなく俺だ。
「自己干渉とはまたやっかいな能力を手に入れたな。掛けた暗示は甘さの排除といった所か」
「……」
隠す以前の問題だった。アリサさんが俺に干渉したらすぐ分かるんだろう。もうこうなれば怖い物はなにもない。自分の能力について把握するのが最優先だ。
そう決心して能力の詳細について問うと、紗枝さんは何かを迷ったように長考に入る。
「……いいだろう」
何を考えたのか俺にはよく分からないが、今は紗枝さんの言葉に耳を傾けた。
自己干渉能力。自己暗示能力とも言い換えられるが、決定的に異なる点は強制力。
自己暗示は本人の受容外では効果が得られないというのが一般的だ。だが、自己干渉は本人の意思に沿わない行動をも強制する。そして一度なにかの命令を強制すると、その過程での自由意志は放棄され、目的遂行まで本来の自分に戻る事も無い。
フェイズ3でもこの能力者は極一部。理由は強力な強制力を持つ適格者が少ないというのも一因だが、この能力自体が倫理的ではないと敬遠されているからだ。
「今後、その能力を使う事を禁ずる」
「な、なぜですか?」
「今はアリサの干渉で目覚める事ができたが、頻繁に使うと人格障害を起こす。特にお前のような暗示は、感情に反した行動を取るからその兆候がはっきりと出るだろう。通常の自我が暗示に引っ張られるんだ。それに、自己干渉が切れても記憶は残る。その時に感じ取れなかった負債を後で一気に背負う事になる。まさに命を縮める行為と言ってもいいだろう」
先程の泣きたくなるような後悔や慙愧の念。それに類似する感情が、一気に堰を切り溢れだしたかのようだった。
何も感じない訳ではない。何も思わないわけではない。只、強制的に押さえ込んでいるだけだ。
「わかったか? どんなに危険な能力か。だから使うな。これは命令だ」
本当に危険だ。下手をすると、俺は俺でなくなるのかもしれない。
でも……『俺』ってなんだ? 確固たる自分とは? それは今までの俺? 戦場で震えていた俺? 正気を失わないと赤目も殺せない俺? 男性街で叫べなかった俺?
「……不満って顔だな」
自分自身が望んで得た能力。それを使うなと言われても、すぐには頷けない。
「宗一君」
アリサさんが細めた目で俺を見据えてくる。
「その能力は自分を穢し、貶める卑怯な行為よ。自分の世界に心酔している事を嘲笑して『夢想者』なんて呼ぶ人もいるわ」
ああ、その通りですよ。反論なんかないです。だって、俺もそう思っているんだから。
自分では抑えきれない感情を抑制する。自分では殺しきれない倫理を殺害する。最初に俺の意志はあっても、それを成すのは意志を失った俺。夢想の自分に身を委ねる。卑怯であり、最低。ヒロイズム的思想。
「二人は、俺を否定しますか?」
俺の問いに、二人とも押し黙る。そうなると思っていた。
普通の人生を歩んでいる人なら、この問いに対して間髪入れずに「間違っている」「使用するな」と返答するだろう。少し前の俺も、そう言うに違いない。
二人がどんな人生を歩んできたのか分からないが、俺は確信を持ってこの問いを投げた。
この二人は否定しない。いや、否定できない。なぜなら、彼女達も『そう』であるからだ。
「……アリサさん」
「なに?」
このタイミングで良かったんだろうか? まだ、ただいまの挨拶もしていない。外出で心配を掛けた謝罪すらしていない。礼も言っていない。
でも止められそうに無い。この知りたいと乞う気持ち。彼女達が『そう』である理由。その知識欲を満たす為、ベッドから降りる。
「ここに仰向けで寝て下さい」
「……へ?」
アリサさんが一瞬で間の抜けた顔になる。意味が分からないのも無理はない。
俺の要望は、俺のベッドに仰向けで寝てもらう事だ。
「お願いします」
真剣な雰囲気が伝わったのか、アリサさんは頭の上に?を着けながらも要望に応えてくれる。
「……で、なんなの?」
ベッドで仰向けのアリサさんが続きを問う。傍から見たら間抜けな一幕だが、茶化す気持ちなど全く無い。次の俺の要望は、子供でもできる簡単なものだ。難しい事なんかひとつもない。
だから俺は願った。この心中に重く圧し掛かっている予感が杞憂である事を。
何を言ってるの? 何をさせたいの? 宗一君てアホなの? 呆れた顔で、苦笑いを零して。彼女にそう言って欲しい。
「腹筋を、してください」
何故だろう。真実は残酷だと確信しながら、それを知りたいなんて気持ちが湧き上がる。
「……」
アリサさんは何も言ってくれない。俺の望む言葉を紡いでくれない。
その持ち上がらない体は、俺の予想の全てを裏切っていない。その諦めたような表情は、俺の願いの全てを裏切っている。
「紗枝、さん」
もうひとつの希望に縋る。それが無駄な行為であると、誰よりも自分こそが確信しているのに。
「眼鏡を外して……フェイズを、切ってください」
「……必要か?」
これ以上……? そう後に続く言葉すら必要ない。必要、ないんだ。
もう俺の中の予想は確定して揺るがない。最悪の正解で。
「……くっ……ぅ」
俯いて苦渋に満ちた顔を二人の視界から外す。
この時代で心を許している数少ない人。その人達の現実は、俺の予想以上に救いが無い。俺の想像以上に俺の心を切り刻む。今までに思い当たる事は数多くあった。頭の中の点が線で繋がる。
彼女達の現実は――。
腹筋の一回すら出来ない衰えた身体能力。フェイズで常に強化し、眼鏡を掛けないと維持できない視力。
何故? ……論外だ。彼女達の、いや、三人の共通点はなんだ? 考えるまでも無い。
フェイズ5――。
「佐野か」
紗枝さんは俺の疑問の発生源をピタリと当てる。
俺が山形の基地に行ったという事も、佐野さんとコンタクトを取ったという事も聞いているだろう。だが話の核はそこではなく、限定するのならば佐野さんの右腕だ。
真っ黒に炭化したような右腕。それは外的要因によるものではない。
そうで在る事が自然。そうでなければ不自然。有るから在る。フェイズ5であるならば。フェイズが進化であるならば。
進化は進歩ではない。
進化と退化は表裏一体。対を成さない。
進化という自然現象に、予測不可能な偶然性は必然。
人間は他の動物より遥かに優秀な知能を得て、今よりも頑強で俊敏な肉体を失った。
進化で全てを得られない。捨てないと得られない能力がある。それが必然。それが進化であり退化。進化がプラスではなく、退化がマイナスでもない。二つは同種であり同義。分かつ事は出来ない。それこそが、この世の定め。
何かを得ると、何かを失う――。
「俺を、否定しますか?」
もう一度だけ問う。震えた声を噛み殺して、力強く。
その問いは、目の前の二人にはこう聞こえただろう。
――自分を否定しますか?
フェイズ4で喪失、弱体化する能力があると聞いた時、あるひとつの疑問が湧いた。
では、フェイズ5は?
俺の日常に存在するフェイズ5。目の前の彼女達のごく自然な人間的振る舞いを見て、その疑問への探究心は薄れていった。だがいずれ思い知る事になるだろう。そう頭のどこかで予感していた。
フェイズの力は強大だ。その名の通り、段階を進める度に天井知らずに向上する能力。人工的に促進させた急激な進化は、本来の人間の体には分不相応なもの。
ならその皺寄せはどこにくる? 強大な能力と引き換えに失うものは? 差し出す代償は?
日常生活に支障を来たすほど劣化し、人の外観から程遠くなった右腕。
20代半ばにして老人にも劣るやもしれない肉体の脆弱さ。
裸眼では恐らく、何も視覚情報を得られない失明寸前の視力。
その能力を使い続けると、得続けるとどうなる? 当然、失い続ける。今の三人の状態ですら、途中であり過程。まだ先がある。
それらを促進させているのは進化であり退化。医療行為では絶対戻らない。医学がどんなに進んでも、退化には逆らえない。
恐らく、フェイズ5でもその能力者はいないだろう。フェイズ5の『創造』の力は、物質ではなく『現象具現化』と銘打たれている。
ゼロから物質を生成する事などできない。時を戻すことなど出来ない。つまり、退化に逆らう事などできない。いや、そんな能力は存在してはいけない。
それはもう、神の領域なのだから。
「……わかったよ」
「えっ?」
紗枝さんが溜息を吐きながら、眼鏡の位置を直す。
「わかったと言った。その能力の使用を認めよう。……ただし」
「……ただし?」
「私が自己干渉能力の使い方を教えるまで、自分勝手に使用するな」
「使い方……? それは分かっていますが」
「いいや分かってない。お前のような使い方がその能力の全てではない。時間が取れたら教えてやる。だからそれまでその能力は一切使うな、分かったか? もし、使ったら……」
「わ、わかりました! 使いません! 絶対! どんな事があっても!!」
後に続きそうな、凶兆しかない言葉を遮った。紗枝さんは本気だった。あの目は俺を殺してもおかしくない。
でも認めてもらえて嬉しい。そしてそれ以上に嬉しいのは、この二人と同じ位置に立てた事だった。
「で、宗一君。それはなに?」
「それ?」
ベッドから降りたアリサさんが、真剣な空気をやや切り替えて不機嫌そうに指差す。その方向には、包帯でグルグル巻きにされた上半身と右手。
「怪我……ですが」
「私、出発の前になんて言ったかしら?」
怪我して帰ってくるなよ、です。ハイ。間違いありません。その前は、どうせ面倒な事になるからよ! でした。相違ありません。ハイ。
というか、俺はどうやって帰ってきたんだ?
「担ぎ込まれたのよ! このアホ!!」
「ひいいぃぃ!? す、すまんですたい!」
「……おちょくってんの?」
「否であります!」
「正座!」
「イエッサァ!」
神速でベッドの上に正座。
うわ~、やっぱりアリサさん怒ってるよ。当然すぎて何も言えない。
「そういえば宗一。お前、定時連絡でおちょくるとは良い度胸だったな」
げぇっ!? 紗枝さんを電話でからかったの忘れてた。こ、こえぇ……。ノリを優先して後のことを考えない自分を殴りたい。またフェイズ鬼ごっことかさせられるのか?
「ふ、くく……」
「涙目かっこわる~。あはは」
二人は情けなく縮こまった俺を見て笑い出す。
くっ……。なんだよそれ、からかっただけかよ。ちょっと恥ずかしいぞ。それになんなんだよ、このいつも通りの空気は。俺はもう、そんな……。
「……え?」
アリサさんが俺の手をそっと持ち上げた。ベッドに正座している俺は、アリサさんを少しだけ見上げる体勢になる。顔を上げたそこにあったのは、この人の最高に好きな表情だった。
「おかえり宗一君。おつかれさま」
思考が停止し、呆然としてしまう。正直、意外だった。そんな言葉を掛けてくれるとは思わなかった。自己干渉能力を手に入れてしまった時点で、それを押し通した時点で、自分を殺すと決めた時点で。
なんだろう、この二人の反則的な優しさは。卑怯で最低な俺への心遣いは。
こんな卑劣な能力を得た経緯や動悸を聞きもしない。そこにあると簡単に予想できる、俺の悔しさや憤り、後悔、自虐、弱さ。それに対する叱責も無い。薄っぺらい形だけの慰めも無い。あったのは、労いの言葉と帰宅の歓迎だけだった。
「……ふん」
いつも通り、不機嫌そうにそっぽを向く紗枝さん。 人によっては無愛想と感じるその仕草も、俺にとってはこれ以上なく暖かく感じられた。しかし、感謝すべき筈の二人の優しさは、今の俺にはただただ辛いものでしかない。
俺はこんな自分を殺したいと願っているのに。あなた達の優しさは俺を生かそうとする。おかえりと言って貰った辰巳宗一こそが、俺の最大の敵だというのに。
だから、やめてくれ。こんな最低な奴に優しくしないでくれ。
「ただいま、帰りました……」
今の俺は、あなた達を裏切る事も辞さないのだから。
◇◇◇◇◇◇
「げ」
「……げ、とはなによ?」
紗枝さんとアリサさんが出て行って数時間後の夕暮れ時。ノック音に返答すると、有原と立川の訪問だった。
こいつら……特に有原の対策を全く考えてなかった。俺の干渉ミスで変な会話の流れになった事を怒ってるんだろうな。対策も何も正直に話すしかないんだけど……。しかし、何がどう伝わったのかが気になる。
「えっと。有原、あれはだな……」
「宗一さんが肉食系だとは思いませんでした。まさか涼子ちゃんを性処理道具として使おうだなんて……。別にいいですけど条件があります。その時はぜひ見学させてください」
「なんで立川が仕切ってんだよ!」
このこけしは本当に場を乱す為に存在している。
どっか行ってくれ。雛壇の下のほうとかオススメだぞ。
「ひくっ」
「あ、涼子ちゃん。よしよし」
「……え?」
え? えええ? うそ!? 有原さん泣いてらっしゃる!?
ちょ、マジで? そんなにショックだったのか? これは伝わった内容を気にしてる場合じゃないぞ! 乙女心を傷付けてしまったんだ。謝れ! 謝り倒せ!
「ご、ごめん! いや、違うんだ! あれはミス! そう、ミスなんだ! ええっと、干渉で電話して有原に掛けたつもりが、……いや、ちげーよ。本当は縁に掛けたんだけど! それが、えっと……」
「ええ!? 縁さんまで性奴隷にしようと!?」
「だから! お前は未来永劫、声帯機能を行使するな!」
くそっ。テンパッてちゃんと説明できんぞ。ツッコミだけが決まる。
女の涙ってすごい破壊力だ。こっちが悪くなくても、有原の泣き顔をなんとかしたいって気にさせられる。
「宗一さんが色情魔なのはわかっていたのでそれはいいのですが、何故涼子ちゃんを一番手に選んだかの説明責任があると思います」
はいはい、無視無視。こいつは絶対おもしろがっているだけだ。
今問題なのは有原。とりあえず泣くのだけは勘弁して欲しい。
「いや、マジごめん! ほんとごめん! そんなつもり全然ないんだ!」
「……くく」
え……? 俯いてて表情がよく分からないが、泣いてるんだよな? なんでそんな笑いを押し殺したような声が出てくるの? なんで肩震えてんの?
「あ、あは……あははは! あーーははははははっはは! もうダメ! もう無理!」
「ああ、もう。早いよ涼子ちゃん。もっとひっぱらないと」
「…………おい」
もしかして……。いや、絶対そうだ。全部わかってて一杯食わせやがったな……。
電話の時の有原の態度も、この時の為の伏線だったのかよ。そんな器用な頭の回転をするのは立川くらいかと思ってたが……女ってのはこれだから侮れない。男の純情を傷付けやがって。
「……ふん。気が済んだら出てけ、この凸凹コンビ。……いてて」
怪我の痛みを感じながらベッドに潜り込み、二人に背を向ける。
「あ、お、怒った?」
「ちょっとやりすぎました? ごめんなさい、宗一さん」
このくらいで怒ったりしない。むしろこういうアホなやりとりは楽しいんだ。この心地良い空気を作ってくれる二人には感謝してるし、もっと浸りたいと思う。でも、気付けば心の中でブレーキを踏んでしまっている。
俺がこの時代で心を許している人達。その暖かなものを抱えたままで、俺は俺の示す道を進めるんだろうか。
「そーいちー! おかえりーーー!!」
「ん? ……ふぎゅあ!?」
ドアが勢いよく開いた音に目を向けた瞬間、リナが宙を舞っている姿が視界に飛び込んできた。一瞬の事で避ける思考に到達できず、フライングボディプレスをもろにくらってしまう。
「い……ってえええええよ! このチンチクが!」
「ち、ちくりんだもん!」
「あっそう? じゃあ、このチクリンが!」
「あ……。ち、ちがうううううう!」
ふっ。やはりガキだな。こんなベタな引っ掛けに釣られるとは。俺としてはチン・チクリン(12)から改名。チンチク・リン(12)を推奨したい。
てか痛いから! ほんとに痛いから! 右手踏んでる! 昨日まで骨が見えてた右手踏んでるー!
「! ……うりうり」
「い、いやああああああ?! ぐりぐりしないでええええ! リナちんかわゆーーい!」
くそ。さっきまでのブルーな気分が吹っ飛んでしまった。さすがお子様。こっちの事情なんかひとつも考慮してくれない。
「うーす。……っ!?」
「あ、りょーへいじゃん」
途切れない敵襲。新たな訪問者が現れた。いや、今度は味方と判断しよう。声で分かったが、リナが俺の上でわざわざ解説してくれる。りょーへい呼ばわりとは仲良いなお前ら、って俺もだが。
てかノックくらいしろよ。確認もしないで入ってくるからこの状況に凍りつく事になるんだよ。
「……ふん」
「けっ」
あー、やっぱりこうなった。状況を個別で説明するとこうなる。
リナは完全マイペースで俺を虐めている。立川は遼平よりリナがうざそうだ。有原は遼平の訪問に負のオーラを増大中。女が苦手な遼平をここに留まらせているのは、ただの意地なんだろう。
ここは俺がなんとかしないといけない場面ってのは分かるんだけど、それもどうなんだろう? みんな仲良くして欲しいと思ってるのは、この中で俺だけだからそう思うんじゃないだろうか?
「あーもう! 知らん!」
「うひゃ」
リナをベッドから振り落とし、勝手にやってろとばかりに背を向ける。
でも決してどうでもいいなんて思ってない。ここはこいつらの良い所に期待して自分達でどうにかしてもらう。こいつらならどうにかできる筈だ。俺はそう信じている。
お前らは味方を殺す女性のように、男性街の住人のように手遅れではない。だから手を出すのは少しだけ。
「あ、あれ?」
耐え切れなくなった遼平が、帰ろうとドアノブに手を掛けるがドアは開かない。
俺が干渉で閉めたからだ。それはカギではなくドア全体への間接干渉。有原や立川なら強引に突破できるだろうが、その為に病院のドアを壊せるかな?
「ちょ、宗一。なにしてんの? 開けなさいよ」
「ぐー」
「え? そこで寝たふりなの? いや、どう見てもあんたがやってるじゃん」
「…………」
「こ、この……。無視すんなーーー!!」
無視無視。人数分の椅子はあるからそこに座って談笑でもしてろ。
俺がドアを開けるまでな。……ふふふ。……ふははははははは!
◇◇◇◇◇◇
「へーそうなんですか~」
一時間は経っただろうか? 俺の予想を覆して雰囲気は悪くない。
空気を読まない猛者が二人(リナ、立川)もいるからだろうか、引き気味の遼平もすっかり話の輪の中だ。有原は不機嫌ながらも、その大半はドアを閉めて寝た振り継続中の俺に向けられている。
開始三十分くらいで干渉を続けるのにへばってしまって、もうドアは開いてるんだけどな。
「では宗一さんはおっぱい星人なのですね? 柳さん」
「い、いや。そんなこと一言も言ってないけど……。まぁ、当たってるけどな」
「……く」
時折、俺をネタにして立川がからかってくる。そしてそれに乗っかる遼平。しかしここで起きては思う壺だ。あまり事実と遠くない事も耐え切れる要因だったりする。
安心しろ。お前ごときの胸で、おっぱい星人のなんたるかを発揮する事はない。
「はあ!!?」
「きゃあ!」
「ど、どしたの? 都」
「……いえ。何故か一瞬だけ殺意に駆られました」
鋭すぎる……。モノローグを読めるのかお前は。
あまりの殺気に、思わず女の子のような悲鳴を上げてしまったじゃないか。
「こんにちはー」
「あー、ゆかりんだ」
え? なんで縁まで? それにしても、リナは年上を敬う姿勢が皆無である。というか、どうしてぞろぞろと人が集まってくるんだ? そして何故帰らない? ドアは開いてるぞ。
「おっす。やっと来たか」
「こんにちは、柳君。遅くなってすみません。……あれ? 宗一君、寝てるんですか?」
うん? 遼平が縁を待っていた? ますます分からん。
俺は未だに寝てる振り継続中。こうなってくると尚更起き辛い。
「そうなんだよ。折角……おっと、やめておこう。寝てるならもうこのまま帰るか」
む? 気になる所で切りやがって。後で遼平に電話して訊くか。
「そうねー。勿体無いけど、これは返したほうがよさそうね。……ぷ」
珍しく遼平と会話を成立させる有原。最後の「ぷ」ってなんだ?
勿体無いって、なにかあるのか?
「宗一さんの喜んだ顔が見たかったですけど、残念です。でも何故か今は、それを破壊したいと思う私がいます」
く……。だからお前の胸は…………ステキです。
「おなかへったー」
はいはい。欲望に忠実ですね。なんのヒントもくれませんね。この幼女は。
くそ、気になる。こうなったら今起きた事にして……って、不自然過ぎるだろ。それに、これはもうバレている。どいつもこいつもわざとらしい。リナ以外。
「宗一君、起きてるでしょ?」
「ふご」
皆の遠まわしなイジメとは対照的に、縁がなんの慈悲も無く直接的攻撃を浴びせてくる。恥ずかしさと悔しさを堪えつつ、俺はゆっくりと起き上がり典型的敗者の一言。
「ふふ……よくわかったな。流石フェイズ4の縁だけはあるぜ……」
「…………バカじゃん?」
有原が天空から俺を見下してくる。その目は恐ろしいほどの高低差を感じさせた。周りの4人の目も有原の視線に違うことなく、同種同様の冷たさを内包していた。薄笑いを浮かべて誤魔化してみたが……効果は無かった。
「え? それは……」
縁が大事そうに抱えてる物に目が惹き付けられる。なんという見覚えのあるフォルム。
この時代に来て、いろんな事を諦めている中の一つ。失ったものの中の一つ。その中ではあまり重要度は高くないが、それはこの時代に来て失ったものが多すぎ且つ、重過ぎるからだ。
「どこでそれを?」
「ここにいる皆で知人にあたったりして、譲ってもらいました。新品でなくて申し訳ないですけど。大切に使ってくださいね」
「俺に……?」
ケースからそっと取り出し、縁が手渡して来る。
忘却していた俺のささやかな趣味。それは古びたアコースティックギターだった。
「……はは」
思わず笑みが零れる。
久しぶりにネックを握った感触。弦を弾いた時の爽快感。エレキでは出せない独特の空気の震え。
試しにAコードを鳴らしてみると、それだけで分かった。
「チューニング、ばらばらじゃん……」
「あ、やっぱりそうなんですか? ごめんなさい」
弦は新品に取り替えられているが、調律は出来てない。いや、できなかったんだろう。ここに持って来る時に狂ったのか、弦を交換してから時間が過ぎているのか。一度狂えば未経験者には直せない。
メーカーも分からない古びた木製のボディは、きれいに清掃されている。それはケースも例外ではなかった。しかし、専用のスプレーなんかを使った正規の手入れではないのが一目瞭然だ。
「誕生日おめでとう。宗一君」
皆を代表してか、縁が俺の表情を満足気に眺めながら告げる。他の皆もそれぞれにどこかホッとした表情を浮かべ、弛緩した空気が辺りを包んだ。
そうだった……。今日は1月7日。俺の誕生日。このギターは誕生日プレゼント。
この物がない時代。ましてや軍の基地にこんな娯楽は無い可能性のほうが高い。
知人に譲ってもらったと言っても、かなり以前から探していたんだろう。そして扱い方が分からないまでも、この丁寧に手入れされたギターやケースを見れば、送り主の気遣いが手に取るように伝わってくる。
「なんで俺がギターやってたの知ってたんだ? 男性街でヒデとそんな話はしたが、それじゃあ探す暇がないんじゃないのか?」
「宗一君がこの時代……コホン。……この基地で最初に目覚めた時言ってましたよ?」
もう八ヶ月以上も前の事を覚えていてくれたのか。縁が誕生日プレゼントを贈ると言っていたのは、もうこのギターを手に入れた後だったんだろう。
「あ、ありがとう」
そう答えたのは、どっちの俺だったのだろう?
昨日までの弱い俺? 今日から変わっていく俺? 昨日、殺そうとした俺? 今日から望んだ俺?
それは二十歳の誕生日? それとも零歳の誕生日?
「何か弾いてよ、宗一」
「そうですね。折角ギターがあるんですから」
「てかほんとに弾けるのか?」
「はやくはやくー」
縁以外の四人がはやし立ててくる。縁はその光景を満足気な笑顔で見つめている。
このプレゼントなら当然の流れだ。みんなの期待に応えなければならないだろう。といっても腕前に自信は無いし、俺の持ち曲をこの時代の人が知ってるかどうかも微妙だが、そんなのは関係ない。今ここにおいては、感謝の気持ちを込めて弾けば良いだけだ。上手さとか関係ない。
しかし、おかしいな……。
「あ、ああ。ちょっと、待ってくれよ」
さっきからペグをいじってチューニングしているが、一向に決まらない。
6弦5フレットと5弦開放弦を合わせるという初っ端から躓いている。久しぶりで感覚が戻らないんだろうか? 昔やってた時は、そんなに難しい作業でも無かったんだが。
「あ……れ。……おかしい、な」
「……え?」
「ど、どうした? 宗一」
周りの皆の表情が笑顔から一転。戸惑いと驚きに彩られていく。それは俺にとって、とても不可解な現象だった。
なんで……? 俺、今スゲー嬉しいんだけど。もうできないと思っていた趣味も嬉しい。みんなの暖かい気持ちも嬉しい。なのに、なんでそんな悲しそうな表情で俺を見るんだ? 俺は笑ってる筈だろ? だって、泣きたくなるほど嬉しい。笑いたくなるほど悲しい。だからみんなのそんな表情は、この場にふさわしくない。
いや、違う。人は嬉しい時に笑うだろう。悲しい時は泣くだろう。
あれ……? なら今の俺は……どっちだ?
そうか……。きっと皆イライラしてるんだ。
その悲しそうな表情は俺じゃなく、ギターに向けられているんだ。
この、いつまでも調律の合わないギターに。




