第28話 敗北
「ありがとうね」
「いえいえ」
掃除をしているとアパートの住人が声を掛けてくる。礼なのか、度々差し入れを持ってきてくれる人もいた。
彼らはそのままそこに留まり、外壁にへばり付いている俺達をみんなして見上げている。十数人程の感謝の視線を浴びながらの掃除はかなり照れ臭かった。
「……こっちくんなよ」
先程、俺のお姫様抱っこバージンを奪ったハゲ……もとい、相沢秀典(22)が嫌そうに言う。
「なんだよ、謝ったじゃん」
「ふん」
よほどハゲ絡みの扱いがご立腹だったのか、謝っても機嫌が治らない。
壁の僅かな出っ張りを掴んで、器用にシャカシャカと遠ざかっていく。……昆虫のようだった。
「おーーーーい! 今日はこのくらいにしておこう」
日が落ちてきた頃、遼平の合図で掃除を終了する。まだ半分くらいしかできていないので、後日に改めて続きをやる事になった。
「明日は休んで明後日またやろう」
「ああ。そうしよう」
遼平の提案については何も異論がなかった。中途半端で終わるのも気持ちが悪い。でも、この何気ない返事が……なんであんな事になってしまったんだろう。
ここの住人達の暖かさに、俺の警戒心は薄れてしまったんだろうか。それとも俺は、まだどこかで楽観していたのだろうか。
――人は分かり合える。
そんな幻想を盾にして。
◇◇◇◇◇◇
「あけましておめでとうございます」
時刻は0:00。ゴミ捨て場から拾って来たようなテレビが、西暦2065年1月1日を告げる。
遼平の家で年明けの挨拶を交わした。すごく日本的だ。いや、日本なんだけど。
「昨日はどうだったんだい?」
仕事から帰って来た遼平の親父さんが、俺と縁に話を振ってくる。
昨日はハッキリ言って、気分が悪かったとしか言えない。今こうやって、親父さん、遼平、縁と一緒にいなければ、あの悲惨な光景を思い返して陰鬱としていただろう。でもひとつ面白い、というか変わった事もあった。
「男の軍人と会いました」
「ああ。ヒデのことか」
遼平が親父さんの代わりに返答する。
相沢秀典。通称ヒデ。遼平とはここに来て以来の幼なじみらしい。
紹介されたが、初対面といい二回目といい出会い方が最悪だったので、あまり友好的ではないスタートになってしまった。
「あいつは元々、栗原の基地にいたんだよ」
「そうなのか?」
「四年……いや、もう五年前に出て行ったけどな。今は別の基地に所属してる」
五年前……? 遼平の友人が、味方に殺された事件が起きた時だろうか?
「あいつも遼平の友人と知り合いだったのか?」
「いや……兄弟だ。ヒデの兄貴だな」
「……え」
「正確には異母兄弟だ」
一夫多妻制なら珍しくない家族構成。相沢兄弟と遼平は幼い頃からの付き合いらしい。
遺伝子がそうさせるのか。男なら33人に一人という数少ないフェイズ3以上の能力者が、家族から二人も出るのは偶然ではないんだろう。
男性保護法案(優秀な遺伝子を持つ男性を隔離後、精子を収集する)の真の目的。それが少し透けて見えたような気がした。
「あいつ、今は強がって態度でかいけど、昔は兄貴にべったりだったんだ。今は母方の姓を貰うのが普通なんだけど、ここに来る時に兄貴と同じ苗字にわざわざ変えたくらいだ」
「じゃあ、事件当時は……」
「……一年ほど基地で監禁されてたよ」
「え! な、なんでだ?」
「あの時のあいつは正気を失ってた。野放しにすると一人残らず殺しに行っていただろう。事件の詳細は司令部に揉み消されたけど、あいつは誰よりも早く察していたよ。味方の女性に殺されたことを」
憎たらしいあいつの事なのに心がざわめく。顔中が怒気で歪んでいくのを感じる。
「……親父さん」
「なんだい?」
やりきれない思いを解消しようとする。未だに納得できないと自分を騙す。
そうでないと認めるしかなくなってしまう。人間の本質は、悪である事を。
「俺にはここ数ヶ月の記憶しかありません」
そう言うと、縁が後ろから服を引っ張って来る。
大丈夫、これ以上言わないよと目でサイン。
「昨日、俺は男性街という場所を初めて見ましたが、ひどい惨状でした。人の住む所とは思えなかったくらいです。こんな環境でも人が集まってくるという事は、ここの外は男性にとってさらにひどい環境ということですか?」
「そうだね。そうであると言えるし、そうでないとも言えるよ。権力、金、ポスト、縁故、換えの効かない技術や能力。それらがあれば、男でも外の暮らしは悪くないだろう。私は離婚した時、それを手放してしまった」
「だからここへ?」
「そうだね。そしてそれらを所有しない男性に、世間の目は厳しい。仕事も限られた物しかなく失業者も多いし、重要なポストにはまず就けない。生活保護も生きていけるギリギリだ。年齢制限を越えるともうどうしようもない」
以前、図書館で調べた情報は間違っていない。でも違う。国の優遇と民間の冷遇の実態。
紙の上に並べられた文字列が、親父さんの貼り付いた苦笑を書ききれる訳がない。
「ここもそう変わらないんじゃないですか?」
「どっちを取るかだよ」
「どっち……とは?」
「人間である事か、家畜である事か」
昼間の老人の笑顔を想起した。
ここには温もりがある。優しさがある。それをあの老人は生きがいと言った。
外にあるものは、卑下と侮蔑と理不尽――。
「俺には、この時代が狂って見えます」
「……記憶がないなら、そう見えるかもしれないね」
実際は過去の人間になるんだが、俺の言いたい事が分かってくれればそれでいい。
「敵が操られている男だから? 男が少ないから? 人類存亡の危機だから? メディアで男性批判が毎日のように垂れ流されているから? 女性より優遇されているから? 性別が違うから? そんな理由で、それだけでなんで……なんで憎まれなきゃいけないんだ。殺されなきゃいけないんだ。路上で無残に、死ななきゃならないんだ……。そう、思います」
――――。
ぽつぽつと言葉を続けながら、神経が冴え渡っていくのを感じ取る。フェイズが自分の意志とは無関係に起動し、感覚が鋭敏になっていく。
俺はこの手の話になるといつもこうだ。感情の昂ぶりに呼応しているのか、フェイズが上手く制御できない。それを既知していたかのように、いつものように意識の最奥が疼く。
「っ……」
その疼きが、今日もいつものごとく囁くのだ。無念と欲望と憎悪を――。
自分でもよく分からない衝動の渦。でも、俺にとってはお馴染みだった。以前から何度もある。顕著だったのは、有原達と揉めた時だろうか。
圧倒的な黒い濁流。痛々しいまでの心の叫び。悲しみと憎しみの暴風。
どこを起点として湧き上がっているか分からないそれらが、この昂ぶりを増幅させ、意図せずフェイズの行使を強要してくる。
「大丈夫かい?」
「あっ……は、はい。なんでもないです」
気付くと、三人に心配そうに顔を覗き込まれていた。
「ん?」
扉の前に誰かがいる。恐らく相沢だろう。今の俺にはそれすらも感じ取れる。
「宗一君の言いたい事は分かるよ」
「親父さんは差別される理由に納得しているんですか?」
「……納得とはまた違うが、そうだね……。誰かを卑下し、迫害する理由なんてなんでもいいんだと私は思う。自分と違っていれば、それだけで。大小抜きにして、宗一君はそういうのないかい?」
「え? どう……なんでしょう」
ない。と、すぐさま答えられなかった。
「簡単な事で良いんだ。自分より下をみればいい。外見でもいい。学校のテストでもいい。仕事の部下でもいい」
「で、でもそのくらいじゃ……」
「ではもっと突っ込んでいこう。無職者、ホームレス、障害者、嫌っている国の人、出身が特定の地域、宗教団体に所属。それらを君は今まで一度も差別しなかったかい? 嫌悪しなかったかい? いなくなって欲しいと思わなかったかい?」
「……」
「それを国やマスコミ主導で助長しているんだ。正義とは言わないまでも、多数派と同じ意見である事に安堵しないかい? 声高に間違っていると叫べるかい?」
少しの沈黙が降りる。親父さんの目は真剣だ。
この問い掛けは重要な分岐点だと、この時の俺は気付けなかった。
「昔、肌の色で差別された例もあったらしいね。彼らは何度もこう思っただろう、『なんでそれだけで?』とね。昔、日本でも国への不満を逸らす為に、平民より下の身分を作ったりしただろう」
「それは……知ってます」
「そうかい。なら話は早い。現状はその両方を兼ね備えていると言っていいだろう。違う点は男と女で明白。地球外生命体の襲来で、国民は疲弊し困窮している。ならストレスの捌け口が必要になるだろう?」
その向かった先が男性。
性別が違うから。人口が少ないから。優遇されてるから。理由付けしやすいから。自分達とは違うから。自分達が苦しいから。発散したいから。みんながそう言うから。
それだけ。
それだけ。
ただ、それだけ――。
「いや、すまんね。少し説教臭くなってしまった」
「いえ。そんな事ないです」
親父さんが苦笑いを作り、空気が少し和らぐ。
それに理由を求めるなんて、無意味な事なんだろう。どんな理由であれ納得はできないし、理解もできない。それは差別される側とされない側の圧倒的な壁であると言える。
『それだけ』が不充分な理由であると同時に、『それだけ』が充分な理由になっている。
それを分かっていない俺は、簡単に言うなら平和ボケしているんだろう。なんでもかんでも納得できる理由を求める。人の悪意を認めたがらない。人はもっときれいな存在であるはず。常識人ならそんな事はしない。
まるでガキの発想だ。俺にこの時代の人達の何が分かるというんだ。
俺自身にも経験があるだろう。人を見下すという行為は、優越感や快楽を生むという事実を。
「……でも」
「ん? なんだい?」
「俺は、間違っていると思います」
「……そうかい」
これだけは言っておきたかった。これが俺の回答。……いや、願いだ。誰に訊かれても、俺は間違っていると答えたい。その気持ちを揺らしたくない。それができる自分を手に入れたい。
親父さんは優しげに俺の言葉に頷く。いつのまにか扉の前から気配が無くなっていた。
「遼平。相沢兄の名前、教えてくれるか?」
「ん? 正。……相沢正だ」
「基地に帰ったら墓参りさせてくれよな」
「ああ。いいぜ」
今なら彼の残したメッセージの意味を、少し理解できるような気がした。
女性達が男性を嫌悪する源泉は、本来誰だって持っている人間である証。大小に違いはあれど、俺自身にも確かに存在している。他人を見下した事のない人間なんて存在しない。人間は平等なんか望んでいない。人間であるならば当然の欲望や悪意。それらを理解し、認めた上で彼はこう叫んでいる。
『The world not irrational《不条理なき世界》』
『史上において男女平等なんてないし、平等であると言うものを探す方が難しい。だからそんなに難しいことは言っていない、人として不条理なき世界を望むくらい』
◇◇◇◇◇
西暦2065年。1月2日。今日は大掃除の続きだ。
掃除用具を片手に、俺、縁、相沢秀典の三人がスタンバイ。辺りにはアパートの住人達。
相沢はここ出身だが、もう親は逝去しているらしく、遼平と会う為に帰ってきたらしい。昨日も扉の前まで来ても結局、帰っていったし、俺と縁は久しぶりの友人の再会を邪魔してしまっているのかもしれないな。
「……」
「……」
気まずい……。やっぱり出会い方がダメだった。頭思いっきり叩いてるし、ハゲと罵ってしまったし。一応謝ったけど、この空気はなんとかならんものか。
「お、お前があの辰巳宗一か」
向こうも気まずさを感じているように話を切り出す。
この前より態度が軟化しているようだ。日を置いて冷静になってくれたかな?
「俺のこと知ってたのか?」
「ああ。お前は有名だからな。栗原の基地に男が所属するなんて、もうないと思われてたからな」
「そうなんだ」
「……ああ」
会話終了。相沢は座りが悪そうにしている。俺もどうしていいか分からない。
もっと尊大な奴かと思ってたが、意外と繊細なんだろうか?
「えと……。そのおしゃれボウズかっこいいよな」
「そ、そうか? お前も悪くないじゃねーか。いじりがいのありそうな髪で羨ましいよ」
「あ、ありがとう。えーと、……趣味はなんだ?」
何言ってんだ俺は。お見合いしてるような空気になってるじゃねーか。
「ぷっ……くく……」
縁が必死に声を殺しながら体を震わせている。後で覚えてろよ……。
「釣り、かな。休日に基地の外に行ったりな。……お前は?」
「え? えっと……ギターかな」
「へぇ、どんなの演るんだ?」
あくまでこの時代に来る以前の趣味だ。今はもうやっていない。なにせ物がない。
有名なアーティスト名を答えたが、返ってきたのは「?」顔だった。まぁ通じないよな。
「じゃあやるぞー」
気まずい空気を切り裂いたのは遼平の開始の合図。
まずは掃除を片付けるとしますか。
「いや~助かるよ。ありがとう」
「なにか欲しい物があるなら言ってくれ」
「飯はこっちで用意しとくよ」
アパートの住人達の暖かい言葉に背中を押されて掃除を開始する。
そう。ここの住人は優しくて暖かい。数日前来たばかりの俺達を歓迎してくれる。
でも、それには前提条件が不可欠だったんだ。その条件は、彼らにとってなによりも重い事実だと痛感した。
◇◇◇◇◇◇
掃除は順調だった。相沢とも気まずいながらも話ができて良い雰囲気だった。この和やかな空気のまま、滞りなくアパートの掃除は終わると疑っていなかった。
だが、俺の僅かな不注意で辺りの空気は一変。アパート周辺は一瞬で騒然とした。
「な、なんでここに女がいるんだ!」
「出て行ってくれ!」
「ひぃっ!?」
周りにいるのは罵倒する人、逃げ帰る人、脅える人、睨み殺すような視線を向けてくる人。
壁面の吹き掃除をしている際、俺と縁の体が接触してしまい、縁の帽子が地面に落ちてしまったのだ。髪留めをクリップ代わりにして脱げないようしっかりと固定していたが、手で触ってしまえばそんなものはもろい。帽子の中に収まっていた髪は解放され、縁の肩まで引力に従い落ちる。
帽子を深めに被ったかわいい男の子は、もう隠しようもなく女であると露見していた。
「ちょ、ちょっと待って!」
住人達の尋常ではない変わりように、俺は狼狽する事しか出来ない。さっきまでとは別の人間を相手にしているかのような感覚。
「死ねぇ!」
石を投げてくる十にも満たないだろう少年。縁は終始無言で避けようともしない。只、正面を向いているだけだった。
石。……ただの石。当たってもどれほどでもない。子供の力では威力もスピードも感じられない。でも、なんだその言葉は? その嫌悪に歪んだ顔は? その涙は? その……殺意は? 一体、何があったら……この年端もゆかぬ子供に、こんな表情をさせられるんだ?
「くっ」
縁の顔に当たる寸前、石を受け止める。俺が手を出さないと確実に当たっていた。
こんなもの当ててはいけない。縁の為ではなく、この少年の為に。
「な、なんなんだよ! ふざけんなあああああああああああ!!」
俺の怒号に静寂が降りる。
認めたくない。やりきれない。嘆きたくなるような激情。泣きたくなるような現実。
只、前を向いている縁。達観した表情の遼平。俺に細めた目を向けている相沢。その三人の表情は、俺の甘い希望をさらに失墜させる。
「なんでなんだよ!」
なにが……?
「さっきまであんなに優しかったろ! 暖かかったろ! なのに!」
なのに……?
「女だと分かった途端!」
『それだけ』で……?
「そんな……理由で……」
不充分? 充分?
「女だからって……」
男だからって……?
「……が、……ぐ」
無職だからって? ホームレスだからって? 障害者だからって? 嫌っている国の人だからって? 出身が特定の地域だからって? 宗教団体に所属しているからって? 肌の色が違うからって? 与えられた身分だからって? 自分と違うからって?
『それだけ』……で?
石を投げて泣いている子供は? 悲嘆や憤懣に満ちた住人達の表情は?
ここを天国だと言ったあの老人の笑顔は? お菓子を置いて立ち去った少年は?
兄を殺された相沢秀典の憎悪は? 何もできなかった遼平の悔しさは? 殺された相沢正の無念は?
有原と立川のおっちゃんへの迫害は? 男が敵であると言った時の紗枝さんの表情は?
殺してやりたいと言っていた西川さんは? 多田さんの一筋だけの涙は?
『それだけ』……と一蹴? 否定? 批判?
ここで言う? 全てをくだらないと断じて?
――俺が正しい。お前達が間違っている。
何故、俺は今、答えを出そうとしているんだろう? 出してしまったんだろう。
自己の存在を決定する分岐点。あの親父さんの問い掛け。
『声高に間違っていると叫べるかい?』
そうしたいと思っていなかったか? そうでありたいと願っていなかったか?
俺が手に入れたい強さとは、揺れずに行動できる信念であると決めていただろう。
今この場こそがふさわしい。エゴを叫ぶなら今。断罪するのも今。傲慢であるのも今。
「……なんで」
空を見上げると、雲ひとつない晴天だった。なんで雨は降ってないんだろう。
そうすれば、今必死で我慢しているものを流せるかもしれないのに。自分を誤魔化せるかもしれないのに。自意識を蹂躙するこの黒い衝動に、身を任せられるかもしれないのに。こんな偽善的な言葉は、掻き消されるかもしれないのに。
認めなくて済むかもしれないのに。
人間の本質と、自分の敗北を。
「でき……ないんだよ……」
受け止めた石は、手の中で粉々に握りつぶされていた。
◇◇◇◇◇◇
「お世話になりました」
1月3日。
予定より早くなってしまったが、もうここには居られない。
昨日、一晩だけなんとか泊めてもらい、起床後に親父さんにお礼を言う。
「すまないね……。私の力不足で」
住人の抗議は想像以上で、遼平の親父さんは庇いきれなかった事を謝ってくる。
「そんな事ないです。こっちこそ騙すような真似をしてすみませんでした」
謝るのはこっちだ。縁が女だとバレても遼平の親父さんは少し驚いただけだった。
「親父さんは……」
「ん? なんだい?」
「女は、嫌いですか?」
「……縁ちゃんだったか。この子は良い子だと思うよ」
親父さんでも最初から言っておいたらどうなってたか分からない。こう言ってくれるのも、数日間の付き合いをした上での言葉なのかもしれない。
「ありがとうございました」
二人で深々と頭を下げ、荷物を抱えて男性街を後にする。
「ん?」
その最中、道の反対側の男と視線が交差する。
フェイズ能力者なのかはここからでは分からないが、只ならぬ気配を感じる。しかし、軍人という風貌でもない。気にはなるが、これ以上揉め事を起こすわけにはいかない。絡まった視線をすぐに解く。
「そーいちーーー」
「ん? なんだーーー?」
足を止め振り向くと、遼平が遠くから手を振っている。
「また基地でなーーー」
「おーーーう。……へへ」
遼平が気さくにビッと親指を立ててくる。俺も同じように返し、帰り道に足を向ける。
基地への帰りは自分の足だ。フェイズを使えば数時間もあれば着くだろう。
「確か外出許可は1月6日までだったよな」
「そうですね。これからどうしますか? 帰ってもいいと思いますけど」
「う~ん、とりあえず紗枝さんに連絡しておくか」
ポケットから携帯電話を取り出しコール。
まぁ何を言われるかだいたい想像付くけどね。
『帰って来い』
「期待を裏切りませんね……」
事情を説明すると、一息も置かずに断言された。
『なんだ? もう気が済んだんじゃないのか?』
「そう言われると……どうなんでしょう」
確かに男性街の実状は垣間見えた。
俺にはなにもできない。自分は無力で矮小な存在。分かったのはそれだけだった。
「おい」
「え?」
電話中呼びかけられ、目を向けると相沢が立っていた。場所は男性街の入り口付近。俺達を待っていたんだろうか?
電話口で問い掛けてくる紗枝さんはとりあえず無視しておく。
「お前達、もう帰るのか?」
「それをどうしようかと悩んでいた所だ」
「じゃあ、俺の基地に来てみるか?」
「え? 基地ってどこのだ?」
「山形だ。北日本防衛軍山形基地」
相沢がいるって事は、男の部隊も存在する基地なんだろう。
山形なら栗原も近いし、一応帰る方向ではあるが……。
「なんで俺達を?」
「……なんとなくだ」
こいつの考えがよく分からない。でも悪くない提案だ。男が所属する基地にも興味がある。折角の外出だし、できるだけ外の世界を見ておきたい。次はいつになるか分からないしな。
「ああ。じゃあ行くよ」
「了解」
少し嬉しそうに相沢は言う。
「ってことで紗枝さん。まだ帰りません」
『はぁ? どういうことだ?』
「あっ、忘れてた。あけましておめでとうございます」
『あ、ああ。おめでとう。……いや、違う』
「お年玉、期待してます」
『……待て。なんで私がお前にお年玉を……いや、そうじゃなくてだな』
「心配しなくても大丈夫ですよ」
『誰が心配なんぞするか。そんなことより事情を……』
「ではまた」
さっぱり理解してないようだが、そのまま通話を終了する。
くくく……。いつもやられている仕返しだ。しかし律儀に応答する紗枝さんは和むな。
「お待たせ」
「よし。じゃあ走るぞ。……そういや聞いてなかったが、お前達のフェイズは?」
「俺が3で、縁が4だ」
「なにぃ!?」
何故か驚愕する相沢。そのでっかく見開かれた目は縁を捉えて離さない。
「こ、このちっちゃいのが、フェイズ4だと? ランクは?」
「4-Aです。……ちっちゃいは余計ですよね」
「マ、マジで?」
ちっちゃいが勘に触ったようで、縁は頬を膨らませる。
そんなに凄いんだろうか? フェイズ5なら世界に100人未満とか言ってたんで分からなくもないんだが。
「なんでそんなに驚く?」
「は? お前フェイズ4-Aっていったら部隊の隊長、副隊長になれる権限を有しているって事だぞ」
「なに!?」
「へへ」
つまり軍のお偉いさんって事じゃねぇか。なんで俺の護衛がこの子なのか不思議に思ってたが、そういう事なら納得だ。秘匿性の高い俺の機密も、軍の上層である縁に知る権限があっても不思議じゃない。
まぁ縁の場合は俺が目を覚ました時の発言で、嫌でも知る事になってただろうけど。
「……縁殿。今までの非礼をお詫びします」
「基地長にあんなにフランクなのに今更すぎます」
ごもっとも……。
「それにそういった権限は二十二歳からですし、戦場に何回出たかの規定もあるので、今は一兵士ですよ」
いや、流石に一兵士ではないでしょう。
「井上……さんは。何歳?」
相沢が少し引き気味に聞いてくる。
「18です」
「ああ……才能って恐ろしい。人は平等じゃないよなー」
空を見上げながらなにやら達観している。
「お前はいくつなんだ?」
「ふん。フェイズ4になったばかりだよ。だから大きな権限もまだないし、戦闘においても実質フェイズ3だ。十代でフェイズ4なんて、俺が知ってるだけでも両手で数えれるくらいだ。べ、別に悔しがってるわけじゃないんだからな!」
「バゲのツンデレはただただきもい」
縁は早いと紗枝さんが言っていたが、本当だったようだ。となると、有原や立川がもうすぐと言っていたのも怪しいな。ただの負けず嫌いなだけっぽい。
俺が知ってるだけでフェイズ4は、高瀬さん、多田さん、西川さん。全て二十二歳以上だった。
「まぁいいや。行くぞ、しっかりついてこいよ。市街地は避けていくから遠回りになるからな」
「へっ、マラソンなら得意だぜ」
俺がどんだけ紗枝さんに走らされたと思ってんだ。
それにしばらくは、何も考えずに走っていたい。遠ざかっていく男性街に、文字通り背中を向けてしまう行為だけど、少しだけで良いんだ。自分の世界を整理する時間が必要だ。
◇◇◇◇◇◇
「ふぅ……。ここか」
朝に出て昼を少し過ぎた時間に到着。距離にして約300kmといった所だろうか。
目の前にある基地は、栗原の基地とそう変わりない。少しばかり小さい感じを受けるが、基地を囲むバリケードは変わらず高い。普通の建物の7、8階くらいはありそうだ。
「はぁー、はぁー」
「はぁ、ふぅー……。そ、宗一君、速いです」
二人は息を切らして疲弊した表情だ。ふふっ……勝った。
移動の際は体力温存の為、フェイズ1で縛るのが一般的らしい。つまりその人の純粋な身体能力が大きく影響する。
縁の得意分野は敏捷性や運動神経に比重が置かれているので、持続力や体力はあまりない。短距離ではどうなるか分からないけど、いつもやられている縁にひとつ勝てて俺は調子に乗った。
「ふははははははは! 見たか、縁! 惚れ直せ!」
「……元々惚れてません」
「ちょ! マジレス禁止!」
カウンターを喰らって泣きそうになってしまう俺。
縁は悔しいのか、拗ねてそっぽを向いている。
「ちょっと待っててくれ。基地長に話を通してくる。あぁ、身分証を出しといてくれ」
そう言って、相沢は基地に入っていった。
身分証は軍人用の物だ。基地を出るときに受け取ったが、俺の身分証は偽造に近い。生年月日なんか正直に書いたらおかしな事になるので、つじつまを合わせるよう嘘の情報が書かれている。
「宗一君、もう少しで誕生日なんですよね」
縁が俺の身分証を覗き込んで来る。誕生日は本当だ。もうすぐ二十歳になるんだけど……果たして二十歳でいいんだろうか?
「お、何かくれるの?」
「はい。楽しみにしててください」
「え! ほんとに!?」
冗談で言ってみたら思わぬ幸運が待っていた。
やっべぇ。縁のプレゼントなんてめちゃ楽しみだ!
「やったあああああ!」
「ちょ、ちょっと喜びすぎです」
自分でもそう思ったが今の俺はハイだぜ。いや、ハイになろうと頑張っている。そうしないと陰鬱な気分に引き摺られてしまう。
「……へ?」
調子に乗ってバンザイしていると、基地の入り口から軍人と思しき女性がぞろぞろと出てくる。
彼女達は何故か殺気……じゃないな、なんだろう? 獲物に狙いを定めたハンターのような視線だ。
「辰巳! 逃げろ!」
「ふぇ?」
入り口から出てきた相沢が俺に向かって叫ぶ。
バンザイの体勢のまま、俺の思考回路は状況を一欠けらも掴んでいない。半開きの口といい、アホの子丸出しだった。
「捕らえろ!」
一人の女性が不穏な号令をかける。数十人の女性達がそれに呼応して動き出した。
「え? な、なんだ!?」
「宗一君! フェイズを!」
隣の縁が飛び掛ってきて、体当たりで俺の体を移動させる。
寸前まで俺が居た場所は、縄やら鎖やら手錠やらの拘束具と、突っ込んできた女性達で混沌と化していた。
「ちっ、逃がすな!」
捕らえろって、俺? 俺を捕まえるの? で、どうするの?
当然の疑問が頭を巡ったが、俺はそれどころではなかった。縁の突進で大ダメージを受けたのである。突然のことでフェイズを使えておらず、尚且つバンザイの無防備な体勢で、俺の横っ腹は甚大な被害を受けていた。
「ぐはぁ……」
「……」
倒れて悶絶している俺を、馬乗りになっている縁が呆れた顔で見下ろしてくる。
いや、反応が遅かったのは認めるが、そんな顔はないんじゃない? 俺、一応被害者だよ?
「……はぁ」
「この……溜息のオプションまで、ごぶぅ……」
その光景を見ていた女性達と相沢が、毒気を抜かれて失笑。
和やかなムードのまま捕らえられ、俺は基地内にせっせと運ばれて行く事になった。