第19話 北日本防衛戦 終戦
防衛戦五日目、5:00――。
「立川、大丈夫か?」
「それは、私の台詞……です……」
テントで治療を受けている立川の様子を見に来たら、逆に心配された。
立川の右足が、接合手術で元に戻っている事に胸を撫で下ろす。しかし術後の激痛が濃いのか、顔から血の気が引いている。いくらフェイズで早く治ると言っても、さすがに一月は歩けないだろう。
「助けてくれて、ありがとう」
「……」
仰向けに寝そべっている立川。その額に浮かんだ汗を手で拭き取ってやりつつ、感謝を伝える。
立川は額に乗せられた手に安堵したのか、安らかな表情で目を閉じた。
「有原も、ありがとうな」
「心臓が止まるかと、思ったわよ……っ」
立川に寄り添っている有原が涙目になっている。
戦場では甘さであるその優しさは、今の俺には心地良く感じられた。
「ぐっ!」
「ち、ちょっと! あんたも重傷なんだから寝てなさいよ!」
「……大丈夫だ」
治療は受けたが、俺の体は満身創痍になっている。
左腕および左手の指、右手の指すべての骨折。全身におよぶ裂傷と打撲。包帯がない面積の方が少ないかもしれない。しかし、相変わらず痛みは無いに等しい。時々、思い出したかのように表面化する以外は。
心配そうにしている有原の肩を軽く叩いて、野外に足を向ける。
「待ちなさい」
テントの幕を潜ろうとしたところでアリサさんに呼び止められる。
「……壊れてるわね」
この人は相変わらず、ズバリと言い当ててくる。
アリサさんの言うとおり、俺は何かが壊れているんだろう。この重傷で痛みを感じないなんてありえない。
「ほら、こっちに来なさい」
「すみません。もう少し、このままで」
「はぁ……。涼子、見ててあげて」
「はい」
アリサさんが呆れ顔で手をヒラヒラ振っている。それに少しだけ頭を下げ、そのままテントの幕を潜る。
野外に出ると、日が昇りきっていない薄明るい景色が目に飛び込んでくる。その大半は民家やビルの廃墟だったが、そんな俺にとっては非日常な景色の中でも、肌を撫でる朝のすがすがしい空気が感じ取れた。
昨夜、腰掛けていた椅子に座り、誰も居ないふたつの椅子に目を向ける。
あの赤目ははぐれの単独であったという結論で落ち着いた。侵入の際、監視二名が殺害されていた。勝利報告が通信機から流れた直後で気が緩んだんだろう。
タイミングが悪かった。ただ、それだけだ。何のカラクリもなかった。
「ん?」
前線から帰ってくる輸送車が次々と通り過ぎていく。
中には医療部隊の拠点に停車してくる輸送車もあった。その中から比較的軽傷の怪我人が降りてくる。下車してくる女性達は奇怪な目を向けてくるが、まったく気にならない。
視線を下げると、地面が血に染まっているのが見える。俺はそれを冷えた頭で捉えていた。
多田さんは意識不明の重体。左半身の特に上半身がひどく、臓器移植が必要らしい。この時代の医学がどこまで進んでいるのか分からないが、かなり深刻な状態だ。そして、西川さんは――。
「っぅ!」
あの光景が思い浮かべようとすると、体中の激痛がそれを押し止める。
俺は受け入れきれていない。初めて戦場を目の当たりにした時と同じだ。頭で分かっているだけだ。
だから既に無い可能性を求めて思考が巡る。俺があの時、頭を下げなければ……なんて考えは愚かだろうか。
「?」
すぐ傍にある人の気配に釣られて顔を上げる。
「さ、紗枝さん! ……うっ」
会いたかった人物の登場に喜ぶ間もなく、胸倉を掴まれ強制的に立たされる。
「何故ここにいる?」
「ぐ、ぅ」
「……それに何だ? その死んだような目は」
「…………」
紗枝さんから発散される気配は尋常ではなく、俺を恐怖させた。眼鏡の奥にあるその目は、初めて会った時の紗枝さんが束の間見せたそれと同じだ。
ありとあらゆる負の感情の集積。常人には想像も及ばないだろう感情。
そんなものを長年積み重ねて、積み重ねすぎて、心は擦り切れてしまったんだろうか? 彼女はこの戦争で殺した人間の数を覚えているだろうか?
「……使え」
「え?」
「フェイズだ。……死ぬぞ」
「? ……がはっ!?」
訳が分からないまま言うとおりにすると、顔面を殴られて派手に吹っ飛ばされる。
「ぐ……がはっ……あ……」
痛い、痛い、痛い――。体中が痛い。
なんでだ? さっきまで痛みを感じる取る事すらできなかったのに、それほど強烈に殴られたのか?
「立て」
頭の上で非情な宣告が聞こえてくる。
倒れた視界で捉える景色は、何事かと集まった女性一色になっている。彼女達の俺を見る目は、今の紗枝さんの目と同系色だった。
「ちょっと何してんの!?」
アリサさんが血相を変えてテントから飛び出してくる。
「レイストローム医学部長。何故、連れて来た?」
「……私の独断です。辰巳宗一への暴力行為は国枝軍部長でも許しません」
まずい……。そして耐えられない。二人のそんな会話を聞くのは。
公では役職を付けて呼ぶのは当たり前だと言うのは分かる。でも今はそれ以上に、その言葉に相手への気遣いが全く無い。明確な対立の意思が込められている。そしてその原因は俺だ。
「アリサさん。下がっててください」
「ダ、ダメよ。あなた自分の体の状態わかってるの?」
「大丈夫です。これは、いつもの訓練ですから」
「……宗一君」
痛みをなんとか堪えて立ち上がり、アリサさんを後ろに下がらせる。
周りを見渡せば、前線から帰って来た大勢の女性達が、物見遊山で見物している状況になっている。そんな中、一人オロオロしている有原がなんとも浮いていた。
「紗枝さん、始める前に言っておきますけど、アリサさんは悪くありませんから」
「わかってるよ。どうせお前の我儘なんだろう」
「ぐっ、せ、正解。それと、その……縁は無事、ですか?」
「ああ、もうすぐ帰ってくるだろう。ここにも寄れと言ってある」
それを聞いた途端、深い溜息を吐いた。これでもう危惧することはない。
「じゃあ最後にもうひとつ」
「なんだ?」
「紗枝さんにだけは、そんな目で殴られたくねーな」
「…………ふふっ」
紗枝さんは一瞬キョトンとした表情になり、すぐに微かな笑いを零す。そしてそれが開始の合図になった。
俺はぶら下がっている左腕の包帯を放り投げ、戦闘態勢を、つまりフェイズの領域を支配下に置いた。
「なっ……! ぐっ!?」
次の瞬間、視界から紗枝さんが消えていた。
殴られたのか蹴られたのかすら分からず、腹部に衝撃を受けて吹っ飛ぶ。それと同時に、体全体に鋭い痛みが走る。
「宗一、手加減してやってるのになんだその様は」
消えたんじゃなく、消えたように見えた。強化しているはずの認識力でも一瞬しか捉えきれない。
そんな事ってあるのか? 目の前から体ごと消え失せるスピードなんてありか? これで手加減ってどういうこと……。まさに鬼神、って誰が言ってたっけ?
というか今更だけど、何で俺は紗枝さんと戦っているんだ?
「いくぞ」
「!?」
見えない。全く見えない。回避とか不可能だ。
「……が……っ……」
回避する事は諦めて、顔面を腕で覆い隠す。見えない全方位からの攻撃に、フェイズを耐久力強化に全て割り振って防御に集中する。しかし殴られる度、蹴られる度に、体中から悲鳴の声が聞こえてくる。
「……ほう」
いつの間にか離れてこちらを見ている紗枝さんが、何かに感心するような声を出した。
意味が分からず顔を上げると、紗枝さんの拳から血が流れ落ちているのが見える。
「え? ……が、あっ!?」
それを見た瞬間、激痛だけが脳の全てを支配した。
そうだ――。俺は薄々、感じていた。紗枝さんの攻撃は、俺の体に届いていない。紗枝さんは、自分の拳をほとんど強化していなかったのだ。少なくとも、殴った方の手が壊れるくらいにしか。
重傷の俺の体に響かないように。自分の拳を傷付けてまで。目を覚ませと。
その意味を理解していく度、取り戻していく体の痛み、心に響く痛み。
つまりこの戦いは、紗枝さんの不器用な――激励。
「ははっ。なに、それ……。分かりづらすぎ、だろ」
「……」
歪んだ視界で紗枝さんを見ると、その目はいつもの不機嫌そうな眼鏡さんに戻っていた。それを見たおかげで思い出した。俺が何故ここに来たのかを。
俺はそれを成す為に、今ここで進化の階段を一つだけ昇る事を決める。それは今の俺にとって、とても簡単な作業だった。
ドアのノブを回し、その部屋に一歩足を踏み入れるだけでいい。それだけで、すぐそこに見える。次の進化の段階、フェイズ3の領域が――。
「……っ……」
不思議と破壊衝動はない。フェイズ2を広げたおかげだろうか。この動機、感情が、それとは真逆であるからだろうか。
それよりも、なんだろう? 気を抜くと流されそうな感情が押し寄せてくる。
ここに来た理由。伝えなければいけない事。それらは言葉では言い表せそうに無い。言葉では嘘っぽくなってしまいそうだ。
だから使う。直接、伝える。そのイメージの全てをひとつに。今の俺にできるかどうかわからないけれど、この干渉能力で。
「っ……」
相変わらず見えない攻撃が俺を襲う。その度にダメージの無い激痛が走る。
このままでは伝えるどころか、触る事もできない。まず紗枝さんを目で捉えないといけない。その為に強化するべきは、認識力と動体視力。そしてその他の全てを犠牲にする。
「見え、がふっ!」
一瞬だけ捉えることに成功したが、当然ながら見えただけで反応できなかった。
反射速度が追いついたとしても、それをどうするかの処理速度は到底追いつかない。
「……こら、宗一。ちゃんと防御しろ」
耐久力を強化してないのが分かったのか、紗枝さんが俺を嗜めて来る。
ご明察。さっきのは本当に痛かった。インパクトの瞬間、紗枝さんが硬直したのが分かった。それがなければ死んでたかもしれん。
「へへ……イヤですね」
「死ぬぞ?」
「今の紗枝さんなら、それもいいですね」
「……バカが」
軽口を叩きながらひとつの作戦が浮かぶ。それは紗枝さんの優しさを利用する卑怯なやり方だったが、俺はもう見たくないんだ。これ以上あの拳が傷ついていくのは。
「こっちからも、行きます!」
作戦を実行する為、痛む体を引き摺って紗枝さんに向かって駆け出す。その間の耐久力の強化は皆無。これから初めての事をやるのに、そんな余裕は無いし必要も無い。
そして走りながらイメージし、同時にそれを行使し得るフェイズ3の領域まで広げていく。
「くっ!」
接近すると紗枝さんは狼狽する。そうなると分かっていた。つけこんだ、その優しさに。
そして逃げなかった。俺を振り切ることなんか造作も無いのに、そのまま迎え撃ってくる。そんなところも紗枝さんらしい。
スピードは威力に変換される。だから落とさないといけない。落とさないと俺を殺してしまう。もしくは深刻なダメージを与えてしまう。例え生身の拳でも、こっちも生身なんだ。
そして紗枝さんが、そんな事するわけがない!
「届けっ!」
その狼狽と、強化していない目でも捉えられる遅い拳の隙を付く。
防御なんか完全無視で突貫。紗枝さんの拳と俺の手が交差し、額に手が触れた瞬間発動する。
――干渉。
「ぐはっ!」
遅いと言っても全く防御していなかったので、不十分な体勢で喰らい弾き飛ばされてしまった。
「ど、どう……だ?」
無我夢中だったので成功したのかどうか分からない。干渉による抵抗があったのかもあやふやだ。
「あ……れ?」
もう激痛しか知覚していない思考の中、なんとか上体を起こして視線だけを向けると、紗枝さんが放心しているのが見えた。
これは……もしかして失敗した?
「ふっ、ふふ……くっくっく」
「え?」
紗枝さんは笑いながらおもむろに眼鏡を外し、後ろ頭に手を伸ばした。
髪留めから解かれた真っ直ぐな黒髪が、順々に降ろされていく。背中の中ごろまであるその長い黒髪は、朝日の逆光を受けて艶やかに映えていた。
そして恐らく、後にも先にも俺がこれを目にするのは、生涯一度だけであろうと確信させる、何の険もない紗枝さんの優しい表情。そんな希少すぎる彼女の一面が、今この時、俺にだけ向けられていた。
「お前、こんなものが見たかったのか? ……ふふ」
「は、はは……。はい……満足、しました」
よりによって今この場面でそんな事が伝わるとは、自分の頭の中を見てみたい。
やはりそんなにすぐには出来ないな。フェイズ3でそんな器用なまねはかなりの難易度なのだろう。
いやでも、あれは伝わったと言う紗枝さんの意思表示なのかもしれない。かなりプラス思考な考え方だが、そう思う事にしよう、うん。それに今の紗枝さんを見ると、それだけでもいいと満足できる。
体はもう動かせそうに無いけど、こういう時の礼儀はしっかりやらないといけない。別にお世辞でも社交辞令でもない、本当に心からそう思ったんだ。
「綺麗ですよ。紗枝さん」
「何言ってんだか、このアホは。ふふ」
その笑顔を見れただけでもう充分だ。これ以上望んだらバチが当たる。
それと、後ひとつ。もうひとつだけ、言う事がある。伝えたい事がある。
「……?」
いつの間にか誰かが俺を見下ろしていた。
俺は仰向けで動けない体勢のまま、彼女に釘付けになってしまう。
「ゆか……り」
縁が、そこに立っていた。俺はその冗談みたいな表情を見て呆気に取られてしまう。
少し心配そうにだが、優しげな微笑みを浮かべて俺を見下ろしている。全くいつもどおり。何も変わっていない。癒しパワー全開の縁。かわいい縁。恥かしがり屋な縁。たまに拗ねる縁。いつもの、縁。
ついさっきまで人を、殺してきた筈なのに。仲間が殺されてきた筈なのに。何でそんな顔ができるんだろう?
外見からは想像もつかない強さを、この子は持っているのかもしれない。俺がいつも甘えてしまうのも、この子が俺よりも遥かに強いからという単純な理由なんだ。
そして俺は、この場の誰よりも……弱い。
「……あ」
その表情のまま縁はしゃがみ込み、俺の右手を両手で包み込むように握ってくる。
その瞬間、激痛だけに支配されていた脳に、新たな試練が訪れる事になった。
「……ぅ……縁」
「はい」
……まずい。
「俺の目の前で……人が、死んだよ……」
「そうですか」
まずい。まずい。まずい。
「俺は……人を……っ……殺したよ……」
「そうですか」
抑えきれない。止まれ。止まってくれ。
「憎しみで、首を……捻じ切って……ぅく……」
「そうですか」
何人いると思ってんだよ? しかも全部女でこっちに大注目だぞ。ありえねぇだろ……。
それに、違うだろ。こんな事が言いたいんじゃない。そんな事の為にここに来たんじゃない。
「は、はは……いや、ちが……うんだ。俺また、自分の事……ばっかり」
そうだ。これじゃあ、あの時と同じじゃないか。その後悔を消す為に飛び出してきたんだ。
二人が無事と分かった今、俺に残された仕事はひとつだけ。
「俺、紗枝さんと、縁……に、言いたい事が……あってさ」
一言でいいんだ。それで耐えられる。この身勝手な悲しみから開放される。
「宗一君」
「……え?」
縁が悲しくない訳がない。紗枝さんが辛くない訳がない。制御しているんだ、二人とも。
「ただいま」
「っ」
それなのに、俺の心だけが図々しくも悲鳴を上げてんじゃねぇぞ!
「ちょ、こら。……先に言う、とか……反則だろ……っ……」
もう無理だった。一度始まった崩壊は止まらない。縁の顔も歪んで見えない。俺にできる事は、何とか持ち上げた左腕で顔全体を覆い隠すことだけだった。
暗くなった視界の隙間を縫って朝日が差し込んでくる。その僅かな光は今の俺にお似合いだった。だが、これ以上は眩し過ぎて立ち止まってしまう。少しだけの猶予を太陽に願い、息をひとつ吸う。
こんな情けない俺だけど、ひとつ前に進もうと思う。あの出撃の時より前に。……いや、この世界での初めての前に。
ほんの僅かな一歩だけど、かなりかっこわるい事になってるけど、自分で選択したこの世界での強さを手に入れよう。その為にも、やっぱりこの言葉を皆に言わなくてはいけないんだ。
『おかえり』