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2 : 8  作者: 松浦アエト
18/46

第18話 北日本防衛戦 選択


 感覚器官の全てが正常であることを拒絶する。

 ブロックノイズで彩られた世界。耳に届くここにはない砂塵。左腕から漂ってくる衝動を沸き立たせる匂い。肌を撫でる氷のように冷たい空気。

 立っているのか、座っているのか、泣いているのか、笑っているのか。自分のそれすらも捉えきれない。そしてそれら全てを些細な出来事のように捉えている脳。

 そんな俺は人間と言えるのか、それとも――なのか。


 体の異常、感じ取れる精神の失墜は、今この場では塵芥でしかなかった。

 俺にはやることがある。やらないといけない。やらないとその欲求で狂ってしまう。

 これは誰の為でもなく俺の為。だからやってもいい。やっても許してくれるだろう。やっても許せるはずだ。自分自身を――。


「……ふっ、ハッ、ハハ」


 強化した視力で目標を視認した瞬間、誰かの歪んだような笑い声が聞こえた。

 その欲望のままに足が動き出し、ノイズだらけの景色が猛スピードで後方に吹っ飛んでいく。


「ま、まって! いくな、宗一!」


 誰かの声が後ろから届く。何を言っているのか、誰が言っているのかわからない。

 でもひとつだけおかしな言葉を聞き取り、口元が釣り上がっていく。


「く、ははっ」


 待つ――? 何を――?

 

「こいつを、殺す事を――!?」


 半壊しているビルの壁に寄りかかっている赤目の心臓に左手を伸ばす。

 その瞬間ひとつの迷いが浮上してきた。このまま心臓を握り潰すなんて楽な殺し方で、果たしてこの欲望は満たせるのだろうか? 破壊衝動とはまた少し違った欲求。それは憎悪の産物であり、なによりも自分自身。


 もっと苦しめ。泣き叫べ。激痛の業火で焼かれろ。無残に、愚かに、惨めに。そして――死ね!


「?」


 その甘美な誘惑を振り切り、心臓を掴もうとした左手に違和感が走った。その違和感に少しだけの猶予を与え、赤目に蹴りを入れた勢いを利用して距離を取る。


「……」


 左手を見下ろすと、掴もうとした五本の指が一つ残らず通常とは逆を差していた。しかし何の痛みも感じない。痛覚がない。その事態を他人事のように視覚情報として処理する。

 過剰なアドレナリン分泌のせいなのか。精神の何かが壊れてしまったのか。それとも人の地から足を踏み外しているのか。


 不規則に差された左手の指を、骨の折れる感触を感じ取りながら右手で戻す。その間、目的遂行の為の思考だけが、唯一正常に機能する。


 俺は強化して左手を突き出した。フェイズ2の領域の大半を集中させた。鋼鉄を捻じ切れる握力だったはず。なのに、俺の手が壊れた。

 つまり……それほどの耐久力? 強化しか出来ない俺に勝ち目はない? 確か強化に特化した赤目は干渉に弱いはず。誰だったか、これを言っていたのは……? なら、フェイズ3に――。


 正答が出た所で瓦礫が崩れた音がした。目をやるとそれが体勢を立て直し、虚ろなその赤い目を俺に向けている。

 何かの能力なのか、それともフェイズの回復力促進の極地なのか。切断されている赤目の左腕の出血は既に止まっている。ほっといたら生えてきそうな回復力だ。

 そして激痛であるはずのその重傷で、赤目の表情はひとつの歪みも湛えていない。


「……強化で、やる」


 先程の正答を却下する。俺はまだフェイズ3の扉を開いていない。その領域に踏み出すということは、あの破壊衝動に身を委ねるという結果になりかねない。

 俺では無い誰かがこいつを殺す。そんな事は許せない。許せるはずが無い。


「俺が、お前を――殺すっ!」


 殺したい。殺さずにはいられない。殺さなければいけない。この俺の手で。

 でもその理由はなんだったか? その欲望はどこから来ているのか?

 もう、よくわからない。思い出せない。でも、そんなものどうでもいい。


 希うは只一つ――。


 お前の拳を潰し、右足を切断し、左半身をもぎ取り、上半身をこの世から無くし――。


 ――殺してやる。


「ぁぁぁああああああああ!!」


 地を蹴ると、左顔面にべっとりと付着した血が流れるまま口に吸い込まれた。

 その味は今の俺には全く感じ取れなかったが、より一層殺意が膨れ上がった。


「え――?」


 先に動き出した俺よりも速く、赤目は目前に居た。そしてその肥大した右腕を一気に振り下ろしてくる。


「ぐぅっ!」


 フェイズ領域の全てを瞬発力に費やし、横っ飛びで回避。そんな俺を追いかけるように、衝撃波と砕かれたアスファルトが飛散してくる。

 数十メートルは転がった体を立て直し、赤目の方向に目をやると、寸前まで俺が立っていた地面はミサイルの着弾地点のような巨大なクレーターが出来ていた。


「は? ……ハ、ハハッ、なんだ、そりゃ?」


 強化して振り下ろしただけの右腕。その馬鹿みたいな破壊力。人間とは思えない所業。

 あんなもの今の俺が喰らったら、あとかたもなく吹き飛ぶだろう。例え防御に全てを集中しても結果は変わらない。

 それで? その右腕で何を吹き飛ばした? その圧倒的な暴力を何に向けた?


「っ……あ、ああ……ハハ、ヒハは、ぁ、ああ」


 何かのイメージに気が狂いそうになりながら、正常に向かいながら、ひとつの事実に気付く。

 ――同じ強化なら、俺にできない道理は無い。


 そうだ。俺のフェイズは2-A。まだ伸びる余地は残されている。いや、無い場合もあるのか? 資質がなければそこで止まっても不思議ではない。でも、分かるんだ。まだ俺には未開の領域が残されている。どのくらいか把握はできないが、確かに感じ取れる。

 領域を広げ、集中し、そして――殺せ。


「ぅく!」


 目の前に接近してきた赤目の薙ぎ払いを、しゃがんで回避する。髪を掠めた右腕の拳圧が、耳に纏わりつく砂塵をより一層増幅させた。

 左腕が無い事で連撃にならない隙を付き、後ろに回りこむ事に成功する。その瞬間、暗視を始め、その他に使っていた領域を全て遮断。右手の人差し指一本に集中。

 2m50cmはあろうかという見上げるような背中。その中から心臓ただ一点に狙いを定め、一気に突き刺す。


「……っ」


 その行為で得られたのは、人差し指の第一関節までの埋没と骨折だった。


「ぐ、ぅぅうう」


 こんなものではこいつの命に届かない。もっと奥深くに差し込め。心臓を鷲掴み、一息も置かず握りつぶせ。


「――」


 何故だろうか、奇妙な確信がある。いや、これは既知しているとさえ言っていい。

 過信でも満身でも驕りでもない。あらかじめ俺の中で、顕然たる一つの事実として存在しているのだ。


 つまり俺は、この心臓に届くと知っている――。


 意識を凝らしてフェイズ2の領域を捉える。その闇の領域に光を当て、進み、掌握する。

 通常の過程を加速させる急激な進化が、少しだけの破壊衝動を湧き上がらせてくる。しかしその全ては浮かび上がった直後、憎悪と殺意の圧倒的な自己の欲求により洗い流されていった。


「が、あぁぁ、ああああああああああああああ!!」


 徐々に指を埋没させる事に成功していく。五指の全てが心臓を抉り取る行為に没頭する。

 感じる。領域が広がっている事を。そして、まだ続いている。未踏の地が――。


「――ぁぐっ!?」


 赤目の振り払うような蹴りの直撃を喰らい、ガラスを突き破りビル内に吹き飛ばされる。


「ガハッ!」


 ビル内の壁に叩き付けられ、体の摂理により空気が排出される。

 咄嗟に領域を集中して防御したおかげで、胴体はまだ繋がっている。その犠牲になった左腕はもう動きそうに無い。ガラスで切ったのか全身血だらけになっていた。領域の集中で左腕以外ガタ落ちになった耐久力のせいだろう。

 そして、相変わらず何の痛みも感じない。


 ひとつ分かった事があった。他の攻撃の威力は、あの右腕より大分落ちるようだ。とは言っても、全力で防御してこの様だが。


「く、くく、はは……くははははは」


 壁に体を寄りかからせて、目線を下に落とす。第二関節まで血で染まっている右手の五指を見ると、笑いが込み上げて来る。さっきまで紙の様に薄かった可能性が、もう手を握り込めば掴めそうだった。

 その事実が嬉しくて堪らない。そして、悲しくて堪らない。



 お前を、殺せる――。



◆◆◆◆◆◆



 護衛隊隊長、高瀬由梨はテント内での休息中、野外から聞こえてきた声に異常を感じ取る。


「!?」


 戦闘態勢を取りテントの幕をくぐると、そこには彼女が経験した事のある前線となんら変わりない光景が広がっていた。辺りは予期せぬ敵の襲来に騒然としている。

 その惨状の中心で、有原涼子の狼狽した姿を発見する。


「どうした! ……っ」


 駆け寄ると鮮明に映し出される血と散乱した臓器に顔を歪めたが、瞬時に冷静さを取り戻して大まかな状況を把握。

 狼狽した表情のまま、どこかに駆け出そうとしている有原涼子の肩を掴んで制止する。


「たい、ちょう……」

「有原、どこへ行く?」

「そ、宗一が……ぁぁ……私のせいで……都が……」


 完全に冷静さを失っている虚ろな目を見て、頬を叩く。


「……あ」

「落ち着け。赤目は何体? 辰巳宗一はどこへ行った?」

「……はい」


 高瀬由梨はその情報を分析する。

 赤目は一体。辰巳宗一はそれを追いかけた。そしてここにはまだ生存者がいる。その情報で優先順位を決め、判断を下す。


「有原、生存者を医療部隊のテントへ運べ。辰巳宗一は私が追う。いいね?」

「……分かり、ました」

「それが終われば警報を鳴らして赤目襲来を伝えろ。そして護衛隊全員で周囲を警戒させろ。その際、監視の範囲を狭めて単独にならないようお前が指示しろ。医療部隊の方はレイストローム基地長が指示してくれるだろう」

「はい」

「それと、二人こっちに回せ。お前は負傷してるからダメだ」

「……はい」


 その返事を聞いた瞬間、高瀬由梨はフェイズを行使して駆け出す。それと同時に、遠視と暗視を行使した視界に赤目と辰巳宗一を捉える。


「え!?」


 僅かな月明かりの下、確認できるその光景に高瀬由梨は混乱してしまう。

 辰巳宗一が赤目の背後に回り込み、心臓に向かって指を差し込んでいるのだ。

 有原涼子から得た情報、フェイズ4であろうという耐久力特化の赤目に対し、フェイズ2-Aの辰巳宗一がその耐久力を貫くという通常ではありえない状況になっている。


 次の瞬間、辰巳宗一が赤目の蹴りを喰らい、人形のようにビル内に吹き飛ばされる。

 高瀬由梨は一瞬、確実に死んだと判断したが、彼は吹き飛ばされる最中も全く赤目から目を逸らしていないことを視認していた。

 あの憎悪と殺意で彩られた目は、まるで人間ではないようだった。そしてそれは、まだ生きている可能性があると彼女は判断した。


 高瀬由梨はホルスターからリボルバー式の銃を取り出す。

 弾倉を開け、すでに込められている弾丸をなぞるようにして指を当てていく。その行為で得られたのは弾丸の強化。リロードを終えたかのように弾倉を閉じ狙いを定める。


 狙いながらダブルアクション式のその銃自体を強化する。薬莢に込められた火薬は、通常なら銃身を破壊してしまう量に達している。それに耐え得る銃身、そして強化した弾丸を弾くだけの撃鉄を作り上げ、長身のライフル弾すら遥かに上回る貫通力を実現する。

 その行程が完了し終えた瞬間、なんの迷いも無く眉間に向けて撃ち放つ。


「……やっぱり」


 希望的観測が消え失せる事実を見せ付けられ、高瀬由梨はひとつ溜息をついた。

 続けて三発、射出された弾丸の内、一発は額に命中。しかし結果は皮膚を少し削り取っただけに過ぎなかった。残るニ発は斜線に割り込んできた赤目の肥大した右腕に弾かれてしまい、それはなんの被害も与える事が出来なかった。


 もともと高瀬由梨は金属の強化に特化している訳ではないが、得意分野ではあった。

 この攻撃は相手の耐久力を計る為の確認。そして辰巳宗一が本当に2-Aの実力であるならば、これで即死には届かないまでも幾分かのダメージを与えられていた。


「ほんと。……変な奴だね!」


 目論見通り赤目の標的に摩り替わった高瀬由梨は、瞬時に接近してきた右腕の脅威を回避する。それは紙一重と呼べるものに相当した。


「ぐ……ぅく……」


 反射速度と瞬発力にフェイズ領域を割り振り、右腕の猛威をなんとか避け続けるが、高瀬由梨にはなんの余裕もなかった。避け切れていない服と皮膚の一部が削ぎ取られていく。

 もし赤目の左腕が健在なら、彼女は既に肉塊と化しているだろう。しかしそれは相性の問題であり、同じフェイズ4でも土俵が違っている事を意味している。彼女自身の土俵、それに上がらせれば形勢は一気に逆転する。


「ふっ!」


 連撃の中のひとつを選び、回避した瞬間それを実行に移す。


「――――」


 赤目の動きがピタリと停止する。

 それを成し得たのは、腹部に添えられているだけの高瀬由梨の右手。それが彼女のフェイズ4の能力、干渉による対象者の完全停止である。

 その間わずか三秒と短い時間だが、秒にも満たず生死が分かれる戦場では強力な武器となる。部分的にならその効果時間はさらに延びる。

 しかし、対象者の体に直接触れないと発動できないという制約も持っているし、同じだけの力をぶつけられると効果は短縮、もしくは相殺される。


「くらえっ!」


 その致命的な隙を付き、強化に特化した対象者の弱点である他者干渉を実行する。ここで高瀬由梨の慎重さが発揮される。

 一撃即死を狙わず赤目の凶器である右腕を標的にし、肉体への直接干渉を行使する。神経、筋肉、それに付随する血管全てを内部から破壊する。


「ハァ、ハァ……ど、どうだ?」


 赤目から距離を取り、疲労した体で確認する。彼女の手応えでは干渉による抵抗感があった。

 フェイズ4の領域を使い、さらに他者干渉で攻撃するのは当然威力が落ちる結果を招く。だが赤目の猛威の最中、攻撃だけに集中するのは綱渡りのような行為。まずは動きを止める事を優先させ、万一、抵抗力が強かった場合の保険に即死は狙わず右腕を破壊した。

 脳や心臓を完全に破壊できない場合、時間の猶予は無くなり、この機が無為に終わる可能性がある。その分、右手なら破壊できないまでも攻撃力が落ちるという計算だった。


「……効いたようだね」


 完全に破壊とまではいかなかったが、赤目の右腕はもう上がらない。後は脳を内部から破壊すれば終わり。……そのはずだった。


「!?」


 少しの油断が招いた体の硬直。赤目の垂れ下がった右腕が振り上げられ、近付いた高瀬由梨を肉塊にせんと迫る。

 神経だけは繋ぎ止めた結果なのか、回復力の高さなのか、抵抗力が思った以上だったのか、彼女には分からなかったが、迫るその右腕は万全ではないことが窺えた。

 彼女は避けきれない事と、通常より低い威力である事を一瞬で悟り、自己強化に全てを割り振り防御体勢を取る。


「……なっ」


 その瞬間、高瀬由梨は視認した光景に目を疑った。

 衝撃に備えた体勢は、不意の介入者によって役割を奪われる結果になっていた。



 赤目の喉に深々と突き刺された貫き手。

 介入して来た男の尋常ではない様相。

 赤目しか捉えていない狂気に染まった瞳。

 嬉しそうに醜く歪んだ口元。



 ――辰巳宗一。



◆◆◆◆◆◆



 また、見るところだった。

 ……また? ……何を?


「……ぁあ、ヒ……ハハ……あ、あ、あああああああ!!」


 脳内に浮かび上がってくるイメージを振り切り、飛び掛った勢いを利用してその巨体を倒す。

 マウントポジションから一点強化した右手を喉に差し込んでいく。その際、頚動脈から吹き出す大量の血が少し煩わしいと、愛しいと、可哀想と、気持ち良いと、感じた。


「――ガ――ッ――」


 声帯や痛覚が無いと思っていた赤目の喉から、待ち焦がれた奇声が聞こえてくる。それは声ではなく、体の構造上仕方なく奏でられるなんでもない音なのかもしれない。


「……ハ、ハハ、……ヒハハ…………アハハハハハハハハハハハハハッッ!!」


 しかしその音色は、脳を直接刺激する心地よい旋律のように聞こえ、俺にこの上ない快楽をもたらす事になった。

 狂ってしまいそうな程の充足感。自慰行為など比較にならない絶頂感。それをもっと味わいたい、喰らい尽くしたいと湧き上がってくる飢餓感。

 しかし不可解にも、目の前の人間の生殺与奪を手にした瞬間、思考に不純物が混じってくる。


「!?」


 俺の一瞬の躊躇を赤目は見逃さず、息も絶え絶えに右腕を俺に向けて伸ばしてくる。しかしその腕は、寸前で停止するという奇怪な現象を見せていた。


「……――せ」


 目をやると女が赤目の右腕に手を添えていた。誰か分からないそれが俺に何かを望んだ。


「――!」

「早くっ! ――せ!」


 いつの間にかこの場に増えていた女達も、俺に同じことを望んだ。


「お前が、できないなら……」


 傍に立っていた女が、赤目の頭部に手を伸ばしていく。

 何をしているんだ? それはもしかして、俺がこれからやろうとしていることなのか? 俺がこいつを――さないといけないのに、何の権利があって、お前がそれをやろうとする?

 でも、何故だろう。こんなにもそれをしたいのに、したくないと誰かが囁く。思考がどうにも上手くまとまらない。もう考えるのも億劫だ。


 大体そんなこと、どうでもいいじゃないか。俺が食べる牛を殺すのは俺じゃない。それ専門の人の仕事だから、俺には関係ない。俺は――してない。そんなことを考えながら食事をしては、うまい飯もまずくなる。

 だからこの軍人の女が手を汚せばいい。俺の手は綺麗なまま。こいつが死ぬという結果に変わりはない。もうそんなくだらない事で悩まなくて済むし、俺はその結果をうまいうまいと言って食えばいい。いつもどおりだ。いつもどおりの俺の世界だ。


 でも……それでいいのか? このまま失っても。俺自身の望みを。


 殺人を――。


「――あ」


 まとまらない思考で視線を彷徨わせていると、唯一見知った顔を発見した。

 月明かりの中、金髪碧眼の女性が俺を静かに見ている。その口からはいつものような小気味良い旋律は紡がれない。真っ直ぐ俺の目を見ている。

 殺せとも、殺すなとも言わない。何も、言ってくれない。いつもはあんなに優しいのに。俺に逃げ道を用意してくれない。それだけは許さないと語っているように、その碧眼から感情の機微が読み取れた。


「あ……ぁ、あ……」


 見下ろすと赤い目と視線が交差する。

 喉に差し込んでいる右手の感触は、もう堅い物すら捉えていた。

 そのまま握り込み、捻じ切ればいい。

 それだけで終わり、そして始まる。二つの世界が。


 俺と赤目の視線は交わり続ける。逸らせない。逸らしてくれない。

 上から見下ろす一人の弱い人間の目。下から見上げる何の感情も孕んでいない人間の目。

 今から殺す恐怖を湛えた目。今から殺される恐怖が絶無の目。

 何かを望む目。何も望まない目。

 相対する人間の形。



 ――やめろ!



「……ぁ、あ」


 邪魔をする。何者かが。

 もしかすると邪魔をしているのは俺なのかもしれない。あいつが正しくて俺が間違っているのかもしれない。

 でもそうであるならば、この持て余した欲求は何処へ向ければ良いんだ? この五感全体を覆うノイズを晴らす方法はあるのか? この死にたくなる程の悲しさは、いつか風化してくれるのだろうか?



 ――殺すな!



「ぐ……ぁぁ……あ……」


 目の前の人間が殺されるのを見届けるのか、自分で殺すのか。そのどちらが是であるか非であるか分からない。

 唯一不変である現実は、こいつに死を与えるという事。そして、選ばなければいけない。

 是非がどちらであろうと、どちらでもなかろうと。



 ――――俺の、世界を。



「……ぁ……あ、ああ…………っっぁぁああああああああああああああ!!」


 存在の選択を完了するまで、その赤い目と交差した視線が解かれる事はなかった。


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