第17話 北日本防衛戦 遭遇
防衛戦三日目、正午――。
「……グ、ゲ……エエェェ……」
「大丈夫ですか? 宗一さん」
嘔吐している俺の背を擦りながら、立川が心配してくる。気分が悪すぎて、それに返答することもできない。
初日、二日目と違い、今日は医療部隊に怪我人がひっきりなしに運ばれてきていた。俺はその凄惨な光景を、余す事なく直視してしまった。吐きながら見下ろす服は、怪我人運搬の際付着した血の色に染まっている。
四肢がひとつふたつ無いのは当たり前。内臓が見えているのも当たり前。削ぎ取られた皮膚の断面。パーツが足りない顔面。充満する血の匂い。フェイズでの生命維持の為、意識を断つことを許されない激痛の悲鳴。殺してくれと叫ぶ、狂ったような懇願。すぐそこにある――死。
そして前線から帰って来た女性達の俺を見る目。その全ては殺意に染まっていた。その衝動を実際に向けられた事もあった。彼女らの頭にはもう男を殺す事しかない。血を吐きながら襲い掛かってくる女性。初めて向けられた明確な殺意。死への恐怖。そのリアルさ。
「くそっ!」
まだ嘔吐を強要してくる胃を無視して壁を殴る。その動機の大半は、自分への苛立ちだった。
甘かった。戦場に来る事がどういう事なのか、頭で分かっているだけだった。そんなもの何の役にも立たない。生ぬるい妄想は現実には届かない。絶望的に。
「大丈夫?」
「あ、アリサさん。はい、なんとか……うぷ」
気付けばアリサさんがすぐ傍に立っていた。
「はぁ……。全然ダメじゃない。ほら、こっち向いて」
アリサさんは呆れながら手を俺の額に伸ばしてくる。何をしようとしているのかすぐ理解した俺はその手を掴んだ。
「え? ちょっと宗一君」
「いいです。……大丈夫ですから」
思いっきりやせ我慢だけど、ここで頼るわけにいかない。
自分でこの場に来たんだ。自分で何とかしないと。
「あのねぇ……。その心意気は立派だけど、そういうのは我慢しちゃダメなのよ?」
「いえ。すぐに慣れますよ。……多分」
「もぅ、じゃあ辛くなったら来なさい。……ほんと男って分からないわ~」
そうぼやきながら? アリサさんは去っていった。
「ありがとな、立川」
「いえいえ。最近の宗一さんは素直で可愛いですねー。よしよしして良いですか?」
「……ああ」
「はぁ……。やっぱり心配です」
今は立川の悪ノリについていけない。帰ったらしっかりイジめてやる。
『第一防衛線の状況は良好。遊撃隊は打ち漏らしの討伐を続行中。第二防衛線から遊撃隊への増援を要請する。第三防衛線は戦線を20km前進。赤目旅団の1/3は逃亡を開始。状況は優勢』
度々入る通信機からの戦況を聞いて、少し心が軽くなる。
前線から運ばれてくる怪我人に、紗枝さんや縁は今のところいない。
「よし……。じゃあ行くか。俺達も頑張らないとな!」
「はい。行きましょう!」
「……その前に。トイレいいか?」
「…………」
締まらない俺だった。
◇◇◇◇◇◇
防衛戦四日目、23:00――。
テントから少し離れた野外。俺は月明かりと拠点を覆う僅かばかりの照明の下で休憩中。
あまり役に立ててない事に溜息をつきながら、お茶を片手に『2064年』の夜空を見上げていた。
『全赤目旅団の逃亡開始を確認。追撃は不要。全防衛軍は残党狩りに移行せよ』
その一報に、周囲から歓声が沸いた。
「え……? 勝った、のか?」
「そうよ」
「やりましたね」
休憩時間を共にしていた有原と立川が嬉しそうに言う。
「え、圧勝って感じじゃん。そんな風に言ってなかったのに」
「あれはまともにぶつかればって意味。大体の赤目の集団は、戦況が悪くなったら逃げてくの」
「そう、なのか?」
嬉しい知らせの筈が素直に喜べなかった。
旅団規模という少数で、さらに本気で攻めてきていない? そしてそれを全力で防衛する人間?
「そっか。……やったな」
湧き上がる疑問を振り切り、少しだけの笑顔を浮かべて頭を切り替える。
「私、お茶配ってくる」
有原がうきうきとヤカンを手に駆けて行く。
「まぁ、涼子ちゃん嬉しそうね」
「……そうだな」
そうだ。今は喜ぶべき時なんだ。紗枝さんと縁もきっと無事のはずだ。
今は暗い事を考えるべきじゃない。たとえそれが、現実だとしても。
「辰巳くーーーん」
「ん?」
「ちょっとこっちに来て~」
声の方に振り返ると、照明の下で多田さんが手を振っているのが見える。
なんだろう? と思い、腰を上げ…………れない。
「…………こら。はなさんかい」
「浮気はダメですよ。……あの人は外ですから」
「何言ってんのか分からんけど、俺に浮気という行為が該当しない事だけは確かだ」
「まさか今フリーのつもりですか!?」
「いつ違ったんだよ!?」
食い下がる立川を押しやって、多田さんの元に向かう。立川もいつもの調子を取り戻してるみたいだ。
多田さんのもとに駆け寄ると、その隣には嫌悪感を隠しもしない西川さんがいた。
さぁ回れ右しようかなと決断しかけた時、多田さんに手を引っ張られて、簡易式の椅子に座らされる。
「いらっしゃい。防衛戦も勝利した事だし、何かお喋りしようよ」
「……えっと」
差し出されたお茶を受け取りつつ、戦況に目を向ける。
俺の前方左手にほんわかニコニコ顔の多田さん。前方右手に視線だけで俺を射殺そうと奮闘している西川さん。……この相対性、アインシュタイン先生ならどうしますか?
「あれ~、何か顔色悪いよ? そっか、戦場は初めてだもんね」
「え、まぁ、そうなんですかね。……ハハ」
それもあるけど、今はメッチャ睨んでくる人が要因です。
「そうだ」
多田さんが何かを発案したらしく、西川さんに耳打ちしだす。
「はぁ!? なんで私がそんな事! というかこいつどっかやれ、気色悪い!」
「お願い美佐~。そんなこと言わないで?」
「うっ、い、嫌だ! 触りたくない! 手が腐って落ちる!」
「お~ね~が~い~~」
何か身の危険を感じ出した俺。この世界に来てからこの勘は良く当たる。
そして現在、男殺し隊隊長が劣勢。何かよく分からないけど、多田さんマジ強引。……あ、負けた。
「ちっ、分かったよ。……おい、動くなよ」
「へ? ……うっ」
さっぱり状況が理解できないまま呆けていると、西川さんが人差し指をピッと俺の額に当ててきた。
「あ……」
これは……干渉?
西川さんの指から伝わってくるイメージは、アリサさんのようにハッキリはしていない。しかし、意識がふわふわと浮遊していくような感覚。抑えていた感情を増大させられていく。
なんの柵もなくなったかのような素直な心。破壊的な欲求とは真逆の暖かな感情。それら全てが表面化されていくような……。
「ちょ、ちょっと待った!」
急いで頭を引いて退避する。
これはやばい。既に目が潤んでいる。
「人が折角やっているのになんだその態度は。死ね、クズが」
一気に乾いた……。
「えと。……今のは?」
「美佐の精神干渉よ。リラクゼーション効果があるの。これでもフェイズ4-Aだからね」
「へぇ~、アリサさんじゃなくてもできるんですね」
「そりゃレイストローム基地長のように精神治療なんて神業はできないけど、美佐もすごいのよー。あっ、ちなみに私は外科の方が得意なの」
まるで自分の事のように顔を綻ばす多田さん。隣では西川さんが手をフキフキしている。それは精神に悪くないのだろうか? 俺的な意味で。
「精神的な疲労は溜めちゃダメなのよ? いつか爆発するんだから。ね、美佐」
「お前は肉体が爆発すればいい」
ひでぇ……。さっきのが帳消しになっていまいそうだ。
しかし、本当に効いた。少しだが胸の暗雲が晴れたみたいだ。西川さんに感謝しないとな。
「あの……」
「男の礼なんかいらんぞ死ね」
瞬殺された。「あ」と「の」の間くらいに割って入ってきやがった。
「……聞きたい事があるんですが。いいですか?」
「うんうん、お喋りだもん。何でも聞いてね」
気を取り直して俺から話を振る。
以前、遼平にもした質問。この世界の常識になっている社会問題。
男への嫌悪が比較的薄い俺の知り合い関係では、もう聞けなくなってしまった。本当に嫌悪している人は、男である俺には心の内を語ってはくれない。今まさに憎んでいる人の正直な心情が知りたかった。
この二人なら、特に西川さんの言葉を引き出したい。
「男は、嫌いですか?」
「……」
そう言うと、二人ともが呆気にとられたような表情になる。
だがこういうリアクションが来るのは、なんとなく予想できていた。俺はこの世界の常識を聞いているんだ。
「え~、辰巳君どうしたの急に。何かのなぞなぞ?」
「……ぷっ、くく。……お前、変わった奴だな……ふふ」
俺の想像以上に、西川さんの笑顔は素敵で可憐だった。
「あっ、でもその質問どこかで聞いたことがあるね」
「ああ、あるな。……くく」
「?」
何の事か分からなかったが、今は質問の方が大事だ。そのまま二人の目をしっかり見据える。
俺の真剣な雰囲気を感じ取ったのか、西川さんは態度を改め、吐き捨てるように言った。
「ああ、そうだな。殺してやりたいほどにな」
「そう、ですか……」
西川さんの花のような微笑みは消え失せ、憎悪を内包している表情に様変わりする。
「私は親兄弟、全ての血縁を赤目に殺されている。医療部隊に入る前は前線にいたからな、仲間も数え切れないほど殺された。親友も、恩人も、友人も、知人も、ほとんど死んでしまった。……私の目の前でな」
「でも、それは……」
「操られているから、とでも言いたいのか? どこかの宗教団体の思想、いや、一般的にもよく聞く文句だな。操られているから悪くない、操られていない男は関係ないから平等に扱えってな。……そうだな、お前の家族や恋人が赤目に殺されたら、もう一度その質問をしに来ればいい。その時に私も、もう一度答えよう」
これ以上、西川さんに言えることは何もなくなってしまった。
その気持ちは分かるけれど、なんて口が裂けても言えない。
「多田さんも、ですか?」
「私は、そうね……あまりそういうのはないかな。ずっと医療部隊で後方だったから赤目と遭遇したことないの。だから友人を殺されたりはしてないし、普通の男性とは数えるくらいしか話した事も無いし……。あっ、お父さんは除いてね」
「じゃあ嫌いではないんですか?」
「……う~ん。そうでも、ないかな」
一瞬、雲間から光りが差したように感じたが、どうやらそんなに甘くないようだった。
「今の時代、普通の男性にとって女性は暴君でしかないからね。辰巳君には全然感じないけど、普通の男性なら女性に脅えや妬み、僻みを持っていて当たり前だと思う。私はそんな人達と話すのは嫌、かな……ってすごい勝手だよね~」
「……いえ」
俺もこの世界では、あの五人以外と話すのはハッキリ言って嫌だ。その中の二人は未だに微妙だが。
西川さんの言葉も、多田さんの言葉も、俺には肯定も否定できそうにない。ここでもう行き止まりだ。
「話してくれて、ありがとうございました」
俺は椅子に腰掛けた状態で頭を下げる。
「そんな、お礼を言われるほどじゃないよ」
「……ほんと変わった奴だな」
その人の内面に深く関わる質問を、この二人は正直に答えてくれた。
男性、女性なんて今は関係ない。ここで礼を言わない人間にはなりたくない。
「あ」
「え? うわっ」
頭を下げていると、前方から聞こえてきた水音と共に俺の左腕、いや、左半身がビッショリと濡れてしまう。
おそらくお茶を零したんだろうと思ったが、コップに入る量とは思えないほど多く、水滴が左腕から滴り落ちている。
「……え?」
顔を上げると二人がいない? ……いや、居る。
照明に映し出された人影が伸びている。座ってる俺を見下ろしている。
……え?
――『男』
男……? なんでこんな所に? たしか軍部に男は俺だけだったよな。
多田さんと西川さんは? ついさっきまで目の前に座っていたのに、どこにいったんだ? お茶で左腕が濡れてる? なんか……温い。
てか、この人でけぇ。2m30? いや、50? 体つきが人間じゃないみたいだ。
鋼鉄のような肥大しすぎた筋肉。体全体を覆う体毛。そして変形した腕。……腕……なのか? 右手は丸太を三本まとめたように太いし、血管が蛇のように走り蠢いている。そしてその右手は何かを払ったような形で、中空に停止している。……何かを払った? 殴った? 薙いだ? 一体、何を?
左手は……え、なんだそれ? 剣でも持っているのか? いや、手の平すらないぞ。剣を直接、埋め込んでいるかのようだ。……それを振り上げて、どうするんだ? 何か切るのか? でも一体、何を?
そんな事よりも、なんで裸なんだ? 恥ずかしくないのか? 男性の象徴である生殖器が無いんだけど、どうしたんだ? 去勢したのか? いらなくなったとでも言うのか?
それは退化? それとも進化? フェイズは進化だったか、退化だったか……。
実は女なのか? ……いや、どう見ても男。絶対、男。間違いなく男だ。
あと一番異質なのはその目だ。瞳孔以外が真紅に染まっている。赤と黒。黒と赤。その目で俺を見てる。見下ろしてる。でも、なんだろう? 何か虚ろだ。俺を見てる、見てない、どっち?
こんな目を見たのは初めてだ。こんな、赤い目を。……赤い、目……赤い……赤――。
――『赤目』
「えっ!?」
不意に右からの衝撃を受けて、俺は座っていた椅子から弾き飛ばされてしまう。その事態を脳でスローモーションの様に処理しながら、状況に追いつけない頭を回転させる。
赤目? これが赤目? 敵? こんな所に? 俺は押された? 多田さんと西川さんは?
地面に倒れ込み、振り返った瞬間、世界が染まった――。
――手から血を流し、苦悶の表情を浮かべている有原。
「え? ……は?」
――左腕から滴り落ちる赤い液体の匂い。
「……ひっ……あ、ああ……」
――うつ伏せに倒れている、右足の無い立川。
「ハッ……あ……ヒハッ」
――散乱している何かの臓器。
「ハッ……ハッ、ハッハァ……ハヒッ、ハッ……」
――離れた場所に倒れている、左半身が潰れた多田さん。
「ハ、ハは、ヒ、……ヒハッ、ひあ、あっ、アアあ、ぁぁあああああ」
椅子に座っている――――上半身の無い――――――――下半身。
「――――っっぅうわぁぁぁあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
◆◆◆◆◆◆
「……?」
最初に振り返ったのは立川都だった。
耳に届いた微かな風切り音と、コップの水を返してしまったような音。それはそのまま無視してもなんの問題もない小さな違和感だった。しかしこの瞬間、その微かな違和感に身を委ねた事を、無神論者であるはずの立川都も神に感謝せざるを得なかった。
後に思い返す度に身が竦み、体が震える。もしこの瞬間、振り返っていなかったら?
目を向けて捉えた光景に立川都は瞬間、混乱してしまう。
思考は冷静さを保てず、疑問符ばかりを浮かび上がらせてくる。
(赤目? 宗一さん? 死? 監視は? 誰かの足? 誰か倒れてる? 一体どこから?)
しかし一つ目の疑問が浮かび上がる前に体は反応していた。
フェイズを瞬時に全開にして地を蹴る。フェイズ2の自己強化能力を使い脚力を、すなわち瞬発力に全ての領域を注ぎ込む。
秒にも満たないその間際、思考は行動に追い付けず、未だ新たな疑問を湧き上がらせてくる。
その全ての疑問は赤目の次の行動により全て霧散することになった。
スローモーションの様に振り上げられる進化した左腕。その進化で求めたであろう結果は、人間を斬殺する事だと容易に想像がついた。恐らく手首であろう部分から伸びる骨は、手の平の形状を無視し、恐ろしく鋭い刃のように1m以上の進化を遂げている。
その刃が振り下ろされるであろう場所に、無防備な辰巳宗一の姿があった。
(殺される! 助けなきゃ! 距離は? 間に合う? 宗一さんが、死ぬ? 死――?)
赤目の明確な殺意により混乱は無くなり、高速で回転する思考。
走りながら懐に忍ばせている短刀を握る。フェイズ3の干渉で強化しつつ、短刀を投擲する間際に新たな疑問。
(もし外したら死? 赤目がそれで止まらなかったら死? 脳を貫いても左手を振り下ろしたら死? 左手を切断できなかったら死? 赤目の耐久力が私の切断力を上回れば確実な――死?)
フェイズ領域の大半を瞬発力に割きながら、手にした短刀の強化では充分な切断力を得られない。そして手から離してしまう投擲という行為もその限りだった。それらは自身の切断力を疑う結果になってしまう。しかし立川都の切断力は、その二つのマイナス要素を含んで尚、鋼鉄をも貫通させる鋭さを持っている。
結果論から言えば、ここで投擲という安易な行動に走らなかったのは最良の選択と言えた。この刹那の瞬間、その行動によって失う時間は致命的だった。
鋼鉄をも貫通させる鋭さを持って尚、切断できない赤目が存在する。その可能性を実戦で経験している立川都の判断力は値千金と言えた。しかしその冷静さは、立川都本人にある選択を突きつける結果になってしまう。
(間に合わない!? 振り下ろされるまでコンマ何秒? 死ぬ? 宗一さんが? 助ける? 私が命を賭して? 『壁』の内側? 涼子ちゃんだけ? 見捨てる? 助ける? 彼は?)
自分の命を賭ける人物は、もうこの世に有原涼子唯一人。辰巳宗一はその中には入っていない。
通常の立川都なら赤目の攻撃で出来た隙を狙い、首を撥ねて終わりだった。つまり見捨てるという選択を取るのが立川都の常識。そこに躊躇いなど一切生じない。
「ぐぅっ!」
しかし気付けば、辰巳宗一を死地から引き上げていた。その代償として右足を持って行かれてしまう。跳躍し、左手で辰巳宗一を突き飛ばした結果、死地に迷い込んだのは立川都本人に摩り替わる。
瞬発力に全てを費やした結果、耐久力は常人と変わりないほど落ちていた。いや、もともと耐久力強化を苦手とする立川都が、ここで強化された赤目の刃を受け止める事は不可能だっただろう。
「っ!」
右足を切断される感触に脳を焦がしながらも、右手で添えていた日本刀を抜刀する。
狙いは赤目の胴体から、振り下ろされた左手までの全切断。
「っっぁあああ!!」
フェイズ3の領域。武器干渉強化を限界まで開放し、抜刀そのままの勢いで左下段から右中段へ切り上げる。
防御の事など一切、頭に無い。ここで殺さないと二人とも死ぬ。確実に死ぬ。――死。
「!?」
しかし結果は左腕の切断のみになってしまう。胴体にはわずかに届かずリーチが不足していた。
目算を誤ってしまうという本人すら考えられないミスを犯し、立川都は愕然とした。しかしそれは、四肢のひとつを切断された激痛、不十分な体勢からの斬撃、右足喪失によるバランス感覚の欠如。それらのマイナス要素を孕んだものであり、至極当然の結果だった。
振りぬいた日本刀が折れる感触を感じ取りながら、立川都の胸中は諦めと謝罪で満たされていた。
◆◆◆◆◆◆
次に振り向いたのは有原涼子だった。
休憩中、お茶係りを勤めていた有原涼子は、コップに水を注ぎながら乾いた音の方に目をやった。
それは親友、立川都が駆け出した音だった。視線は意識せずとも、その目的地に向けられる事になる。
「!?」
視認した瞬間、手に持っていたヤカンを放り投げて駆け出す。
(なんで? 監視は? 誰かの足? 誰か倒れてる? 宗一!? 殺される!? 都!)
立川都と同じような疑問を抱きながら、全てのフェイズ領域を瞬発力に費やしていく。
有原涼子は駆けながら自分の行動に疑問を感じていた。今、殺されそうなのは、あんなにも忌み嫌っていた男。自分自身が殺したいとさえ思う男。それを助けに行く自分。助けたいと思っている自分。
どれも以前では考えられなかった感情に戸惑う。
(私は『宗一』に! 死んで欲しくない!)
男ではなく個人を指す名詞に置き換えると、頭の中はスッキリとした。
その瞬間、有原涼子に迷いは一切無くなり、この状況を切り抜ける為の思考を回転させていく。
(都!?)
駆けて行く途中、目の前の状況が激変した。立川都の右足と、赤目の左腕が切断されて宙を舞う。
精神的脆さのある有原涼子はその光景で一瞬冷静さを欠いてしまう。しかし立川都の振りぬいた日本刀が折れてしまった事実に、頭に冷や水をかけられる事となった。
立川都が持っている武器が折れてしまうのは、珍しい事ではなかった。有原涼子もこれまで何度も目撃している。しかしそれらは攻撃を受け止めるなどの、武器の耐久力を必要とされる場面がほとんどだった。
「物質なら切れないものが分からない」と言う立川都の切断という攻撃に対し、赤目は一体どれほどの耐久力を持てば、左腕一本の犠牲で日本刀を折れたのだろうと戦慄する。
(攻撃は干渉が有効か? でも一撃で即死以外ない。近くに都と宗一がいる)
自己強化に特化しているあの赤目は、他者への干渉に弱いと判断。
だがその正答はこの状況には相応しくなかった。もしこれから繰り出す干渉攻撃で、相手を即死に至らしめれなかった場合、無防備な二人に確実に牙が及ぶ。
今、必要なのは安全圏であると、有原涼子は咄嗟に英断した。
「ふっっっとべええええええええ!!」
右手に全てのフェイズ領域を集中。
強化するポイントは耐久力を筆頭に、人間に似つかわしくない巨体を弾き飛ばせるだけのパワーとスピード。そしてその衝撃を伝えやすいよう、狙いを体の支点である水月に定める。
有原涼子の本領は自己強化にある。フェイズ3の干渉で、武器を強化するには不向きな能力者。
干渉もある一点に置いては優秀な使い手である事も確かだが、他者への干渉で相手を即死させるのは相当な使い手、つまり特化型の能力者のみである。
自己強化に全てを費やした右拳を突き出す瞬間、覚悟を決めて歯を食いしばる。
「ぎっ!?」
予想通りの感触に顔が歪む。生身で鉄を殴ったような痛みが拳に走った。
全力で強化して尚、破壊された自分の拳。立川都の切断を持ってしても折れた日本刀。
その二つの事実で、一つの現実が確定した。
「フェイズ……4……」
拳の痛みで回らない思考の中、悠に百メートル以上は弾き飛ばした赤目に視線を向けながら呟いた。
「っ!?」
狂った様な奇声に振り返ると、それは辰巳宗一だった。拳の痛みとフェイズ酷使による疲労の中、有原涼子は目の前の狂人の症状を理解した。
心的外傷後ストレス障害――。
程度の違いはあれど、初めて戦場に来た者は、必ずと言っていい程この症状に陥る。
ミサイルのスイッチを押して、相手の顔も知らずに殺し殺されするのではない。生身の人間同士が殺しあうのだ。そしてこの凄惨な光景は、戦争経験者である有原涼子ですら目を背けたくなる程だった。
「ぐ、ぅ……そ、宗一」
浅く繰り返される過呼吸。視点の定まらない開ききった瞳孔。異常なまでの発汗。
「宗一! しっかりしろ!!」
無駄と知りつつも呼びかける。それは有原涼子本人の経験によるものだった。
辰巳宗一は今、何も聞こえていない。視界に映る景色を必死に否定しようとしている、肯定しようとしている。それはすなわち、自我の崩壊に他ならない。
「そう……えっ?」
辰巳宗一がゆらりと立ち上がる。意外なその行動に、有原涼子は戸惑うしかなかった。
有原涼子は既に、辰巳宗一の意識を刈り取る決断していた。その後に生存者を避難させるという、赤目がまだ存在している状況での正しい判断を選択をしていた。
しかしその不可解な行動により、握りしめていた左手は行き場を失ってしまう。
「あ、あ、ハヒ、は、あり、ハ、ああ、ああありはらあああああああ!!」
「っ!?」
自分の名前を叫ばれた有原涼子は肩を震わせ、同時に混乱した。
この重度の精神疾患の状態で、周りの状況を把握している。それは現状の辰巳宗一にとって、良い事なのか悪い事なのか、有原涼子には分からない。
「なぐ……れ……ヒッ……」
「え……?」
まだ辰巳宗一の目の焦点は合っていない、呂律も心的障害を負った者そのものだった。
「お、おれ……を、な、ヒヒ、ハ、あ、ひ、な、な、なぐれえええええええ!!」
その訴えに、有原涼子は困惑した。
辰巳宗一は自力で這い上がろうとしている。しかし殴って正気を取り戻したとしても、彼のその後の行動は予測がつかない。なによりもその這い上がる行為自体が、精神崩壊を決定付けるものになりかねない。このまま意識を断つのが常識的な判断だと言えるだろう。
「……っ……わかっ、た」
何故、聞き入れたのか、それは本人にも分からなかった。
明らかに適切ではない処置。その選択を決断したものは――男でも女でも誰でもいい、この世界で私に希望を見せて欲しい――という、彼女自身ですら無自覚な願いに他ならなかった。
「すぅ……」
息をひとつ吸い、歪んだ視界で狙いを定める。
「目ぇ覚ませ! このアホおおおおおおおおおおお!!」
そう叫び、握りしめた生身の拳を振りぬいた。