第15話 北日本防衛戦 出撃
周りの雰囲気は一様に重苦しい。
薄暗い車内、押し込められた三十余りの人間の肩が車の揺れで触れ合っている。ざわめき一つない空間に、自分の心音だけが鳴り響いているかのような錯覚に囚われる。
唾を飲み下す音、溜息、身じろぎ、そのひとつひとつさえ、この緊迫で塗り固められた空間では躊躇われた。
時折、名も知らぬ女性と視線がぶつかる。疑問を帯びた視線は敵意にも似た威圧を放っている。その視線から逃れようと向けた先にも同じ目が待ち受けている。
瞼を閉じ、暗闇の世界に逃避する。視覚を遮断したことで、心音はより一層鮮明に耳に届く。
目を閉じても覚醒している脳が思考することを強要してくる。
その思考の大半は、後悔が一番近いだろうか。それともこの理不尽な状況に対する憤り。この状況に身を投じた自分への賛美。仲間達への感謝と安否。これから死地に赴く恐怖。
恐らく、どれも間違ってはいない。
しかしその全ては、脳の最上位認識から来る取るに足らない瑣末な感情だった。
『これは――現実』
西暦2064年10月15日。
この日から五日間の出来事は、俺にこの世界を受け入れさせるに充分過ぎるものだった。
◇◇◇◇◇◇
「っ!?」
夕暮れ前という時間帯。けたたましい警報が基地全体に響き渡った。
訓練中だった俺は目を見開き、遅れて流れ出す放送に耳を傾ける。
『偵察衛星より旧青森県大間町北部に旅団規模の「赤目」を確認。現在、時速50㎞で南下中。フェイズ3-B以上の戦闘員は第一演習場にて集合。その後、第一防衛線の戦闘員は即出撃。最良衝突地点は旧岩手県盛岡とする。第二防衛線以下の戦闘員及び非戦闘員は、各部隊長の指示を仰げ。尚、本作戦はこれより第72次北日本防衛戦と呼称する。繰り返します……』
「行くぞ」
「……はい」
放送直後、なんの躊躇いも無く踵を返す紗枝さん。それに続くように縁が歩いていく。
「ま、待って下さい!」
俺は反射的に声を出していた。しかし感情に任せたその行動は、後に続く言葉にはならなかった。
声を掛けてどうするんだ? 忘れていたわけじゃない、こんな日が来る事を。これがこの世界の常識。
俺も連れて行け? 死なずに帰ってきてくれ? いや、違う。何か言わないといけない。でも、何を?
感情は言葉にならず、やたらうるさい心音だけが脳裏を叩いてくる。
「……」
振り返った紗枝さんが、冷えた目を俺に向けてくる。
「言っておくが連れて行かんぞ。放送でフェイズ3-B以上と言っていただろ。お前はいいとこフェイズ2-Aだ。大人しく病室に帰っていろ」
「紗枝さんは……その」
「何だ? 早くしろ」
「……俺を戦場に……いえ、北海道に連れて行く気はありますか?」
言った瞬間、後悔した。ずっと胸に秘めていた疑問。それをこんな土壇場で。
その疑問の源泉は、俺が世界的な研究対象であることだ。フェイズの条件を満たしていたとしても、そんな貴重な存在を戦場に送り込むとは到底思えない。まして第一種危険区域に指定されている、札幌市から半径100kmは、フィールドの影響で入る事すらできない。
あの星空の下で交わした約束は果たされる日は来るのか? そんな、当たり前の疑問。
「……」
紗枝さんは何も言わず訓練場から出て行く。その後姿を、俺は呆然と見送るしかできなかった。何度も振り返る縁の申し訳なさそうな顔が、空しさを一層引き立てる。
「くそっ!」
二人が去った後、感情を爆発させた。
自分に一番、腹が立った。この壮大な世界で俺の存在はちっぽけすぎる。何よりも、これから戦場に赴く二人に、何も言葉を掛けれなかった。自分の事で精一杯だった。
それにあの言葉は、紗枝さんを信じていないと伝えたも同然だ。
「ぐ、ぅぅ……」
力一杯、握りしめた拳が、血の通っていない色に変わっていく。食いしばった歯から、絞ったような音が耳に届く。
自分の口から吐き出された醜い言葉を反芻すると死にたくなった。
これから、戦場へ赴く人への言葉が……。
もしかすると、最後の、言葉が……。
『俺はあなたを信じていない』
◇◇◇◇◇◇
物々しい雰囲気の基地内を、俺はひたすら走っていた。
そこいら中で兵装した女性達が慌しく準備をしていて、ひっきりなしに輸送車が基地から出ていく。途中で何度もぶつかったが、謝る事なんか頭からすっ飛んでいた。もうぶつかっている事への認識すら無くなっている。
紗枝さんと縁を探しに第一演習場まで来たが、もう出発してしまったのか、いくら探しても見つけることができない。
「くそっ!」
自分の言葉を取り消したい。そして二人に激励でも何でもいい、声を掛けたい。普段ならささやかであるはずの願いも、もう叶えられそうにない。
一瞬フェイズを全開にして追いかけてやろうかという愚考が浮かぶ。今の俺なら、相手が車でも相当飛ばしてない限り追いつける自信があった。
しかし、有り得ない。追いかけると必ずあの二人に迷惑がかかる。この感情がエゴであると自分で認めたも同然だ。
「……」
夕焼けで赤黒く染まっている空を見上げながら、打つ手が無い事を理解する。
あとはもう、無事に帰ってきてくれる事を祈るだけなのだろうか?
「宗一……?」
「え?」
呼ばれて振り返ると、有原が不思議そうな顔ですぐ近くに立っていた。
有原はいつもの制服とは違い、軍服に身を包んでいる。動きやすそうな灰色の長ズボンに黒のブーツ。上は黒のシャツに、前のボタンを開けたジャケットを羽織っている。
冷静になって辺りを見渡すと、同じ軍服一色になっていた。
「何してんの?」
「……いや」
俺の表情を見て何かを感じ取ったのか、心配そうに顔を覗き込んでくる。
「……何かあったの?」
「いや……なんでもないよ。それよりお前は?」
「私はこれから出撃。ほら」
有原が指差した先には、バスより一回り小さいくらいの輸送車があり、荷を積んでいる人達の姿が見えた。
「私と都は医療部隊の護衛になったの。部隊長はレイストローム基地長」
有原と立川、それにアリサさんも戦場に行くんだ。そんなこと分かりきっていた筈なのに、心が揺れる。
「あれ、宗一君?」
「宗一さん?」
有原と話していると、アリサさんと立川が背後から現れた。
アリサさんはいつもの白衣姿だが、戦闘員である立川は軍服で、背中まである髪を後ろ頭に綺麗にまとめている。恐らく掴まれない様に気を配った兵士としての常識なんだろう。
「ダメよ~、こんな所でウロウロしてちゃ。早く病院に戻りなさい」
戦闘直前という緊迫した空気にも関わらず、アリサさんがいつもと変わらない調子で俺を嗜めてくる。
「ん? どうしたの、宗一君」
アリサさんを視界に捉えた時点で、またしても胸中に疑問が降りて来る。
これは先程とは違い、絶対確認しなければいけない疑問だった。
「アリサさん、もし戦況が悪くなったら、俺は……どこかに移されるんですか?」
「……ふぅ」
アリサさんは少しバツが悪そうな顔になり、諦めにも似た溜息をついた。
「そうよ。あなたの研究価値は大きいわ。万が一ここに攻め込まれるようなら、すぐに病院のスタッフがあなたを連れて脱出する手筈が整ってるわ。……だから」
「だから?」
「……安心して」
一瞬で頭に血が昇った。その衝動のままアリサさんに向かって叫ぶ。
「そんな安心、いらねぇよ!」
俺の叫びに、有原と立川は体を震わせた。周囲の視線が集まってくる。
アリサさんは少し困ったような顔で俺を見ているが、全く驚いた様子がない。つまりは察していたんだろう、自分の言葉で俺を傷つけてしまう事を。でも言うしかなかった。そういう立場の人だからだ。
しかしそれらを考慮した上でも、俺は叫ぶしかなかった。自分だけがこの世界で、この戦場の中で、安全が保障されている。
紗枝さんが、縁が、アリサさんが、有原が、立川が、遼平が、男性寄宿舎のみんなが、この基地の人達が、生死不明の戦場に飛び込んで行くこの中で、俺だけが……安全。
「宗一、ストップストップ!」
「宗一さん、落ち着いてください!」
有原と立川が腕を抱え込んで待ったを掛けてくる。
いくら頭に来たからといって、アリサさんに飛び掛ろうなんて思っていない。アリサさんは何も悪くない。ここに居る人達は誰も悪くない。只、合理的に判断しているだけだ。そこに甘さなどは一切介入していない。
しかし俺は呪わずにはいられなかった。この世界に来た事を。このやり場のない怒りを。自分の非力さを。
「っ!」
両腕をがっちり抑えられて動けない俺に、アリサさんが手を伸ばしてくる。
その手の進路は、額――。
「やめろっ!」
「わ!」
「きゃ!」
有原と立川を力任せに振り解く。フェイズなんか使わず、自分の持てる人間としての力で。
アリサさんは俺の額まで残り数センチの距離で手を止め、俺の目に灯る色を伺うように見ていた。
その手で何をする気だ? 精神に干渉して落ち着かせようとしているのか? 暴れている患者に鎮静剤を打つように、俺の感情を無視して。
「避けないの?」
「……ええ」
後退しない俺に、アリサさんは不思議そうに首を傾げる。
もう伸ばされた手は目の前だ。常人の身体能力しか保有しないアリサさんなら、俺はこの距離でも回避することが可能だろう。だが避ける気なんてサラサラなかった。
「アリサさんが触れた瞬間、フェイズ3にします」
「っ!?」
飄々としていたアリサさんの顔色が変わる。
俺の言葉は敵対すると聞こえただろうか? 脅しと捉えられただろうか? それともフェイズ2の俺が、突如フェイズ3にできるとは思えなかったんだろうか? でも、彼女は知っている。俺が普通でない事を。
俺の言ったことは大言や虚言の類ではなく、只の事実だ。
俺にフェイズ3への道程は見えていない。いや、正確に言えば最初から無かった。フェイズ2の霧を少し払っただけで、すぐ隣の部屋のようにフェイズ3への扉がそこにあったのだ。
そして、この言葉で一番伝えたかった事。この人になら伝わったはずだ。
『あなたの干渉に、俺の干渉で抵抗する』
体勢はそのまま、どちらも動かない。いや、動けない。俺はアリサさんの目を強く捉え続ける。
二人の緊迫感が周囲を巻き込んでいき、十数人の敵意が俺に向かってくる。今にも飛び掛ってきそうだ。しかし、関係ない。俺は今アリサさんと話しているんだ。割って入って来たらぶっ飛ばす。
「そ、宗一。や、やめて……」
「……宗一さん」
二人がすぐ傍で心配そうに見つめているのが分かる。有原に到っては泣きそうだ。
「ふぅ」
「? ……ふぐっ」
瞬間、アリサさんの手の軌道が変更され、俺の頬をムニッと掴んできた。
「ひょ、あ、ありひゃひゃん?」
「もう! わかったわよ! やらないわよ! この、この! ……あ、あら、プニプニねー」
「いひゃい、いひゃい。は、はなひひぇー」
「あ、あはは、あははははっはははは! 宗一君、面白いかおー」
ちょ、なにすんのこの人? 緊迫した空気がぶっ飛んだ。
「じゃあ宗一君はこのまま病院に帰りなさい。いいわね?」
ひとしきり俺の頬と面白顔を堪能したアリサさんは、そう言って輸送車へ足を向けた。
「ま、待って下さい!」
重なった。紗枝さんと縁に。
そんな申し訳なさそうな後姿、二度もこのまま見送るなんてゴメンだ。
「どしたの?」
アリサさんが振り返り、いつもの調子で首を傾げる。その表情は子供のように無邪気だったが、俺が今から発する馬鹿な言葉を聞けば、たちまち崩れてしまうだろう。
そして俺自身、自分はこんなにアホだったのかと思い知らされる事になった。
「お、俺も連れて行って下さい!」
「………………は?」
ほら、見てあの顔。伝えたいが伝え切れない。それほどの悪鬼羅刹だった。
アリサさんはその顔のままたっぷり硬直した後、ツカツカというか、ガツガツとコンクリートの地面を削りながら歩いてきた。そして神速で俺の頬を鷲掴みにする。ちなみに音はムニッ、ではなく、ガシッだった。
「……頭、大丈夫?」
「ふぁ、ふぁい。だいじょうぶれふ」
「帰ってきたら精神鑑定のフルコースだからね」
「ひょ、ひょれは、いやれふ」
「はぁ……。なんなのこの生き物は? 男って生まれついてのアホなの?」
まぁそんな感じなんでしょうか? 女から見たらアホにしか見えない事も多いんじゃないかと。でもそれが男の良い所なんじゃないかと愚考する次第です。
「いい? 宗一君」
「むぐっ……は、はい」
やっと手を離してくれたアリサさんが、子供を諭す教師のような目で言う。
「あなたの研究価値は高いから死んだらダメ。オッケー?」
「オ、オッケー」
「それにあなたはまだフェイズ2でしょう。3に到達してなかったら他者への干渉に抵抗できないわ。わかるわね?」
「はい」
「だからおとなしくベッドで寝ててね。おねがーい」
「い、いやです」
「………………あん?」
こ、こええ……。
今ばかりは紗枝さんすら天使に思えてくる。
「あのねぇ、宗一君」
百面相を見せていたアリサさんの表情は真剣そのものになり、その気配すら変わっていた。
「あなたの目的は何?」
「え? ……北海道の事ですか?」
「そう。あなたの目的は戦場じゃなく北海道でしょ? ここで危険を冒す理由がないわ。……それに、あなたは人を殺せるの?」
「っ!」
意識の底に沈殿させていた疑問を引っ張り挙げられる。
それは夜眠る時、訓練で人間離れした力を実感した時、時代の違いを強く感じた時、何度も意識してきた自問だった。そしてそれに対する自答は、常に『分からない』に収束した。それが俺の嘘偽り無い答えであり、今も変わっていない。
だが事ここに至り、その答えを先延ばしにはできない。
自分が殺されるくらいなら殺す。仲間を殺されるくらいなら殺す。手を汚し、血に塗れる。罪悪に身を染める。ここで今そう決心し、形だけでも彼女に宣言しなければいけない。
俺は戦場に行く。そこにはお世話になった人がいる。黙って見ていられない。あの二人に、伝えたい事があるんだ。
「殺せます」
目の前の碧眼を真っ直ぐ見据え、自身を認めて告げた。
それから事が前進するのに数十秒、いや、数分だろうか? その蒼く透き通った瞳を見つめていたのは。
「はぁ……。何言ってもダメそうね……」
「え?」
アリサさんは息をひとつ大きく吸い、周囲に向けて宣言した。
「兵士諸君に通達! 現時刻を以って、フェイズ2-Aである辰巳宗一を医療部隊護衛に任命します!」
「ええ! 本気ですか、レイストローム基地長!」
「そ、それは考え直した方がいいかと……」
それまで黙って見ていた有原と立川が騒ぎ出す。周囲の人も動揺を隠しきれず、ざわめきが広がっていった。研究対象という事情は知らないだろうが、フェイズ2はともかく男が同じ部隊で戦場に行く事が、彼女らにとっては異常事態だったのだろう。
そのざわめきから抜け出した有原が、心配そうに声を掛けてくる。
「本気なの、宗一」
「ああ」
「それと、その……北海道って何?」
「私も知りたいです」
横からにゅっと出てくる立川。
アリサさんとの機密スレスレの会話は、すぐ近くに居たこの二人に聞かれるのも当然だった。
「俺の故郷」
「……え?」
二人揃って首を傾げる姿に吹き出してしまいそうになった。
でも嘘は言っていない。いつかこの二人に本当の事を話す時が来ても悪くないと、今はそう思える。
「はぁ……」
「ア、アリサさん?」
どんよりと肩を落としているアリサさんに声を掛けると、ある当たり前の罪悪感が湧き上がってきた。
俺を戦場に連れて行くという行為は、責任者であるアリサさんに、迷惑どころか立場すら危うくさせてしまうかもしれない。それは本意ではないが、それしか方法がないのも事実。後はもう諦めるぐらいしか……。
「あっ」
アリサさんが俺の額に手を添える。今度は避ける気が起きなかった。
「分かった?」
「……は、はい」
それは自分が紗枝さんに吐いた醜い言葉とは、全く逆のイメージだった。
「ありがとうございました」
感極まった感情そのままに頭を下げ、精一杯の感謝の意をアリサさんに伝える。
「……死んじゃ、ダメよ?」
「はい」
「生きて帰るのよ?」
「はい」
「ホントに? 無茶しない?」
「……はい」
下げている頭の上から、拗ねている子供のような涙声が聞こえてくる。
「帰ってきたら何でも言う事聞く?」
「わ、わかりました」
「そう…………ふひひっ」
し、しまったぁぁああ! 俺はなんて迂闊な返事を!
「い、今から取り消しは可能ですか?」
「ざーんねん。締め切りましたー」
嫌な予感しかしない。
「大丈夫ですよ。私が宗一さんの事、守りますから」
「護衛が守られてどうすんのよ? ま、まぁ私も気にはしとくけど」
どや顔の立川と、ツンデレ気味な有原。いつもどおりである。
「ああ、ありがとう二人とも」
「……」
有原の言うとおり護衛が守られてどうすると思ったが、二人の厚意は素直に心に降りた。
俺に礼を言われたのが意外だったのか、二人は口を半開きにしてアホ面になっている。
「それじゃあ、いい?」
確認してくるアリサさんに、ひとつ深呼吸してからしっかりと頷いた。
「それでは第72次北日本防衛戦、医療部隊並びに護衛部隊、出撃します!」
行こう、自分の意思で。
生死不明の戦場へ。