第8話
◇◇ ◇
この時代のムラサキとアカリは、同じ通りの町家の幼馴染で、本当の姉妹のように育った。
ムラサキは幼いころから凛として聡明な、完成された美しい少女だった。ムラサキよりひとつ年下のアカリは常に彼女のうしろを「お姉さま、お姉さま」と追いかけていたし、そんなアカリをムラサキは優しく見守ってくれていた。
アカリは彼女の一番なのだとずっと自負していた。
そんなアカリが衝撃を受けたのは、尋常小学校を卒業して女学校に入学したときだ。アカリより一年先に女学校に通っていたムラサキの周りには、彼女を慕う多くの女生徒たちがいた。社会的に制約の多かったこの時代の少女らにとって、見目麗しく優秀で、なおかつ優しいムラサキは、ひと際輝くスターのような存在だったのだ。
しかしそれよりもアカリにとってショックだったのは、彼女を巡って水面下で常に女子同士の醜い争いが絶えなかったこと、そしてその争いに当事者として巻き込まれてもなお、ムラサキが嫌な顔ひとつせず平然としていたことだ。
ムラサキは誰に対しても優しかった。誰に対しても平等だった。
何に対しても文句を言わなかった。何を嫌いだと言うこともなかった。
『彼女にはまるで人間味がない』。
アカリの冷静な友人は、彼女をそう揶揄した。
ムラサキは、何に対しても、誰に対しても、深い関心がないのだ。だから誰も、彼女の『特別』にはなりえない。
アカリははじめて、ムラサキという人に絶望した。
それからアカリは人生ではじめて、ムラサキと距離を置くようになった。
「わたくしの心を貴女だけに捧げます。どうか、応えていただけませんか」
忘れもしない時雨の日。
居残りをしていて、いつもより下校が遅くなったアカリは、閑散とした学舎の軒下で見たくないものを見てしまう。
ずっと以前からムラサキを取り巻いていた女生徒のひとり―それも特別他の生徒から一目置かれる上級生―が、遂に彼女に告白をしたのだ。
ムラサキに告白をすることは、学内では言わず語らずのうちにご法度とされていた。
ムラサキは誰も傷つけない。こだわらない。だからこそ、告白なんてしてしまえば、きっと『誰のものでも』受け入れてしまう。そうなると、ムラサキが『皆のもの』でなくなってしまうから禁じられていたのだ。
周囲をすべて敵に回す覚悟を決めた女生徒の勇気を想うと、ぞくりと鳥肌が立ったのをアカリは覚えている。
しかし。
「ごめんなさい」
驚くべきことに、ムラサキはその勇気ある少女の告白をいとも簡単に断った。
それを盗み聞いて、アカリは安堵などしなかった。むしろ恐ろしくなった。
―本当に、あの人には、誰の想いも届かないんだ。
二度目の絶望を覚え、アカリは傘もささずに袴とブーツで雨の中を駆けだした。
背後で名を呼ばれたような気がしたが、聞こえなかったふりをしてアカリはただ走った。
笑える話だ。
泣きたいのは告白をした上級生のほうだろうに、何もしていない自分がなぜか振られたような気持ちで泣いていたのだから。
無我夢中で走っていたため、アカリはいつもと違う通りを歩く羽目になった。
雨に濡れ、泣きながら歩いていると、いつの間にか見知らぬ遊び人風の男が目の前に立っていた。
「傘もささずに女学校の生徒さんがどうした? どれ、うちで雨宿りでもしていかんかね?」
下心が透けて見える笑みを浮かべたその男は、やや強引にアカリの肩に触れようとする。
「汚い手で触らないでくださる?」
反射的に、嫌悪感からその腕を振り払うと、男は急に目の色を変えた。
「このガキ……!」
男の腕が振りかぶられ、ぶたれると覚悟した瞬間。
「―—かどわかしですか?」
張りつめた、凛とした声がした。
目を開けると、太い男の腕を締め付ける白い手と見覚えのある着物の袖が見えた。
ムラサキだった。
「……っ、んなわけねえだろ! 親切に声かけてやったんだぞこっちは!」
男は顔を真っ赤にして、尻尾を巻くようにして逃げていった。
「アカリ、この通りはあまり治安が良くない。はやく戻ろう」
一転して穏やかな声音と柔らかな表情。頭からつま先まで雨でずぶ濡れのくせに、あくまでムラサキは冷静で、アカリの手をとって歩き出す。
「……どうして」
「ん?」
「……どうしてムラサキお姉さまはそんななんですか」
「そんなって?」
「……ご存知のくせに」
アカリはムラサキの手を振りほどく。ムラサキは目を丸くした。
「皆に優しくして、皆に期待させておいて、あんな簡単に期待を裏切って、お姉さまには人の心がないんですか⁉」
今思えばひどい台詞だったとアカリは振り返る。
「やっぱり見てたんだ」
一瞬、ムラサキの表情が陰ったのを見て、アカリは少しだけ怯んだ。しかし。
「……アカリは、私のことが嫌いになった?」
そう尋ねてきたムラサキの表情はどこか心許なく、まるで別人のようで、おおよそ常に余裕をもって人形のように微笑んでいた彼女の顔に、初めて感情らしきものが垣間見えた瞬間だった。
「最近私のこと避けていたでしょう?」
「……それは、」
貴女の人間性に絶望しましたとはさすがに面と向かっては言えないと、アカリが言い淀むと、ムラサキは眉を下げて苦笑した。
「アカリは昔から私のこと、大好きだって言ってくれてたのに、急に離れてしまうから寂しかった」
その台詞、その表情に、有り得ない程の怒りを覚えたのをアカリは今でも覚えている。
「―—私じゃなくてもいいくせに!」
アカリがあまりに大きな声で叫んだので、ムラサキは先刻よりもさらに目を丸くしていた。
「お姉さまはいつもいつもいつも! 誰にでも優しくするから! だから誰も、お姉さまを嫌ったり離れていったりしたことがないだけです! だからそんなこと言えるんです! 私じゃなくてもお姉さまはおんなじこと言うんでしょう⁉ 私分かってるんですから‼」
全部言い切った頃には、息が上がっていた。
こんなに人に向かって怒鳴ったことも、まずなかった。
それだけ、心の底からの叫びだったのだ。
しかし。
「…………そんなこと、ない」
このときアカリは、ひどく後悔をした。
あの、年中同じ顔で笑っていたあのムラサキを、泣かせてしまったのだ。
「……、そんなこと、ないよ。なんで、そんなこと言うの?」
雨の雫にも負けないぐらいの大粒の涙が、彼女の白い頬を伝い、こぼれ落ちていく。
「お、お姉さま⁉」
「ぅ、わああああああんアカリに嫌われたああああ」
それは彼女にあるまじき、大泣きも大泣きだったのである。
「おおおお姉さま⁉ 落ち着いて⁉」
あたふたとしながらも、アカリの脳裏にふと幼い頃の記憶が蘇る。
以前にも、こんなことがあったような。ムラサキが涙を流すことは、これが初めてではなかった気がする。
「わ、私はお姉さまのこと、嫌いになんてなりません! むしろ」
―—大好き、なんです。
そう言葉にしたとき、アカリの目にも自然と涙が溢れていた。
「私、お姉さまのことが、大好き、だったのに。私はお姉さまの一番だって、ずっと思ってた、のに……! 皆に同じ顔をするお姉さまを見ているのが辛かったんです……!」
ぽろぽろと、これまで言葉に出来なかった想いが溢れるようにアカリは泣いた。
ムラサキは、暫し呆然として、それから平然と言った。
「……私の一番は、ずっと前からアカリだけだよ?」
今思えば、顔から火が出そうな台詞。
活動写真の俳優だってそんな台詞は言わなかった。
その日、アカリとムラサキは確かに想いを通わせた。
―—愛していた。
アカリの前でだけ、人間らしく泣いて笑う、そんな彼女を愛していた。
世間になんと思われようとも、ふたりでいれば幸せなのだと。
けれど、ムラサキは突然に殺されてしまった。
アカリのムラサキは、殺されてしまった。
◇◇ ◇
周囲が突然暗くなり、周囲の音が全て途絶える。
「アカリ、」
ニノマエの警告を聞き終える前に、星は顔を上げた。
「―—殺しますわ。絶対に」
音も立てず、しかし明確な悪意と存在感を放ち、それは墓の隙間を縫って現れる。
見上げるほどの、白い大蜥蜴。
それは、この時代に生きたアカリの目の前でムラサキを殺した仇。
その鋭利な牙を光らせて、蜥蜴は嗤った。
即座に星はニノマエを刀に変え、地を蹴り蜥蜴の首めがけて斬りかかる。
狙いは十分だった。しかし
(硬い!)
鱗で覆われた蜥蜴の身体は有り得ないほどの強度で、星の渾身の斬撃はいとも容易く弾かれた。体勢を立て直すべく星は着地するが、先刻の戦いで負傷した腹部が痛み、顔を歪ませる。直後、背後から蜥蜴の尾が音もなく振りかざされた。
「!」
「アカリっ!」
不意を突かれた形で横薙ぎを食らい、星の身体は受け身もとれず吹き飛んだ。
日照り続きで固まった硬い地面に転がる。
「……ぐ、ぅ」
「アカリ、大丈夫か」
そう声をかけたニノマエは、自身の言葉の愚かさを呪う。
大丈夫なわけはない。彼女の体力は、ここに来るまでに既に限界を超えている。さっきの直撃で気を失っていないのも、刀から手を離さなかったのも、ただの彼女の意地だろう。
だって彼女は、ただの人間なのだ。
先刻の直撃で頭を打ち付けたのか、星の額からは赤い血が流れ落ちている。足元もおぼつかない状況で、それでも彼女は立ち上がった。
『―—まだ立つの?』
呆れを含んだ女の声が降ってくる。
『お前は一体何? ムラサキのためにどうしてそこまでするの? あのかまととぶった女神に唆されたにしろ、お前のムラサキはこの時代で死んだはず。それが覆ることもなし、後世のムラサキがどうなろうと、お前にはまったく無縁の話じゃない』
この言葉は、悪逆の女神のそれだとすぐに理解できた。
星は嫌悪と苛立ちを喉の奥に押し込み、血が滲む唇で嗤う。
「……同じ言葉を返させていただきますわ。貴女の心臓を射た紫お姉さまはもういないのに、どうして貴女はあの人を殺し続けるの? あの人の光を奪って集めて、貴女は一体何がしたいの」
その問いに、女神は言葉を返さない。
女神は度を越して紫に執着している。そういう意味では、星も女神も一緒なのだ。
だからこそ。
「―—貴女にだけは絶対に負けたくない」
星は今一度、大蜥蜴に立ち向かう。
『人間風情が!』
蜥蜴の体表は鋼のように固い。刀では傷をつけるのも難しい。
ならば。狙うのは、鱗で覆われていない箇所。蜥蜴の頭部、真紅の瞳。
今にも千切れそうな四肢にアドレナリンを回し、星は最後の跳躍を見せる。
「死に晒せええええええ!」