第6話
翌朝。
寝不足でまったくすっきりしない頭で、紫はいつもよりも少しはやめに登校した。
かといって教室で自習する気も起きず、自販機コーナーのベンチでひとり、眠気覚ましの缶コーヒーを飲んでいると。
「あっ月夜さん、おはよう」
ここ数日なにかと縁のある草津凪に声を掛けられた。
「月夜さんがここでコーヒー飲んでるの珍しいね?」
凪はかなり手慣れた様子で目当ての飲み物のボタンを押した。どうやら彼女にはここで温かい飲み物を買う習慣があるらしい。ミルクティーの缶を掌に包み、そのまま教室に戻るのかと思ったが、彼女はその場にとどまってちらりと紫の様子を窺った。
「……隣、いい?」
どうぞ、と紫がベンチの少し端に寄ると、凪は少しだけ緊張した面持ちで隣に腰かけた。
「草津君がくれたお菓子、美味しくいただいたよ」
「! よかった! あそこのお菓子美味しいよね。私はオレンジのマドレーヌが好きで……月夜さん、寝不足? 瞼がちょっと重たそう」
凪が紫の変化に気づく。
「少し考え事してたら眠れなくて」
「え、悩み事? よかったら聞くけど」
凪は反射的につい他の友人と接するような流れで尋ねたが、あの、月夜紫が一体どんな考え事――しかも眠れなくなるほどの――をしていたのか、不謹慎だが俄然興味がわいてしまった。
「……悩みなのかな、これ」
「大丈夫! 私、口は堅いから! 誰にも言わないし!」
自然と前のめりになる凪。
年頃の女子高生の悩みだ。となると大抵は色恋沙汰、もしくは友人間の悩みだ。重ねて非常に不謹慎だが、前者ならなおのこと興味がある。
そんな凪の本心を、紫は当然知るはずもないが、語り始めた。
「昨日、人を家に泊めたんだけど。あ、これは両親には内緒で、」
「はぁアあッ⁉」
想像の100倍は先に進んだ展開の話が降ってきて、凪は思わず大きな声を上げてしまった。
「草津君どうしたの」
「いや、ううん、聞いていい話なら、つ、続けて?」
ドギマギとする胸を押さえながら、凪は先を促す。
「私はその人に休んでもらいたかったから、引き留めたんだけど、夜中に出ていっちゃって」
「月夜さんが⁉ 引き留めたのに出て行っちゃったの、その人⁉」
凪の中で勝手な妄想が膨らむ一方
「……その時私、酷いこと言っちゃったなって」
紫は昨夜の彼女の顔を思い浮かべる。
『でも、やめるわけにはいきませんの。私には夢がありますから』
そう言った彼女の瞳は、少しだけ涙で潤んでいた気がする。
どうせ止められないなら、引き留めた意味はなかった。
自分の言葉は、ニノマエが危惧していた通り、ただ彼女の戦意を削いだだけだった。
そのせいで彼女が今怪我をしていたらどうしよう。
昨夜からそんな後悔が胸のあたりをぐるぐるして眠れなかった。
缶コーヒーのプルタブを見つめたまま、ぼう、としている紫に、凪は尋ねた。
「ね、ねえ月夜さん。その人は月夜さんにとってどんな人なの? こ、こいび、いや、お、お友達?」
改めて尋ねられると、表現しにくいなと紫は思った。
友人、というわけでもない。彼女とは3日前初めて会ったばかりだ。
でも、まったくの他人というわけでは決してない。
彼女は自分を命がけで助けてくれた恩人だし、今もなお紫の死の運命を回避するために戦ってくれている。
だから、強いて言うなら。
「……運命の、人……?」
「うんめいのひとォーーーーーー!?」
凪は危うくベンチごとひっくり返りそうになった。
「大丈夫? 草津君。顔が赤いけど」
「顔色も変えずにそんなこと言える月夜さんのほうがおかしいんだってば!! 貴女って人はほんとにもう!」
凪になぜか叱られて、紫はごめんと謝罪する。
凪はぐっぐとぬるいミルクティーを飲み干し、立ち上がった。
「思ったよりすごい話を聞いちゃったけど、月夜さん、その人のことほんとに好きなのね」
「え?」
きょとん、と目を丸くする紫に、凪も同様に目を丸くした。
「『え?』って。もしかして自覚ないの⁉」
信じられない、という風に凪は自らのこめかみを押さえた。
「さっき運命の人って言ってたじゃない。それに、好きでもなんでもない人のこと、そんな一晩中考えられないって」
突飛なように感じた凪の言葉だったが、そう言われれば、すとんと腑に落ちた。
「そっか。好き、だったんだ。私。彼女のこと」
しかも女なんかーーーーい! という叫びを、凪はあえて飲み込んだ。
異性でなくてほっとしたのが半分、同性だったのを知って余計にショックだったのが半分だ。
「ありがとう、草津君。なんだかちょっとすっきりした」
紫も立ち上がり、空き缶を捨てて、颯爽と踵を返す。
今からどこへ行こうというのか、今までの彼女にない、どこか力強さを感じるその足取りと背中を見送りながら、凪は短い恋の終わりに溜息をついた。
紫はその足で教室に戻り、自身の鞄を持って校舎を出た。
「おーい君、どこ行くんだー?」
校門で朝の挨拶の立ち番を始めようとしていた教師に声をかけられたが
「忘れ物を取りに帰ります」
そんな嘘までついて、学校をも飛び出す。
自分でも不思議だったが、今はそわそわして、学校に大人しくいられる気分ではなかったのだ。
とりあえず、これまでは紫の自宅であれば星と会うことができた。
彼女が過去から戻ってくるなら、きっと今回も自宅でなら会えるはずだ。
そう踏んで、紫は一路自宅を目指すことにしたのだが。
「!」
嗅ぎなれた死の匂いを感じて、紫は反射的に身をかがめた。
頭の上を掠めたのは、鋭利な爪。
『―—へえ、避けたわね』
軽やかに、それは地に降りる。3日前紫を襲った白い獣が、再び目の前に現れた。
紫は息を殺してじっと、獣の赤い独眼を見つめる。
対する獣も、その大きな瞳でじろりと紫を見下ろした。
『……はあ? どういうこと』
獣は嘲るように呟いた。
『駄目ね。全然ダメ』
獣はそう吐き捨てたかと思うと、そのままむくむくと巨大化し、姿を変える。
それはもう、獣ではなく蜥蜴だった。
見上げるほどの大蜥蜴の喉元には、粘土細工のような、女の形をした何かがいた。
『今ならあの時のお前に会えるかもって、ほんの少しでも期待してしまったのが馬鹿みたい。無駄に骨を折ったこの女も本当に可哀想、ふふっ! はは!』
紫を見下ろし、その女は散々に笑って、そして最後には失望の眼差しを向けた。
『ねえムラサキ、貴女ってそんなに小さかった? 時間をかけすぎて私の思い出だけが膨らんでしまったのかしら? ねえ、何とか言いなさいよムラサキ。その上品な唇はただの飾りなのかしらァ⁉』
女はそう言い放ち、蛇のような腕を紫に伸ばす。
すると、紫の手を柔らかい何かが掴んで引っ張った。
「なにしてる! 死ぬぞ!」
紫の手を引いたのは、ニノマエだった。昨夜よりも随分ぼろぼろで薄汚れている。
「走れ!」
ぬいぐるみに手を引かれ、紫は言われるがままに走る。
しかし、彼が単独でいることに不自然さと不穏さしか感じられなかった。
紫は走りながら問う。
「ねえ、ニノマエ、星君は⁉」
ニノマエの手に力がこもる。
「……アカリは、あいつに食われた!」