第5話
「お姉さまッ……ムラサキお姉さま……!」
広がる血。仕立ててもらったばかりの白い着物が赤色に染まっていく光景。
――まただ、と星はすぐに理解する。
白い化け物に、目の前で大切な人を奪われる悪夢。物心ついた頃から呪いのように、彼女は何度もこの夢を見てきた。
その夢を見ることには当然慣れたが、胸を抉られるような悲しみと喪失感、そして憎悪は、決して薄れることはなかった。むしろ、回数を重ねるごとに何もできない自分がもどかしく、気がおかしくなりそうだった。
『助けたい?』
そんな星に手を差し伸べたのは、『善良の女神』を名乗る女性。
『貴女なら、神殺しのムラサキを死の輪廻から解放できるかもしれない』
女神は星に、よりはっきりとした前世の記憶を与え、ことのいきさつを説いた。
夢を食らうバク。『悪逆の女神』の心臓から漏れ出た血から生まれた呪いの獣。
ムラサキは四十九回、バクに殺され、夢を奪われている。
転生しても奪われたその夢は回復せず、彼女は生まれ変わるたびに人間としての本来の輝きを徐々に失っていったのだと。
悪逆の女神はムラサキを殺し尽くすまで諦めない。
女神の怨念がどうしてそこまで深いのかは、星にも分からない。
ただ、星はムラサキを助けたかった。殺され続ける運命から解放してあげたかった。
しかしそれは、いばらの道だという。
『神を殺せるのは神殺しの力を持つ者だけ。だから貴女は過去に存在する四十九のバクを打ち倒し、散ってしまったムラサキの夢の力を取り戻さなければならない』
星に与えられるのは,、次元を切る一振りの刀のみ。
曰く、善良の女神の辞書に不正行為はない。
特別な力は与えられない。命の保障はもちろんない。報われるとも限らない。
『それでも貴女は、ムラサキを助けたい?』
星は迷わず首を縦に振った。
なぜなら――
「アカリ、起きろ」
ニノマエの声と、ピピピピピという規則的なアラームが聞こえ、気だるさの中、星はなんとか片肘をついた。
「……うーん……、……⁉」
そのままゆっくりと身体を半分起こすと、ニノマエの後ろにこちらを見つめている紫がいることに気が付いて、星は固まった。
「おね、お姉さま⁉ いつからそこに⁉」
「ごめん、もうすぐ20時になるから起こしに来たんだ。ついさっきだよ」
「mamamamaお姉さまに寝顔&寝起きの顔を見られるとか恥ずかしすぎて死んでしまうんですけどォ⁉」
「お前突っ伏したまま寝てたから見られてねえよ。現在進行形で前髪爆発してるけどな」
「3756死ィィィィッ」
物騒な奇声を上げながら星は前髪を直した。
「ごめんね、本当はもう少しゆっくり休んでほしいんだけど」
「いえッ十分すぎるほど休めましたわ! すぐお暇いたしますねっ」
急いでベッドから出ようとしたせいか、星を立ち眩みが襲う。
当然、小さなニノマエでは彼女を受け止めきれず
「! 大丈夫?」
紫が星を抱きとめる形になった。
――あたたかい。
肌で感じる優しいぬくもりとは裏腹に、強烈に泣きたくなるような郷愁が星を襲う。
ついさっき、あの夢を見たせいだろうか。
こうして彼女が「生きている」、そのことを実感するだけで胸がいっぱいになってしまう。張りつめていた糸が緩んでしまう。
紫の胸に突っ伏したまま星が微動だにしないので、紫が再度「大丈夫?」と声をかける。
「…………だ……、めかもしれませんわ」
星は思わず紫の服をぎゅっと握る。紫は少しだけ逡巡し
「もう少し休んでいく? 君が良いなら、一晩この部屋を使ってもらっても構わないよ」
「……!? おおお泊りってコト⁉ ですのっ⁉」
ばっと星が顔を上げた途端、星と紫の間に物理的に挟まれていたニノマエが完全にへしゃげた状態で床に落ちた。
「どうして気づかなかったのかしら。最初からこうすればよかったんですわ」
時刻は22時。
寝袋に変身したニノマエにくるまって、星は床に転がっていた。
玄関の靴を持って上がり、紫の両親には内緒のまま、紫の部屋に滞在中だ。
「ちょっとニノマエ、聞いてますの?」
寝袋に変化してからニノマエは声を発さなくなっていた。もしかしたら先刻ぺしゃんこにした件に怒っていて、ふてくされて眠っているのかもしれない。
そこに寝間着姿の紫が現れた。
「星君、まだ起きてるの? 先に寝てくれてよかったのに」
「お姉さまより早く眠るなど! できませんわ!」
紫はベッドに入り、電気消すね、と部屋の電気を落とす。
「両親は朝も私より出ていくのが早いから、そのあとに朝ごはん出すね。パンとごはん、どっちがいい?」
「お姉さまのお食事に合わせますわ!」
「じゃあごはんかな。おやすみ」
「お、お姉さま! 眠る前に少しだけ、お聞きしたいことが」
暗い部屋の中。互いの顔が見えないからこそ、星は勇気を出して問いかけた。
「なに?」
「あの、その、私、今日は厚かましいことにお姉さまのお部屋に留まらせていただいていますけど」
「うん」
「この間も申しました通り、私素性も知れないただの不審者ですから」
「うん?」
「こんな厚遇を受けてしまうと、不審者でも嬉しくなってしまうので……ああっ違う、違わないけど違いますわ、私が言いたいのはそうじゃなくて」
星が言い淀んでいると
「大丈夫だよ。ここまで誰かに親切にするのは多分、初めてだから」
紫が穏やかにそう言った。
「………………本当に?」
「うん。私の生活の中で、誰かが空腹や寝不足で倒れそうになってること、そんなにないしね」
星は恥ずかしさで少し縮こまった。
「星君。私からも聞いていい?」
「な、なんですか!」
「君の言っていた5回前の世の私って、どんな人だったのかな。君さえよければ教えてほしい」
紫がそれを問うことに、星も、そしてニノマエも少し驚いた。
星は少しだけ戸惑ったが
「……お姉さまは、ムラサキお姉さまは、とても美人で! 女優さんみたいで! 学校のみんなの憧れの的で!」
いざ話し始めると、言葉が止まらなかった。
「勉学もスポーツもいつもトップクラス、でもそんなことはまったく鼻にかけていなくて、お姉さまはみんなに平等で、優しくて、私はそんなお姉さまが大好きでしたけど、ヤキモキしっぱなしでした」
「すごい人だったんだね」
「ええ、ええ! 誇張ではなくて、それはもう。お姉さまは本当に、本っ当に、完璧な人でしたけど、でもちょっとだけ、……これは皆には内緒だったんですけど、実はちょっとだけ泣き虫なところがあって、私がお姉さまとちょっとした喧嘩をしてしまったときとかも……」
恥ずかしくなってきたのか、星の言葉はそれ以降明瞭な言葉にはなっていなかったが。
――そんなところが、とても愛おしかったのだと。
表情を窺わなくても、星の声色で紫には痛いほど伝わった。
「良いな」
それは、紫の口から自然とこぼれた言葉だった。
「……お姉さま?」
「ああ、ごめん。君が誰かをそんな風に強く思えるところとか、思ってもらっていた前の私が少し」
羨ましい。
そう言ってしまってから、紫はふと考えた。
そんな感情を覚えたことが、これまであっただろうか。
『人やものごとに対して温度は低い』が、決して貴女は『冷たい』人間ではない。
これは中学時代、紫が卒業間際に担任に言われた言葉だ。
弱っている、助けを求めている人には迷わず手を差し伸べる優しさがある、と。
あの先生は、紫の今後を心配し、フォローする意味合いでそう付け加えてくれたのだと紫自身もわかっている。
けれど、自分の『優しさ』は、自らの感情の発露ではなく、ただただ人間として生来備わっている『機能』なのだと理解している自分もいた。
自ら何かに感動する、執着することはこれまでなかった。
中学時代の3年間、友人と呼べる人がひとりもできなくても、ずっとひとりで昼食をとっていても、それを寂しいと思ったことはなかった。
それこそ他を羨ましいと思ったことなんて、人生で一度もなかったかもしれない。
初めて自覚した感情が、いわゆる嫉妬とは。
嬉しいような、複雑な気持ちを抱いて、紫は目を閉じた。
深夜2時。星はこっそりと紫の部屋を出ることにした。
幸い紫の部屋の窓はベランダへと繋がっており、退出は容易かった。
紫が用意してくれると言っていた朝食にはとても後ろ髪をひかれたが、それ以上に気分が高揚して休めなかったのだ。
『羨ましい』と。
今世の紫がそう口にした。
ニノマエがさんざん空っぽだと言った今世の紫が、初めて自らの感情を口にしたのだ。彼女は決して空虚な人間ではない。バクを倒した成果は、わずかだが出ている。
それに、何よりも。
『ここまで誰かに親切にするのは多分、初めてだから』
自分でも愚かしいとは思うが、紫のその言葉が想像以上に嬉しかったらしい。
過去の記憶なんてなくても、自分はあの人にとって、特別な存在なのかもしれない。
あんな言葉を言われたら、そんな思い上がりをどうしてもしてしまう。
「アカリ」
ニノマエが窘めるように言う。
「わかってます、わかってますって」
寒空の下、それでも火照り気味の頬を、星は両手で覆った。
紫に夢の力が戻ったとしても、過去の記憶まで戻るとは限らない。
最初から善良の女神にそう言われている。
それでも。
「私が今、死力を尽くすには十分すぎる報酬ですわ!」
星がニノマエを刀に変化させると、過去へと繋がる漆黒の渦が宙に浮く。
いざ飛び込もうとしたその折、すぐ背後でガラス戸が開く音がした。
「星君」
振り返ると、紫が立っていた。
「おおお姉さま、起こしてしまいました⁉ 申し訳、」
星が謝罪の言葉を言い切る前に、紫が問いかける。
「過去に遡ってバクを倒しにいくの?」
どうして事情を、と言いかけて、心当たりがひとつしかない星は刀に無言で叱咤の視線を投げる。
そんな星の左腕を、紫がそっと掴んだ。
「……無理、しないでほしい。ちゃんと休んでほしいし、ちゃんとご飯も食べてほしい」
言葉こそまるで娘を心配する母親のような台詞だったが、紫の声には迷子の子供ようなか細さがあった。
「お姉さま?」
紫は星が持つ刀を窺い少しだけ躊躇したが、星の目をまっすぐ見て、言葉にすることにした。
「私は、君が慕っていた人じゃない。だから、君がそこまでする必要はない」
頑張らなくていい。帰っていい。休んでいい。
この言葉が、彼女の決意を、闘志をけなす言葉だと紫もわかっている。
けれど今は、どうしてもこの言葉を告げずにはいられなかった。
しかし
「ごめんなさい。私のせいで優しい貴女にそんなこと言わせてしまって」
星は紫の手を優しく包み
「でも、やめるわけにはいきませんの。私には夢がありますから」
そして、そっと離した。
最初の夜と同様、夜空の星を纏うように立つ彼女は、やはりどこか輝いて見えて。
「お姉さまの夢の力、私が必ずすべて取り戻してまいりますわ」
自らを鼓舞するように彼女はそう宣言し、漆黒の中へと跳んで消えた。