第3話
次に星が紫の前に現れたのは、無事文化発表会を終えたその日の夕刻だった。
「……そんなところでどうしたの、星君」
学校から帰宅した紫が、玄関先で家の鍵を鞄から取り出そうとした際、ふと気配を感じて視線を横にやると、庭の樹の陰に人影が見えたのだ。
「どぅわああああああ! 完全にストーカーみたいになってしまいましたわ! どうか通報だけはご勘弁を!」
ほぼ土下座の形で頭を下げる星に、紫は歩み寄ってその手をとり、立ち上がらせた。
「ほぅわっ⁉」
相当驚いたのか、星は両手を挙げて一歩飛び退いた。
「ごめん、びっくりさせて。髪が地面についちゃうなと思って」
「い、いえ! 驚いたというか突然のゼロ距離お姉さまにヘブンを垣間見てしまっただけですわ!」
「昨日からSNSのタイムライン上のヲタクより死にかけてるよなお前」
ニノマエの言葉は時勢に疎い紫にはよくわからなかったが、
「うるさいですわ! 生のお姉さまを目の前にして正気を保つほうが無理なんですわ」
と取っ組み合いを始めた星の肘のあたりから糸が跳ねているのが気になった。
「星君、コート。肘のところ、ほつれてるよ」
「えっ、いやですわ、ほんと」
コートのほつれよりも指摘されたことのほうが恥ずかしかったのか、星は肘をぱっと手で隠した。
「糸切狭、家にあるから貸そうか。上がって?」
「「え」」
星とニノマエの声がハモる。
「いやいやいや流石にお姉さまのお家に上がらせていただくのは恐縮ですわッ! 私口調がうさんくさいストーカーですのに!」
今朝自分が言ったことを気にしていたんだな、と紫は反省する。
「そうだぞ、普通こんなパンツ見て喜ぶお嬢様口調の不審者家に上げねえだろ、お前の危機管理能力の欠如が心配になってきたぞおれは」
ふたりとも不審者の自覚があるところが少し面白いんだけど、と感じつつ、紫はドアの鍵を開けた。
「両親が帰ってくるの、いつも20時以降だから気を使わなくていいよ。コートのほつれもだけど、なんだかふたりとも今朝より疲れているみたいだし」
紫の言葉に、ニノマエはそれ以上口をはさむのをやめた。
「~~まさかお姉さまの生活空間に入れるなんて! お姉さまの匂い、いえ香りがッ濃いッですッわッ! キャー!」
2階にある紫の部屋に入るなり、星は瞳を輝かせて指を組み、部屋をぐるりと見まわした。
「本人を前に思ったこと全部口に出てるぞアカリ、警察だけは勘弁なんだろ」
相変わらずのふたりを背に紫は机の引き出しからソーイングセットを取り出す。
「これ使って。私はお茶を淹れてくるからベッドにでも腰かけてもらってたら。人を部屋に呼んだことがないからクッションとかなくてごめんね」
紫はそう言い残して1階に降りていく。
「え⁉ 待って、今世のお姉さまの初めてを私もらってしまったということですの⁉ や、やだー! 嬉しい……」
「よかったな。とりあえず部屋の匂い嗅ぐのやめてコートのほつれ直せよ」
そういうニノマエはすでにベッドに腰かけていた。
「んもうあなたは本当に遠慮というものが……ベッドを勧められたということはベッドの匂いも嗅いでも良いという解釈でよろしかったのかしら」
「やめとけ。今のムラサキがアホなのかただ単に寛容なのかおれにもさっぱりわからん。後者ならお前はどこかでアウトラインを踏むぞ絶対」
ニノマエは腕を組み部屋を見回す。
想像通り、非常に飾り気のない簡素な部屋だ。置いてある家具は勉強机と本棚のみ。生活用品以外の私物、小物類がまったくない。年頃の女子高生の部屋とは到底思えない。まあ、ニノマエが知る現役女子高生の部屋は部屋で、かなり特異ではあったが。
ニノマエの隣に、コートを脱いだ星が腰かける。
「ところでニノマエ。どう思います、お姉さまの状態」
「わからん。お前もわからねえから訊いてるんだろ」
「そうですわね。バク十体程度ではまだ変化はないということかしら」
はあ、と小さくため息をついて、星はソーイングセットから小さな糸切狭を取り出す。飛び出していた糸を切り、指先で生地を撫でた。
「ここにまたいつバクが現れるかわかりませんし、次跳ぶときはもっと迅速に仕留めていく必要がありそうですわね」
「やる気があるのは構わないが、アカリ。お前自分の、」
ニノマエが言い切る前に、紫が部屋に戻ってきた。
「ココアとコーヒー、淹れてきたよ。インスタントで悪いけど」
「うッお姉さまの心遣いが身に染みてッ……」
ぐぅと、星のお腹が大きく鳴った。
「腹が減ったんだな」
「~~~~いえ! これは決して空腹の音ではありませんの! お姉さまの心遣いに私の内臓が感謝感激狂喜乱舞しているだけですわ! ええ!」
そうは言いつつ星の顔はすでに真っ赤なトマト状態だ。
そうこうしている間に再び彼女のお腹が鳴る。
ツッコむ気もなくしたのか、ニノマエは可哀そうなものを見る目で星を見た。
「そういえばこいつ朝からなーんも食べてなかったわ。おれは別に食べなくても活動できるけど」
ニノマエの言葉に、紫も星を案じるような視線を送る。
「それは、何か食べたほうがいい。あるもので何か出すよ」
「いえっこのココアだけで十分です、お家に上がらせていただいた上に食べ物までいただくなんて暁家の名折れですしっ」
「『でもでもっお姉さまの手料理がいただけるならそれはそれで僥倖ですわ♡』って思ってるだろ」
「思ってますけど似てないモノマネやめてくださる⁉」
星がニノマエの首を掴んでぶんぶん振り回していると、ちょんちょんと紫が星の肩をつついた。
おいで、と言った後、紫は再び部屋を出て階段を降りていく。
「お、お姉さま⁉ 待って、その小動物への対応みたいなの嬉しい、嬉しいんですけどなんだか複雑ですわーーッ⁉」
「――美味しい。美味しいですわ]
1階に降りてからものの10分。
ダイニングテーブルの席に座らされた星は、目の前に出された角餅入りのかけうどんを無心ですすっていた。うどん1玉がすぐになくなってしまいそうな、良い食べっぷりだった。
「おかわりいる? お餅もまだあるよ」
「いりまふ」
「おいこらアカリ。さっきまでの遠慮はどこにいったんだよ」
ニノマエのもっともな意見に、しかし星は屈しない。むしろ瞳を輝かせて鉢を大事そうに掌で包む。
「だって美味しいんですもの、お姉さまが手ずから作ってくださったおうどん。私、もはやこれが最後の晩餐になったとしても悔いはないですわ……っ」
「冷凍うどんをゆでただけなんだけど……」
あまりにも嬉しそうに、美味しそうに食べてくれるので、紫は申し訳なさを感じた。加えて、そんな彼女を見ていると少し空腹感までも覚えてきた。
「私も作ろうかな。ニノマエ、君も食べる?」
「おれは半玉でいいぜ。卵とじにしてくれるとありがてえけど」
「ちょっニノマエ、そんな贅沢なオーダー……」
「卵もまだたくさんあるから大丈夫だよ。君のおかわりも卵とじにする?」
星は卵とじうどんの誘惑に負けた。
こうして月夜家のダイニングテーブルで少女ふたりとぬいぐるみがうどんをすする図が完成したわけだが、半玉のうどん汁が真っ赤になるまで七味を振りかけている紫に思わずニノマエがツッコんだ。
「お前七味かけすぎじゃね?」
「そうかな。うち、家族全員いつもこれぐらいかけてて」
紫はむせることもなく平然とその赤い汁をレンゲですすった。
「よくそんな辛そうなの飲めるな。なあアカリ」
ニノマエの問いかけに、しかり星はぼう、とその赤いうどんを見つめている。
「アカリ?」
はっと我に返った星は、
「……あ、いえ。なんでもありませんわ! 卵とじうどんもとっても美味しいです。ありがとうございます、紫お姉さま」
紫の両親が帰宅するであろう20時になる前に、星とニノマエは月夜家宅を出ることにした。
「本当にごちそうさまでした。この御恩は一生忘れませんわ」
星は深々と頭を下げる。
「そんなに大袈裟にしなくていいのに。ココアとうどんぐらいならいつでも出せるし」
またおいで、と言いかけて、それも変な話かと紫は口をつぐみ、言葉を換えた。
「食事はちゃんととってね」
「はい、もうお姉さまにご迷惑はお掛けしませんわ。それでは失礼いたします」
踵を返す星に、紫から自然と言葉が出る。
「迷惑じゃなかったよ」
その言葉に、星は立ち止まらざるを得なかった。
「……お姉さまったら、やっぱり優しいんですのね。紳士的って言われません?」
「昨日、言われたかも。草津君に」
ふふ、と笑みをこぼし、一礼してから今度こそ星は踵を返し歩き出す。
星の様子の変化に、ニノマエは気が付いていた。
「割り切っていたつもりでしたけど、思ったよりきっっついですわ」
「お前のムラサキも辛党だったのか?」
「ええ。周りが引くぐらいおうどんはいつも真っ赤にしてらしたの。誰にでも優しいところも、本当にお姉さまらしい」
星は浮かんだ涙がこぼれないように、夜空を見上げる。
夜空の星々ですら、憎らしいほど懐かしいあの時のままだ。
星はニノマエに向き直る。
「お姉さまのお陰でお腹も満たされたことですし、次、参りますわよ」
「いや、だからお前、ちょっとは寝」
ニノマエが喋りきる前に、星は彼の身体を刀に変える。
星は再び次元を裂いて、ブラックホールの中に身を投じた。
「お、おはよう、月夜さん!」
翌朝、普段通りの時間に登校した紫は、生徒玄関で草津凪に遭遇した。というより、紫の登校を彼女が待ち構えていたように見えた。
「おはよう、草津君。体調、良くなったんだね」
紫がそう返すと、凪は恥ずかしげに微笑んだ。
「おかげさまで。私、倒れたときのことあまり覚えていないんだけど、月夜さんが介抱してくれたって母から聞いて。だからあの、これ。迷惑をかけたお詫びに」
そう言って凪が差し出したのは、このあたりでは有名な洋菓子店の紙袋だった。それも、そこそこ大きな、贈答用クラスのサイズだ。
「え、悪いよ」
「受け取ってもらわないと私がお母さんに怒られちゃうから! 大きくて邪魔だと思うけど先生に見つからない間にロッカーに入れて、ね?」
そう言って凪はやや強引に紫に菓子を握らせた。そのとき、凪の手が紫のそれに触れ、凪は「あっごめん!」と慌てて手を離し、両手を上げるような形で一歩下がる。
既視感のある動きに紫が思わず頬を緩めると、凪は半ばパニックに近い困惑を覚えた。
「どうかした⁉ 私失礼なことしちゃった⁉」
「ううん。ありがとう。お菓子、大事にいただくね」
軽く会釈してから踵を返し廊下を歩いていく紫の背を、凪はぼうっと見送る。そうこうしていると、凪のクラスメイトが彼女の背をたたき声をかけた。
「凪~、おはよ! 具合もういいの?」
「うん」
「そのわりには顔赤いけど熱とかない? 大丈夫?」
「ないない! ちょっとびっくりしただけ」
「何に?」
凪は少し逡巡し、照れ臭げに笑った。
「……内緒」
「なにそれぇ~」
『日本人形のよう』といわれる同級生――それも同性の、初めて笑った顔を間近で見て、思わず見惚れてしまったなどとは、気心の知れた友人にも言えなかったのである。