第11話
『あはは! 愚かしいわあ! 利き腕を失った時点でどうして降参しなかったのかしらぁ!』
女が至極愉快そうに高笑いを上げる。
「……ッ」
満足に刀を振るえなくなった紫は、女の蛇の腕に捕まってしまった。
『遊びもそろそろおしまい』
女は腕を手繰り寄せて、紫を目の前に持って来る。
『―—じゃあさようなら、五十回目のムラサキ。その脆弱さじゃもう生まれ変われないかもしれないけど、万が一次があったらまた殺してあげるわ』
女は赤い口を開け、鋭い歯を見せる。そしてそれを、紫の首元に近づけた、その時。
『―—ッ⁉』
ドン、という衝撃を受けて、女は停止する。
『なに、』
次の瞬間、蜥蜴が大きく暴れはじめた。
『まさか』
そして絶叫。
蜥蜴の腹部に一閃が走る。それは内部からの斬撃だった。
『あの女!』
蜥蜴の身体がぐらりと倒れ、その反動で女の腕から紫の身体が宙に放り出される。
「お姉さまーーーー‼」
そしてその身体を、蜥蜴の腹部から飛び出した星が見事に受け止めた。
地に伏した大蜥蜴を背に、星は抱えていた紫をおろす。
「…………あぁ。君が無事でよかった」
星の顔を見て、紫はそう言って笑った。星もそんな彼女を見て微笑む。
「お姉さまのお陰ですわ。あとニノマエ」
「おれをついでみたいに言うな」
ニノマエはぺしっと星の頭をはたいた。
紫は女神の腕に捕まりそうになった段階で、ニノマエを蜥蜴の中にいた星に送り届けたのだ。
「紫お姉さま。少し遅くなってしまいましたけど、貴女の最後の夢の力、お返ししますね」
星は一瞬だけ照れ笑いをして、紫の額に軽くキスを落とす。
ひゅうーとニノマエが口笛を吹いたのが聞こえたか聞こえなかったかしないうちに、轟々と地面が震えだした。
『……はは、はははははははは!』
天を衝く甲高い笑いとともに、蜥蜴の死骸から樹の芽が伸びるようにメキメキと、瞬く間に鱗を備えた女がそびえ立つ。
灰色の巨体、紅く邪悪な瞳。蛇のような髪と鋭い牙。
それは、遥か昔。最初のムラサキが穿った女神の姿なのか。
『ようやく、ようやく原初のお前に会える、ムラサキ……! 私が持たぬもの全て持つ女、お前と再び相まみえ、そしてお前に成り替わるこの日を夢見ていたわ……!』
巨大な女神の瞳は、紫を愛おしげに見つめた。
「お姉さまと成り替わる? まさかそれが貴女の望みだと?」
星の言葉にひひっと女神は笑った。
『我が願いを愚かしいと思うか? 貴様らには分からぬ、この世界に生まれ落ちたときから汚れている私の願いなど、到底わかってたまるものかァ……!』
口を開きかけた星を制止し、紫が前に出る。
ガラス玉のようだった瞳には、いまや確かな炎が宿っていた。
「久しぶりだね、■■■」
それは、今は忘れ去られた女神の本来の名だった。女神は顔を歪ませる。
『太古の記憶まで戻ったというの。でも今更その名で呼ばれても、嫌味にしか聞こえないわよムラサキ』
「私は、貴女に謝罪しなければならないとずっと思っていた」
紫の言葉に、星もニノマエも、女神自身も驚愕する。
『はあ? 謝罪? 殺されすぎて頭がおかしくなったのかしら?』
「そうですよお姉さま、一体何を」
それでも紫はまっすぐに女神を見つめて言った。
「以前私が貴女の心臓を射たのは、私の意志ではなかった。あのときの私はただの傀儡だった。自分の意志で射るのならともかく、言いなりで貴女に矢を向けたことは貴女に対する侮辱だったと今なら思える。だから謝罪を」
紫の言葉に、女神は再度高嗤った。
『何を言うのかと思えば! ははっ、いい御身分ねえムラサキ! 何様のつもりよ!』
「癇に障ったなら再度謝ろう。けれど私は貴女に感謝もしている」
いよいよ女神は口を開けたまましばし硬直した。そして。
『……黙れ。黙れ黙れ黙れ‼ それ以上口を開くな! 怒りで我を忘れそうだわ、ああ、このままお前を叩き潰してしまいそう!』
女神の怒りで大気が震え、樹々たちも縮こまったように静まり返る。
ニノマエがあわあわと口元に手をやる。
「まずいぞムラサキ、なに煽ってんだよ!」
「煽ったわけじゃない」
紫はやや残念そうに眉を下げた。そして。
「ニノマエ、弓になってくれないか」
神殺しのムラサキの武器は弓。
ニノマエはついに迎えたそのときに息を呑む。しかし
「でもお前、その腕じゃ……」
紫の右腕は、先刻の戦闘で負傷している。とても矢を放てる状態ではないはずだ。
「いいんだ。ここで彼女と決着をつけなければ、私の夢は永遠に叶わない」
紫の真剣な表情を見て、ニノマエは「一丁前なこと言いやがって」と、弓の形をとった。
「今度は私の意志で撃たせてもらう」
紫は左手で弓を構え、震える右手で矢を掴む。すると、温かい掌が紫の右手を包み込んだ。
「お姉さま。星がお手伝いいたします」
星が紫の背後に回り、弦を引く手を補助する。
心臓の音が重なりそうなほどの至近距離。
呼吸を合わせ、ふたりでひとつの矢を番う。
―—狙うのは、女神の左胸。
その一点を凝視したまま、紫は星に語りかける。
「―—星。言いそびれていたんだけど」
「はい」
「ありがとう。また会えてすごく嬉しかった」
星の、紫の指を覆う力がきゅっと強くなる。
「……はい! 星は幸せ者ですわ!」
放たれた矢は、真っ直ぐに飛翔した。
女神は重ねる。その矢を、過去の光景と。
女神の心臓を穿つ狩人のその瞳。憎しみすら映さぬ純真無垢で真っ白な瞳。
女神はずっと、あの瞳になりたかった。なにものにも染まらぬただ穏やかな瞳に。
―—しかし今の彼女の其れは。
あの時のムラサキの瞳では、なかった。
『どうして? どうしてよ。どうして私が憧れた、真っ白なお前はもういないの』
心臓を撃たれ、小さく萎んだ女神は、地面にうずくまりながらすすり泣く。
紫は彼女のそばに寄り、言葉をかけた。
「貴女を射抜いたあのとき、貴女の呪いが最初に私を殺した時、私は貴女の激情に、憧れたんだよ」
思ってもいなかった言葉に、女神は困惑する。
『なに、を』
「私は貴女のような強い感情を持っていなかった。貴女が言う真っ白な私は、それを羨ましいと思った。だから今の私がいる」
女神は仰向きになって、血を吐きながら笑った。声が枯れるまで笑った。
ひとしきり笑い終えて、女神はぽつりと呟いた。
『……あーあ。結局私は、自分で真っ白な貴女を、汚してしまったのね……』
女神の身体が、泥のように溶けていく。
『私は死なないわ、神だもの。でもお前のことはもういらない。顔も見たくないわ』
それが、女神の最後の言葉だった。
静まり返る一帯。
何事もなかったかのように、樹々にとまっていた鳥たちが羽ばたき始めた。
「……やった! やったぞアカリ! ミッションコンプリートだ! すげえ!」
ぬいぐるみに戻ったニノマエが、星の手を握ってブンブンと振る。
「ええ、やりましたわ! 遂にやりましたわ!」
星の目尻には涙が浮かんでいた。そして
「お姉さま!」
星が紫の胸に飛び込む。
「よかった、……ほんとうによかったですわ」
紫が星の肩に触れようとしたとき、夕暮れの日差しが透けるように、彼女の身体から色がなくなっていくのを紫は見た。
「……星?」
星が顔を上げる。
「ごめんなさい、お姉さま。お姉さまは多分、もう気づいていらっしゃるでしょう」
泣き笑いのような表情で、彼女は紫に告げる。
「私、ほんとはまだこの時代に生まれていませんの」
――彼女は、未来からここに来ている。
最初に違和感があったのは、彼女の制服。
まったく見覚えのない制服だったのに、紫が彼女のコートを預かった時に見えた裏地には、都内では知らぬ者はいない有名女学院の学院名が刺繍されていた。かの学校の制服は、かなり懐古的なワンピース。それが近々一新されるらしいというニュースも知っていた。
ニノマエが過去に遡る力を持っていることを知った時点で、その推測はより確信に近くなっていた。
「……もう、会えないの?」
紫の小さな声に、いいえと星は首を振る。
「もうすぐ生まれます、私が今消えるということは、私がもうすぐこの時代に生まれるということ。だから、……だから、すぐに、」
無理に笑おうとした星は、やはり笑えずに真珠のような大粒の涙をぼろぼろとこぼし、しゃくりあげながら言った。
「ちょっと、いえ、大分、お待たせしてしまうかも、しれませんが! わ、私のことっ、待っていてくれませんか……っ?」
今にも消えそうな彼女の肩を、紫は左手で引き寄せる。
そしてぎゅっと抱きしめた。
「必ず迎えに行くから。星が待ってて」
紫のその言葉に、星は何度も頷いた。
「……私の夢、お姉さまに託しますね」
星は笑顔でそう言い残して、宵の空に明星が灯ると同時に姿を消した。




