第9話
◇ ◇ ◇
―—まだこの国の民が、神を信じ交信していた時代。
美しい神、人々に祝福を与える神々は、彼らに歓待され敬われた。
一方で、人々に試練を与える神々は彼らに嫌われ信仰を失っていった。
悪逆の女神―本来はそんな名ではなかった―は後者に属する女神だった。その姿は恐ろしく、瞳はまるで血のような紅。この世の理、食物連鎖の輪から外れた人間達に、真にこの星に生きるべきか問う試練を与える彼女は、いつしか人間にとっては疎ましいものとなり、果ては邪神として扱われた。女神は神々の輪からも孤立し、傲慢になり、やがて真に邪神として振る舞うようになる。
女神が荒ぶれば日照りが続き飢饉が起きた。贄をひとり捧げられれば、これでは足りぬと里ごと飲み干した。誰もが畏れ、忌避する存在に彼女は成った。
しかし、ただひとりだけ、彼女に正対した者がいた。
それは同じ神ではなく、ちっぽけなただひとりの人間、ただの狩人。その女はムラサキといった。
醜い女神とは違って、彼女は凛として美しかった。
激流のような気性を持つ女神と違って、ムラサキの心は常に凪だった。
傲慢で孤独な女神と違って、彼女は優しく誰からも愛されていた。
彼女は生まれながらに世界に祝福されていた。
「貴女の死を皆が望んでいる」
世界に祝福された者のみが扱える、神殺しの矢。
本来ならば人間の域では到達できない業をもって、ムラサキは女神の心臓を撃ち抜いた。
◇ ◇ ◇
(ああ)
蜥蜴の赤い瞳に、亜麻色の髪の少女の殺意が映りこむ。しかし
―—違う。違う違う違う違う!
あと一寸。あと一寸で、星の刀の切っ先はその赤い眼に届いた。
しかし。
「っ!」
寸でのところで、星の身体は『何か』に捕まった。それは。
『―—其れじゃないわ、お前じゃない、私を射抜いたのはお前じゃないの、嗚呼、ああ、嗚呼、アア! 憎らしきあの無垢なる瞳よ!』
嬌声に似た叫び。
蜥蜴の喉の部分から、女性の上半身が隆起するように出現していた。
その両腕は蛇のような形をしており、その双蛇が星の身体を絡めとっているのだ。
「く、あ、あぁあっ……!」
巻き付いた蛇に身体を締め上げられ、ついに星は刀を取り落とす。
「アカリ!」
地面に落ちた刀は、クマの形に戻る。それを見下ろしながら、その女―悪逆の女神の化身は言う。
『こんな華奢な身体でよくここまでやったものだわ。どれ、せっかくだからお前たちが足掻いた成果を私自ら見に行ってあげる』
ふふ、と女は愉しげに口を歪ませ、完全に意識を失った星の頬に蛇の舌を這わせる。
「アカリを放せよ!」
ニノマエが叫ぶと、女は狂気的に笑った。
『あははは! 此方だってお前らに四十八も殺されたのよ、この女の夢でも取り込まないと、割に合わないじゃない!』
次の瞬間、蜥蜴は星をごくりと丸呑みした。
愕然とするニノマエを捨て置き、大蜥蜴は一瞬で姿を消した。
◇◇ ◇
ニノマエは、紫を校舎の裏手の山に連れて走った。
樹の陰に身を隠し、ニノマエは紫を改めて見上げる。
「……ムラサキ、お前。やっぱり駄目なのか」
ぬいぐるみの表情はよく分からなかったが、彼が愕然としていることはその声色で読み取れた。なにが、と紫が問う前に、彼は頭を抱えた。
「なんでだ、全部は取り返せてないにしたって、四十八のバクを殺したはずだ、なんで……なんでお前に神殺しの力が戻らないんだ!」
「ねえニノマエ、星君が食べられたって」
「そうだよ! アカリがあの女神に食われたんだよ! お前じゃなきゃ助けられないのに! 何でお前、……」
紫に言ったところで仕方がない。そんなことはニノマエもわかっている。しかし嘆かずにはいられない。
「これじゃあんまりだ……」
「……ごめん」
悲嘆に暮れるニノマエに、けれど今の紫には、そう言うことしかできなかった。
しかし。
「私は、どうしたらいい?」
紫の言葉に、ニノマエは少しだけ驚いた。
ニノマエから見れば、今世の紫の瞳はあまりにも空虚だった。
今でもそれに大きな変わりはない。
……いや、本当にそうだろうか?
今の紫には、昨夜には無かった熱がある。
「……お前、星のことを助けたいと思ってるのか?」
その問いに、紫は迷いなくこくりと頷く。
「理由は? そんな空っぽのくせになんでそう思う」
「……今は、そこまで空っぽじゃないよ。多分」
癇に障ったのか、紫は急にむっと眉間に皺を寄せた。
その表情は、高校生にしては随分と幼く――しかしとても人間らしい表情だった。
「星君と初めて会った日から、胸が火傷したように熱かったんだ」
紫は胸に手を当てそう告げる。
うん? とニノマエは怪訝そうに首を傾げる。
「最初は、お腹が空いている彼女を見て、なにか食べさせてあげたいと思ったし、寝不足でふらふらの彼女にはしっかり寝てほしいと思った。誰よりも親切にしてあげたいと思った」
正直今はこんな語りを聞いている場合ではないのだが、紫が真剣なので、ニノマエはちゃんと聞くことにした。
「星君が5回前の私のことをとても大切にしているのは嬉しかったけど、それに少し嫉妬もした。どうしてかなって昨晩ずっと考えていたんだけど、私は星君のことが好きらしい」
「………………マ?」
突然の告白に、ニノマエは思わず間の抜けた声を上げてしまった。
「それって、アカリに惚れたってことか? お前が」
「惚れるって、好きになるってこと?」
まだ少しあいまいな紫の返答に、ニノマエは苦笑した。
「いや、すまん。そうあってほしいとおれが思ったんだ。あいつバカだしたまにうるさいけど、お前のことずっと想ってがんばってて、おれはただの道具だから、だれかに肩入れなんてほんとはしたくねえけど、あいつには報われてほしいなってずっと思ってたんだ」
「それが君の願い?」
「そうだ」
紫は微笑んだ。
「……素敵だね」
そのとき、樹々の合間をくぐり抜けて、大蜥蜴がふたりを追って現れた。
『隠れてないで出てきなさいよムラサキ。命を惜しむ性質じゃないでしょう?』
ニノマエは言う。
「どうするムラサキ。おれならお前を、次元を切って別の時代に逃がしてやることくらいはできるが」
しかし紫は首を振った。
ほんの少しだけ、彼女は不敵な笑みを見せる。
「惚れた女の子を放ってはおけないでしょう」
まるで映画のヒーローが言いそうなその言葉に、ニノマエはハハ、と心底からの笑みをこぼす。
「上等だムラサキ、アカリを助けにいこうぜ!」
ニノマエは刀の姿になって紫の手に収まった。
女はその様子を見て引きつった笑いを見せた。
『なあに、まさか私とやり合う気でいる? そんな貧弱なムラサキが? 夢も欲も感じられない、そんな空虚なお前が刀をとったところで私にかなうわけがないわ』
女神は蛇状の手を伸ばし赤い眼を見開く。
『お前はいつものようにただ私に身を委ねればいいの、お前を殺して何度でもその魂を掬うわ、あの憎らしいほど美しい、真っ白な原初のお前に会うためにね!』
ふたつの蛇が紫目がけて勢いよく伸びてくる。さながらそれは標的を追撃するミサイルのようだったが、紫は前傾し、その軌道から見事に逃れるように走った。
(―一撃目をかわしたのはまぐれではない?)
そんな疑念が女神の脳裏をよぎる。
蛇から逃れた紫は、素早く駆け続け、どんどんと女神から離れていく。
「よく躱したムラサキ! けどあいつから離れすぎじゃねえか⁉」
ニノマエの言葉に紫は「これでいい」と短く答える。
「それよりニノマエ、ひとつお願いがある」
「あ?」
紫の指示をニノマエは了承した。
『!』
次の瞬間、女神は紫を見失った。
—―刹那、目が眩む。
大蜥蜴の赤い眼の上、何の前触れもなく、そこに紫は現れた。
『な』
赤い目玉に刃が突き刺さる。蜥蜴は痛みに悶え打ち、身体を大きくひねった。
その反動で紫は弾き飛ばされ、地面に転がる。
「おいムラサキ! 大丈夫か!」
「大丈夫」
あの状況でも受け身をきちんととっていたのか、紫は特に痛がる様子もなく、そつなく立ち上がった。
ニノマエには次元を切る力がある。時代を行き来できるのはもちろん、正確な空間把握能力と高い演算能力があれば、『同じ時間軸での地点のみの移動』も可能だ。
それが可能であることすら教えられてもいないのに、星でもできなかったそれを、紫は見事にやってのけた。加えてこの短時間で、あの蜥蜴の急所が鱗に覆われていない『目』だということも紫は把握していた。
(なんだ、こいつの戦闘センス。まるで本物のムラサキじゃねえか。アカリが集めた夢の力がやっぱり戻ってるのか?)
しかし、いいや、とニノマエは否定する。それにしてはあまりにも、まだ足りない。何かが足りていない。ムラサキの核となるものが、今の紫には欠如している。
それがなければ紫はこの女神を殺せない。
『おのれムラサキイイイイイイイイイ』
眼窩からどす黒い血をまき散らし、蜥蜴は紫に突進する。
紫はそれを躱そうとしたが、
「!」
避ける寸前、蜥蜴が口から何かを吐いた。
粘度の高い緑色の液体は、紫の右腕に飛び散った。
「っ」
「ムラサキ⁉」
紫を襲ったのは、まるで酸をかけられたかのような肌が焼ける痛みと、骨を溶かすようなひどい倦怠感だった。
右腕は完全に脱力し、紫はニノマエを取り落とした。
『あははははは! 調子に乗るからそういうことになるのよ! いいわねえ、いいわねえ、たまにはこういうのもいいわねえ! いつもはあっけなく殺していたけど、こういう趣向もいいわねえ!』
悦に入った女神がけらけらと笑う。
『次はもうひとつの腕も使い物にならなくしてあげようかしら! その次は右脚、その次は左脚。標本のように動けなくしてからゆっくり殺してあげようかしら‼』
紫は、脂汗を額に浮かべながらも地面に落ちた刀を左手で拾い上げた。
「おいよせムラサキ、あれはやばい、まじで死ぬぞ、退け」
ニノマエの忠告に紫は答えなかった。その代わりに。
「……私は、星君がきらきらしてたのが、羨ましかった」
ぼそりと彼女はそう呟いた。
「は?」
「私には、今までそういうの、なかったから」
火傷しそうなほどの、彼女の熱い掌を覚えている。
五回前の紫を語ったときの優しい表情を覚えている。
あんなにきらきらしている彼女が、そんな風に語った五回前の紫は、きっと。
他の誰のものでもない、自分自身の夢を持っていたはずだから。
それがどんなものだったのか、確かめるまでは。
「私は、ここで逃げるわけにはいかないんだ」




