プロローグ
湿り気のある暗闇。鬱蒼とした茂みの中を少女は駆ける。
「アカリ、上だ!」
ハスキーボイスに導かれ、少女は天を仰ぐ。
月を隠すように紺碧の空を跳んだのは、八本足の大きな影。
その巨体は重力任せに少女に向かって降ってくる。
少女は脇へ転がりそれを避けた。
「——おぞましい」
口に入った草の切れ端を吐き捨て、少女は目の前の異形にそう呟く。
ギチ、ギチ、ギチ。白い剛毛に覆われた赤い八つ目の大蜘蛛は、威嚇するように顎を鳴らし、そして猛スピードで少女に突進した。
「ちっ」
少女は怯まず手に携えた刀を振るう。
確かな手ごたえと共に、蜘蛛の左脚が二本吹き飛んだ。しかし
「!」
脚を二本失っただけでは蜘蛛は止まらず、残った太い脚に少女の身体は弾き飛ばされる。
「アカリ!」
弾き飛ばされた身体は勢いよく背後の樹にぶち当たる。そこに追い討ちをかけるように蜘蛛は腹から糸を吐いた。
途切れそうになった意識を必死に繋ぎ止め、少女は反射的に身を屈め糸を避ける。その隙に再び蜘蛛は少女に跳びかかった。少女は怒りで歯を食いしばる。
「……私の上に、乗るな‼」
渾身の、下段からの一閃。
蜘蛛は頭と胴体を分断され、体液をまき散らしながら地面に転がった。
「アカリ、大丈夫か?」
「……これで、三十体目。次の時代にシャワーがあるといいのですけど」
少女は蜘蛛の体液で汚れてしまった髪とコートを気にしながら、刀身についた液を散らすように刀を振った。
ズキリと脇腹が痛み、少女は顔をしかめる。
「おい、アバラでもやられたんじゃねえのか⁉ 一旦基点に戻って休め、身体が持たないぞ」
しかし少女は、苦痛でゆがんだ口元を上方に結びなおし、乱れた前髪をかき上げた。
「冗談。お姉さまにあんな大見得切ってしまったんですもの、最後の一体を倒すまで帰れませんわ。ニノマエ、次に行きますわよ」
「おい!」
制止を聞かず、少女は歩みを止めない。
ただひたすらに、彼女は前を向くだけだ。
◇◇ ◇
その冷たい手を覚えている。何度も何度も、私の亡骸を掬ったその掌の感触を。
繰り返す輪廻に私の心が何も感じなくなっても、その冷たさだけは決して忘れなかった。
だから今回も、「またか」と。目と鼻の先を掠めた死の匂いを感じた時、私は自然とその冷たい指の感触を思い出して目を伏せた。
けれど。
「させるかあああああ!」
そんな怒号と共に私を突き飛ばしたその掌は、まるで燃えているかのように熱くて。地面に転がり、身体を強打しても痛みはほとんど感じず。
ただ少し、心が火傷をしてしまったかのように茫然と。
閃光のような彼女に、私は見惚れてしまっていた。