第一章 第四節
第四節
一
目の前に巨大な黒い塊が広がる…。強い死の香りを放つ巨大な忌まわしい塊が…。
くるりはその塊の前に佇んでいた。そしてその全景を見渡していた。肩がわずかに上下する。
砂原にこの黒い塊が見え出してから次第に歩を早め、しまいには半ば走ってここに駆けつけた為だった。
山の中腹に位置する舞台に目を凝らす。
舞台に下がる簾がわずかに揺らいでいる。けれどそこに人の気配は感じられない…。
くるりは山の中腹から視線を下げて山の麓を見渡した。
そこには沢山の骨で出来た針山が広がっていた。
白い砂と白い骨…。無なるものと死なるもの…。
両方とも白いものだけれどそれは確かに別のものだった。
骨の白さには寂しさと哀しみが漂い生なるものの名残を残していた。
そう…わずかだけれど確かにあるものとして感じられた…。
くるりは骨の針山に近づいていった。
近づけば近づくほどにその骨がとても大きなものである事がわかってきた。
この前来た時は象の骨位だと感じていたけれどそれよりさらにもっともっと巨大な生き物のものであった事がわかってきた。
くるりは一つの骨に向き合いそっと手を触れてみた。
ひんやりと冷たく荒い岩肌のようにざらざらとしている。
それはくるりが両手を広げて抱きしめようとしても決して抱きしめる事が出来ないだろう太くて巨大な背骨だった。
背骨にそって空を見上げる。
暝い漆黒の空に規則正しく節目を付けて伸びる白骨はあまりに世界に際立ち過ぎて造り物にしか見えなかった。
少し強く押してみても、びくともしない。
―――どうやってこんなに大きな骨を砂の中に埋め込んだんだろう…。
しかもこんなに沢山…。
くるりは辺りの突き立った骨を眺めた。時折粉雪のように骨の間を朽ちた骨が舞い落ちる。
とりあえず随分昔にここに埋め込まれた事は間違いないようだ…。
くるりは骨の中を進んでいった。骨は全てあばらを取り除いた背骨だけのものだった。
背骨のつくりはどれも同じだった。けれど一つとして同じものなどなかった。
大きさや存在感、朽ちた度合、色合いも黄色がかっていたり青みを帯びていたりとそれぞれの骨にそれぞれの特徴があった。
さらさらとまた目の前を骨の粉が舞い落ちる。
―――舞い…落ちる…?
くるりはその場で足をとめた。そして自分のまわりに意識を集中させる。
ほほをわずかになでられているような感覚にとらわれた。
―――風が吹いている…。
それはくるりの前方から感じとれた。しかし視線を前方に向けても骨の針山の先にはあの黒光りする恐ろしい山しか見当たらない。
くるりはさらに前へと歩を進めた。
しかし黒い山に近づけば近づく程に骨と骨の感覚が狭まり朽ち落ちた骨が岩山のように目の前に立ちはだかる。
結局黒い山の麓に行きつく前に人が歩けるような隙間はなくなってしまっていた。
くるりは前へ進むのを諦めて今度はその朽ち落ちた岩山に沿って横に進み始めた。
横へ進むと山の麓に向けて多少前後する事はあったがあくまで前後するだけで確実に黒い山の麓へ辿りつけそうな道は見当たらなかった。
結局黒い山と骨の林が交わるこの不吉な塊自体の端にまで辿りついてしまったがそこにも道らしき道は見当たらない。くるりはもと来た道を辿り反対方向の横道も歩いてみた。
しかし反対方向の端まで歩いてみても麓へ進めるような隙間は見当たらなかった。
―――少し休もう…。
くるりは足もとに転がる手頃な骨の残骸に腰を下ろした。腰を下ろした途端足がじんわりとする。
―――そういえば茶屋からここまで休んでなかった…。
くるりは自分のふくらはぎの辺りを軽くもみほぐした。
それが終わるとまた腰から瓶を外し中の湯を一口喉へ流し込む。体がすっと軽くなった。
くるりは一つ息をつく。
空を見上げる…。星ひとつない暝い空。星の代わりに骨のかけらがさらさらと空を横切る。
骨の吹かれてきた方向にそのまま頭を後ろに傾けていく。針のように連なる骨の隙間に滑らかな黒い山肌が見えている。骨の間を歩いて結構近づいたと思っていたけれどまだまだ遠くにありそうだ。くるりは黒い山肌に向けていた視線を山裾の方へとそのまま滑らせていった。
――――?
くるりは頭を起き上がらせて後ろを振り返り近くの黒い山肌に目を凝らした。
そこにはわずかな窪みがあった。幾つも幾つも、それは山の中央に向かって点々と伸びていた。
流れる川のような文様を浮かべる山肌にあるそれは明らかに自然に出来たものとは違っていた。
それは確かに上へ上がる為のものだった。人一人がやっと足を掛けられる窪みがあるだけで捕まる所の全くないとても階段と呼べるようなものではなかったけれど確かに人が上に行く為に穿たれたものだった。
くるりは腰を上げて一番近くにある窪みを探した。
それは崩れた骨の山を一つ登った所に穿たれていた。くるりはその骨の山の一番手近な骨に手をかけた。少し強く下に引っ張ってみたがかけらが少しぱらぱらと落ちる位で足場自体には問題はない。そもそもかけらといってもそれはくるりより皆大きな塊だった。くるりは両手で骨につかまり何とか近くの別の骨に足を掛けたりして体を上に持ち上げた。その上にもまだ沢山の骨のかけらが積み上がっていたが、幸いにもそれらはくるりが何とか手を掛けられる程度のものだったのでくるりは一番近くの窪みにまで辿りつく事が出来た。
くるりは窪みに足を載せてみた。やはりそれは両足を載せる事が何とかできる程度のものだった。一歩手前の窪みはくるりが大股で足を開くと届く位の位置にある。
――――…ちょっと怖い…。
山肌に両手を付けて片足を前の窪みへと伸ばす。
山肌はつるつるとしていて掴まる所としては何とも頼りない。
両の手の平を思い切り突っ張り山肌にへばりつくようにして次の窪みへと進む。
――――下は見ないようにしよう…。
上に登るにつれて背中に吹き付ける風が強くなる。
――――あたしは「在人」だから死ぬ事はないだろうけどここから落ちたらきっともう動く事が出来なくなる…。
気をつけていかないと…。
くるりは少しずつ少しずつ山肌を登っていった。
二
ぎしり…。
くるりは楼閣の舞台の上に降り立った。舞台を造る木は皆完全に水気がなく生気も無い。ささくれ立ち所々朽ち抜けている。今くるりが足にしている木も何処となく頼りなく足下では少し動くだけでぱらぱらと木くずがこぼれていっているようだ。
ふわりとくるりの袴の裾がはためいた。同時にくるりの鼻先、そして前髪をわずかに風がくすぐっていく。
―――下から…?でも下には骨が…。
くるりは足もとの朽ちた舞台の隙間をみつめた。
隙間から見える風景はただただ真っ暗だった。骨の白さなどどこにも見当たらない。本当の闇が広がっていた。
くるりはゆっくりと舞台の外側へ移動していった。そして舞台の下をのぞき思わず息をのんだ。
真っ暗だった。舞台の端から端まで巨大な底の知れない大きな闇が広がっていた。その闇の中へ舞台を支える柱が何千本と伸びていっている…。とても底がある闇には思えなかった。そして風はその闇の中からわずかに吹いてきていた。
まるで細く…溜息をつくかのように…。
―――なんて寂しい風…。
くるりは風を受けながら舞台の真中に位置する楼閣に向かって歩いて行った。
楼閣の中も外の舞台同様酷く朽ちていた。楼閣は三層から成っていてくるりが舞台つながりで入った所は一番下の一層だった。
薄暗い部屋だった。そこに幾つもの細長い燭台が置かれていて一番上に油皿が載っていた。部屋の明かりはそこから取られているようだがそこに浸した紐からさめざめと燃える小さな白炎に温かさは全く感じられない。
それは小さく小さく嘆くように揺れていた。
その嘆きのようなぼんやりとした灯に照らされるように部屋の中心に小さく急な上へと昇る為の階段がしつらえられていた。これまで見てきたものと違って足のかかる部分が多少擦り減り鈍く光沢を放っている。
そう…よく使われている今だ生きている木で出来た階段だった。
くるりは階段を上って行った。二層まで登り切ると舞台の闇底から吹き込む風がゆるやかにくるりの体をすり抜けた…と同時に不思議な香の香りが鼻をくすぐる…。
二層には幾つもの香台が置かれていてそれぞれがそれぞれの色と香りを醸し出していた。けれどどの香もくすぶるように細く煙を流しているので数の割には香りはきつくない。
中央には天井から吊るされた白炎の燭台に照らされる形で書机と座椅子が置かれていた。
近づいて見てみると書机には幾つもの巻物がちらばり様々な筆や墨壺がその間から顔を覗かせている。くるりはおもむろに一つの巻物を手に取ってみた。
「……たとえ…生まれ変わろうとも…」
くるりは一番始めに目にとまった一文をとりあえず読み上げてみた。
「必ず君に巡り逢い……君と必ず―――」
「っ!」
思わずくるりは巻物を手放した。巻物が書机の上にばさりと落ちる。その拍子に墨壺が倒れたようで書机の隙間からしたしたと墨が垂れてきた。
くるりは書机の下に出来ていく墨溜まりを見つめながら今自分が見た文章を心の中でかみしめるように呟いていた。
――――たとえ生まれ変わろうとも、必ず君に巡り逢い君と必ず添い遂げる…。
それは決して戯れに書かれたものではなく、真に己の気持ちを書き記した恋文だった。
くるりは予期しなかったあまりに強い人の思いに触れて動揺していた。わずかに乱れた息を整えようと胸元にしっかりと握り込んだ拳を添える。
呼吸を整えながら墨溜まりの手前に置かれた座椅子に目を移す。そこには人の重みで緩やかに作られたくぼみがあった。
くるりの視界の隅に闇が広がる。
ふと気付くと墨はゆるゆると広がりを見せ座椅子に迫っていた。くるりは慌てて座椅子を少し後ろにずらした。
――――しゃらしゃら……。
はっとしてくるりは音のした方向を見つめた。それは二層より手前に突き出した舞台の上からの音だった。そこだけ外への視界が開けていない。
くるりは舞台へと歩いて行った。視界をふさいでいた物は沢山の黒い数珠簾だった。それが風に揺らされてしゃらしゃらと音を立てている。
――――あの人のいた所…。
くるりは両手で手前に広がる数珠簾をかき分けて外の世界を見渡した。
そこには先程まで自分がさ迷い歩いていた骨の針山が何処までも続くかのように広がっていた。こうして高い所から見てみると白い砂と骨の山の境目が全くわからない。骨の山が本当にどこまでも続いているかのように見えた。すっと視線をもっと手前の足下に広がる暗闇へと移すとそこには舞台の上で見たように巨大な空洞のような穴が広がっていた。やはりどこまでも続くかのように底が知れない。
くるりが思わず前へ身を乗り出したその時―――
「そこで何をしている…。」
あまりの突然の問いかけにくるりはびくりと体を震わせた。
振り返ると二層と舞台の境目辺りに人が一人立っている。
そこにはくるりと同い年位の背格好をした青年が立っていた。
ややつり上がった漆黒の瞳、首と両手首に沢山の数珠を巻きつけている。着物や髪も瞳の色と同じ漆黒でその中で白骨のように白い顔と手が際立って見えている。
――――白い手……。
「誰だと聞いている…。」
その青年がくるりに向かって尋ねた。その声にはわずかに苛立ちが感じられる。
「あ…あたしは……。…っ!」
――――この人…何?
くるりはわずかに後ずさりした。
その青年からは死の匂いも生の匂いも、さらには無の匂いすら感じ取れた。普通ならそのどれか一つの匂いしかしない。けれどその青年からは風にゆらめく炎のようにその立ち上る匂いが常に色を変えていた。
青年がすたすたとくるりの方へ向って歩き出した。
「…どうやって入った?」
――――わからない…この人が生きてるのか…死んでるのか…。
「…お前…生者でも死者でもないな…。」
――――もしかして…あたしと同じ?
「お前………まさか。」
青年がくるりから数歩手前でぴたりと止まりくるりを見つめた。
くるりはまた後ずさりしようとしたが舞台の縁に行き止まりそこでわずかに体をよじる事しか出来なかった。
―――――ジャラジャラジャラッ!
突然の事にくるりは何が起きたのか一瞬分からなかった。視界が反転し目の前に洞の様な闇が広がる…それは空だった。体をすり抜けるだけだった風がくるりの体をからめ捕り闇の底へと引きずり込もうとしているのだった。
――――落ちる…。
くるりがそう思った次の瞬間、くるりの両腕が思いきり引っ張られ何かの上に体を叩きつけられた。
「…つぅ。」
くるりの体の下で声がした。見るとくるりの体の下にいるのは先程まで数歩先でくるりを見つめていた青年だった。どうやら舞台の下へ引っ張られたくるりを助けてくれたらしい。
くるりの腕を掴む青年の指はとても冷たい。衣の中の胸元からも何の響きも感じられない。
けれど―――。
「早くどけ…重い。」
青年は苛立ちを隠さずにくるりをきっと見据えて言い放った。
わずかに息を乱している。
そしてその息はとても―――
くるりはそのままその青年の唇に自分の唇を重ねた。
――――やっぱり…この人生きてる……。
―――温かい…。
次の瞬間両肩の付け根辺りに鈍い衝撃が走った。そしてそのまま跳ね起きるようにしてくるりは後ろに尻もちを付いていた。肩に走った衝撃はこれまで感じた事のない強さの衝撃だった。
くるりが何が起きたのか分からず呆然としていると仰向けに倒れていた青年が体を起こしくるりと同じように、けれどくるりとは別の意味で呆然とした顔をしてくるりを見つめた。
そしてその漆黒の両の瞳からははらはらと涙が落ち始めた。
はらはら。はらはら。
くるりが思わずその青年の顔に向けて腕を伸ばそうとすると青年ははっと我に返りくるりの腕を逃れるように座ったまま後ずさりをした。と同時に青年の流した涙が顔からまたぱらぱらと落ちた。そこで青年は初めて自分が泣いている事に気づいたらしい。自分の頬に触れてその指先と目の前のくるりを交互に見つめている。
――――あ…そっか…あたし今。
くるりが自分のした事の意味について考えていると青年がすっくと立ち上がりくるりを思い切り見下しながら大声で叫んだ。
「出ていけっ!」
くるりはあまりの声の大きさに体をびくりと震わせた。そしてとても怖くなった。
こんなに人から拒絶されたのはくるりにとって初めての事だったからだ。
「……あ。」
「出てけっ…出てけよッ!」
青年が何度もくるりにむかって叫んでいる。その顔はわずかに赤みを帯び始めていた。
――――あたし…この人をすごく…怒らせたんだ。
くるりはとりあえず謝ろうと思った。でもその青年の怒りはとまらず出てけ出てけと大声で連呼するのでとてもくるりが口を挟めそうにもない。
―――――ちりん…ちりん。
その時くるりの胸元で鈴が鳴った。怒りに燃えるその青年には聞こえていないらしい。
まだ目の前で叫んでいる。
「わかった…ごめんなさい。
今日はもう帰らないと行けないから…あたし帰るから…。」
くるりがその青年に向かっておそるおそる言いながらそぉっと立ち上がり目を合わせたまま楼の中の階段の方へと向かって歩いていった。青年は今にも牙を剥き出しにして襲いかかってきそうな獣のごとき空気を放っている。くるりは青年に背を向け階段に足をかけた。そしてそぉっと踏み外さないよう慎重に降り始めた。
「また…来るから。」
くるりは階段を降りながら顔だけ二層に出して青年に向かってそっと声をかけた。
「二度と来るなっ!」
くるりの頭上から強烈な拒絶の言葉が叩きつけられた。くるりは思わず体を震わせせかせかと追い立てられるようにその場を離れていった。
「あぁくるりさん、早かったですねぇ。そんなに急いでもどらなくても大丈夫なのに。
よゆう持ってすず鳴らしてますから。」
茶屋に戻ると「閼伽注」がいつもの笑顔で迎えてくれた。「さき」が縁台でいつのも仏頂面でくるりを一瞥する。そしてすでに茶屋の一部のようになってしまった飲めない死人は変わらず自分の湯のみを見つめていつもの場所に座っていた。そう…いつもの平和な茶屋の風景が広がっていた。
くるりはさきの座る縁台の開いている所に両腕をつき地べたに膝をついてそのまま崩れるようにしゃがみこんだ。
「ほんとに急ぎすぎみたいですねぇくるりさん。ちょっと待って、すぐ新しい湯をよういしますから。」
「閼伽注」はそれだけいうと茶屋の奥へと消えた。
「どうしたの…?何か変………。」
茶屋の縁台に突っ伏しているくるりに向けて「さき」が前を向いたまま問いかける。
「…あの人を怒らせたから。もう来るなって……。」
「……そう。
どうして怒らせたの……?」
「……それは。」
「はいはいお待たせお待たせね。できたてほやほやの湯ですよくるりさん。」
「閼伽注」がくるりとさきの間の縁台の隙間にとんと湯呑を一つ置いた。
くるりは縁台に肘をついたまま両手でそれを持ち上げて口元に運び一息に飲みこんだ。
「…………。」
「おちついた?くるりさん。………くるりさん?」
「………くるり?」
湯呑を見つめたまま動かないくるりを「閼伽注」と「さき」が不思議そうに見つめる。
「………甘い。」
くるりがぼそりと呟いた。
「甘い?」
「さき」が怪訝そうな顔をしてくるりに問いかける。
「嗚呼……はるが来ましたか、はるが…。」
「……何?」
「ですからくるりさんにはるですよ…。」
「閼伽注」が一人訳知り顔でうんうんと頷いた。
くるりは湯のみをただただ見つめていた。