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第一章 第三節


第三節



 

「今回もぐっすりでしたねぇ…くるりさん。」

座敷から炉端に顔を出すと「閼伽注(あかつぐ)」がこちらに向かってにっこりと微笑みかけた。

「みんなは?」

くるりが尋ねる。その間も「閼伽注」は囲炉裏に掛けた茶釜の中を掻き混ぜている。

「ん~、ゆめさんはいつものとおり「堕烏苑(だなんえん)」までのお使いに出てますよ。

それでさきゆきさんには茶屋の前にたってもらっている。

本当はまるえいさんにもお願いしたんだけどきづいたらいなくなっちゃってて…。

あとはね、つゆあるきさんとたかこさんに「厭山(ようざん)」まで薪をかり出しにいってもらってる所…。で、あたしは茶釜をみてるってかんじ…。」

「閼伽注」は一息にみんなの今をくるりに告げた。

そして茶釜からその中身を柄杓で掬い

小さな湯呑に移し替える。


「さっ…飲んで、くるり。今回も飲めればらくになります。飲めればね…。」


「閼伽注」が上目づかいに悪戯な笑みを浮かべながらくるりの方に向けて湯呑を差し出す。

くるりは「閼伽注」の前まで進み出てその湯呑を受け取り一息に飲んだ。


「………。」

「あ、ひと息。そのようすだと今回も特にかわらないってかんじ…?」

「閼伽注」がややつまらなそうにくるりから空になった湯呑を受け取りながら尋ねる。

「うん。熱くもないし冷たくもないし味もしない。変わらないよ…。」

くるりは淡々と答えた。

「そう。珍しいといえば珍しいんですけどねぇ…。

それもつづきますと飽きますからねぇ…。

今回こそはなにか変わらないかときたいしてたんですけどねぇ…。」

「閼伽注」は湯のみの縁をなでながらぶつぶつと呟く。


「あたしは何をしたらいい?」

くるりが「閼伽注」に尋ねる。

「そうですねぇ…。さきゆきさんとおなじように表にたっていてください。

それでだれか来たらあたしに声掛けてください。湯をいれますからね…。

今はそうしててください。今はね…。」 

「今は?」

「閼伽注」のやけに念を押す「今」の言葉にくるりは尋き返す。

「はい、今ですよ、今。つまり後ではまたちがうという事です。

それについてはまるえいさんから話があります…。だから後です。」

それだけいうと「閼伽注」はくるりから茶釜へと視線を戻した。

くるりも訊く事は訊いたのでとりあえず言われたとおり表に出る事にした。


くるりは茶屋の表に出た。

やや高地に位置する茶屋からは長閑な田園風景がどこまでも見渡せる。

耳を澄ませば鳥や獣の囁きと草木の風に遊ぶ音が優しい。

辺りを照らす日差しの落とす黄色の暖幕がさらにその風景を和やかなものにしている。

今起きたばかりのくるりでさへも思わず欠伸をしてしまいたくなるような空気だった。


「おはよう。」

茶屋の前に立って、いやお客の座る茶屋の縁台に腰掛けていた「さき」が前を向いたままくるりに声をかけた。

「おはよう。」

くるりも「さき」の呼びかけに答えその隣に腰掛ける。


「今回はかなり早かった…。」

「何が?」

「起きるの…。」

「うん…。」

「……。」

「……。」


「何で?」

「わからない…。」

「そう…。」

「……。」

「……。」


「さき」はいつもあまり話さない。それにむすっと怒ったような顔をしている。

「さき」をよく知らない人が「さき」と話をするとみんな難しい顔をして離れていってしまう。

見た目だけでなく物言いでも人を拒絶するような態度をとるからだ。

あたしや「ゆめ」はこの世界で生まれた。だからこの世界の事しか知らない。

自分をこの世界の者だと考えている。たぶん「ゆめ」も同じだと思う。

そんな事当たり前すぎて考えた事もないかもしれない。

でも「さき」は違う。「さき」は「死人(しびと)」だ。「さき」はこの世界とは別の世界に生まれ、そこで死にこの世界に堕ちてきた。

だから「さき」はこの世界を自分の世界と思えず拒絶しているのだという。



この冥獄まで堕ちてきた「死人」は普通皆暗く胡乱な生気の無い瞳をしている。

何の意思も示さず諦めと哀しみをたたえた虚のような瞳…。その為「死人」は「虚人(うろひと)」とも言われている。

でも「さき」は少し違う…。

血の気の無いその顔の中に浮かぶ瞳の闇の中には暗い鬼火のような怪しい光が不気味に揺らいでいる。


――――眼光はその者の意思を表す。それ無き者は皆「死人」じゃ…。


以前ぬし様はそのような事を言っていた。そしてその時くるりは「さき」の瞳の光の事を尋ねた。

「死人」なのにどうしてと…。そしたらぬしさまはとても喜んで教えてくれた。


――――そうじゃ…あれは生きておる…。ただし「生人」ではない。哀れな「死人」じゃ。何故なら―――。


「あの人…いつまでいるんだろう。」

「え?」


いきなりの「さき」の呟きに物思いに耽っていたくるりの意識は一気に現実に引き戻された。

そして辺りを見渡す。すると縁台に一人だけ腰掛けている人がいたのに気づいた。

何故今まで気付かなかったのかという事にはその人をよく見てみて納得がいった。

その人が気配の薄い「死人」だったからだ。

痩せこけた体をやや俯き加減に丸めて座る青年。

両手で湯呑を持ちその中を胡乱な瞳で見つめいる。その姿は置物のように全く動かない。


「あの人…飲めないの?」

くるりが尋ねる。

「…一年近くあのまま。」

「さき」が答えた。


飲めないのは珍しい事じゃない。けれど冥獄の「死人」が留まるという事はかなり珍しい。

本来ここまで堕ちてきた「死人」に執着心等の意思はない。

飲めなかった「死人」は大抵そのままもと来た道は胡乱な眼をして引き返すものだ。


ここは幾つかの土地の境に位置する「茶屋」。

境を越えると今までいた世界とは別の理で成り立つ世界が存在しているという。

水が合う、合わないとはよく言ったものでその「茶屋」で出される湯呑を空にする事が出来ない限り境を越える事は出来ないという。

例え「茶屋」を無視して自分の行きたい道を進んでもそちらへ抜ける事は出来ずこの「茶屋」まで戻ってきてしまうのだそうだ。



「見えたんだろう?」

また「さき」が突然尋ねてきた。

くるりはその意味がわからず「さき」の顔を見つめて首を傾げる。

すると説明するのがさも面倒だというように軽く溜息をついて「さき」がぽつりと呟いた。

「あの「無き原」の中の山…。」

「知ってたの?「さき」!あの山の事!」

くるりは思わず「さき」の方に身を乗り出して尋ねた。

それを「さき」が煩わしそうに少し距離を置く。


「ずっと…初めて旅した時から見えてた。くるりのように音なんて聞こえないけど…。

聞こえるかと聞かれて何も聞こえなかったから黙ってた…。」

「さき」が淡々と言った。

そしてその時初めて「さき」はくるりの方に顔を向け一言言った。

「さようなら…。」

「え?」


くるりも「さき」の顔を見つめ返す。その顔には何の表情も読み取れない。


「どうして?」

くるりが訊く。すると「さき」が顔をまた前に戻してその質問にぼそぼそと答える。

「さぁ…何となく。あそこは墓場で死に切れなかった者達の墓場。

そしてくるりはあそこに呼ばれている…。だからそう思う…。」



――――そうじゃ…あれは生きておる…。ただし「生人」ではない。哀れな「死人」じゃ。何故なら―――。


――――何故なら墓場で死に切れなかった者じゃからのう…。


「「さき」…。」

「私はあそこには行かない…。あそこには行きたくないし呼ばれていないから…。そもそも―――。」

まっすぐ前を見据えたまま「さき」が呟く。

「あそこで私は死に切る事が出来ない……。」

そこで「さき」が欠伸を軽く一つした。






      二


「今回からお前もお使いだよ~くるり。」

「お使い?どこへ…?」

「わかってるだろ?「無き原」の山だよ、山っ!」


囲炉裏を囲んだ夕餉の席で「丸嬰(まるえい)」がくるりに向かって言った。


「山ぁ~?全く君は何を言い出すのやら…。

 あそこに山なんて見当たら――」

「はい、うっさいうっさいメガネうっさい!」

「なっ…眼鏡とは何ですか?眼鏡とはっ…。

 大体僕は眼鏡なんて掛けていませんよっ!」

「知ってるよそんな事!だからあんたの性格がメガネだって言ってんだよっ!」

「性格が眼鏡って…はぁ?…どういう意味から基づく論理ですかっ?」

「はいはい二人ともそこまででおしまい。はなしが何だかわからない方へいってますから。

 めがね論理はあとにしてね。

それにあたしたかこさんの事なんてぜんっぜん興味ありませんからたかこさんがお題の話なんてこれっっぽっちも聞きたくないの!

だからはいそれはお仕舞いはいおわり!」


いつものごとく始まった「丸嬰」と「堯湖(たかこ)」の口喧嘩を「閼伽注(あかつぐ)」が問答無用でばっさりと二枚に下ろした。

「堯湖」もそれで口をつぐんだ。

いつもにこにこしながらづかづか自分の思う所を口にする「閼伽注」の事が「堯湖」は何となく苦手だったからだ。

というかここまで忌み嫌われれば誰でも苦手にもなるだろう…。「閼伽注」の人嫌いは容赦ない。


「あそこに行って何をすればいいの?」

くるりが「丸嬰」に向かって尋ねた。「丸嬰」がくるりの方に向き直る。

「さぁ…それはお前が決めればいいさ…したい事をすればいい。

とにかくあそこに行って話をしてみる事だ。」

「話…。」

「そう…話。」


「丸嬰」の瞳が囲炉裏の炎を照り返して不気味に光る。

そんな二人のやりとりを何もわからない他の皆はただ黙って事の成り行きを見つめている。

いや、「露歩き」だけは囲炉裏の炎をじっと見つめ何やら物思いに沈んでいた。


「何時から?」

「今から!」


「えっ!」

さすがにこの「丸嬰」の発言には話の見えない皆をもくるりと一緒に驚かせた。

「あ~まるえいさん、それは止めた方がいい。ここはね夜は道がないの。

だからどこへもいかれないの。境のすきまにはまってそこで朽ちるのがおちですおち…。」

「そぉ?んじゃ明日昼間って事で!」


「丸嬰」がすぐさま答える。すると「閼伽注」はおもむろに腰を上げ部屋の隅に向かって歩き出した。

「やれやれ、いきなりいまがあしたですか…。

まるえいさんはすぐ飛んだことをいうから心臓にわるい…。」

「おや?あんたにも心臓があったのかい?」

「丸嬰」が意地悪く「閼伽注」のその背に問いかける。

「さぁ~?あったようななかったような…。わすれましたよ、そんなつまらない事は。」

「閼伽注」がひぃ~ひゅひぃ~ひゅうと喉がかすれるような笑い声をたてた。

それを聞いた「堯湖」の体がびくりと震える。どうやら少し怯えているらしい。

「閼伽注」が部屋の隅にある葛籠(つづら)から何かを取り出しその手に握る。

葛籠を元に戻してそのまま炉端に座るくるりの元へ引き返した。

くるりが「閼伽注」を見上げるように顔を上に向ける。


「あぁいいのいいの顔あげない。さげてくれた方がらくだから。」

「閼伽注」に言われてくるりはまた下に顔を向けた。

すると首筋にひやりと何か紐のようなものが触れる感触がし、目の前をきらりと光る何かが横切った。その光の跡を眼で追うと自分の胸元に小さな銀の鈴がぶら下っている事に気づいた。


「これ…。」

くるりが尋ねる。

「これがなったら戻るの。あちらとこちらの道がとじてしまいますから。そしたら境のすきまね。

わすれないでください。」

「閼伽注」がくるりの目の前に自分の指を一筋立てて言った。くるりはそれに目で頷く。

「はい、くるりさんはいいこさんいいこさん。」

くるりの態度に満足した「閼伽注」が何度も頷きながら自分の位置へ戻っていった。


「て訳だからくるり。あんたはもう寝な。あそこ行くとあんたすごく疲れるんだしさ。」

「丸嬰」があぐらをかき直しながら手を振り振り言う。

「…そうっそれだ!…そうですよ!駄目っ、駄目ですくるり!あんな所に行っては!

だって君はあそこをまともに歩けた事がないじゃないですか!

こんな糞餓鬼のいう事なんか聞く事ありません!

皆さんもどうしてこんな奴の言う事を放っておくんですか!あの砂漠に山?

そんなものなかったじゃないですか!」

「堯湖」が突然立ち上がり皆に向かって両手の平を上に向けた姿勢で大げさに呼びかける。

それを「丸嬰」が面倒臭そうに睨みつける。

「こんな法螺吹きの糞餓鬼なんて無視ですよ!無視っ!ねぇ?「露歩き」様っ。」

「堯湖」が隣に座っている「露歩き」に向かって呼びかける。

「露歩き」はというと何の表情も示さず火鉢で囲炉裏の中の炭を掻き混ぜていた。


「あ…たか――」

「あっ私ももう寝る寝る!一緒に寝よう、くるり。」

「ゆめ」がくるりの腕を引っ張る。

「さきゆきさんまだですか?」

「まだというか…寝ない。今日は全く眠れないと思うから…。」

「さき」が煩わしそうに「閼伽注」の問いに答える。


「ちょっ…皆さんっ!」


「そう、では火をみててください。あたしはねむいですから。じゃあまるえいさん…。」

「ん?あ~あたしもここにいるよ。あたしも眠くないからさ。「露歩き」は?」

「…いずれ寝かせてもらうがまだここにいる…。」

「そうかい?じゃあ三人で夜通し語り明かそうじゃないか。」

「…だから私はいずれ寝かせてもらうと言っているだろう…。」

「…私、絶対語らないから…。」

「うわぁヤダヤダ。ノリの悪い二人ぃ~。」


「ちょっとっ…ちょっとってば…!」

「じゃあお先しつれいさせていただきますよ。」

「あ…。」

「お休みィ~。」

「ゆめ」がくるりを奥へと引っ張り込み「閼伽注」が奥座敷の襖を閉めた。

すると襖の向こうから「堯湖」の悲痛な叫び声が聞こえてきた。


「ちょっと!何で僕を無視するんですかっ!僕じゃないでしょ?僕じゃあっ。

ちょっとは僕の話も聞いてくださいよォっ!」

「うるさいねぇ!こんな夜中に馬鹿声出してんじゃないよっ!近所迷惑だろう?」

「近所?金魚?近所?ッは!…どこに近所が―――」


「五月蠅い…。」


ごとっという鈍い音の後、「堯湖」の声は聞こえなくなった。

「あ~「さき」、おとしたね。」

「みたいね。」

「面白いね。」

「そうね。」


「ゆめ」と「閼伽注」のひそひそくすくすささやきあっている。

「でも…あたしの事心配してくれたのに…。」

くるりがそういうと「ゆめ」も「閼伽注」もこちらを向いて

「いいのいいの。あれはあの位で丁度いいの。」

と訳の分からない事をいってくるりを布団においやった。

「教えてあげればいいのに…「丸嬰」の事…。」

布団の中にくるまりながらくるりが呟やく。

「だめだめくるりさん。もっともっとたかこさんであそぶんです。

もっともっと自分がどれだけぶれいな事をしたか思いだせないくらいまでしてからでないとおしえないんですから。」

「そうそう。」

「ゆめ」と「閼伽注」が意地悪そうににたりと笑う。

……怖い。それにいつの間にそういう話になっていたんだろう…。



――――「堯湖」に明日ちゃんとお礼を言おう…。


くるりはまどろみの中でそう思い深く眠りに落ちた。





       三



茶屋の外は昨日と変わらずどこまでも長閑な天気をしていた。

そういえばここでは雨が降ったりした事がない。

雲は遠くに小さくふわふわと幾つか浮かんでいるけれどそれはとても雨を降らせるようなものにはなりそうにない。

そう…ここはいつでも平和だ。


「じゃあくるり!お互いお勤め頑張ろうね!私こっちだから!」

「ゆめ」がくるりに向かってそういうと「ゆめ」はさっさと茶屋からどこまでもどこまでも伸びるかのように見える細い道をすたすたと歩っていってしまった。


――――「ゆめ」はどんな所に行っているんだろう…?


くるりはぼんやりと「ゆめ」の後ろ姿を眺めながら思った。

確か前に「ゆめ」に聞いたらとてもお洒落で綺麗な夫人のお屋敷で歌を歌ったりお話をしたりしているとか言っていた。

あとその夫人に仕えている人がちょっといやらしくて素敵だとかそういう事も…。

それにしてもいやらしいのに素敵だなんてどういう事なんだろう?

御殿にいる豆蔵爺も素敵って事なのかな?かなりいやらしくて最低だって「崩山」言ってたし…。

「ゆめ」はああいうのが好きなのかな…あたしは嫌だな。

くるりは茶屋の周りから幾筋も伸びる道を見渡した。


――――あたしは…どんな人に会うんだろう…。



「…往けそうか?くるり。」

振り返るとそこに「露歩き」が立っていた。

少し離れた茶屋の縁台には「さき」が座っていてこちらの様子を窺っている。


「うん、たぶん―――」

「はいはいいけますいけます絶対いけますよむしろ往くっ。

だってあたしの茶釜のゆがあるんですから。

これさへのンでれば自分があるってちゃんとわかるものなんです。」

「閼伽注」が茶屋の中から顔を覗かせる。

「くれぐれも瓶をわらないでください、くるりさん。

それがないと砂の中でわからなくなってすやすやしますから…それでそのまま砂になってなにもなくなるの。それは嫌でしょ?」

「…うん。」

くるりは腰に提げた茶屋の湯が入った瓶にそっと触れた。

先程まで茶釜の中で湯気を上げていたにもかかわらずそれには一切温度というものが感じられなかった。


―――あたしと同じ…。


くるりは瓶から手を離し一通り皆の顔を眺めた。

「露歩き」、「閼伽注」、「さき」…。「丸嬰」は朝起きたらもう何処かに行ってしまっていた。

「堯湖」はまだ眠っている。結局今朝はお礼を言えなかったな…。


「じゃあ…行ってくるね…。」

くるりは「ゆめ」の選んだ道とはまた別の道を選んで歩き始めた。






夕暮れが夜に染まる―――その位あまりに自然であまりにゆっくりと長閑だった世界はいつの間にやら何も感じられない絶望的な無の世界へと変わってしまっていた。


くるりは思わず後ろを振り返る。その先にあるものもやはり無だった。

あの長閑な世界が自分の歩いてきたこの先に存在しているとはとても信じられなかった。

歩を進める度に足先で砂を滑らせても砂は何の音も立てずに流れていく。

踏みしめているはずなのに足の裏には何の感触も伝わらない。

自分は本当に歩いているのか、本当に前へ進めているのか分からなくなってくる。


―――…気持ち…悪い…。


くるりの額に汗が浮く。息も荒くなる。

自分がつかめず体が小刻みに震え始める。意識が朦朧としてくる…。

くるりは自分の腰に手を伸ばした。茶屋でもらった瓶に指先が触れる。

やはり何の温度も感じられなかったが確かにそこに在るという感覚がその小さな容器の中から感じとれた。

腰から瓶を外して栓を抜き、中の湯だったものを口に含み喉へと流す。

それはやはり何の味も温度も感じられなかったが、お腹の中心に在るという感覚だけは生まれさせた。


自分の中に何かが確かに在る―――。


くるりは自分のお腹に触れ、すっと細く息を吐いた。荒かった息が整い意識もはっきりとしてくる。


―――大丈夫…きっと往ける。


くるりは前を見据えた。

そこに目印となるものは何も存在していなかったけれど、くるりは自分の進むべき方向を確かに感じ取っていた。

くるりは歩みを進める。先にはやはりまだ何も見えない。けれど迷いはなかった。



―――大丈夫…逢いに行く…。


くるりは一人砂の中を進んでいっだ。









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