第一章 第二節
第二節
一
何処までも何処までも続く果てのない無生の砂原。
暝く暝く洞のように深い無光の天空。
あたし達はまたこの地を訪れていた…。
今回で、もう何度目になるのだろうか…。
両の指で数え切れない程ではなく、かといって片手に収まる程の数でもなかったような気がする…。
とにかく、もう何度も訪れた事のある道筋となっていた。
初めてここを訪れた時のように体の芯まで震えて一睡も出来ないなどとというよな事は
なくなったけれど、この土地の無力感はやはりくるりを不安にしていた。
「ほんとにここは毎度毎度ッ…!
イライラするなァッ…もうッ!
寒くないのに何だか寒い…!
何の音もしないのに何だか耳がざわつくうッ…!」
一番後ろを歩く「丸嬰」が今回何度目かになる癇癪を引き起こし地団太を踏んだ。
「うるさいなぁ…またですかぁ?君は…。
この旅をするのは今回が初めてじゃないんでしょう?
だったらこうなる事はわかってたでしょうに…?
全く…わかってるんなら始めから来なければよかったのに…。
なんで来ようなんて思うかなぁ…。」
「さき」の隣を歩いていた「堯湖」がうんざり後ろを振り返った。
「あんたこそうっさいうっさいうっさぁ~い!
てか生意気なんだよなッ!あたしより後に御殿に来たくせに!
たかが貪主の護兵の分際でさっ…偉ぶるなっての!」
「たかが護兵?…はッ…じゃあ君は何なんですかね?
御殿の中じゃ僕の知る限り大した仕事もしてないただの穀潰しでしょう?
それにですねぇ…護兵は貪主様をお守りする御殿の中でも一番重要な役割を任う者の事であって……。
まぁ何です?あまり僕を怒らせない事ですね…。
でないと貪主様に君を追い出すよう進言するかもしれませんよ?」
「その言葉…そっくりあんたに返すよ。」
「…っな!」
「あはははっはは…!」
たまらず「ゆめ」が腹を抱えて笑いだした。その隣で「露歩き」も肩を震わせている。
その後ろを歩く「さき」も着物の袖で口元を覆いながら薄く笑い出した。
そんな三人を見て「丸嬰」はそっぽを向いて澄ました顔をし、「堯湖」は狐につままれた
ような顔をしてどうして皆が笑っているのか分からず途方に暮れている。
そう…たぶんぬし様は護兵の「堯湖」でなく穀潰しの「丸嬰」の進言を聞くであろうから…。
今では御殿に住む殆どの人が知らない事だけれど、「丸嬰」はぬし様が今の「西の指」の
御殿に住む前からの付き合いだという。
大した仕事をしていないのもぬし様の重臣だからとか客人だからだとか監視役だからだとか色々いわれている。
つまり少なくとも「丸嬰」は、「堯湖」達より全然ぬし様に近い関係にあるらしい。
だが「丸嬰」の姿はとてもそんな風には見えないから「堯湖」のように侮って接する者が
殆どだ。
薄紫の肌に長いぼさぼさの銀髪を頭のてっぺんで一つに結び、ひじ丈ひざ丈の短いぼろぼ
ろの着物をまとった童女のような姿。しかも下の前歯が一本欠けている。
けれどちゃんと人を見る事の出来る人ならきっと気付くだろう…。
時折見せるその容姿に不釣り合いな修羅の宿るあまりに深く鋭い眼差しに…。
―――そういえば昔…「露歩き」も……。
「え…ちょっ…待って…何で皆笑っているんです?
……って…えぇッ……「露歩き」様がお笑いにっ?…初めて、見ました…。」
「堯湖」は思わず「露歩き」に……見とれた。
「おぉっと…最近とみに感情を示さなくなったなとは思ってたけど…なんだ「露歩き」、
あんたまだまだ可愛く笑えるじゃないかぁ?
ん~~澄ました顔も良いけどそうした顔もそそるねぇ…。
またまたあんたに心と体を許してしまいそうだよォ…。」
「丸嬰」は両肘を抱きしめ片足を内側に少し折り曲げ体をくねくねとさせた。
みすぼらしい童女の姿でしなを作るその様は、なんだかとても可笑しい。
「なっ…君っ…いい加減にしたまえよ?…僕だけならまだしも「露歩き」様まで侮辱する
様な事を……そもそも君のような小汚い童女風情が「露歩き」様に相手にされる訳がな
いでしょう?全く…馬鹿も休み休みに…というかもう馬鹿を言うのは止めたまえっ…。」
「丸嬰」はそんな「堯湖」の物言いを無視してまだ体をくねらせいる。
くねらせながら一瞬「堯湖」の後方にいる「露歩き」に意味ありげな視線を送った。
「露歩き」はというとまたいつものような、いやいつも以上に凍りついた湖面のような瞳に戻りそんな「丸嬰」の視線を受け止めている。
けれどその右腕は何か言いたくて堪らない瞳を爛爛とさせた「ゆめ」の左腕をがっちりと確実に掴んでいた。
―――――あ、やっぱり「ゆめ」も思い出してる…。
「…とにかく、こんな処で立ち止まっていても仕方がない…先を急ごう。」
この状況をさっさと切り上げるように「露歩き」がさっそうと歩き出す。
もちろん「ゆめ」の手を引っ張って…。
「ゆめ」は物足りなそうな顔をしてしぶしぶ後に従った。
そんな様子をみて「丸嬰」はほくそ笑み歩き出す。「堯湖」も「露歩き」が歩き出したのを見て、
まだ煮え切らない様子だがその後に従った。
――――「堯湖」は「丸嬰」の事悪く言うけど、本当はいてくれて安心しているんじゃないかな…。
隣を通り過ぎまた「さき」の隣を歩きだした「堯湖」を見て、くるりはふとそう思った。
たぶん「堯湖」だけじゃない…。「ゆめ」も「露歩き」も何だかいつもの旅路よりも落ち
着いた感じがする。「丸嬰」は不思議と人を温かくするような人だから…。
――――でも…「丸嬰」が旅に付いてくる時には必ず嫌な事が起きた…。
くるりは一番後ろを歩く「丸嬰」を見た。「丸嬰」はそんなくるりの心を見透かすかのよ
うにその眼に修羅を宿らせ薄く笑い返した。
それは童女とは思えないぞっとするような微笑みだった。
―――そう…「とばねき」が死んだのも、「丸嬰」がいた時だった…。
二
………・・ちり……・・・
――――……きた…。
「「露歩き」…。」
「どうした?くるり。」
「もうすぐここを抜けるよ…。」
「…そうか、聞こえ出したか…。」
「…うん、聞こえる…。」
くるりは瞳を閉じて耳を澄ます。そんな様子を「丸嬰」を除いた皆が不安そうに見つめた。
「丸嬰」はというと目を細めて獲物を狙うかのような面持ちでくるりを見つめた。
――――何か…紙を破いている音…。たぶん誰かが破いている音…。
どうして貴方は「それ」を破いているの?
「それ」には何が書かれているの?
くるりは瞳を開けまた前へ進み出す。皆もその様子を見て前へ進み出した。
――――どうして貴方はこんな寂しい所に…。
くるりの頭に一瞬強い光がよぎった…。違う…光じゃない。
それは朧げな光を受けた人の両の手。その指先から何か白い紐の様なものが…。
………ちり…・・
――――それが、貴方の破いているもの?
「くるりっ…。」
気づくとくるりは砂の上に膝を付いていた。顔を正面に向けると「露歩き」の顔が目の前にある。
――――不安そうな瞳…。
くるりは「露歩き」の顔に手を伸ばしその頬を撫でた…。
「もう大丈夫だから…「露歩き」。たぶんまたちょっと不安になっただけだと思うから…。」
「そうか…。」
「露歩き」がくるりの両腕から手を離した。
というかこの瞬間までくるりは掴まれていた事にも気付かなかった。
掴まれていた所がとても温かい…。
「乗りなさい…。」
「露歩き」が己の得物を前に背負いなおし、くるりの前にその背をかがめた。
「…でも、あたし昔より全然重いし…。」
「そんな細い腕の娘の重さなんてたかが知れてる…。乗りなさい、くるり。」
「露歩き」は背を向けたまま答える。
「ゆめ」がずるいずるいと騒いでいる。…そういえば昔もこんな事があったような…。
「ずるい…。」
「堯湖」もぼそりと呟いた。
「…それはどっちが?「露歩き」?それともくるり?」
「どっちがってそれは…そのォ……。
って君ィっ…僕に何を聞いてるんだッ?」
「さぁ…何をでしょうねえ?」
「丸嬰」がうすら惚ける。
「ていうかお前さぁ普通違うんじゃん?」
「違う?何がですか?」
「堯湖」は「丸嬰」に顔を寄せた。
「だってお前の尊敬する「露歩きサマ」がくるりを背負ってお前は何もしないってさぁ…。
本来なら下っ端のお前から真っ先にする事―――」
「「露歩き」様ァッ!待ってください!そんな事は僕がッ……。」
「堯湖」が叫んだ時には「露歩き」はもうくるりを背負ってはじめの一歩を踏み出してい
る所だった。
「堯湖」はがっくりとうなだれた。
とく、とく、とく、とく………・・………
温かい音。生きる音。あたしには無い音…。
「露歩き」の背に耳をあてその音に聴き入る。
鼻先では「露歩き」の白く柔らかな髪が揺れている。
「露歩き」が歩く度にその体の中の鍛えられた筋肉が動く。
あまりに強く眩しい生きる者の力…。
くるりはまた安心して深い眠りの中に落ちようとしていた。
………・・びりッ……・・・
「……っ。」
肌に触れる「露歩き」の生の力よりもはるかに強い死の力が近づいてくる…。
――――何か…ある。
くるりは「露歩き」の背から耳を離して前を見つめた。
これまで何もなかったはずの白い砂原の中に突然巨大な黒い塊が浮かんでいた。とても不
吉な感じのする巨大な塊…。思わずくるりは体を強張らせた。
「どうした?くるり…。」
「…ううん、何でもない。」
次第にせまるその塊から、くるりは一瞬たりとも目が逸らせなくなった。
始めはただの黒い塊にしか見えなかったそれも、近づくにつれて大きな岩山である事がわかってきた。磨かれたように滑らかな黒光りする巨大な岩山。
まるで川の流れのようにぐねぐねとした模様のある岩肌が天に向かって幾本もの峰を伸ばしている。
それは自然のものにも、まして人の手によるものにも見えなかった。
………………………ちり…………ちっ……………ちりっ。
――――何?…これ。
くるりは目の前に広がるその岩山の全景に息をのんだ…。
骨、骨、骨、何万本はあるかという沢山の骨が目の前に広がっていた。
しかもそれは全て象のように巨大な動物の背骨で砂原の中に突き刺さっている。
まるで針山のように…。
そしてその針山を包み込むように先程から見えていた黒い岩山が後ろにそびえていた。
――――これが…死の匂いのもとだ…。
くるりは直感しそして周りを見渡した。「露歩き」はただ前を見据えて歩き続けている。
その隣の「ゆめ」も同じだ。後ろを歩く「さき」も「堯湖」も二人で何か話をしている。
「丸嬰」だけはくるりと目が合うとくるりの見ていた岩山の方角を眺め、胸の前で片手の
みの合掌をし頭をわずかに下げた。
――――見えているのは、あたしと「丸嬰」だけ…。
くるりはまた岩山に視線を戻した。
よく見ると黒い岩山の中に同じような色をした木造の建物が埋め込まれるように造られている。
それは何本もの柱で支えられた大きな土台の上に作られたぼろぼろの巨大な楼閣だった。
所々瓦が剥がれ人のいる気配は感じられない…。
――――どうしてこんなものがここに…。
一体何の為に…。
もう見るのはやめよう…あたしも皆と同じように知らないふりをしてこの場を通り過ぎよう…。
くるりがそう思った時そこにその人の姿を初めて捉えた。
ぼろぼろの楼閣の中層に位置する他より少し前に出た舞台。
その舞台には屋根がありそこから何本もの簾のような紐が下がっていた。
その簾のために中は見えない。
けれどその簾の間から白い二本の腕が伸びた。
白い二本の腕は同じように白い紐のようなものを持ち舞台の下へするすると落としていく。
………………………ちり…………ちっ……………ちりっ。
さっき頭の中によぎったあの手だ…。
くるりがそう思った瞬間その二本の手が突然動きを止め簾の中へと消えた。
―――――向こうも、あたしに気づいた。
何だか胸の奥がざわついた…。何かに急き立てられるような不思議な気持ち…。
どうしたんだろう、あたし…。思わず強く「露歩き」の背中に顔を押し付けた。
「くるり?本当に大丈夫か?」
「露歩き」が背中に向けて尋ねる。
「……ん、大丈夫。大丈夫だからそのまま早く行って…。」
くるりは「露歩き」の背中に顔を押し付けたまま絞り出すように答えた。
もちろん「露歩き」にもくるりがいつも以上に何かに動揺している事には気づいていた。
しかしそれに対して自分は何も出来ず、またこの砂原を抜ければくるりが安心出来るとい
う事も知っていた。
だから「露歩き」はそれ以上何も聞かず先程よりもほんの少しだけ足を速めて歩き始めた。
――――あそこは禍々しい処…。決して無闇に近づいてはいけない処…。
けれどあの手は恐ろしいものじゃなくて…。
おそらく岩山が見えなくなったからだろう…。
そこでくるりはまた深い眠りの中に落ち始めた。
――――あの手に…あたしはずっと会いたかった…。
くるりはそこで完全に意識を失った。そして次に目を覚ました時、そこはすでに「茶屋」
の座敷の中だった。
こうしてくるりの最後の宴休みは始まった。