第二章 第四節
第四節
一
――――随分と久しぶりに「屍」に会う。
最後に会ったのはあの呪いを受けた時。
少し残念な別れ方をしたような気がする。
一人うずくまる「屍」の姿…。
―――大丈夫かな…「屍」。
「………あれ?」
「ゆめ」と共に茶屋を出たくるりは思わず声を上げていた。
その声に「ゆめ」が振り返る。
「……どうしたの?くるり。」
「ゆめ」は相変わらずやつれていた。
そういえばあまり話したり笑ったりしなくなったような気がする……。
でも、それよりも……。
「……「ゆめ」、少し背が高くなった?」
物心付いてからこの方、常に同じ目線で話していたはずの「ゆめ」の顔がやや上にある事にくるりは気づいた。
その言葉に「ゆめ」の顔がさっと恐怖にゆがむ。
「……ッ…そんな事ないッ!」
とても必死な形相と悲痛な響きを帯びた「ゆめ」の声にくるりはびくりとした。
すでに表の縁台に座っていた「さき」も思わずゆっくりと振り返る。
「「ゆめ」……。」
「さき」の静かな声に「ゆめ」は我に返ると、唇をかみしめてそのまま何も言わず自分の行くべき道を駆けていった。
「……「ゆめ」、どうしたんだろう。」
「………。」
「さき」は何も答えない。
くるりは「ゆめ」の後ろ姿を眺めていたが、しばらくすると自分も「無き原」への道をとぼとぼと歩き始めていた。
茶屋の中から「露歩き」が顔を出す。
ゆっくりと「さき」の座る縁台の傍らに立つと、遠く小さく見える「ゆめ」とまださほど小さく見えないくるりの後ろ姿に目を移した。
「……離れていく。」
「……そうだな…。」
「さき」の言葉がただその姿形だけのものでない事を「露歩き」はもちろん理解していた。
「…もう、長くはない。」
「さき」の呟きを「露歩き」はただ黙って聞いていた。
か細く冷たい風の他に動く者のない世界。
ただ朽ち落ちる事しか果てのない虚の世界。
完全な死を待つ為だけにしか存在しない絶望的な死の世界。
茶屋での暮らしが長かった為か、くるりはこれまで以上にその寂しい世界を肌で感じた。
――――こんな所でずっと一人なんて……。
楼の中の階段を昇る。
一段上るごとにかすかな香の香りがくるりを包み込んでいく。
――――そう、世界に溶け込む不思議な香り…。
部屋の中央の書机と座椅子。その傍らに積み上げられた巻物や半紙の束。
幾つも掲げられた香台。そこからくゆる香の色と香り。
そして……舞台の中央の影法師。
「「屍」……。」
くるりがそっと呟くと影法師がゆっくりと振り返った。
その動きに合わせて背中で揺れていた黒髪がさらりと空を舞う。
象牙を思わせる滑らかで涼しげな面ざしの中の、ややつり上がった黒い瞳がくるりを捕える。
「……くるり?」
その瞳にわずかな光が宿る。人形のようだった顔が表情を浮かべる。
早足でくるりの所に近づいてきた。
「……ひさしぶりだな。もう、来ないかと思った。」
「……ん、ごめん。
指の呪いが解けなくて…それで「死人」に襲われたから。」
「もう……大丈夫なのか?」
「屍」が心配そうな表情を浮かべてくるりに尋ねる。
その手が一瞬くるりの方に伸び掛けたが途中でその動きを止めていた。
「屍」の表情が一瞬強張る。
くるりは自分からその指先を「屍」に見える様に掲げていた。
「ほら…もう大丈夫。」
それは呪いが解けて赤黒く蚯蚓腫れした無残な指先だった。
「どこがだッ!」
「屍」が一喝するようにくるりに怒鳴りつける。
くるりは思わずその声に肩をびくりと震わせた。
「あ……その…ごめん。いきなり怒鳴りつけて…。」
「ううん…。大丈夫。」
「屍」が気まずそうにくるりから一瞬視線をそらし、また窺うようにくるりを見つめた。
その仕草は少し幼く見えて何となく微笑ましかった。
「これはただの傷だから。
こんなだけどあまり痛くないんだよ。
だから、もう大丈夫。」
「そう…か。」
「屍」がほっとしたようにくるりを見つめた。
「まぁ……こっちに来て座れ。」
「……うん。」
くるりは「屍」の後に続く。その後ろ姿を見ていると何だかとても温かな気持ちになった。
ひさしぶりにその顔を見たという事もあるかもしれない。
けれど……。
――――「屍」……何だか色んな顔をするようになった…。
くるりはその事に気付くともっと幸せな気分になっている自分に気づいた。
二
「……そうか。その傷が「死人」を…。」
くるりは早速「屍」に「死人」の話をした。
「屍」は何か考え込むように俯いている。
「あたし、びっくりした。
「死人」が泣くなんて…初めて見たから。」
普通冥獄まで堕ちてきた「死人」に感情はほとんど残っていない。
それが明らかな感情表現である涙をその跡がくっきり残る程流した事にくるりは少なからず衝撃を受けていた。
――――感情の残ってる「さき」でさへ泣かないのに…。
そこではたとくるりは一度思考を止めた。
―――ううん…「さき」はきっと人前で泣かない。
だからそれはあたしにはわからない…。
それに、もしかしたら普通の「死人」にも……。
くるりはすっと顔を上げて「屍」を見つめる。
「「屍」……「屍」はここで「死人」の気持ちを消してあげてるの?」
「屍」がその黒目がちの瞳の中にくるりを映す。
血の気のない白磁を思わせる品の良い唇が言葉を紡ぐ。
「…少し違う。
俺はここで特定のある感情を持つ死人の存在をその感情もろともに葬っている。」
「それは……」
くるりの頭の中に最初に見た恋文がよぎる。
「愛情…。」
「そうだ…。
ここでは愛…、中でも恋しいと想う心を葬っている。」
「……恋しい。」
「…そうだな…そろそろ頃合いだ。
丁度いい。見せてやる。」
「屍」はそう言うとその斜め後ろに積み上げられた紙の束をひっかきまわし、一枚の紙を取り出した。
それをくるりによく見える様二人の間にふわりと広げる。
「これがくるりに呪いの傷を負わせた「死人」の恋文だ…。」
「……恋文……?」
くるりの目の前に広げられた紙には何も書かれていなかった。
全くの白。くるりは首を傾げながら「屍」の顔を窺った。
「……何も書かれてないよ。」
「そう…だがこの前までは書かれていた。
気持がこの中に解け込んだんだ。」
「解け込む?」
くるりがまた一つ首を傾げると「屍」がふわりと別の紙をくるりの目の前に並べた。
「これが何も書かれていない紙だ。」
「……あ。」
並べられてみると、その違いがくるりにも目に見えてわかった。
何も書かれていない紙がややざらつき完全な白でないのに対し、「屍」が書かれているといった紙は絹のように滑らかで純白を淡く光らせていた。
「持ってみろ。」
「屍」に促されるままにくるりはその書かれているという紙をそっと持ち上げてみる。
―――これ……。
「わかるか?」
「屍」の質問にくるりはしっかりと頷いていた。
その紙は赤子のようにずっしりと重かった。そしてしんしんと温かかった。
それは何かしらくるりの心の中に忍び入り、切実に何かを訴えていた。
痛いとは違う、でも何かとても苦しくて……。
くるりは耐えきれずそっとその紙を床に下ろすとふぅっと息を付いていた。
「恋しさの葬送はこの地のものになって初めて行う事が出来る。
紙に移された恋しさは、まだこの地のものではない。
だからこの楼の中の香をたきしめて次第に紙になじませ文字を失わせる。
そこで初めてこの地の空気に解けこみこの地のものとなるんだ。」
そこまで言うと「屍」はその紙を普通の紙のようにひらりと片手に握った。
あまりに簡単に掴む事の出来る「屍」にくるりは目を丸くした。
「今からこの紙を葬送する。
だがその前に……。」
「屍」はくるりの腰元を指さした。それは茶屋の瓶だった。
くるりはすぐに納得しそれを「屍」に差し出していた。
二人の指は触れる事なく「屍」の手へと瓶は渡り、無言でそれを「屍」が懐に忍ばせる。
「それじゃあついてこい。」
「屍」が立ち上がりせり出した舞台へと向かって歩き出す。
くるりも立ち上がりその後を追った。
三
黒く塗られた数珠簾がかすかに音を立て、その隙間から寂しい風が流れ込む。
決して肌を斬る様な冷たい風ではない。
けれどその風は確実に心を斬る様な寂しさを帯びていた。
「屍」は舞台のせり出しの縁に立つと、目の前を覆う数珠簾をその細く伸びやかな指先で掻きわけた。
黒い数珠簾の隙間から真っ白な骨の針山が広がる。
その黒と白のあまりの対比にくるりは目を細めた。
「少し押さえててくれるか?」
「屍」が両手で押し広げた簾の一方をくるりに促す。
くるりは大人しくその一方が閉じてしまわないよう押さえていた。
「屍」は一方の手で簾を押し広げたまま器用に「死人」の恋文を両手で掴む。
「これをこのまま落とすと風に吹かれて葬送出来ない事があったからな。
それ以来下の奈落が掴みやすいよう紐のように細く千切って葬送する事にしてい
るんだ。」
そういうと「屍」はぴりぴりと少しずつその恋文を千切っていった。
骨の光を反射する「屍」の指先、そしてそこからするすると伸びる淡く輝く「死人」の恋文。
この旅でくるりの頭をよぎり、そして実際見たあの光景そのものの姿がそこにあった。
「ここで大事なのが文のつながりが壊れないように千切る事だ。
以前文字を傷つけたらいきなり血が溢れ出してぐちゃぐちゃになったからな。
ああなると手が汚れて困る。」
「文字を傷つけないって……。」
くるりは「屍」の指先からするすると生み出されていく真っ白な細い紙をじっと見つめる。
「……どうやって?」
「……勘だ。」
「………勘…。」
くるりは「屍」が文字を傷つけませんようにと祈りながらその様子を眺めていた。
白い蛇のように「死人」の恋文はうねうねと漆黒の闇の中へと落ちていく。
すると赤黒い煙がその下からゆらゆらと立ち上りその恋文に巻きついた。
と同時に「屍」がその手の中に残る恋文から手を離す。
一瞬のうちに恋文は奈落の底へと引き込まれていった。
遅れてむっとするような突風が吹きあげる。
「終わりだ…。」
「屍」の指先が数珠簾から離れる。
わずかに弾かれた数珠玉がからからと回った。
「屍」が目じりをその指先でさすりながら楼の中へと引き返していく。
くるりはまだその手を数珠簾から離す事無くすでに冷たい闇へと戻った谷底を見つめていた。
「くるり……楼に戻れ。」
「うん……。」
「屍」に呼ばれてくるりは楼の中へ引き返す。
「屍」が座椅子にどっと座り込む。
ひどく疲れたようにまだ目頭を押さえて俯いていた。
くるりがその「屍」の脇にそっと膝を折る。
「……「屍」大丈夫?」
「……ん、」
「屍」がゆっくりとした動作で己の衣の内を探り壜を掴み取るとくるりに手渡す。
その手はそのまま力無く床の上に落ちた。
意識が朦朧としているのか、「屍」から満足な返事が返ってこない。
ただ座っているのも辛そうに見える。
―――この前「死人」を文字にした時とよく似てる。
「寝ていいよ…。」
くるりがそう言うと、「屍」は眼尻を押さえている指の隙間からわずかにくるりを見やりそのまま書机に崩れ落ちるように突っ伏した。
「屍」は完全に沈黙した。
しばらくするとその背中の起伏のみ穏やかな眠りの波を刻み始めた。
腕にわずかに隠された横顔を細く長い黒髪が行く筋も垂れかかる。
漆黒の瞳は瞼の下に眠り縁取る睫毛がその背の波に合わせて囁くように揺れ動く。
くるりは「屍」の脇でじっとその寝顔を眺めていた。
しばらくそうしていた。
時間の間隔が全くなかった。
けれどきっとそうしていた時間は実際の時間より短く感じていたに違いない。
くるりが気付くと鈴が時を告げていた。
「屍」は全く起きる気配を見せない。
起こすのもどうかとくるりは思った。
「また……来るね。」
くるりはそっと「屍」に声を掛けると楼を後にしていた。
四
くるりが茶屋に戻るとそこには普段の長閑な光景とは何か違うものが感じられた。
――――あれ……?
くるりがまず気づいたのは「さき」の挙動だった。
いつも縁台に腰掛けているはずの「さき」が立っている。
しかも片手に柄杓、片手に手桶を携えてばしゃばしゃと中の水をまいている。
――――「さき」が茶屋の仕事を手伝ってる…。
それはちょっと意外な事だった。
「さき」はあまり茶屋の手伝いをしない。
余程茶屋を訪れる旅人が多くて、「閼伽注」一人で手が回らなくなった時などにしぶしぶ茶出しを手伝う位。
その「さき」がこんな日暮れ時の旅人が来ない時間に手伝いをしているのはとても珍しい事だった。
くるりがぼんやりとそんな事を考えている内に茶屋はみるみる近づき大きくなる。
くるりの感じた異様さはその光景だけでない事をくるりは感じた。
――――………臭い。
近づくにつれてその異臭はきつくなりくるりの鼻孔にこびりつく。
生肉が饐えたような不快な異臭だった。
茶屋に似つかわしくないあまりの異臭に次第にくるりは顔をしかめ鼻先を手で覆う。
くるりはその異様な光景に目を見開いた。
「さき」が水をまいている。
これは先程気づいた違和感だ。
しかしまいている所も普通ではなかった。
「さき」は店先ではなく縁台にバシャバシャと水をまいていた。
しかも縁台に掛けられた臙脂色の掛け布の上からバシャバシャと水をまいていた。
「「さき」!何してるの?
そんな事したら座れないよ……それにそこは―――」
くるりは無意識につなげようとした台詞に気づき、そこから先の意味を一瞬の内に予感していた。
「さき」がゆっくりとくるりの方を振り返る。
眉根を険しく寄せた「さき」の顔はいつも以上に厳しく冴え冴えとして見えた。
鬼火を鈍く宿した瞳がくるりを貫く。
その瞳の色でくるりは「さき」が何を言わんとしているのかわかっていた。
わかっていたけれど、それを言葉で聞きたかった。
「…あの「死人」、どうしたの?」
「……さっき、いった…。」
――――「いった」?それは……。
両の手を火傷で爛れさせる程に茶屋の水が受け付けなかった「死人」。
「行った」のか?「逝った」のか?それは聞くまでもなかった。
けれど……。
くるりは「さき」を見つめる。
あまりにわかりきった事を尋ねられる、いつもならそれは「さき」を不快にさせる事だった。
「わかりきった事を尋ねるな。」と突っぱねられる事だった。
けれどその時の「さき」はきちんと言葉にしてくれた。
「あの「死人」は魂まで死んだよ。
受け付けないのにいきなり茶屋の湯をあおって。
みるみる口から腰の付け根まで爛れ裂けて死んだんだ。
ちょうど竹を割ったみたいにな…。」
「さき」はとてもそんな無残な惨状を目の当たりにしたとは思えない程淡々とした口ぶりで事のあらましを説明した。
それが終わるとまた縁台に水をまき始める。
まかれた所がじゅっと小さく音を立てて小さな黒煙を燻ぶらせた。
「……「露歩き」と「堯湖」と「丸嬰」は死体を捨てに行っている。
「閼伽注」は中で必死になって茶釜を沸かしている。
ここにまく湯を作る為にな…。」
淡々と水をまく「さき」の後ろ姿をくるりは見つめる。
――――受け付けないのにいきなり茶屋の湯をあおって……。
くるりは「さき」の言葉を頭の中で繰り返していた。
――――受け付けないのに……。
「たぶん…どうしても逢いたかったんだと思う。」
くるりの呟きに「さき」がその手を止める。
振り向きはしなかった。
くるりが言葉を繋げる。
「今日……あたしの指に嫉炎を残した「死人」を弔ったんだ。
だからたぶん最後に逢いたかったんだと思う。」
「…………そう。」
それだけ言うと「さき」はまた何事もなかったように水をまき始めた。