第二章 第二節
第二節
一
次の日の朝、「ゆめ」はいつも通り起き皆と食事を共にした。
「ゆめ」は一晩ですっかりやつれたような顔色をしてしまっていたが、皆の前では何事もなかったかのように努めて明るく振る舞おうとしていた。
当然その事にはそこにいる皆が気づいていた。気付いていて触れなかった。
「露歩き」一人を除いては……・・。
「昨日、何があった?」
「ゆめ」の顔から張り付いた笑みが潮が引くようにすうっと消えていく。
そのうすら寒い空気に「堯湖」が一人ぴくりと肩を動かした。
「何でもない。」
ただ意味を紡ぐ為だけに呟かれたその言葉はあまりに冷たく空気に響いた。
――――この響き…前に・・・・・。
くるりの頭の中を数千年前の記憶が蘇る。
確かあれは「ゆめ」が夫人の元に通うようになった時…。
初めて「ゆめ」がその人の元から帰った時、「ゆめ」は嬉しそうに夫人や夫人の館、そして夫人に仕えている男の人についてあれこれとあった事を一つ一つ話していた。
けれど、次の日。
夫人の元から帰ってきた「ゆめ」は夫人の話を何もしなくなった。
あんなにはしゃいで話していたのに……。
「言えない。」
とばねきの振った話にそう短く答えていた。
心を閉ざして完全に拒絶して…。
――――ちょうど、今のこの響きで……。
「そうか……。」
しばらく無言で見つめていた「露歩き」はそれだけ呟くと、湯のみを置き己の得物を手に取った。
「「厭山」に薪を取りに行ってくる。」
それだけ言うと「露歩き」は己の得物を背にかけて茶屋の表へと出て行った。
「あッ……僕も行きます!待ってください、「露歩き」様!」
朝餉の半ばだった「堯湖」が急いで椀に残る豆の煮汁をすすると、脇に置いていた二本の刀を手にとってその後を追うように茶屋の外へと駆けて行った。
「さって……私も急いで食べて出かけなくちゃ。」
「ゆめ」が普段の花のある笑顔を顔に咲かせて、お椀の中身を口の中に掻き込んだ。
「さき」も「丸嬰」も「閼伽注」も何も言わない。
湯呑をすする音と「ゆめ」の食事の音だけが、囲炉裏ではぜる薪の音に溶けていった。
二
「そんなに…「縁」というものは大事なものなのか?」
「無き原」の楼閣で座しながら「屍」は不思議そうにくるりに尋ねた。
床に無造作に散りばめた半紙を間に向かい合う、それがくるりと「屍」の常の距離感となっていた。
「……たぶん。
「縁」の薄れた「ゆめ」を見てすごく嫌な感じがしたから…。」
くるりが俯いてその胸元に小さな拳を作った。
「そういうものなのか?」
「屍」がおもむろに風の吹き込む舞台の方へと顔を向けた。
くるりはその白く月光のように輝く涼しげな横顔を見つめた。
「俺には、よくわからない…。」
その瞳は外からわずかに忍び入る骨の針山の哀しげな光をたたえていた。
――――まるで……。
胸元に握られた拳をゆっくりとその横顔に差し伸べる。
その動きを目の端で捕えた「屍」がわずかに身じろぎあごを後ろへと退かせた。
緩やかな接触と緩やかな拒絶・・・・・。
その動きでくるりは我に返り、伸ばしかけたその手を自分の胸元へと戻していた。
「ごめんなさい…。あたし、また……。」
「………。」
「屍」は何も言わない。けれど初めの時のように怒りを溢れさせて激昂する様な事はなかった。ただくるりから瞳をそらし静かに心を閉ざしていた。
「外の光が夜の雪明かりみたいに見えて…。」
「雪………。」
「うん……。それで光ってる「屍」が雪の中に一人いるみたいに見えて……。
悲しげに見えて……。
思わず―――」
――――思わず……触れたくなった。
――――一人じゃないとその横顔に伝えたかったから……。
ザンッ……………・…・…………ザンッ……………………………・・ザンッ―――
静寂な楼の中に突如響き出したその音にくるりは身をすくめた。
それは舞台の数珠簾の音のようだった。
数珠が簾の紐の中を一定の間隔で上下している。
「何…?」
明らかに空気が変わっていた。
楼に流れ込む風は楼の中に留まってぐるぐると廻り、たゆたう香はその流れに乗り孤をゆるゆると描いている。
「…………来たか。」
「屍」は小さな溜息と共に呟くと目の前に広げていた半紙を手早く片付け始めた。
せわしなく立ちあがるとその束を楼の中心にある書机の傍の紙の山の上へと放る。
その間にも数珠簾の音は鳴り響き、徐々にその間隔を狭めていく。
「……。」
くるりは楼の中を動き回る「屍」とその背中を馬の尾のように揺れ動く髪の毛を黙ってじっと見つめていた。
「さて……と。」
「屍」は座椅子を書机を前に、舞台を背にして座れる位置に置くと、その中にすとんと腰を下ろした。
書机に半紙を広げ、両の着物の袖が邪魔にならないよう書机の内側に落とすと筆を手に取り前を見据えた。
「どうしたの?「屍」…。何か来るの?」
くるりがぼんやりと「屍」に尋ねる。
「あっ!」
そこで「屍」は今初めてくるりの存在に気づいたかのような顔をすると、書机を飛び越えてくるりの所まで飛ぶように駆けてきた。
「屍」がくるりのその腕を何の躊躇もなく掴み、その勢いのままくるりを立たせる。
「あ……。」
くるりが戸惑うのもそのままに「屍」はくるりの手を引いて楼の中をぐるぐると歩き始めた。その間にも数珠簾の音は小刻みになっていく。
「……そうだった。くるりの事忘れてた…。
今の今まで目の前にいたのに。
っ…くそ……ずっと一人が当たり前だったから……。」
「屍」が何事かぼそぼそと呟きながら楼の中を早歩きで動き回る。
くるりはそれに引っ張られる形でただなすがままにその後を辿る。
「くるりは……まだいいとして。
とにかくその壜だ……貸せ!」
突然「屍」はくるりに向き直るとくるりの腰に下がる茶屋の湯の入った壜を指さして手を差し出した。
「これは……帰るのに使うから…。」
「知ってるよ、預かるだけだ!
そうでないとどの道ここから出られなくなって二度と使えなくなるぞ!」
「屍」は一気にまくしたてると半ば強引にくるりから壜を受け取り、己の懐へと胸元から着物の中へ滑り込ませた。
その「屍」の行動にくるりが小さく声を上げている間に、「屍」は書机の周りに積まれた半紙や巻物の山を両手一杯に抱え込み楼の隅へと小走りで向かっていた。
「ここに座れっ!早く!」
「屍」に示された楼の隅にくるりは膝を抱えるように座り込んだ。
と同時に「屍」が広げた巻物をばらばらとくるりの頭の上にかけていく。
「……「屍」。」
「しゃべるな、あと動くな……帰れなくなるぞ。」
「屍」がまた両手に抱えて持ってきた巻物を広げながらくるりに低く諭した。
くるりは口を閉ざして固く両膝を抱えて頭の上に垂れていく巻物を見つめていた。
それは楼の中で焚かれている香の香りをしっとりと染み込ませていた。
―――――この香り……何だかぼんやりする……。
その香の香りは「無き原」を歩く時のように自分と世界の境を曖昧にさせた。けれど不安はなかった。むしろ世界に溶け込んでしまったような一体感を与えるその香りはくるりの心を安心させた。
たんっ―――!
ぼんやりしていたくるりの目の前に、「屍」が仕上げとばかりに香台を一つ置く。
「「屍」……。」
しいっと「屍」が人差し指を己の口元に当てる。
目で頷くくるりを認めるとまた中央の書机の座椅子に腰を納めた。
数珠簾の音はすでに間隔はなく一つの連なる音のように楼の中を響き渡っている。
耳障りな羽虫のような響き。次第に大きくなるその音。
その響きが最高潮に達したその時――
――――ぎし………。
数珠簾の音は一瞬にして鳴り止み、一拍遅れて階段のきしむ音が楼の中を響き渡った。
また……先程までと空気が変わった。
三
そこに現れたのは小柄な女性だった。
結い上げていたであろう髪の毛は着物同様酷く乱れ、まるで頭から水をかぶったかのようにしとどに濡れそぼっていた。
けれどその右腕に固く結ばれた腰紐の先には、濡れているにも関わらず細く長い紫炎をなびかせていた。
素朴ながらも華のある顔だった。
けれど蒼白でひどく疲れたような顔をし、その瞳は何の光も色も無くただ硝子玉のように世界を映していた。
―――――「死人」……。
くるりはその「死人」を楼の片隅の巻物の山の中から盗み見た。
ずるずると腰紐を引きずりながら水跡を残してゆっくりと歩みを進めていた女の足がぴたりと止まる。
ゆっくりと、視点の定まらぬ目をしたまま顔を何度も左右へと動かしている。
と、くるりの座る楼の片隅に顔を向けたまま動きを止めた。
じっと、何も感じていないかのような顔をしながらそこに何かを感じ、それが何かをつき当てようとするかのような…。
その足先がわずかにくるりの方へ向こうとしたその時――
こんこん…。
「死人」がそちらへ顔を向けるより少し早くくるりは音のした方へと視線を移していた。
それは書机を前に座る「屍」からした音だった。
こんこん!
書机を筆の尻で軽く叩いている。
「死人」はその音につられるようにまた「屍」の方へ向けて歩き出した。
「死人」が「屍」の正面へと座る。わずかに俯く儚げな姿。
その唇から細く青白い溜息が洩れる。
それは長い長い溜息が……。
――――?
それはあまりに長かった。「死人」が座り、初めの溜息をついて随分時間が経つがまだ一度も息継ぎをしていない。
「死人」だから息継ぎをする必要はないのかもしれないがその光景はくるりにとって不思議なものとして映った。
「死人」の吐き出す青白い溜息は「死人」の周りを細い糸のように流れていく。
それは次第に「死人」を包んで巨大な繭のようになり、いつの間にやらその姿を完全に包み消してしまっていた。
対する「屍」はというと筆を構えたまま微動だにしない。
その精悍な顔つきはまるで人形のようであった。
巨大な繭から一筋の糸が伸びる。
それはするすると「屍」の筆を握る右手へと向い、その手にゆっくりと絡まり出した。
と同時に「屍」の筆がするすると描くように紙の上を走りだす。
「屍」の顔がわずかな険しさを見せる。
その間にも繭から伸びる糸は「屍」の右手に絡みつき筆を紙の上へと滑らしている。
――――そう……たぶんあれはあの繭の糸が、あの「死人」が「屍」に書かせているんだ。
くるりは瞬きするのも忘れてその光景を息をひそめてじっと見詰めていた。
繭から糸がどんどん伸びているのに、「屍」の右手に絡む糸の量は変わらない。
次第に繭は薄くなり最後の一筋が「屍」の右手に吸い込まれるように消えたその時、そこに先程の「死人」は見当たらなかった。
後に残されたのは、階段から続く水の跡とその水溜りの中でも今だ揺らめく紫炎を灯した腰紐一つだけだった。
「屍」の筆がゆっくりと止まった。
と同時に「屍」が深く溜息をつくとそのまま机に突っ伏した。
「屍」はそのまま動かない。くるりもそのまま巻物に埋もれたまま動かない。
くるりはただただ机に突っ伏している「屍」を紙の隙間から見つめていた。
―――――りりん…。
その鈴の音に「屍」が顔を上げたのは、机に突っ伏してからどの位経った後の事だろうか。
飛び起きるように顔を上げると急いでくるりの座る楼の隅まで駆けてきた。
香台を脇に避け、手当たり次第に巻物の山を崩していく。
そこには先程までと変わらない「屍」を見上げるくるりの顔があった。
「…………っ。言ってくれよ。」
「しゃべるなって…「屍」が言った。」
くるりは膝を抱えたままの姿勢で「屍」に答える。
くるりにしては珍しくやや不満そうな顔をしていた……。
「………っ。……その…・・すまない。」
「……うん。」
くるりは小さく頷いた。
――――りりん…。
二人の視線がくるりの胸元の鈴で絡まる。
くるりがゆっくりと「屍」を見つめた。
「あたし……帰らないと。」
「あぁ……。体、大丈夫か?痛くないか?」
「屍」がまた無造作にくるりの腕をつかみくるりを立たせた。
「あ……。」
驚くくるりにも気付かず「屍」は己の胸元に潜ませていた壜を取るとくるりの手に持たせた。
くるりはその手をまじまじと見つめる。
「何だ?」
「て」
「は?」
「「屍」…手。あたしに触ってる。」
「あ……わッ!」
今気づいたとばかりに「屍」が驚いてその手を放した。
その途端、くるりの手に軽く握られた壜がぐらりと傾く。
無意識に「屍」はまたくるりのその手ごと包み込むように支えていた。
その手がびくりと震える。けれどすぐに離れる事はなかった。
――――冷たい手…………。
二人の視線が重なる手元に留まる。
「……さっきも、あたしに触ってた。」
「………。無我夢中だったから……。」
「………。」
「……しっかり持ってろ。これがないと帰れなくなるんだろ!」
突き放すようにそれだけ言うと「屍」はくるりから手を離して長い黒髪を翻し楼の中央へと向かった。
少し手に握られた壜を見つめ腰にくくると、くるりもまたその後へと続いた。
中央に出来た水溜まり、その中に落ちる腰紐、その腰紐から立ち上る紫炎……。
――――これ……生きてる。
「屍」がくるりに別れの挨拶を言おうと振り返ったその時、くるりが今まさにそっとその腰紐に触れようとしている所だった。
「やめろッ!」
初めて会った時、くるりに「出てけ」と怒鳴った時と同じ位の強い言葉で「屍」は叫んでいた。
くるりがびくりとその手を引く。
と、同時に腰紐から蛇の様な細くうねる紫炎が何本も立ち上り、今まさにくるりが手を引いたその空間まで喰らいつくように焼きついた。
そのわずかな火の粉がくるりの指先をかじる。
「ッ…あ!」
くるりがその指先を押えてかがみ込んだ。
「馬鹿!触ろうとするな!
嫉炎だぞっ!」
「屍」はくるりに近づくと一瞬だけ躊躇を見せたが、その手を乱暴につかみ、自分の口の中にその指を突っこんだ。
鈴の音だけが涼やかに楼を流れる。
何度か口から出してその指先を確認してはまた口に含む、くるりは目の前の真剣な顔をして自分の指を咥える「屍」を見つめていた。
「早く行け……。」
最後に指先を確認するとすぐに手を離し、「屍」はくるりから目をそらすようにして低く呟いた。
「ありがとう……。」
くるりはぺこりとお辞儀をして立ち上がると下層へと続く階段に向かった。
「……本当に…人に触れるのは嫌なんだ…。」
それはくるりの体半分が下層へと隠れてしまっている時に呟かれた言葉だった。
おそらくくるりに聞かせる為のものではなく、心がわずかこぼれた為に出た言葉だったのだろう…。
今にも泣き出しそうな……悲しげな呟き。
くるりの耳にそれは届いていた。
ぴたりと足を止め、床の上で苦しげな気配を漂わせる影法師に目を向ける。
「あたしは、「屍」が心配してくれて嬉しかった。」
「屍」に聞かせる為に、くるりは心の声を素直に呟いた。
「屍」は何も言わない。
くるりはひっそりと階段を下りていった。